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庭の王国への旅  作者: キュノスーラ
庭の王国
23/28

浴場と図書館

 通路の先に、上部がアーチ型になった出口が見え、そこを抜けたとたん、星の娘は目の前の光景に圧倒されて立ち止まった。

 彼女が立っている場所のすぐ足元から、幾重にも重なるようにして、白い床を色とりどりの湯の川が流れていた。

 湯の川はどれも高さが違い、そのふちはどれもなだらかに削られ、その上にはいくつもの橋がかかっていたが、先ほどの場所とは違って、それらの橋には欄干はなかった。

 そして何よりも圧倒的であったのは、それらの湯の川の向こうに、色とりどりの湯が流れ落ちる壮麗な多段滝カスケードがそびえていることだった。

 その光景はまるで、巨大で複雑きわまりないシャンパンタワーのようにも見えた。

 古代の壮大な神殿か城がすっかり野ざらしになり、永の風雨にあちこちが削られてなめらかになり、そのあちらこちらで湯が湧いて、門という門、通路という通路から下へ下と流れ落ちているようだった。

 ところどころには門があり、噴水があり、ひさしや橋があり、半ばで途切れた水道橋があり、それらの全てから、どうどうと惜しげもなく湯が溢れていた。

 あちらは薄い水色、こちらは緑、菫色、乳白色、温かみのある桃色、橙、緋色に近い赤と、全ての湯船――というよりも湯だまりで色が違っていた。

 全ての湯は下段に流れ落ちるにつれて混じり合うのだが、絵具をといた水を混ぜ合わせたときのように色が濁ることはなく、むしろ薬草茶にブルーマロウの花弁を投じたときのように、紅茶にレモンを入れたときのように成分が作用し合うのか、魔法のようにぱっと色彩が変化し、どこも美しく、それぞれに独特のにおいを漂わせていた。

 星の娘は温泉というものを知らなかったが、彼女はこの光景を目の当たりにしてすっかり感動し、すぐにでも湯に浸かってみたいものだと思った。

 まわりを見回すと、床が一段高くなったところがあり、編目も美しい籠がいくつか並んでいた。

 高くなった場所の中央には、乳白色の石でつくられた、ほっそりとした木の彫刻があり、その枝には精緻な針目でたくさんの葉の模様を刺繍した長いリボンがいくつもかかっていた。

 星の娘は身につけている衣服をためらいなく脱ぎ、籠に入れた。

 磁器のようになめらかで、バレリーナのようにほっそりとした裸身をさらしながら、彼女は少しのあいだ、長い銀色の髪をどうしようかと迷った。

 それから思い付いて、白い木にかかっていたリボンの何本かを抜き取り、細い指先で器用に髪に編み込み、頭のまわりにくるりと巻いて留めた。

 橋を渡り、色とりどりの湯の川があげるにおいのよい湯気を浴びながら、星の娘は、多段滝の一番下にあたる池のように広く浅い水色の浴槽にたどり着いた。

 そばには床から直接噴き上がる噴水があり、水色の湯が中空にかかる幕のようになっていた。

 星の娘は用心深く近付き、手で湯に触れてみて、ちょうどよい温度だと分かると、思い切って落ちてくる湯の中に踏み込んだ。

 あたたかい湯が肌の上を流れ落ちていくにつれて、えもいわれぬ心地好さが体にしみ入り、星の娘はほうっと息を吐いた。

 肌を撫でて清めてから、緩やかな階段を降り、広く浅い浴槽に湛えられた水色の湯の中に踏み込んでいった。

 座ると、湯の深さはちょうどみぞおちの下あたりになった。

 爽やかなにおいのする湯は、熱くもぬるくもなく、ちょうど心地よい温度で、これならばいつまででも浸かっていられそうだと思った。


「いい気持ちでしょう。」


 上のほうから、そんな声が聞こえた。

 いつもの彼女であれば驚いて飛び上がったところだろうが、湯に浸かってすっかりくつろいだ気持ちになっていた星の娘は、湯の中で後ろに手をつき、おもむろに顔を上げて声の主を探した。


「お湯に浸かるのは、とても気持ちがいいわね。」


 また、声が聞こえた。

 星の娘がいるところよりも三段ほど上の、石造りの門があることによってまるで額縁にはまったように見える場所から、ひとりの女性が星の娘を見下ろして微笑んでいた。

 その女性は片腕をゆったりと浴槽のふちにあずけ、首をひねってこちらを見ていた。

 その髪と目は、まるで陽光を受けたサファイアのようにあざやかな青色をしていた。

 星の娘は、水色の湯の中で立ち上がり、言った。


「二の女王陛下でいらっしゃいますのね。」


「そうですよ。」


 女王は親しげに頷きかけ、居ずまいを正して礼をしようとする星の娘を片手の仕草で押しとどめた。


「そんなことは、どうでもいいのです。ここは、寛ぐための場所。ここのお湯は、とてもいい気持ちでしょう、においもいいし。よければ、上がっていらっしゃい。ここは、とても眺めがいいの。」


 星の娘は、女王の招きに応じることにした。

 水色の湯からあがり、薄紫の湯が流れ落ちてくる白い階段を、一歩一歩、注意深くのぼっていった。


「どうぞ、お入りなさい。」


 女王は翡翠色の湯に満たされた浴槽のふちに両腕を預け、後ろに頭をもたせかけて、ゆったりとくつろいでいた。

 間近に見る女王は堂々たる長身で、その胸元や腰つきの豊かさは、とても星の娘の及ぶところではなかった。

 星の娘は慎ましく一礼して、女王と同じ湯船に浸かった。

 下の湯は爽やかなにおいがしたが、ここの湯の香りは、もっと柔らかく、懐かしく――どこか、母親を思い出させる、と星の娘は思った。

 女王は何も言わず、美しい青い目を天井のほうに向けていた。

 その視線の先を追うと、天井の最も高くなったところに天窓があって、湯気のためにぼやけてはいるが、青い空が見えた。


「あの、陛下。」


 女王があまりにもくつろいでいるふうなので、星の娘は、遠慮がちに声をあげた。


「お訊ね申し上げたいことがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」


「いいわ。」


 女王は、天窓の向こうの空に目を向けたままで答えた。

その口調は、先ほどと違い、まるで気の置けない友人か家族とでもいるような調子になっていた。


「では、お訊ねしますわ。ここは、薔薇の城の内部なのでしょうか?」


「ええ。」


「この、広い浴場の、全てが?」


「ええ。」


「あたくしたちが通ってきた、あの不思議なトンネル――ボートに乗って通ってきたトンネルも、ずっと、薔薇の城の中を通っていたのでしょうか?」


「ええ。」


「でも――」


 星の娘は、思わず手を振り、あのとき目にした広大な星空、そこに広がっていたオーロラのことを伝えようとした。

 そこでようやく、女王はゆっくりとこちらに目を向け、微笑んだ。


「この城は、外から見ると、とても大きな、一本の薔薇の木なのです。でも、内側は、外から見た姿よりもさらに……いいえ、遥かに、広く、深くできているの。

 人間の心と同じよ。どんなに小さな子供の心だって、限りない広がりと、深さを持っているでしょう。でも、外からは見えない。」


「薔薇の木の中に、こんな――」


 星の娘は、敬意を込めてあたりを見回し、浴槽のふちに施された素晴らしい彫刻や、噴水や、アーチ型の門や水道橋の美しさを讃えた。


「陛下は、よほど腕のいい職人たちを抱えていらっしゃいますのね。」


 女王はあいまいに微笑んだ。

 何か間違ったことを言っただろうか、と星の娘が思っていると、女王はまた顔を天窓に向けて、遠くを眺めるような表情になった。


「この城はね、みんな、物語の力でできているの。一本一本の柱も、細密な彫刻も、どれもすべて。それを言うなら、この王国に存在するもののすべてが、そうなのだけれど。みんな、あの子がつくって、残していったのよ。」


 あの子というのが誰のことなのか、もちろん、星の娘には分かった。


「アウローラさん?」


「そんな名前だったかもしれないわ。私たちは、名前で呼び合ったことはなかったから、分からないけれど。」


「では、何と呼び合っていらっしゃったのですか?」


「何も。私たち、お互いに呼びかけたことはなかったわ。話したことさえ、ほとんどなかった。」


「えっ?」


 星の娘が声をあげると、女王はまたこちらに目を向けて、微笑んだ。


「だって、私たちは、同じものだもの。自分がもうひとりいるようなものよ。あなたは、声に出して自分自身に呼びかけたり、話しかけたりするかしら?」


 驚いてかぶりを振りながら、星の娘は、たちまちもうひとつの疑問が湧き上がるのを抑えられなかった。


「では……あの、失礼ながら、この国にはこれまでに三人の統治者が存在したと聞いておりますわ。一番目がアウローラさん、二番目が陛下……そして、三番目の、薔薇の女神と呼ばれていらっしゃる方も、陛下と同じような存在なのでしょうか?」


「いいえ、彼女は、私のようではないわ。あなたがアウローラさんと呼んでいる人間の少女と私とは、とても近いけれど、彼女は遠い。それに彼女は、薔薇の花が咲いているとき以外はずっと眠っているし、花が咲いて目を覚ませば、すぐに玉座の間にのぼっていって王国の様子を眺めるので、城の中で、起きて私たちと顔を合わせることは、めったにないの。」


 星の娘は、女王の言っていることをすべて理解できたわけではなかったが、それ以上の質問を加えることはなかった。


「まあ、そんなことはいいでしょう。」


 女王はそう言って、湯の中で大きく伸びをした。


「ここは、くつろぐための場所。難しいことを話し合ったり、考えたりすることはないわ。ああ、お湯に浸かってこんなふうに体を伸ばしていると、なんて気持ちがいいのかしら。」


 それから二人は、長いこと湯に浸かってあたたまっていた。


 星の娘が、もうこれ以上は我慢できないと思うころになって、女王は立ち上がった。


「もうあがりましょうか。」


 星の娘は多少ふらつきながら立ち上がって、女王のあとに続き、少しぬるめの湯が高いところから注がれている場所へ行った。

 その下には大きな貝殻のかたちをした器が据えてあって、そこに入った湯は四方へ広がり、無数の雨粒のように降り注いでいた。

 女王と星の娘はそこで頭から水を浴びて汗を流した。

 女王のすすめで、星の娘は髪を編み上げていたリボンを全部ほどき、銀色の長い髪が湯に洗われるにまかせた。

 女王は再び身ぶりだけで星の娘を促すと、はだしで白い床を踏み、浴場の隅のほうへ歩いていった。


「あの、あたくし、あちらに服を置いてきておりますの。」


「大丈夫よ。」


 女王は悠揚せまらぬ調子でそう答え、歩みを止めなかった。

 浴場のすみには色とりどりのタイルの敷き詰められた場所があり、そこにふたり分の身支度が用意されていた。

 ふたりはやわらかな布を手に取り、心ゆくまで時間をかけて長い髪から水気をとり、丁寧にくしけずり、仕上げに薄い布を頭に巻いた。

 ゆるやかな衣を帯でとめ、やわらかい布の靴をはくころには、星の娘もこれ以上なくくつろいだ気持ちになっていた。

 だが、彼女はふと大切なことを思い出し、自分がそのことを今まで忘れていたということに驚いた。


「あら、陛下。あたくし、おじいさま――あたくしの連れのこと、すっかり忘れていましたわ。あたくしたち、髪をかわかすのにずいぶんひまを取りましたから、連れはあたくしのこと、もうずいぶん待っていると思いますわ。」


「大丈夫よ。」


 女王は、先ほどと同じ調子で答えた。


「さあ、私たちは、お庭に涼みに行きましょう。」


 そう言って、女王はゆったりと歩きはじめた。

 歩くたびに、湯上りの肌にやわらかな衣が触れる感触がとても心地好かった。

 城の内部は本当に驚くべき広大さで、女王と星の娘は、果てが見えぬほど長い壮麗な大回廊や、美しく荘厳されたいくつもの部屋を次々と通り過ぎた。

 そのどこにも、人の気配はまるでなかった。

 どの部屋も廊下も明るく、完璧な美しさを保っているために廃墟のようではなかったが、まるで、人の暮らす場所ではなく、訪問者も職員もみな帰ってしまったあとの美術館のような雰囲気だった。


「あら。」


 星の娘は、思わず声を上げて足を留めた。

 彼女たちは今、左側の壁面がみなガラス窓になった、ゆるやかに右にカーブする廊下を歩いていた。

 ガラス窓の向こうには青い空だけが広がっており、この場所はいったいどれほど高いのか、眼下には雲海が広がっているだけだったが、星の娘の注意を引いたものはその景色にではなかった。

 右手のクリーム色の壁には、先ほどからずっと等間隔に両開きの木の扉がついていたが、そのうちのひとつが開いていて、中の様子が見えたのだ。

 そこは、巨大な図書館の内部を見おろす最上部の回廊の入り口だった。

 星の娘は、思わず中に入っていった。

 一番下の階の中央に円形の広場のような空間があり、その上は全部吹き抜けになっていた。

 その上に何層にもわたって、放射状に書架が並ぶ環状の階層があり、星の娘が見おろす一番上の回廊のすぐ頭上は、ラピスラズリの青色をしたドーム型の天井になっていた。

 そこには、金の線で天体の運行の軌跡が描かれ、ひとつひとつの星々には鈍く光る宝石がはめ込まれていた。


「陛下は、素晴らしい図書館をお持ちなのですわね!」


「でも、ここにあるほとんどの本のページは、まだ白いままなの。」


「えっ?」


 星の娘は思わず、となりに立った女王の顔をまじまじと見た。

 女王は穏やかに微笑んでいた。


「そう、この何十万冊もの本のうちの、何冊かが、ようやく埋まったというところ。あとはみな、まだ白紙なの。あの子が文字にしなければ、他に誰もしないのだから、それも当たり前のことね。」


「では……この図書館は、白紙の本をたくさん用意してあるだけの場所ということですの? 本を――ふつうの物語や知識の本を、置いたりはなさらないのですか?」


「あの子は、ここでは、本を読まないもの。本を読むのは、外の世界ですること。自分自身がつくり出す物語の中で、よその人が書いた物語を読むなんて、おかしなことでしょう?」


「では……」


 星の娘は、何度も言いかけては、口を閉じ、気を落ち着けるように何度も息をついてから、やっと言った。


「ここが……ここの、何もかも……陛下や、あたくしたち、みんな……」


「あら。」


 女王が不意に言って、回廊の手すりから身を乗り出し、下の方を指さした。


「あそこにいたわね。ご覧なさい。」


 ふたりがいるところから数層、下った回廊のひとつで、書架の側に置かれた黒いテーブルに向き合って座り、ふたりの男――老人と、仮面の男が、チェスのようなゲームに興じていた。

 はじめに見下ろしたときは、その広さに圧倒されたのと、ふたりが魚を狙う鳥のようにじっと動かずにいたために、その姿が目に留まらなかったのだ。

 仮面の男がすっと手を伸ばして一手をさし、再び、椅子に深くかける姿勢に戻った。

 老人は心持ち身を乗り出して顎に手をやり、じっと盤上を見つめていたが、しばらくして、思い切ったような動作で一手をさした。

 それから、ふたりはまた動かなくなった。


「さあ、私たちは、お庭に行きましょう。」


 女王がゆったりと衣のすそをさばいてきびすを返し、星の娘も、振り返り振り返りしながら、図書館を後にした。



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