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庭の王国への旅  作者: キュノスーラ
庭の王国
25/28

目覚めのとき

 それから、星の娘と老人は、幾日も薔薇の城に滞在した。

 眠るためには、それぞれ一部屋ずつが割り当てられており、香りのいい蝋燭が灯され、老人には緋色の天蓋、星の娘には紺碧の天蓋のついた立派な寝台がそれぞれ用意されていた。

 眠りにつこうとする頃には、いつも金のカップに入った温かい飲み物――その時によって香りの違う、薬草を煎じた茶――が枕元に置かれていた。

 それはどうやら、あの白い仮面の男が用意してくれているようで、星の娘は寝室に向かおうとするとき、こちらを向いて廊下を歩いてくる仮面の男と行き合い、会釈を交わして行きすぎることがたびたびあった。

 だが、少なくとも星の娘は、彼と寝室で出くわしたことは一度もなかった。


 夜、ふかふかの寝台でぐっすりと眠り、朝になって目が覚めると、星の娘はまず食堂へ向かった。

 そこは奥行きのある白い広間で、天井近くにいくつも明かり取りの窓が並ぶ明るくがらんとした場所だった。

 何十人もが一度に着席することができる長い黒檀のテーブルがあり、星の娘がここに来ると、いつもちょうどその直前に並べられたばかりのような温かさで、金の深皿に入った香ばしいお粥のようなものと、浅い皿に花のような切り込み飾りをつけて盛られたとりどりの果物と、目の覚めるミントの香りのお茶が並べられていた。

 星の娘は毎朝、他に誰もいない食堂で、お腹いっぱいになるまで朝食を食べた。

 一口食べ、飲むごとに、豊かな風味が口の中いっぱいに広がり、滋養が体じゅうにしみわたっていくような気がした。

 食事を終えると、星の娘はいつも立ち上がって食堂の壁際をぐるりと散歩することにしていた。

 そこには様々な大きさや形の額縁にはまった絵が飾られているのだが、その絵は毎日、違うものになっていた。

 誰かが――それは、あの仮面の男の他にはいないだろうが――毎日、すべての絵をかけ替えているのか、それとも、絵そのものが変わっているのか、星の娘にはよく分からなかった。

 それらの絵は、荒々しい怪物や、さびしく暗い風景を描いたものもあれば、鳥や植物などの姿をおそろしく細密に描いたものもあり、また、街や、橋を描いたものもあった。

 ただ空と、雲を描いただけのものもあり、魚、獣、武器、衣服、食べ物、山脈や大河などの景色を描いたものもあった。

 どの絵の中にも、人の姿はなく、どれほど荒々しい場面が描かれていようと、どの絵もみな、静かな感じがした。


 その日の絵をみんな見尽くすと、星の娘は食堂を出て、城の中をどこへでも足の向くままに歩いて行った。

 図書館に入り、書架から本を取り出してはさまざまな意匠を凝らした表紙を眺めて楽しむこともあったが、だいたいは大温室に向かった。

 大温室はその名の通りに広大で、そこに集められた植物たちは、高地に生えるもの、熱帯雨林に生えるもの、砂漠に生えるもの、湿地、海辺、極地に生えるものと、あらゆる植生を網羅しているかのようだった。

 様々な花の香りをかぎ、葉の色や形のちがいを楽しみながら歩き回ったあとで、星の娘が疲れた足を休めるのは、いつもきまって薔薇の女神が眠る貝殻の寝台のそばだった。

 絹糸のようにつややかでやわらかな草の上に座り、ときにはごろりと横になって、星の娘は温室のガラスごしに空を眺めた。

 雲ひとつない空は、宇宙に近いことを思わせる澄んだ青さで、寝転んだまま見つめていると、吸い込まれていきそうな、あるいは、どこまでも落ちていきそうな感覚にとらわれるのだった。

 空腹になると、立って実のなる木のところへ行き、赤や黄色に色づいた実をもいで食べた。

 これは女王が教えてくれたことだった。

 この大温室にはいくつもの食べられる実のなる木があって、それらの全部がどこに生えているか、高いところになっている実をどうやって取ればいいか、ここへ来てすぐのうちに、女王は親切に何もかも教えてくれた。

 星の娘は、手がかりになる枝がたくさん出ていて、しかも折れにくい木を選び、習った通りにするすると登っていった。

 高いところで二股に分かれた枝のあいだにおさまり、すぐそばになっている握りこぶしほどの大きくやわらかい実をたくさんもいで食べ、黒くてサクサクとした歯触りの種まで全部食べてしまった。

 やがて一日の終わりに空の片側が染まりはじめると、星の娘はそちら側に面したうちで一番背の高い木によじ登り、樹冠から顔を出して、この上もなく美しい天空の色彩の層のうつりかわり、この上もなく繊細微妙な暈しの具合を飽かず眺めた。

 その美しさを眺めていると、光こそがこの世の美しさの全ての源なのではないかという荘厳な気分になった。

 すっかり日が暮れて、闇の帳がおりる寸前の空の色は、どんなことばをもってしても言い表すことはできないと思った。

 そして小さな白い花がかたい花弁を開くように、空に無限の星が瞬きはじめると、星の娘はすっかりお腹を空かして木から降り、朝食を食べたのと同じ食堂へ降りていった。

 そこにはあたたかな灯りがともされ、女王と、老人と、仮面の男がいて、大きなテーブルの隅に皆で座り、用意された温かい夕食を食べるのだった。

 老人と仮面の男は酒を飲むこともあり、その美しい紅色や琥珀色、花のような香りは星の娘を魅了したが、彼女自身は、女王といっしょに温かいお茶を飲むことにしていた。

 四人は大いに食べ、飲み、談笑したが、まるで紗の幕を通して見るようにその中身はすぐにぼやけてしまって、席を立つ頃には、何を話したということも覚えてはいないが、ただ楽しく温かい気持ちだけが心を満たしていた。

 眠る前には、あの多段滝の浴場で心ゆくまであたたまり、浅い場所を見つけて寝そべりながら、天窓から見える星々がゆっくりと動いてゆくさまを眺めるのだった。


 毎日、星の娘はそうやって過ごした。

 星の娘は、この城で暮らしながら、心からくつろいでいた。

 起きて、食べ、飲み、湯浴みして眠る。

 何かをしなくてはならないということはなく、ただ心の赴くままに、したいことをして一日を過ごし、美しいものを心から美しいと感じる。

 幸福であり、満ち足りていた。

 これ以上のものはない日々だった。


 どれほどのあいだ、そうやって過ごしていたのか、分からない。

 ある朝、星の娘はいつものように朝食をとり、その日の絵を全部見て回り、それから大温室にやってきた。

 はだしで、みずみずしくすべすべとした草の感触を楽しみながら歩いていた星の娘は、ふと、足先にひとつの草花を見つけて、立ち止まった。

 すみれの花が咲いていた。

 星の娘は草の上に両膝と両手をついて、小さな紫色の花に顔を近づけ、その香りをかいだ。

 そしてあらためて花の色を見たとき、不意にまどろみから醒めるように、星の娘は、思い出した。

 すみれの花と同じ色の、ボリジの花の砂糖漬けのこと。

 そして、それを届けるべき相手のことを。


「アウローラさん。」


 星の娘は呟き、しばらく呆然と膝立ちの姿勢でいた。

 ここに来てから、何日、経ったのだろう。

 あまりにも長い間、なすべきことを忘れ去っていたという気がした。

 ここがあまりにも心地好いものだから、帰るということを忘れていたのだ。


「アストライアくん。」


 急に背後から呼ばれて、星の娘ははっとして振り向いた。

 そして彼女は初めて、大温室で、老人の姿を見た。

 彼は、星の娘と同じ表情をしていた。


「今は、何日じゃろうか?」


「分かりませんわ。」


 星の娘は裾をはらって立ち上がった。


「あたくしたち、ずいぶん長い間、こちらにお世話になりましたわね。日を数えることも、忘れてしまうくらい。――おじいさま、まだ、あれをお持ち?」


 星の娘がゆったりとした衣の胸に手を当てて言うと、老人はうなずき、青紫色の小箱を取り出した。


「早いとこ、これをアウローラくんに持って帰ってやらねばな。」


「ええ。あたくしたち、少しぼんやりしすぎましたわ。帰らなくては。」


「もうですか?」


 悲しげな声が聞こえて、二人は同時にそちらを向いた。

 草の上に、仮面の男が立っていて、仮面越しにもはっきりと分かるほど気落ちした様子でこちらを見ていた。


「ずっと、ここにいらっしゃればよいではありませんか。この城は素晴らしいでしょう? 一の女王陛下がお望みになった通りにできているのですよ。美しく、静かで、心穏やかに過ごすことができる――」


 彼は、大きく振った両腕を、力なく下げた。


「それとも、私の仕事ぶりにご不満でしたでしょうか?」


「いいや、あなたの仕事ぶりは、完璧でしたぞ。」


 老人は言い、仮面の男に歩み寄って、その腕を軽く叩いた。


「あなたのおかげで、わしらはこの上なく気持ちよく滞在することができました。本当にありがとう。だが、わしらは、もう行かねばならぬのです。」


「外の世界など、つまらないですよ!」


 仮面の男は叫んだ。


「くだらないことで煩わされて、しなければならないことばかりで――ここのように美しいものも、素晴らしいものもないのに!」


「そうでしょうとも。」


 老人は言った。


「ここよりも良いところがあるなどとは、わしには思えぬ。ちょうど一日のうちで、あたたかい毛布にくるまって完全に目覚める直前の一瞬、気持ちの良いまどろみの中に漂っているときが一番いいのと同じようにな。

 だが、わしらは、そこから出ていかなければならん。いかに心地好くとも、人は、いつまでも眠っているということはできないのじゃから。」


「あたくしだって、帰りたいとは思いませんわ。」


 老人のとなりから、星の娘も言った。


「こんな素晴らしいところ、決して、よそにはありませんもの。あたくしたちは、帰りたいのではなくて、帰らなくてはならないの。あたくしたちは、物語を語る者。ここのことを語るためには、ここに来て、そして、帰らなくては。」


「あなた方にも、とうとう、時が来たのですね。」


 三人は同時に振り向き、草の上に、青い髪の女王が立って微笑んでいるのを見出した。


「あの子も、かつて、ここから去っていった。あの子にもまた、しなくてはならないことがあったから。

 人が物語の世界に入るのは、そこで力を得て、そこから出ていき、もう一度、外の世界を歩くためです。

 あなたがたはここを去ってゆくけれど、心の中に、ここでの記憶を持ち続けるでしょう。その記憶が、困難な時にもあなたがたを支え、あなたがたを救うかもしれない。

 そして、いつか地上でのあなたがたの時が尽きるとき、そのときには、あなたがたは、再びここに戻ってくることもできるのです。もしも、あなたがたがそう望むのならば。人はみな、最後の瞬間には、自分が信じた物語の中に帰ってゆくのですから。」


 老人は頷いた。


「わしは、いつか、ここに戻るでしょう。アウローラくんが愛した、この国に。そして、幼い頃の彼女が出会った、たくさんの人々と、再びことばを交わすでしょう。」


 星の娘も頷いた。


「あたくしも、戻りますわ。その時が来れば、きっと。そして、あたくしはこの大温室で、一日中美しい花々を見て、夜には星を見て――そして、あなたが淹れてくれた、美味しいお茶を飲みますわ。」


 星の娘は、最後のことばを、仮面の男に向かって心を込めて言った。


 彼は、すぐそばで悲しい顔をして突っ立っていたが、星の娘のことばを聞くと、笑おうとするように口元を曲げた。


「それでは、」女王は言い、衣のすそをひるがえした。「ついておいでなさい!」




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