ボリジの花の砂糖漬け
「さて。」
砂漠を歩いてきたお客が、食べたり飲んだりしてようやく人心地ついたのを見届け、魔女は自分もテーブルについて、果物の皮を剥きはじめた。
「あんたたち、あの子のつかいでやってきたって? あの子は、もうずいぶんここに来ていないよ。元気にやっているのかね?」
「ええ。」星の娘は、お茶のカップを両手で包んだままで答えた。「元気にしていますわ。地上――つまり、外の世界では、いろいろなことがあるようですけれど。それでもあの人は、この国のことや、物語のことを、忘れてはいませんわ。」
「あの頃もそうだったさ。」
魔女は懐かしむように言った。
その唇の端に、ちらっと笑いがよぎった。
「あの子は、外の世界で疲れることがあると、よくあたしのところに遊びに来たものさ。たとえば、外の世界が真夏で――何と言ったかね? あの子が毎日することになっていた、あの――行進? 行軍? いや――そう、『通学』。」
魔女は手の中のカップを回し、暗赤色のお茶がさざなみを立てるのを眺めながら言った。
「そういうときなんかにさ。あたしは扉をあけて、あの子を呼んでやるんだ。すると、あの子はやってくる。ここに――そう、あんたたちが座っている、その椅子に座って、あたしのお茶を飲むんだ。外の水路で、よく冷やしたやつをね。今みたいにさ!」
「やってくる?」星の娘は驚いて言った。「その、通学を、しながら?」
「もちろん、肉体は外の世界に置いたままでさ。」魔女は言った。「心で、こっちに来るんだ。ちょうど、今のあんたたちのようにね。あの子は、そうすることができる力を授けられていたよ。あんたたちは、その力のことを何と呼んでいるかね?」
「時空跳躍。」
星の娘は、おごそかな調子で答えた。
「そう、その力さ。」魔女は言った。「あの子には、それができたんだ。こっちで少し休んで、それから、また出ていく。あたしのところに来ることができなけりゃ、あの子は、ずいぶん難儀な思いをしたろうさ。」
「あの、あなたは、アウローラさん――その子のことを、まるで、自分が面倒を見てやった子供のようにおっしゃるのね。」
星の娘は言った。
「あの、あたくしがこんな言い方をしたからって、お気を悪くなさらないといいのですけれど。でも、不思議ですの。だって、この国は――その子が、生み出したものなのでしょう? あの子のことを、女王陛下と呼び、あがめる者もいますわ。」
「陛下ね!」魔女は叫ぶように言ったが、別に感銘を受けた様子はなかった。「少なくともあたしは、そうは呼ばないね。――多分『あんた』とか、そんなふうに呼んでいたと思うよ。名前は知らないんだ。別に必要なかったからね。
あたしは、あの子をここへ招いて、お茶を出してやる。あの子は、それを必要としていたんだ。あたしは、そう、あんたの言い方を借りれば、あの子に生み出された者かもしれないが、あの子のほうだって、あたしたちがいなけりゃ、困ったことになっちまっただろうよ。あたしたちと、あの子は、言ってみりゃ、持ちつ持たれつというわけさ。」
「まあ――」
星の娘は、それ以上、何と言っていいか分からなかった。
「それにね、」と魔女は続けた。「あんたはあの子がこの土地を『生み出した』と言うが、あたしに言わせりゃ、そうじゃないんだ。少なくとも、全部はそうじゃない。あの子が生まれる前から、庭は、ここにあったんだよ。あの子は、その庭の中に、あたしたちがいることを見つけたんだ――」
魔女は、両腕を広げ、肩をすくめるような仕草をした。
「ま、確かに、あの子のおかげであたしたちの土地が豊かになったのは間違いないけどね。いいかい、あの子はいろいろな薬草を植える――地上の、自分の庭にね! すると、あたしたちの土地に、その薬草がどっさり茂るんだ。
それだけじゃない、あの子は、本を読む。外の世界でね。物語や、図鑑なんかを、どんどん読む! すると、あの子が読んだもので、いいものはみんな、あたしたちの土地に来る。
外の薬草園を見たかね? ――花壇? ああ、それだ。あれは皆、あの子があそこへ作るといいって言ったんだよ。あの子は、あの薬草園を作るために、薬草の本を少なくとも三冊は読んだと言っていたよ。」
魔女はそこまで言うと、ポットを取り上げて空になった客人たちのカップになみなみと注いだ。
やがて、果物もお茶もきれいさっぱりなくなってしまうと、魔女はふたりをうながして、おもてに出た。
外の薬草園には、様々な植物が生い茂り、どんなに小さなものでもひと抱えはありそうな株に育っていた。
「これはボリジ、ルリヂシャとも言う。」
青紫色の星のような花をつけた株に触れて、魔女は言った。
「あの子は、この薬草が好きだった。あたしは、この花を砂糖漬けにして――」
そこまで言って、魔女は不意にことばを切り、
「ちょっと待ってな。」
と言い置いて、家の中へ戻っていった。
星の娘と老人は、ゆったりと薬草園の中を歩き回り、図鑑を眺めては気に入った薬草をどんな配置で植えようかと思案する少女の姿を想像していた。
ふたりが水路の上にかかった石の橋の上に立ち、小さな滝がしぶきをあげて流れ落ちるのを眺めていたとき、魔女が戻ってきた。
「これを持っていきな。」
魔女は、ところどころ地の金属の色がのぞく、青紫色の小さな年代物の缶を差し出した。
「あんたたちは、これからも旅を続けるのだろ。
これは、ボリジの花の砂糖漬けだよ。あんたたちも少しは食べたっていいが、できたら残しておいて、これを、あの子に渡してやってくれないかね。あたしの家で過ごした、幼い日の思い出の記念にさ。」
「確かに、お預かりいたします。」
古の比類なき名工の手になる細工物を受け取った職人のように、老人は恭しくその缶をおしいただいた。
「ご安心くだされ。わしらは、帰るまでにこの貴重な贈り物をすっかり食べてしまうような真似はいたしませぬ。帰ったら、アウローラくんとお茶を飲みながら、この花の砂糖漬けを食べて、あなたのことや、あなたの薬草園のこと、お茶のことを話すといたしましょう。」
「本当に、ご親切なおもてなしをありがとうございました。」
星の娘は、丁寧に頭を下げた。
「あなたは、この家で過ごした幼い日の思い出の記念に、と仰いましたけれど――アウローラさんは、きっといつか、また、この家に戻ってくると思いますわ。
多くの大人は、自分が幼い頃に過ごした場所のことを忘れてしまい、二度とその場所を訪れることはできないけれど、物語を語る者には、それができるのですもの。」
「ああ、そうあることを祈ってるよ。」
ふたりがタペストリーのかかった門のところに立つと、魔女は初めて、にこりと笑った。
「さらば、ふたりの旅人よ、つつがなく行きたまえ! あなたがたの旅路に、守りと導きのあらんことを。薔薇の女神のしろしめす美しく豊かな国の、望む限りすべての場所へ、その歩みの至らんことを!」
それまでざっくばらんに話していた魔女が、不意に朗々たる声で荘重な物言いをしたことに星の娘は驚いたのだが、おそらくは、それが魔女の呪文というものだったのだろう。
タペストリーの門をくぐるかくぐらないかのうちに、ふたりは目の前の景色がぐらぐらっと揺れたような感じに襲われ、気がつくと、目の前にはふたたびあの丘陵地帯が広がっていた。
ふたりは、行きに難儀した砂漠を一足飛びにとばして、はじめに立っていた場所まで戻ってきたのだ。
「ご親切にどうも。」
老人は、そっと呟いた。
その手に握っていた缶を、彼は大切にふところにしまった。
「あの方が、あたくしたちをここまでワープさせてくださったのね。あの砂漠をもう一度通らずに済んだなんて、本当にありがたいですわ!」
星の娘はすっかり感激して叫んだ。
「なんて親切な方でしょう。あたくし、正直に申し上げて、はじめは、あまり感じのよくない方だと思いましたわ。物言いが、とてもぶっきらぼうなのですもの。でも、今は、アウローラさんがどうしてあの方のところに足繁く通っていたのか、よく分かりますわ。
それにしても、こんなにも正確に座標をとらえて、ふたりを一度にワープさせるなんて。まだお若いのに、あの方、とても優れた力を持っていらっしゃるのね!」
「あの人は、王国に住むあらゆる者たちの中で、いちばん年長じゃ。」
老人は言った。
「いちばん年長であり、いちばん強い力を持っておる。もっとも、その力は、ほとんどいつでも隠されておるのじゃが。
薔薇の女神その人よりも、もっと古くから、あの人は、アウローラくんのよき話し相手だったのじゃよ。」
「でも――そんな、ちっとも――」
星の娘は、驚いて口ごもりました。
「あたくし、ちっとも、そんなふうには思えませんでしたわ。つまり、あの方が、そんなにも――お年寄りだなんて。」
「魔女が生きてきた時間の長さは、その姿からは、はかれぬものじゃ。」
星の娘は、老人の言葉をよく覚えておこうとするかのように、ちょっとのあいだ黙っていたが、「さて。」と、やがて顔を上げて言った。
「あたくしたち、次はどこに向かいますの? 先程、お話に出ていた、薔薇の女神様にお目にかかるのかしら?」
「女神のおわす薔薇の城に入るのは、そう簡単なことではない。」と老人は言った。「そこは、後に回すとしよう。アストライアくん、あんたは今、体力、気力ともに充実しておるかね?」
「ええ。」と星の娘は頷いた。「あの方のお茶のおかげで、すっかり元気になりましたわ。今なら、この丘陵地帯の端から端まで、駆け足で行くことだって、できるかもしれませんわ!」
「それだけの元気があれば充分じゃ。」と老人は言い、東の方に腕を振った。
「では、あの断崖絶壁を越えて、大樹のところまで行ってみようではないか。」
星の娘は、東の方に高くそそり立つ灰色の断崖と、それを越えた先にそびえる神秘的な大樹の姿を見上げた。
この王国に入ったばかりの頃の彼女なら、間違いなくかぶりを振って反論しただろうが、今は魔女の飲み物が彼女の手足を軽くし、心に活力を与えていた。
「よろしいわ。」と星の娘は言った。「あたくし、ロッククライミングの経験なんてありませんけれど、それでも行けるだろうと仰るのでしたら、喜んで行きますわ。」
「あんた同様、わしにもそんな経験はない。安心しなされ。あの崖は非常に切り立っているが、実のところ、岩壁を掘って通したいくつかの抜け道があり、その中は階段になっておるそうじゃ。もちろん、王国の門の前にあったような立派な階段ではないじゃろうがの。」
「立派だろうとなかろうと、階段でさえあれば、御の字ですわ。」と星の娘は何でもなさそうに言った。「やったこともないロッククライミングに挑戦して首の骨を折るより、ずっといいですもの! その階段がどれほど急で、場合によってはコウモリの巣みたいなところであっても、とにかく、歩きさえすれば、間違いなく上に着くのですからね。」
「何だか、あんたは少し変わったような気がするよ。」
老人は笑って言った。
「おそらく、あのお茶の効き目じゃな。あの人の魔法の一部じゃろう。この王国で貴ばれる心のありようが、あの飲み物を通じてあんたの中に流れ込み、あんたはそれを身につけたのじゃよ。すなわち、少々の困難などものともせず、明るく前へと進んでゆく強さをな。」
「そうでしょうか?」星の娘は首を傾げた。「あたくし、自分がどこか変わったとは、思いませんけれど。」
「人はしばしば、自分でも気付かぬうちに変わるものじゃ。
――さあ、行こう! たとえ階段が急であっても、コウモリの巣になっていようとも、じゃ。あの崖を越えて、美しい大樹の下の森を歩こうではないか。」