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庭の王国への旅  作者: キュノスーラ
庭の王国
19/28

秘密の湖の妖精たち

 長く黒いとげが自分の体を刺しつらぬく瞬間を想像して、老人は歯を食い縛り、思わず目を開けた。

 いつ、とげがわが身に突き刺さるかという恐ろしさに耐え切れず、見ずにはいられなかった――


 目の前に、茨の壁はなかった。

 えっと思う間もなく、急に足元が沈み込むような感覚があって、彼は顔面から地面に突っ込んだ。

 星の娘を背負ったままの腕を、とっさにぎゅっと締め付けてしまい、前に突き出すことができなかったのだ。

 驚くほど、やわらかな感触があって、彼は大量の砂に顔を突っ込んだ。

 慌てて腕をついて起き上がり、鼻と口に入り込んだ砂を吹き出し、吐き捨てる。

 反射的に瞼を閉じたために、目だけは無事だった。


 彼らが倒れ込んだ場所は、美しい砂浜だった。

 目の前には、静かに輝く水面が広がり、その奥には暗い灰色の岩壁が垂直にそそり立っていた。

 岩壁の上から、幅の広い滝がどうどうと流れ落ち、水面に絶え間ない波紋を生み出している。

 ボートにでも乗れば、滝のしぶきがかかるあたりまで、すぐに行くことができそうだった。


(湖と呼ぶにしては、ずいぶんと小さい。これでは池か、泉と呼んだ方が近いな。)


 反射的にそんなことを思った老人のかたわらで、星の娘が息を飲む音がした。

 慌てて振り向くと、茨の壁の向こうに、灰色の山のような《獣》の巨体が動くのが見えた。

 茨の壁は遥かに見上げるほどの高さがあり、今まで通ってきた森と、こちら側とを完全に隔てていた。

 と、絡み合った茨の一部が、木のてっぺんほどはあろうかという高い位置で音もなく円く開き、そこから、老婆が必死の形相で飛び込んできた。

 茨の扉は生きているかのような動きですばやく閉まり、振り下ろされた《獣》の爪の一撃を難なく防いだ。

 まるで鋼鉄で編まれているかのように、たわむことも、揺れることさえもなかった。

 老婆は空中ですばやく横手に槍を放り捨て、両手と両脚で砂浜に着地し、勢いを殺し切れずにでんぐりがえって、大の字に伸びた。


「おばあさま!」


 星の娘が、思わず駆け寄った。


「大丈夫?」


「大丈夫な、わけが、あるかい。」


 大儀そうに言いながらも、老婆は即座にむっくりと身を起こし、砂まみれになった服をはたいた。


「やれやれ。――さあ、着いたよ! ここが、秘密の湖だ。」


 老人は立ち上がり、あらためて、目の前に広がる光景を見つめた。

 目の前に広がる水面は、ほぼ半円に近い形をしており、彼らがいるのは、ちょうど、波打ち際が描く円弧の頂点にあたる場所だった。

 水辺はどこも、美しい生成り色の砂に覆われていた。

 黒や灰色の粒はひとつもまじっておらず、手ですくえば、全てが同じ色の砂から成っているのが分かった。

 今いる場所のちょうど真正面に滝があり、淵に落ち込んだ水が激しく泡立ち、勢いよくしぶきをあげているのがよく見えた。

 ごつごつとした岸壁は、しぶきを受けて鈍く光っていた。


「誰もいないようだわ。」


 星の娘は、注意深くあたりを見回しながら言った。

 彼女が言う通り、秘密の湖は、円弧のふちをゆっくりと歩いても一分かからぬほどの大きさしかなく、砂浜の周囲は茨に囲まれて、妖精たちが棲んでいる気配も、旅人がいる気配も、まったく感じられなかった。


「妖精たちは、どこにいるのかしら? それに、旅人さんは?」


 ここまでの道中ずっと眠っていた彼女にとっては、さきほどの恐ろしい体験も、目覚める直前に見たおぼろげな夢のようなものに過ぎなかったらしく、もうすっかり忘れたような様子だった。

 自分たちを守るために《獣》と戦ってくれた老婆には、一言あってしかるべきではないか、と老人はちらりと視線を向けたが、


「あそこさ。」


 老婆のほうも、もう何も気にしていないようで、自分の槍を拾ってから、あっさりと星の娘の言葉に応えて指をさした。


「ほれ、あの、滝の裏。あそこに洞窟があってね。あそこが妖精たちの棲み家だ。あたしたちが急に大勢で飛び込んできたので、警戒してるんだろう。」


「洞窟――」


 老人は不意に、ずっと前に聞いた物語を思い出した。


「確か、秘密の湖の洞窟には、緑色の竜が棲んでおるのではありませんでしたかな?」


「驚いたね。」


 老婆がぐるりと向き直り、幾分かの鋭さをこめた目で老人を見た。


「それは、あたしがまだ娘っ子だったころの話さ。どうして、あんたがそれを知っているんだい?」


「昨夜、わしらが遠くから来た、という話をしましたな。」


 老人は穏やかに言った。


「そこに、わしらの帰りを待っておる人がおるのです。その人は昔、この国にいたことがあった。かつて、この国でどんなことがあったか、その人が、わしらに話してくれました。あなたのことも、孫のオニユリさんのことも――緑色の竜と、青い竜のことも。」


「懐かしいね。」


 老婆は目を細め、どっかと砂の上に座り込んで、昔話をはじめた。


「そう、その頃、あたしは今のオニユリよりも小さな娘っ子だった。その頃は、あんたの言うとおり、緑色の竜が洞窟に棲んで、この湖を守っていた。――ほら、あそこをご覧。」


 老婆は灰色の岩壁のずっと上のほうを指差した。

 滝が流れ落ちてくる岩棚のふちにそって、その上に生えている植物の葉が垂れ下がっている。


「季節になれば、あそこに、たくさん赤い実がなるんだ。お茶に使う、ルビーの実がね。あんたたちも飲んだあのお茶も、ここの実を採って乾かしておいて、煎じたものだよ。あたしがこの湖への来方をよく知っていたわけは、そういうことさね。

 あたしは、師匠にあのお茶の淹れ方を習ってすぐ、ここにルビーの実を採りに来た。ここらあたりじゃ、あの実は、ここの崖の上にしか生えていないんだって、あたしはちゃんと知っていたからね。――ところが、あの緑色の竜ときたら! 意地悪をして、あたしを近づけようとしないのさ。あいつは、自分の親友の、青色の竜が、人間のせいで死んじまったと言って――」


 そこまで話して、老婆は急に立ち上がった。


「まあ、昔の話さ。あいつは、飛んでいっちまった。それっきり、ここの洞窟にも戻らないでさ。守り役のあいつがいなくなっちまったもんで、薔薇の女神様のおぼしめしで、ここに茨の壁がめぐらされた。

 あいつは、いったい、どこへ飛んでいっちまったんだろうね。今でも元気にしているのか、それとも……まあ、あたしの生きているあいだにあいつが戻ってくることは、もうないんだろうね。」


「帰ってくるわ!」


 老人が制するよりもはやく、星の娘が叫んだ。


「その竜さんは、帰ってくるわ、絶対に。この国を守るためにね。」


 老婆は驚いたように星の娘を見たが、それ以上、深くたずねようとはせず、ただ深くうなずいた。


「あたしも、そうあってほしいと願ってるよ。さあ、少し喋りすぎたね。妖精たちのところへ行って、話をしなけりゃ。」


 老婆はさっさと歩き出し、水辺を右回りにまわって岩壁に近付いていった。

 老人と星の娘は、その後にしたがった。

 砂浜が岸壁と突き当たるところ、ちょうど崖の真下まで来ると、老婆はそこに自分の槍を突き刺し、かわりに、砂の上に横たえてあった数本の細長い棒を束にして取り上げた。

 槍よりもずっと長いその棒は、長年の雨風にさらされて黒ずみ、持ち上げられると少しばかりしなった。


「ここに来たときは、いつもこれを使うんだ。ぼろに見えるだろうが、頑丈だよ。しなるが、折れやしないんだ。」


 老婆はそう言い、鋭い目で岩壁を見上げた。

 この位置に立てば、滝をほとんど真横から見ることができた。

 厚いカーテンのような水の膜の後ろに、壁面にあいた洞窟の入口があるのが分かった。

 洞窟の入り口は、ずいぶんと高いところにあり、大人の男を七、八人も縦に重ねれば、ようやく手が届くかどうかというところだった。


「あんたたちは、ちょっと、ここで待ってな。」


 老人と星の娘が目を見開いて見守るうちに、老婆は驚くべき離れ業をやってのけた。

 ふところからロープの束を取り出すと、その端をするすると引き出し、長い棒の束を自分の背中にくくりつけて担ぐ。

 あまったロープの束を肩に引っ掛けると、老婆は岩壁に両手両足でとりつき、蜘蛛のように崖を登りはじめた。

 崖の面には、多少の凹凸はあるものの、濡れて光り、滑りやすそうで、並の人間が指や爪先をかけることができるとは思われなかった。

 長年の仕事の中で培われた確かなわざで、老婆はゆっくりとだが着実に手がかりを見つけて斜め方向に岩壁を登り続け、あるところまで来ると、片手を離してだらんと垂らした。

 それから、その手で背中の棒を一本、するすると引き抜き、自分が今いる場所のわずかな岩の出っ張りに端をはめ込み、反対側の端を、滝に近付く斜め上方向の出っ張りに引っ掛けた。

 老人と星の娘は、その集中をそぐことを恐れて声をかけることもせず、老婆の動きをじっと見守った。

 斜めに渡された棒を幾度か押さえてみて、安定していると分かると、老婆は今度はその棒を足がかりにしながら、さらに速く崖を登っていった。

 棒の端まで来ると、片手だけで次の棒を引き出し、また斜め上方向に渡して、そこを踏んで登ってゆく。

 とうとう、老婆の姿が滝の裏側に入り込み、その骨ばった手ががっちりと洞窟の入口にかかった。

 老人と星の娘は、詰めていた息をほうっと吐いた。

 老婆はそのままの姿勢で、しばらくじっとしていたが、やがて一気に体を引き上げて洞窟の中に入り込み、姿を消した。


「すごいわ。」


 星の娘が、感に堪えないというふうに言った。


「ロッククライミングの技ね。あんなこと、大人の男の人にだって、できやしないわ。」


「ただ登るだけではなく、足場を設置しながらとはのう。」


 老人も、心からの感嘆を口に出した。


「まず並の人間にできるものではないな。普通は、はじめの一メートルを行かぬうちにドボンと落ちてしまうじゃろう。」


「もしかして、おばあさま、あたしたちに同じところを登ってこいって言うんじゃないかしら?」


 星の娘は不安げな顔になった。


「いくら何でも、こんなところを登れないわ。それに、あたし、泳げないの。湖に落ちたら、溺れてしまうわ!」


「わしも、登れないと思う。」


 老人は言った。


「だが、あのひとも、そんなことは期待しとらんじゃろう。あのひとが話をつけて、妖精たちのほうが、こちらへ出てきてくれれば――」


 そのとき、洞窟の入り口から老婆が顔を出した。


「おーい、あんたたち!」


 大きく手を振って、彼女は言った。


「妖精たちと、話がついたよ。今から、ひとり、そっちへ降りていくから、一緒に上がっておいで!」


 それだけ言って、老婆は引っ込んだ。

 しばしの間があって、今度は、美しい娘が姿を現した。

 娘が何ひとつ身にまとわない裸の姿であることに気付いて、星の娘は、まあ、と声をあげた。

 昨夜の娘に似ている、と老人は思ったが、確信は持てなかった。

 洞窟の入口に立った妖精の娘は、どこか憂いを帯びたような目でふたりを見下ろすと、目の前の滝に向かって腕を広げ、宙をかくような奇妙な身ぶりをした。

 すると激しい滝の流れから、大きな虹色の泡が生まれた。

 娘は泡の膜を破ることなく、その中に飛び込み、ゆっくりと砂浜のほうへ降りてきた。

 虹色の泡は湖の水面には触れず、砂の上に着くか着かないかのところで止まった。

 老人と星の娘を、妖精の娘は何も言わずに泡の中から見つめていたが、ややあって急に腕を伸ばし、膜を突き抜けてふたりの腕を掴んだ。


「何をするの!?」


 星の娘が鋭く叫んだが、妖精の娘の力は驚くほど強く、ふたりはたちまち泡の中に引き込まれてしまった。

 滝の音が少し小さく、くぐもって聞こえ、泡の中から見る景色は巨大なレンズを通したときのように歪んでいた。

 妖精の娘は一言も発さずに、洞窟のほうを見た。

 虹色の泡は、妖精の娘と、老人と星の娘を中にのせたまま、ふわりと砂浜を離れ、洞窟の入り口のほうへと浮かびあがっていった。

 滝をくぐり抜けるとき、星の娘が小さく息を飲む音が響いた。

 だが予想したような衝撃はなく、まるで霧の中を抜けるように何の抵抗もなしに、泡は洞窟の入口に着いた。


「わしも、この中には、初めて入ったよ。」


 先に着いていた老婆が、ふたりを出迎えた。

 妖精の娘が目で促し、老人は思い切って泡から踏み出した。

 入ったときと同じように、膜は破れることはなかった。

 一瞬、全身に水が吸い付くような奇妙な感覚があって、老人は洞窟の床を踏みしめて立った。




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