薔薇の城
彼は先に立って、アーチ型の出入口をくぐった。
星の娘がその後に続き、老人がさらに後に続いた。
出入口をくぐると、それまではつるりとした青黒い石でできていた床や壁が、茶色のざらざらとした砂岩のような石組みにかわった。
星の娘が手を挙げれば天井に触れるほどの、細長いトンネルがまっすぐに続いていた。
案内役をつとめる仮面の男が、さっと右手をかざすと、その手にはいつの間にかオレンジ色に燃える小さなランプが掲げられていた。
しばらく歩くと、急に一行は部屋のような空間に出た。
先ほどの、青黒い石の部屋よりもずっと狭いその小部屋には、今入ってきた出入口をのぞけば扉も窓はなく、ただ、突き当たりの壁の下が一段高くなっていて、その上を、右手から左手へと、かなりの速さで水が流れていた。
水路の入り口と出口は、小さなアーチ型のトンネルになっており、その上部は親指と人差し指を広げた幅ほどしか水面から離れておらず、とてもそこをくぐって通ってゆくというわけにはいかなさそうだった。
二人が黙って見ている前で、仮面の男は右手のトンネル――水路の上流のほう――を覗き込み、何かを待っているようだった。
やがて、彼は言った。
「来ました。どちらが先にお乗りになりますか?」
「乗る?」
星の娘が呟くと、かすかに木の軋むような音をたてながら、細長いボートが水路を流れてきた。
仮面の男がその船尾をつかまえ、水路の上に留めた。
そのボートは全体が木で造られていて、柳の葉のようにすんなりと美しく、磨き抜かれた古いテーブルのように黒っぽく輝いていた。
そのボートには櫂も艪もなく、中は、真っ白な生の花でうずめつくされていて、その香りは、立っている星の娘や老人のところにまで届くほどだった。
そして、ボートの船端から水面までは、ほんのわずか、手のひらの厚みぶんほどしか離れていなかった。
これでは、人間がひとり乗り込んだらその場で沈んでしまうのではないかと、老人と星の娘は顔を見合わせた。
よしんば沈まなかったとしても、出口のトンネルが小さすぎて、体を起こして乗っていることはできない。
乗るならば、花の上に横たわって行くしかなかった。
「どちらが先にお乗りになりますか?」
仮面の男は、いくらかそわそわしたように、同じ言葉を繰り返した。
「お急ぎになりませんと、じきに、次のボートが参ります。このままでは、ぶつかってしまいますから……」
「では、わしが先に行こう。」
老人が手をあげ、年長者らしい落ち着きでボートに歩み寄った。
仮面の男ががっちりと船端をつかんで支えていたので、ボートはほとんど揺れもせず、老人はまるでハンモックに寝るように白い花の上に横たわった。
驚いたことに、老人が乗り込んでも、ボートは先ほどより深く沈んだようには見えなかった。
「大丈夫ですの?」
「ええ、沈むなどということはありません、この船は《風の木》から削り出されたものなのですから――」
星の娘は老人に問い掛けたのだが、答えたのは仮面の男で、彼はえいやとばかりに老人が乗ったボートを押し遣り、水路の流れにまかせた。
老人を乗せたボートは、あっという間にトンネルの暗闇の中に見えなくなった。
「来ました!」
その声に振り向くと、仮面の男が、もう次のボートをつかまえていた。
ボートの色も形も、老人が乗って行ったのとまったく同じで、中はやはり真っ白な花でうずめられていた。
「さあ、お乗りください。私は、次のボートで参ります。」
「どれくらい乗っていればよろしいの?」
星の娘は、用心深く水路のふちに片手をつきながら、仮面の男が支えるボートに乗り込み、白い花の上に体を横たえた。
花の中に寝るのは、思いのほか涼しく気持ちのよいものだったが、星の娘は、この先のことが気になって、心地好さを味わうどころではなかった。
「大丈夫、すぐに着きます。いえ、すぐにと感じられるか、長く感じられるかは分かりません。ですが、大丈夫、着けば分かりますから、降りて、待っていてください――」
「ちょっと待って。」
星の娘は慌てて起き直ろうとした。
「着けば分かるって、どうやって? こんなに流れが速いのに、どうやって降り――」
ぐんとボートの船尾が押され、その勢いで、星の娘の頭は白い花の上に押し戻された。
それ以上、何を言う間もなく、星の娘は足先からトンネルの中へと滑り込んでいった。
暗闇に包まれ、彼女は悲鳴を上げようとした――
だが、大きく口を開けたところで、思わず息を止め、今度は両目を限界まで見開いた。
鼻先数センチの高さにあるはずのトンネルの天井は消えてなくなり、かわりに広がっていたのは、広大無辺の星空と、全天を波のようにうねってゆくオーロラの輝きだった。
広がる夜空の黒は、果てのない宇宙の闇そのものであり、それを切り裂くように、いくつもの流れ星が縦横に飛んでゆく。
オーロラは滝のように、女神の帯のように見え、緑と紫と、ほんのわずかな赤からなるその光は、魔法そのものだった。
星の娘は、思わず頭上に手を差し上げようとして、慌ててやめた。
この壮大な光景はすべて幻で、少しでも手を挙げれば、ざらついたトンネルの天井が皮膚をけずることになるかもしれないと考えたのだ。
だが、とても幻とは思えないほどにその光景は美しく、吹く風は冷たく、ボートの中の白い花のいくつかをさらっていった。
星の娘は、思わず知らずに、笑い出していた。
まるで、広がる星々の海こそが下にあり、自分のほうが天にさかさまにはりついて移動しているような、全身がむずむずする奇妙な感覚が彼女をおそった。
それは生まれて初めての感覚だったが、決して不快なものではなく、世界の上下が一瞬にして逆転してしまったようなその時間を、彼女はとてもおもしろいと感じたのだ。
だが、やがて雲が出てきて、広大な星の海は隠されてしまった。
ちゃぷちゃぷと船板を洗う波の音が、急に大きく聞こえはじめて、星の娘は不安にかられた。
今や、星々を隠した雲は水面すれすれまで垂れてきて、濃い霧になり、辺り一面を包んでしまっていた。
このボートは、どこへ向かっているのだろう?
もう、何時間も乗り続けているような気がした。
目の前は灰色の霧で、他には何も見えない。
今、このボートは大海原の真ん中を漂流しているのか、それとも、あの細いトンネルの中をまっすぐに流されているのだろうか――?
「おじいさま。」
星の娘は、小さな声で呼んでみた。返事はなかった。
もっと大きな声で叫ぼうと心に決め、思い切り息を吸い込んだところで、突然、目の前にまばゆい光が満ちた。
星の娘は一瞬ひるんで目を閉じ、しかし次の瞬間には思い切って目を開いた。
はじめに見えたのは、高いドーム型の天井を飾る壮麗なモザイク模様と、そこから伸びている太く優雅な白い円柱の数々だった。
星の娘は目を瞬き、それからすぐに、白い花々の上に手をついて起き上がった。
そこは一面があたたかな乳白色の石で造られた巨大な部屋で、ほとんど屋内にある広場といってもいいほどの広さがあった。
ボートが流されてきたのは、その床をゆるやかにカーブして通る何本もの水路のうちのひと筋だった。
あたりには何本もの太い円柱が立ち、そのあいだのところどころには、白い薄布が舞台の緞帳のようにかかっていた。
星の娘は驚いて辺りを眺め回していたが、すぐに慌てて上体を伏せた。
ボートが小さな太鼓橋の下を通り抜けたからだ。
通り過ぎるときに一瞬だけ見えた橋の下の面は、赤地に金で描かれた素晴らしい蔓草模様で埋め尽くされていた。
橋を過ぎてから、振り向いてもっとよく見ようとしたとき、星の娘を呼んでいる声が聞こえた。
「アストライアくん! ここじゃ。」
ボートは流れに運ばれ、大きな池に入っていった。
そのふちに老人が立ち、大きく手を振っていた。
「そのまま、じっとしておればよい。勝手にこちらへ流されてくるから。」
幾筋もの流れがひとつにまとまり、また枝分かれして流れ出てゆくその池には、複雑な渦を巻く流れができているようで、星の娘が乗ったボートはひとりでに老人がいる岸辺へと押し流されていった。
「おじいさま、手を!」
「そうら……もう少しこっちへ……ようし! つかまえた。」
星の娘は老人に手を引っ張ってもらい、無事に池のほとりに立つことができた。
白い花ばかりを乗せたボートは、しばらくはゆらゆらと水面を漂っていたが、すぐに流れに乗り、たくさんの流れのうちのひと筋に入って、見えなくなった。
星の娘と老人は並んで立ち、あたりの不思議な様子を眺めた。
床も柱も乳白色の石でできた広大な部屋に、まるで網の目のように水路がはりめぐらされているのだ。
水路と水路のあいだには、島のようになった場所があり、高いところや低いところとがあった。
それらの島をつなぐように、あちらこちらに無数の橋がかかっていた。
それらの橋も、全て乳白色の石でできていたが、その欄干の意匠は、見てとれる範囲の限りではひとつとして同じものがないようだった。
ぶどうの房と葉をかたどったものもあれば、飛ぶ鳥たちや、駆ける獣たち、人、竜、炎や水をあらわしたものもあった。
「ここの石は、どこも、まるで奥に小さな灯がともっているようじゃな。」
老人が呟いた。
確かに、何もかもが石造りであるのに冷たさを感じないのは、乳白色の色合いの、何ともいえぬあたたかさのために違いなかった。
星の娘は、近くの橋にのぼってみた。
半分ほど渡ったところで立ち止まり、欄干に――そこには輝く月と星の意匠がほどこされていた――手を触れてみた。
すると、わずかなぬくもりを感じるような気がした。
見た目から受ける印象というのではなく、実際に、ほんの少しあたたかいのだ。
星の娘がそのことを言おうとしたとき、橋の下を流れる川にのって、一艘のボートがあらわれた。
「お待たせいたしました。」
仮面の男は、ボートが池にたどり着く前に急いで立ち上がり、転びそうになりながら岸に上がった。
何もそんなに慌てる必要ありませんわ、と星の娘が言うよりも先に、
「さあ、どうぞ、こちらです。」
と仮面の男は腕で示し、先に立って歩き始めた。
欄干の精緻な細工に驚嘆しながらいくつもの橋を渡るうちに、星の娘は、手で触れる欄干が明らかにあたたかくなってきていることに気付いた。
それだけではなく、進むにつれて、空気までもが暖かくなり、あたりに湯気が漂いはじめた。
その湯気には、何ともゆったりとした、心の安らぐようなにおいがまじっていた。
「温泉、ですかな?」
老人が驚いたように言ったが、星の娘は、それがどういうものなのか知らなかった。
「はい。」
仮面の男は歩きながら頷いたが、老人は少しも納得がいった様子ではなかった。
「わしらは、これから、二の女王陛下にお目にかかるのではありませんでしたかな?」
「その通りです。」
仮面の男は、また頷いて言った。
「ここまでの長い旅路で、さぞお疲れになったことでしょう。二の女王陛下が、浴場でお待ちでいらっしゃいます。ゆったりとお湯をお使いになり、旅の疲れを取りながら、心ゆくまで陛下とお話しいただきたく存じます。」
「いや、それは、いかん。」
老人は、慌ててかぶりを振った。
「この通りの年寄りとはいえ、わしは、男ですからな。女の方と一緒に風呂に入るなどということはできません。」
仮面の男は、老人の戸惑いが理解できない様子だった。
「二の女王陛下は、そのようなことをお気にはなさいません。あなたがたをお待ちでいらっしゃいます。」
「たとえ、そうでも……いや、どうしても、いけませんぞ。」
「おじいさま。」
断固として言い募る老人に、星の娘は、思わず言った。
「あたくしたち、湖で、妖精たちと一緒に過ごしましたわ。そうでしょう? あの方たちだって、何も身に着けていなかった。今さら、気になさることはないのじゃありません?」
老人は、そのことに初めて思い至ったという顔で星の娘を見たが、すぐにかぶりを振った。
「いや……やはり、いかんな。考えてもみなされ、皆で一緒に入るとなれば、どうしたって、君の姿も目に入るじゃろうが。同僚の、それも妙齢の女性と一緒に湯に浸かるなど、どうにもこうにも、居たたまれぬよ。」
「それも、そうですわね。」
星の娘は、少し頬を赤くして言った。
「それでは、あたくしが女王陛下とご一緒しますわ。お話ししたことを、あとでおじいさまに伝えますから。」
「さようでございますか?」
仮面の男は、どうもわけが飲み込めないという様子で言った。
「それでは、ここの浴場はとても広いですから、ご老人は、別のところでお湯をお使いになられるとよろしいでしょう。そちらには、後ほど、ご案内いたします。――ああ、着きました、こちらです。さあ、お入りになってください。」
いまや湯気はもうもうと濃くなり、湯のにおいも強くなっていた。
仮面の男が、両開きのカーテンのように垂れ下がった白い布の端を持ち上げると、先ほどの霧を思わせるような真っ白な湯気が漂い出てきた。
「着替えは、どうすればよろしいの?」
「用意はすべてととのっております。私たちは、本当にずっと長いあいだ、お客さま方をお待ちしていたのですから。そのままお進みください、さあ――」
仮面の男に促されるまま、星の娘は湯気に満たされた中へと踏み込んでいった。
はじめは、本当に先ほど霧に包まれたときのように、ほとんど何も見えなかった。
手を前に突き出し、一足ごとに爪先で足元を探りながら進んでいくと、やがて少しずつ湯気が薄れてきて、自分が無数の円柱が立ち並ぶ広い通路のような場所にいることが分かった。
床はこれまでのようにつるりとした乳白色の一枚板ではなく、ツタを図案化した模様が一面に刻まれ、それらの模様のすべてに金線がほどこされていた。
「お入りなさい。」
と、奥から誰かの声が聞こえたような気がした。
だが、その声はあまりにも小さく、まるで眠りに落ちる直前に耳元で囁かれた声のようにおぼろげで、星の娘は今の声が本当に聞こえたものなのかどうか、確信が持てなかった。




