仮面の男
歳をとればとるほどに、死ぬということについて考える機会は増えたが、本当に死と向き合った瞬間にどのような心境になるのかは、なってみなければ分からないことだ。
老人はまず自分の体が押し潰されることに対する恐怖を感じた。
肉が潰れ、骨がそれを突き破ることを想像しただけでたまらなかったが、それから、息ができないことへの恐怖が圧倒的に湧き上がってきて、潰される痛みのことについてはほとんど忘れてしまった。
老人は口を開けようとしたが、顎は自分の胸だか脚だかにぴったりと押し付けられていていて、一ミリも動かすことができなかった。
鼻から息をいくら吸おうとしても、栓でも詰めてあるみたいに何も入ってこなかった。
これはもう本当に死ぬのだ、と思った瞬間、ふっと老人は「楽にしてみよう」ということを思った。
人が死を恐れるのは、その前段階としてある不自由や苦痛を恐れているのであって、死それ自体を恐れているのではない、たとえば寝る直前まで元気に楽しく趣味に打ち込んでいて、おやすみと眠ってそのまま起きてこなかった、というような死に方を人は羨ましいと言うだろう、それは死ぬ前の不自由や苦しみがなかったことを羨んでいるのだ――というようなことを、なぜか緑茶を飲みながら熱弁していた黒髪の娘のことを彼は思い出した。
苦しみがなければ、死は恐るべきものではない。
その苦しみが、できるかどうかは知らないが気持ちの持ちようで少しでも何とかなるものなら、そう、少しでもいい、楽にしてみよう……
だがそれができたのはほんの数秒だった。
やはり苦しいものは苦しかった。
息ができないのに、楽にすることなどできるわけがない。
息が吸いたい、もう一度、澄んだ冷たい空気を、鼻と口と喉に、肺いっぱいに感じて――
老人は暴れた。
暴れることができているではないか、ということに気付くと同時、それまで無音のように感じられた世界に、ごぼごぼという激しい音が戻り、全身の皮膚が水の冷たさを受け取った。
目を開けば、そこは無明の闇ではなく、薄青い奇妙な光に満ちた水の中で、見開いた目の視界に、青黒い石の壁のようなものが映り、それから、そう遠くない場所に、鏡のような、大きな丸い光が見えた――
あれは、水面ではないのか。
老人は残る力を振り絞って脚をばたつかせ、水をかいた。
視界がふっと霞みそうになった瞬間、ここを先途と伸ばした右手の指が、水面を突き破り、青黒い石壁のふちのような場所にがっちりとかかった。
息が吸いたい、という根源的な望みが肉体を突き動かし、老人は信じられないほどの筋力を発揮して、自分の体を右腕一本で水面上に引き上げた――
激しく咳き込みながら、老人はしばらくのあいだ、青黒い石のふちの上に上半身を引っかけた姿勢でいた。
息ができるのだから、このまま、ここに一万年のあいだ引っかかっていてもよいという気がした。
だが、彼はすぐに、もう一人のことを思い出した。
「アストおっうおっほお」
「何の……呪文ですの……?」
かすれた声が聞こえた。
顔を上げ、首を左にねじ向けると、そこに星の娘が座っていた。
彼女は、もう、少女ではなかった。
藍色の衣に包まれた手足はすらりと伸びて、濡れてはりついた銀の髪の下にあるのは、疲れ切ったような若い娘の顔だった。
彼女が腰かけている場所は、老人がやっとの思いで這いあがった青黒い石のふちだった。
そこは小さな石造りの部屋で、何もかもすべてが継ぎ目のない青黒い石からなっており、四角い床の中央に大人の膝ほどの高さの石の輪があり、その中は池になっていた。
老人と星の娘は、その池から這いあがってきたのだった。
あたりはかすかなあかりに照らされていたが、上を見上げても照明の類は見えず、天井も見えず、一体どれほどの高さがあるのかは分からなかった。
壁に、アーチ型の出入口が一ヶ所だけ開いていたが、その奥は暗く、どうなっているのか見えなかった。
老人は水を吸って信じられないほど重くなった衣に苦労しながら、下半身をどうにか池から引きずり出し、池のふちに背中をもたせかけて息をついた。
星の娘は、そのそばで、手を貸しに立ち上がる気力もないという様子でうなだれて座っていた。
「ここが、薔薇の城なのかのう?」
老人はそう呟いたが、星の娘からの返事はなかった。
ずいぶん長いこと経ってから、彼女は言った。
「あたくしたち、あの方を、犠牲にしてしまったわ。」
それからまた彼女は黙り込んだ。
老人は、彼女が再び口を開くのを待った。
やがて彼女は言った。
「あれは、アウローラさんが望んだことだったの?」
「それは、分からん。だが、彼女は、物語の――何と言ったかな、カ……そう、カルナ・ラサというものを――」
「何ですって?」
「インドの言葉で、物語によって表現される『悲哀の情趣』というような意味だそうじゃ。夜の王に略奪される乙女の物語は、まさしくそれを表すものなのかもしれん。
この王国は、幼い日のアウローラくんが美しいと感じたもので成り立っておる。その美しさには、おそらく、悲哀や恐怖や、暴虐すらも含まれておる――」
「子供なのに?」
「子供だからこそ、その物語は、より本能的で、純粋なのかもしれん。」
それきり、会話は途切れ、二人は長いこと喋らなかった。
老人は、不意に、重要なことを思い出した。
彼は慌てて懐に手を突っ込み、中を探った。
固いものに指先が突き当たり、取り出してみると、はたしてそれは砂漠の魔女からことづけられた、青紫色の小箱だった。
水に浸かってしまったが、中身は無事なのか――
指がうまく動かないほどに焦りながら蓋を開けると、砂糖漬けのボリジの花は乾いて、美しい星の形を保ったままだった。
老人は星の娘の腕を軽く叩き、振り向いた彼女に花をひとつ手渡すと、自分もひとつ取って食べ、箱の蓋をしっかりと閉めて懐にしまった。
舌の上でしゃりしゃりと鳴る砂糖の感触を味わっていると、不意に、星の娘がさっと背筋を伸ばした。
元気を取り戻したというわけではなく、緊張しているようだった。
「おじいさま、聞こえて?」
彼女はアーチ型の出入口のほうに鋭い視線を向け、立ち上がった。
その向こうから、固い靴の底が床を打つ音が近付いてきていた。
星の娘の手が自然と腰の後ろに伸び、護身用の武器を探った。
「あたくし、さっき、これを使うべきでしたわ――」
細い眉をきつくしかめながら、彼女はいつでも飛び出せるように身構えた。
老人も立ち上がり、星の娘を援護するために相手に飛びかかるべく、出入口の脇へ回り込もうとした。
「撃たないでください!」
だしぬけに、靴音が止まり、聞いたことのない声が響いた。
穏やかそうな、男の声だった。
老人と星の娘は、顔を見合わせた。
「誰なの!」
星の娘が鋭く誰何した。
男の声が答えた。
「私は、この城の者です。女王さま方と、この城を訪れてみえる方々のお世話をするのが私の仕事です。決して、怪しい者ではありません。どうぞ、武器をお引き下さい!」
星の娘は眉を寄せ、老人をちらりと見た。
老人が頷くと、彼女は構えていた武器を下ろし、片手に握ったままで言った。
「よろしいわ。ゆっくり歩いて、こちらにお入りなさい!」
「では、参ります。くれぐれも、私に打ちかかったりはなさらないで下さい。私は戦いたいのではなく、あなた方をご案内し、おもてなししたいのですから――」
かつんかつんという足音が再び近付き、やがて、アーチ型の出入口をくぐって、ひとりの男が姿をあらわした。
黒を基調とした服を着て、袖口と襟元を白いレースで飾り、ボタンのたくさんついた踵のあるブーツをはいた姿は、昔のヨーロッパの貴族の屋敷ではたらく上級の使用人のようだった。
ただひとつ、にこやかな口元を残して、顔の上半分を白い仮面でおおっていることが奇妙だった。
彼は出入口の真横に立っていた老人に気付いて驚き、一歩横にずれたが、すぐに気を取り直したようで、客人たちに向かって腕を開き、優雅に礼をした。
「ようこそ、ようこそ、おいで下さいました。この城にどなたかが訪れてみえたのは、女王さま方を除けば、お客さま方が最初。大変に嬉しく存じます。」
「最初ですって?」
「はい。」
彼は喜ばしげに笑うと、肘を曲げ、片方の手のひらをさっと上に向けた。
その手のひらの上に、八角形をした小さな金色のお盆があらわれた。
お盆の上には、湯気をたてている小さな金色のカップがふたつ乗っていた。
「ここまでご到着なさるのに、だいぶご苦労なされたでしょう。まずはお飲み物をどうぞ。」
「どうも。」
老人はカップを取り、星の娘にも渡した。
カップの中には、金や緑色に輝く何ともつかぬ液体が入っていたが、その湯気の香りがあまりにも芳しかったので、老人も星の娘も、ほとんど一息で飲み干してしまった。
その液体が胃に落ち込むと、濡れた体が中からぽっぽっと温まりはじめ、口の中や喉が爽やかになった。
「これ、お酒ですの?」
星の娘が、名残惜しそうに唇をちょっと舐めながら訊いた。
「こちらは、女王さまの庭の水盤に太陽の光と草木の緑の映じたのを集めて何日も煮詰めたシロップでして、お客さまを歓迎するための特別な飲み物として、私が心を込めて作りました。
ずいぶん長いこと寝かせましたので、少しはお酒のような風味が出ているかもしれません。味はいかがでしたか? 何しろ、お客さまにお出ししたのは、初めてなものですから。」
「素晴らしい味わいでした。」老人が言った。「いかがです、あなたも一杯、おやりになっては?」
「いえ、とんでもない。――そうですか? では、ほんの少しだけお相伴にあずかりまして。」
彼は左手を上げ、言葉どおり、小さな金色のスプーンに一杯だけ、特製のシロップを取り出した。
上品にそれをすすり、彼は、パチンと唇を鳴らした。
「これは! ……いえ、どうも失礼を。我ながら、思ったよりも上出来だったものですから。」
彼は老人と星の娘からカップを受け取ると、優雅に手を振って、それを盆やスプーンもろとも一瞬で虚空に消し去った。
「さあ、こちらへおいで下さい。」
手品師の目の前に腰かけていた客のように首をひねりながら瞬きをしている星の娘と老人に対し、彼は丁重にうながした。
「これより、女王さまのもとにご案内いたします。」
「アウローラさん?」
「薔薇の女神様のもとに、ですかな?」
星の娘と老人が同時にそう言い、彼はかぶりを振った。
「一の女王陛下はすでにこの地を発たれ、薔薇の女神様は今、眠っておられます。今からお客さま方をご案内するのは、二の女王陛下のもとにです。」
「どんな方?」
星の娘は、好奇心を抑え切れない様子で訊ねた。
「白い肌、青い目に青い髪、とてもお美しい方でいらっしゃいます。一の女王陛下とは、親友同士でいらっしゃいました。いえ、親友というのとは、少しちがいますか――お二人は、姉妹か、どうかすると親子のように見えることもございました。お目にかかれば、きっとそのことがお客さま方にもお分かりになりますよ。さあ、どうぞ! ご案内いたしますから。」




