砂漠の魔女
「おじいさま。」
一礼を残して隊長が自分の持ち場に戻っていったのを見届け、星の娘は、とがめるような口調で言った。
「アウローラさんからの手紙を持っていらっしゃるなんて、あたくしに、一言も教えてくださいませんでしたわね!」
「すまぬな!」手紙をくるくると巻いて懐にしまいながら、老人は叫んだ。「話しておくのを、すっかり忘れておったわい。時空跳躍ゲートに入る前に、アウローラくんから手渡されておったのじゃ。言おうとは思っておったのじゃよ。じゃが、跳躍を控えた君があまりにも深く集中しておったので、その場では言うのを控え、跳躍が成功してからは、すっかり忘れておった。」
「まあ、よろしいですわ。」と、星の娘は鷹揚に言った。「おかげで、無事にこの国に入ることができたのですもの。――ああ、なんて、美しい国なのでしょう!」
「本当に、美しい国じゃ。」
老人は感に堪えぬというように呟いた。
ふたりは今、王国の土地の南端に立っているのだった。
その目の前、北の方角には、花の咲き乱れる一面の丘陵地帯が広がっていた。
巨大な波のように盛り上がっては谷間をつくって続く丘陵のはるか先、やや北西よりの方角には、ところどころを緑におおわれた巨大な岩山がそびえているのが見え、さらにその上には、森が広がっているようだった。
一方、北東よりの方角には、うっすらと白い霧のようなものが立ち込めていた。
白い霧のようなものが、水しぶきであることは、遠く、どうどうと響く水音によって分かった。
そこに大河が流れ、滝が流れ落ちているのだ。
それより向こうは、水しぶきに隠されて、よく見えなかった。
東の方に目を転じれば、そちらは、丘をいくつも越えないうちに高く険しい灰色の断崖に阻まれ、それ以上の通行は不可能ではないかと思われた。
だが、その断崖の上にも森が広がっているのが望まれ、そこからは驚くほど巨大な一本の木が、天に向かって伸びていた。
太さといい高さといい、神話の中からあらわれ出たような威容を持つ大樹だった。
どうにかして断崖を越えることができたならば、あの大樹の根元に近づくこともできるだろう。
西の方には、北や東の方とはまったく違った風景が広がっていた。
そちらは、しばらくは岩の転がる荒れ地であり、さらにその先は広大な砂漠になっていた。
薄茶色の砂が、ゆるやかに波打ちながら眼路の限りに続き、その果ては見えなかった。
「庭の王国の国土の、なんと広大無辺なことよ!」
老人は腕を振って周囲のぐるりを示し、言った。
「ひとの心が生み出す物語が無限であるように、この国にもまた、果てというものはない。そして、この国は、地図のように一枚の面から成っているのではないのじゃ。この国のあちこちには、いくつもの隠された門や扉があり、そこをくぐれば、遠い場所へあっという間に行くことも、別の空の下へ行くことさえもできる――ちょうど今、わしらが美しい門をくぐって入ってきたときのようにな。」
「重層的な時空なのですわね。」
王国の風景を感心したように眺めながら星の娘は言い、それから、あらためて老人の方を見た。
「おじいさまは、なぜ、そこまで詳しくこの国のことをご存じですの? この国を訪れるのは、わたくしと同じで、初めてでいらっしゃるのでしょう?」
「確かに、来るのは初めてじゃ。じゃが、アウローラくんから色々と話を聞いておると言ったじゃろう?」
老人は穏やかに笑って答えた。
「ここに住んでおる人々のことも、いくらかは聞き知っておる。――よくよく聞き知っておると言った方がよい面々もおるぞ、何人かはな。これから、そういった人々のもとを訪ねてみたいと思っておる。それは、アウローラくんの願いでもあるのじゃ。」
「それでは、まず、どなたに会おうとお考えですの? その方のお住まいが、ここから、あまり遠くないと嬉しいのですけれど。」
星の娘は、思わずそう言った。
時空跳躍に続く、さきほどの荒れ地の縦断で、星の娘はすっかり疲れてしまっていた。
庭の王国の空気は芳しく、丘陵地帯に咲き乱れる花々のやさしい香りと、爽やかな草の香りを含んでいるようだったが、この空気を吸いながらでさえ、これ以上あまり長く歩き続けることは難しいと彼女は考えていた。
「安心しなされ、そう遠くはない!」と、老人は笑いながら言った。「さっきは、歩き慣れていないあんたに、ずいぶん強行軍をさせてしまったからのう。まずは、身体を休められるところに行こうと思う。――魔女の家じゃよ。」
「魔女ですって?」
眉を寄せて繰り返した星の娘に、老人はうなずいた。
「その人の名前は、わしには知らされておらん。多分、アウローラさんも名前を知らぬのかもしれぬ。
じゃが、アウローラさんが幼い頃、ひとかたならず世話になった人だそうじゃ。その人の家を訪ねよう!」
「名前を知らないのに、家はご存じですの?」
星の娘は、驚いて言った。
「ああ。道は、アウローラくんから聞いておる。行こう――あっちじゃ!」
老人は言って、砂漠の広がる西の方角を指差した。
星の娘は、もう少しで文句を言うところだった。
西に広がる一面の砂漠は、果てがあるようには思われなかったし、仮にあるとしても、それが地平線より遠いことは明白だったからだ。
そして、地平線よりもこちら側に、薄茶色の砂以外の何かがあるようには見えなかった。
星の娘の表情からそれを読み取ったのだろう、「安心しなされ。」と老人は言った。「そう遠くはないのじゃ、本当にな! まあ、騙されたと思って、わしについてきなされ。」
ふたりは歩き出した。
西に向かって、いくつかの丘を越えてゆくと、やがて足元が緑の草地から砂地へと変わった。
「あの向こうじゃ!」
老人は先に立ち、ひときわ高い砂丘の斜面を巻くように登り始めた。
一足ごとに、踏み出した足がくるぶしよりも深く埋まり、さらさらと崩れる砂のために、歩みは遅々として捗らなかった。
「遠くはない、って、仰いましたわね!」と、とうとう我慢できなくなって、星の娘は叫んだ。
「がんばってくれ! もう少し、あとちょっとじゃ!」
ずいぶんと難儀して、どうにかこうにか、ふたりは砂丘の反対側までまわり込むことができた。
「見えたぞ。ほら!」
老人が叫び、星の娘は荒い息をつきながら見下ろした。
王国の門からでは、ちょうど大きな砂丘の陰になって見えなかった場所に、赤茶けたレンガで組み上げられた塀が続いていた。
塀の向こう側はすっかり砂で埋まり、こちら側と何らかの違いがあるようには見えなかった。
あたかも打ち捨てられ忘れ去られた遺跡のようなそのレンガ塀には、窓も扉も、ちょっとしたくぼみすらもなかったが、ただ一ヶ所だけ、布製の四角い壁飾りがかけられていた。
ふたりは、そこに近づいていった。
太陽の光と、砂漠の風のために色褪せたその壁飾りは、赤と黒と金の色糸で織りなされ、その表面には翼を広げた鳥か、竜のようなものの姿が浮き出ていた。
「さあ、入ってゆこう。」
「まだ、道は続きますの?」
もはや不満を隠そうともせずに、星の娘は言った。
「この際はっきり申し上げますけれど、あたくし、嫌ですわ。これ以上、埃っぽい遺跡の中を歩いたり、そうでなければ、真っ暗な地下迷宮――」
老人がタペストリーの端をつかんでめくり上げ、星の娘は、口をつぐんだ。
彼女は信じられないというように何度かまばたきをし、それから、老人のあとに続いて、タペストリーに隠されていた門をくぐり、その向こうに踏み込んでいった。
そこに広がっていたのは、一面の芝生だった。
地面をおおう草は、先程の丘陵地帯に生えていたものよりも、もっと色が濃く、みずみずしいように見えた。
頭上には、青空が広がっており、その青は、先程まで見ていた空の青よりも、一段深く、静かな色合いを持っているように感じられた。
そして何よりも星の娘を驚かせたのは、芝生の奥に小暗い森が広がり、その手前に大きな一本の樹が生え、その側に、一軒の家が建っていることだった。
壁は黒っぽい木でできていて、屋根は赤く塗られていた。
家のまわりには、見事に手入れをされた花壇が広がり、そのまわりや、あるいは中を縫うように、細い水路がはりめぐらされていた。
水路のあちこちは小さな滝のようになっていて、涼しげな水音が、ふたりが立っている場所まで聞こえていた。
「とても信じられませんわ。」
星の娘は言った。
「だって、丘の上から見たときには、あんな森や、芝生や樹や、家なんて、ちっとも――」
「それはここが隠された場所だからさ。」
星の娘と老人は、弾かれたように同じ方向を向いた。
大きな樹がつくりだした、黒い影の中に、ひとりの女性が立っていた。
娘というほど若くはないが、おばさんというには違和感があるような年齢の人だった。
腕をむき出しにした黒いワンピースのような服を着て、手首にいくつも金の輪をはめていた。
黒髪をうしろでひとつに束ね、黒い目でまっすぐにこちらを見つめる表情は、歓迎しているようには見えなかったが、敵意もなさそうだった。
強いていうならば、どこか、面倒くさそうな顔つきをしていた。
「あんたたちが近付いていることは分かっていたよ。」と、彼女は言った。「砂漠で迷わず、まっすぐ魔女の家へやってくるのは、あたしが招いた者か、何かしらの導きを持つ者だけさ。あたしが招いた覚えがないなら、導きのほうだということ。そのことについて話しな。」
「突然の訪問、お許しくだされ。」老人は頭を下げていった。「わしらは、アウローラくんのつかいとして、ここに来ましたのじゃ。」
「あたしは、そんな名は知らない。」
「アウローラさん、名乗らなかったのかしら。」と星の娘が、老人の後ろからひそひそ声で言った。「それとも、アウローラとは違う、地上の名を名乗ったのかしら?」
「黒髪の女性ですじゃ。――いや、女の子、と言ったほうが当たっていたでしょうな、当時は。」老人は、魔女に向かって言った。「その子は、たびたびここに来て、あなたと過ごしたと言うておりました。特に、あなたの薬草園のことと、お茶のことが忘れられないのだと。」
「ああ。」
急に、魔女は何もかも分かったというようにうなずいて、さっさと踵を返した。
「なら、ついておいで!」
すぐに老人と星の娘は薄暗く涼しい家の中に通され、年代物の黒い木のテーブルにつき、すぐそばの台所で魔女が動き回るのを見守ることになった。
天井は太い木の梁や垂木がむき出しになっており、そこからは様々な乾燥させた薬草の束や、種のようなものを入れたざるがぶら下がっていた。
あまり長く経たないうちに魔女はテーブルにやってきて、鍋敷きを置き、そこに大きなガラスのポットをのせた。
そこには光の加減で黒くも見える赤っぽい液体が入っていて、中には木の枝や葉や実に見えるものがたくさん浮かんでいた。
星の娘が一瞬ぎょっとしたのは、その液体は血ではないかと疑ったからだったが、ほのかに漂う香りが、そうではないことを教えた。
甘酸っぱい香りは、花や果実を思わせ、そこにかすかに苦みや、草の葉のような爽やかさもまじっているようだった。
「まずは、お飲み。あの砂漠を歩いてきたなら、喉が渇いているだろ!」
言い方には、愛想はなかったが、この魔女が客人をもてなすことについて自分一流のやり方を持っていることは態度でわかった。
金で飾られたガラスのカップに魔女がついだ暗赤色の飲み物を、星の娘は非礼にならない程度にこわごわ眺め、それから、カップをとりあげて、一口含んだ。
「まあ!」
「うむ!」
星の娘と老人は、同時に声をあげ、すぐに二口目を含んだ。
香りと同様、甘酸っぱく、どこかぴりっとした風味のある飲み物は、清水のように冷たく、たちまち喉をすべり落ちていった。
カップ一杯分を飲み干してしまうと、身体の奥がすっとしたようになり、手足に力が流れ込み、頭がすっきりするように感じた。
「これは――薬ですの? それとも、エナジードリンクのようなものかしら。」
「さあね、外のことばで何と言うかは知らないよ。」と、魔女は台所で立ち働きながら、あいかわらずぶっきらぼうな調子で答えた。「多分、何とも言わないだろうよ。だってこれはあたしが自分で考え出した飲み物なんだからね。あたしはただ『お茶』と呼んでるよ。あの子が気に入っていたお茶というのはこれだよ。」
そして、すぐに戻ってきて、茶色と緑色のまだら模様をした握りこぶしほどの大きさの果物をいっぱいに盛りつけたかごを、どんとテーブルに置いた。
「食べな。」
星の娘はさっそく手を伸ばし、その見たこともない果物を手に取った。
皮はかたいが薄く、パリッと卵の殻のように割れて、中に詰まったゼリーのような果肉は、爽やかな風味をもっていた。