夜の王
洞窟の入り口は広く、中も思っていた以上に奥行きがあり、壁と天井はごつごつとした天然の岩壁だったが、床は剣の一閃で斬られたように平らで、曇った鏡のように鈍く反射してさえいた。
天井からは、湧水か、滝のしぶきか、無数のしずくが絶えず落ちて床を流れていた。
奥には、似た姿をした何人もの妖精たちがあるいは立ち、あるいは座り、じっとこちらを見つめていた。
彼女たちはみな、人間でいえば若い娘の姿をしており、一糸まとわぬその姿は淡い紅色の燐光を帯びていた。
彼女たちの、どこか憂いを帯びた、物言いたげな眼差しに遭って、老人は落ち着かない気分になってきた。
星の娘は、少し攻撃的な顔つきになっていたが、彼女たちに見つめられているうちに気後れがしてきたのか、ぷいと顔を背けた。
「旅人の若者は、奥にいるそうだよ。」ひとり、何も気にしていないような調子で、老婆が言った。「今は眠っているそうだ。無事だよ。」
「なぜ、それが分かったのですかな?」老人はこれ幸いと、老婆に顔を向けて訊ねた。「こちらの方々は、ものを言わないということでしたが。」
「確かに、喋らないが、あたしたちの言っていることは分かるようだ。あの若者はどこにいるのかと訊いたら、奥を指差して、眠っているという身ぶりをしたよ。
多分、妖精の眠りというやつだろ。妖精に関わった者が、いつの間にか深く眠りこんでしまって、気がついたら何日も過ぎていたという話が、よくあるじゃないか。」
老人は頷き、洞窟の奥に向かってゆっくりと歩き出した。
星の娘も、慌てて後に続いた。
妖精たちはじっと老人たちに目をあてたまま、ほんの少しずつ下がり、彼らを通した。
洞窟の奥には、細いつる植物で編まれた濡れたカーテンがさがっていた。
老人が、その端にそっと手をかけて持ち上げると、中にいた妖精の娘がさっと顔を上げてきた。
その部屋の中央には、ヒカゲノカズラのようなもので編まれた寝床がしつらえられており、妖精の娘はそのかたわらで、濡れた床の上に座っていた。
寝床の上には、旅人が裸で眠っており、その体にはカーテンと同じつる植物で編まれた布がかけられていた。
妖精の娘は、布から突き出した旅人の手をしっかりと握っていた。
老人は一瞥しただけで、ふたりのあいだに何があったかを悟った。
老人の背中越しに中の様子を見た星の娘は、真っ赤になって後ろを向いた。
「行こう。」
老人は礼儀正しく目を逸らして頭を下げると、ぎくしゃくとしている星の娘の背中を押して入口のほうへ戻っていった。
「あんな――」
星の娘は、ひどく傷ついたような顔をしていた。
彼女は、信じられないというように呻いた。
「だって――ここは――この国にアウローラさんがいたのは、小さな子供の頃だったはずでしょう?」
「子供でも、何も知らぬわけではないよ、男と女のことをな。」老人は肩をすくめた。「多くの物語を読む者なら、なおさらじゃ。神話でも、騎士たちの物語でも、そういったことは数多く描かれておるじゃろう?」
「でも……」
「さてと、」入り口に腰を下ろして待っていた老婆が、立ち上がり、何でもなさそうに言った。「それじゃ、これから、あんたたちが行く道のことを訊かなきゃね。ここより先のことは、あたしは知らんから。」
そして、
「あたしは、砂浜にいるよ。」
とだけ言い残し、老婆はさっさと岩壁を這い降りていってしまった。
おそらく、妖精たちが教える道のことを、自分は聞かないほうがいいと考えたのだろう。
老人は、ひとところに集まってじっとこちらを見つめている妖精の娘たちのほうに向き直った。
まっすぐに相手の顔を見て、身体つきに目をやらないようにしながら、はっきりと言った。
「わしらは、薔薇の城に行きたいのです。どうか、そこへの道を教えてくださらぬか。」
妖精たちは互いに顔を見合わせた。
言葉は一言も交わされなかったが、何らかの意思の疎通があったとみえて、ひとりが頷き、進み出た。
ひときわ豊かな胸元と腰つきをした、青みがかった黒髪の美しいその娘は、洞窟の入り口のふちまで進むと、すっと指を動かして、崖の上と、湖を順に指差した。
「ふたつ?」
それぞれを指差すときに、充分な間があったので、老人は妖精の娘の身ぶりをそう解釈した。
「道が、ふたつあるのですか?」
娘は頷き、そのまま、老人の次の質問を待つようにじっと彼を見つめた。
「道は、ふたつあるそうじゃ。」
老人は星の娘に向き直り、そう繰り返した。
「崖の上の道と、湖の道というわけね。」
星の娘は、少し不自然なくらいにてきぱきと指を折りながら言った。
「崖の上の道というのは、あれじゃないかしら? ほら、おじいさまが話してくださった黒髪の若者の話の中で、彼が通った道。
『鎧を着た獣たちのうろつく影の森を抜け、秘密の湖の妖精たちの助けを受け、鷲たちの襲いかかる切り立つ峰に登り、その頂上で、薔薇の城の鉄壁の守りである大蛇と戦った――』」
シュリーマンの前でホメロスの詩を暗唱してみせたソフィアのように、星の娘はすらすらと言い、それから顔をしかめた。
「でも、その道を行くには、鷲たちと戦ったり、大蛇と戦ったりしなくちゃならないのでしょう? あたしたち、無事に通れるとは思えないわ。」
「そうじゃな。」
ここまでは老婆が守ってくれたが、彼女は、これより先には行かないと、きっぱりと態度で示している。
この先は、おそらく、王国に住む者は行くことのない道なのだ。
老人は、もう一度、妖精の娘に向き直った。
「わしらは、湖の道を行きます。」
その言葉で、妖精の娘たちのあいだを目に見えぬさざなみが走ったように思われた。
その反応は、明らかに不吉さを感じさせるものだった。
「危険が、ありますか?」
老人が問うと、娘たちは一斉に頷いた。
「その道というのは、湖の、底にある?」
彼女たちは、また頷いた。
「溺れるかもしれないということですか?」
妖精たちは長い髪を揺らしてかぶりを振った。
青みがかった黒髪の娘が進み出て、洞窟の入口にふわりと据えられていた巨大な泡に手を触れた。
「これに、乗っていくということ?」
星の娘が、これまでの反感を忘れたような顔で言った。
「そうだわ、この泡、滝の水を浴びても平気だったもの。あたしたち、これで、潜水艦みたいに湖に潜っていけるんだわ!」
妖精の娘は頷き、自分が先頭にたって泡に入ろうとした。
別の妖精の娘が駆け寄り、その白い腕を掴んで引き留めた。
青みがかった黒髪の娘はかぶりを振り、すがりついた娘をなだめるように、その腕に手を置いた。
そして、哀しげに見つめながらゆっくりと相手を押し離すと、自分は静かに泡の中に入っていった。
「どういうことなの?」星の娘は、いくらか二の足を踏む調子で言った。「まるで、もう二度と会えなくなるみたいじゃない。」
「本当にそうかもしれんぞ。」老人は厳しい顔で言った。「これより先の道は、王国の住人は通ることのできない道なのかもしれん。仮に、通れたとしても、もう戻ることはできないのかもしれん。――お嬢さん。」
泡の中から見つめてくる娘に、老人は真剣な顔で言った。
「あなたはご親切にわしらのために道案内をしてくださるおつもりのようじゃが、これより先の道が、もしもあなたにとって非常に危険な、引き返すことのできぬ道であるというのならば、無理においでいただくには及びませんぞ。
この泡さえ貸していただければ、わしらは、何とか自分たちで道を見つけて行きますから。」
妖精の娘はかぶりを振った。
彼女は手を伸ばして星の娘を指し、それから彼女と老人を結び合わせるような仕草をして、その手をすっと上へ振った。
「あたしたち、ふたりで――上へ?」
星の娘は困惑して顔をしかめた。
「ええ、そうよ、あたしたちふたりで行くわ。だから、おねえさんは降りてくれていいのよ。」
だが、彼女は降りようとはしなかった。
他の妖精の娘たちが近付いてきて、星の娘と老人の背中を押し、泡の中へ押し込んだ。
青みがかった黒髪の娘は決然と滝のほうを向き、それと同時に音もなく泡が浮いて洞窟の床を離れた。
彼女のきっぱりとした態度に圧倒されて、星の娘も老人も、それ以上何も声をかけることができなかった。
他の妖精の娘たちが洞窟の入口に並んで立ち、哀しげな表情でじっと見下ろしているのが泡の膜ごしに見えた。
入ってきたときと同じように、少しも衝撃を感じることなく厚い水の壁を通り抜け、泡はゆっくりと湖の水面に向かって降りていった。
水面は薄く油を流したような虹色の輝きを帯びていて、見下ろしても、水の中の様子は分からなかった。
「おじいさま。」
いくらか詰まったような声で星の娘は言ったが、それは老人にというよりも、彼に話しかけるようなふりをして、妖精の娘に問いかけているのだった。
「水の中には、何か生き物がいるのかしら? たとえば、貝だとか、蟹だとか、ものすごく大きな、肉食の魚だとか。」
「さあ、分からん。――入るぞ。」
泡が水面に触れた瞬間、曇りガラスに水滴を落としたときのように水面が透き通り、湖の底までがくっきりと見えるようになった。
星の娘と老人は、同時に足をぴくりと動かした。
泡が破れて水の底に沈んでしまうのではないかと恐れたためだが、泡はまるで水晶の玉のように完璧な球形を保ち、ゆっくりと湖の底へ沈んでいった。
湖の底は、岸辺に近いあたりは生成り色の美しい砂におおわれていたが、深くなるにつれて灰色のごつごつとした岩が目立つようになり、荒々しくも恐ろしい風景に変わっていった。
湖はすり鉢状に深さを増していき、辺りは少しずつ薄暗くなってきた。
星の娘は、おそらく意識せずにだろうが、老人の服の袖をずっと掴んでいた。
最も深いあたりには、ほとんど光が届いておらず、まるで比重の大きな漆黒のインクが沈殿しているように見えた。
老人は、その暗い影をじっと見つめているうちに、それが、渦を巻いて動いているように見えてきて、激しく目をこすった。
いや――目の錯覚ではない。
その暗闇は、実際に動いているのだった。
まるで墨壺が噴火したみたいに、真っ黒な影が凄まじい勢いで噴き上がってきた。
星の娘は悲鳴をあげ、老人はもう少しで後ろ向きに引っくり返りそうになった。
妖精の娘は、きっと唇を結び、噴き上がった真っ黒な影を見つめていた。
泡の膜の向こうで、影の中からぞっとするほど白い痩せさらばえた手が突き出し、その身を隠していた漆黒のマントを払いのけた。
黒い鋼の冠をいただいた、蒼白い顔の夜の王は、ゆらゆらと黒いマントをゆらめかせながら、泡の中にいる三人を見据えてきた。
その目は恐ろしく冷たく光り、まっすぐに見返すことができないほどだった。
『俺の国を通り抜けようとする者は誰か?』
夜の王の声は、水の中で金属が打ち鳴らされる音を聞いたときのように、奇妙にくぐもって聞こえた。
「あ、あたし、あたしたちは――」
老人は驚いて、横を見た。
星の娘は、目を閉じて、両耳をきつく押さえながら叫んでいた。
まるで、空想の中のお化けを追い払おうとする小さな子供のように。
「あたしたちは――薔薇のお城に行くのよ! あんたの国になんか、行きたくないわ!」
ごぼごぼと泡の立ちのぼるような音が響いた。
それが夜の王の笑いだった。
『薔薇の城へ行くために、湖の道を通るならば、俺の国を通り抜けるということだ。取り決めの通りに、捧げものをもらおう。――俺の新しい花嫁を差し出せ。』
「何ですって。」
星の娘が、目を開いた。
彼女はすっくと立ち、肩をいからせて、夜の王に食ってかかった。
「あんたは、もう、大勢の奥さんをもってるはずじゃないの!」
『俺の宮殿には美しい乙女を迎える部屋がまだいくらでもある。』
夜の王は星の娘の怒りを面白がるように言った。
「ふざけないで! そんなふうに軽々しく何人も奥さんをもつなんて、女の人に失礼だと思わないの。
あたしたちを通しなさい、あたしたちは、あのひとの知り合いなんだから! あんたなんて、すぐに、やっつけてもらえるんだから!」
『この夜の王を倒すほどの者とは誰か? 命ある者の全てが死に絶えたとしても、俺は決して滅びることはないというのに。』
「一の女王陛下の名にかけて。」そう口にした時の星の娘は、まるで本物の女王のように堂々としていた。「あんたは、あたしたちを通さなくちゃならない。」
夜の王はその名を聞いて驚いたように、少し目を見開いた。
それから、彼はゆっくりとかぶりを振った。
『娘よ、一の女王は、かつてこう言ったのだ。――この王国の空と地上とをしろしめす者は、薔薇の城の主。そして、この王国の地下と深い水の底とをしろしめす者は、夜の王であると。』
星の娘は、しばらくのあいだ、信じられないという顔で突っ立っていた。
「あんたは……アウローラさんの友だちなの? アウローラさんが、あんたがこんなことをするのを許可したっていうの?」
『俺は俺の暗い国を支配し、強い戦士たちと美しい乙女たちを集める。俺の国は地上に広がる草原や空と同じほど深く、広い。光が強くなれば影は濃くなり、地上の木が高くそびえれば、それだけ根は深くなろう。娘よ、そなたを、俺の国へ連れて行こうか。』
「嫌よ!」
しゃがみこみ、金切り声で叫ぶ星の娘に向かって、夜の王が手を伸ばした。
その手の前に、妖精の娘が両腕を開いて立ち塞がった。
彼女は震えていたが、その見開かれた目は夜の王の目をまっすぐに見返し、瞬きすらもしていなかった。
「だめ――」
星の娘が叫んだが、その声は弱々しくかすれた。
夜の王の手が泡の膜を突き抜け、妖精の娘の腕を掴んだ。
『よかろう、この娘をもらってゆくぞ。』
老人が反射的に手を伸ばし、星の娘は娘の脚に飛びついて引き留めようとしたが、無駄だった。
泡の外に引きずり出された妖精の娘の体に、夜の王の黒いマントが絡みついた。
いけにえの獣のように腕と脚を開かされた妖精の娘を見て、夜の王は満足げに笑い、彼女に口づけをした。
妖精の娘の目から光が消え、その四肢からぐったりと力が失せた。
とぐろを巻く大蛇のように黒いマントが激しくうねり、その体を完全に呑みこんでいった。
『乙女は捧げられた。』
夜の王の顔もまた、マントのうねりの中に沈んでいった。
映像を二倍速で巻き戻すみたいに、漆黒のうねりは渦巻きながら収束していき、それまではほとんど静止していた辺りの水もまた、ごうごうと渦を巻いて湖底へと吸い込まれはじめた。
ぐるぐると回る泡の中で、星の娘は頭を抱え、呟いていた。
「あたし――あのひと、あたしの代わりに――」
老人は、星の娘の体をしっかりと抱きかかえた。
インクの中に飛び込んだみたいに、辺りは完全な闇になり、水圧が増したためか泡が縮んで、ふたりは押し潰されそうになった。
「アストライアくん、手を離すな!」
「あたし、許せないわ、帰ったら絶対に、アウローラさんを引っぱたいてやる――」
ふたりは顎が膝のあいだに入るほど体を押し縮められて、目も耳もきかなくなり、やがて、息さえもできなくなった――




