鎧を着た獣
星の娘を背負った老人は、遥かかなたの東の山脈に昇る太陽と、草原に続く眼下の川面のきらめき、大がえるのゲールの岩のような姿をしっかりと目に焼き付けてから、老婆の後について、ゆっくりと歩き出した。
老婆の歩調は、まるで景色を眺めながら散歩でもしているかのようにゆったりとしていて、ひどい寝不足の上に、星の娘を背負っていても、ついていくのに苦労するということはなかった。
三人は――ひとりは老人の背中でぐっすりと眠っているのだが――、今は誰もいないお茶屋のかたわらをすり抜け、林の中の小路をたどり、オニユリの小屋のすぐそばを通った。
あの白いオオカミ、雪の王がいるだろうか、と老人は思ったのだが、彼はどこかへ出かけているのか、姿を見せなかった。
「足元、木の根に気をつけな。」
老婆は呟くようにそう言って、まったく足取りを変えることなく進み続けた。
少しずつ、生えている木々の間隔がせばまり、透かし彫りの細工物のようだった頭上の梢は、次第に厚く重なりあい、空を完全に隠しはじめた。
落ち葉が降り積もり、腐ってできた豊かな土はふかふかとしていて、老人の脚にかかる二人分の体重をしっかりと受け止めてくれた。
その感触はまた、老人に昨夜のことを思い出させた。
(これは、あのとき踏んだ土の感触じゃ。旅人の後について、林の奥に迷い込みそうになったときの……)
昨夜は暗闇の中でほとんど何も分からなかったが、このあたりは植生のほとんどをまっすぐな幹を持つ背の高い広葉樹が占めていて、地面にはところどころにほんのわずかな木漏れ日を糧として生きているほっそりとした実生や下生えの植物が生えているだけだった。
あのときは、どれくらい進んだのかさえも測ることができなかったが、今、こうして薄暗いながらも光のある中を歩いてみると、実はそれほどの距離でもなかったのかもしれない、と思えた。
あのときは、果てのない長さを迷い歩いているような気がしたものだった。
本当の暗闇の中を進むとき、それに慣れていない人間の感覚は、まったくあてにならなくなる。
「ほれ、そこだ。」
「もう着きましたか?」
老婆が急に言ったので、老人は思わずそう答えた。
「馬鹿な、違うよ。あたしの小屋に着いたのさ。ちょっと寄っていくよ。必要なものがあるんだから。」
老婆の小屋は、大きな塚のように土が盛り上がった場所に、なかば土にめり込むようにして建っていた。
黒っぽい木で造られた小屋の、屋根の上から土をかぶせて塚のようにしてある、と言ったほうが、見た目の様子としては伝わりやすいだろう。
「ちょっと、そこで待ってな。」
分厚い木の扉を開けて、老婆は自分の小屋に入っていった。
老人は、爪先でちょっと地面を掘ってみて、だいたい乾いているようだと分かると、星の娘をそっと背中から下ろした。
子供の姿になった彼女は痩せていてとても軽く、おかげで背負って運ぶにも苦労が少なくてすむが、ここからどれほど歩かなければならないのかによっては、苦労が少ないなどとは言っていられない状況になるだろうと老人は思った。
小屋の扉が開き、両手で持ったお盆にいろいろなものを載せて、老婆が出てきた。
「まずは、この水を飲みな。」
ほんの少しの水が入った黒い焼き物の器を老人に渡しておいて、老婆は手早く彼らのまわりを囲むようにいくつかの香炉を並べ、そこに乾かした植物の葉を入れて火をつけた。
もうもうと煙があがり、老人は咳き込んだ。
器に入った水を飲むと、奇妙に甘く、痺れるような感覚があった。
「全部飲みな! 大丈夫、分量は加減してあるんだから。」
反射的に吐き出そうとした老人を、老婆が叱った。
彼女は煙を両手でかき集める仕草をして、それを自分の体や、地面に横たわっている星の娘の体になすりつけていた。
「これは何ですか?」
舌に残る甘い後味に顔をしかめながら老人は言った。
「それはね、水に、ある木の皮を少しばかり浸したものさ。もっと濃い液は麻酔に使うこともある。それを飲めば、少し頭がぼんやりするけど、そうでないといけないんだ。これから行く森を素人が抜けるには、どうしても、そうでなきゃならん。」
「この煙も、そういうものですかな?」
「いいや。これは、におい消しだよ。《鎧を着た獣》たちに気付かれにくいようにさ。わしひとりなら、こんなもんにも用はないが、なにしろあんたらは、今から初めてあの森を抜けるんだから。」
老婆はそう言い、老人の体にも煙をなすりつけた。
「その《鎧を着た獣》というのは――」
そこまで言って、老人は、自分の言葉が妙にこもって、遠くから響いてくるように聞こえることに驚いた。
酒に酔って眠り込む直前の感じに似ていた。
目を開けていても目の前の景色がぼんやりとしてきて、老人は慌てて頭を振った。
「その獣は、わしらを、食べますか?」
「ああ、気がつけば、そうするだろう。いいかね、奴らに出会ったらどうしようとか、怖いとか、余計なことを考えるんじゃないよ。頭を空っぽにして、何か見ても見なかったようにして、あたしについておいで。――ほら、あたしの背中を見るんだ。」
老婆は老人に背を向けて、自分の服の背に刺繍された、信じられないほど手の込んだ鳥の模様を見せた。
「あたしが先に立って歩く。あんたは、お嬢ちゃんを背負って、あたしの背中の鳥だけ見ながら、ついて歩いておいで。羽を一枚一枚数えるのでも、何でもいい、とにかく、この鳥だけを見て歩きな。いいね。さあ、立って。」
言われた通りに立ち上がろうとして、老人は自分の体が信じられないほど重くなっていることに気付いた。
ただでさえ、眠気が限界に近かったというのに、これではとても歩くことなどできない。
老人はふらつき、地面に座り込んだ。
そのまま、体を前に倒して額を地面につけ、目を閉じようとした。
「駄目だ、駄目だよ! 目を開けるんだ、ほれ。」
背中を叩かれ、嫌々ながら目を開けると、視界いっぱいに黒ずんだ落ち葉が見えた。
「あんたなら、出来るよ! 師匠がそう言ったんだから。ほれ、目を開けろ! 体を起こして!」
老婆はふらついている老人の上体を強引に起こすと、肩をつかんでがくがくと揺さぶった。
「あんたが、お嬢ちゃんを連れて帰ってやるんだろうが! こら! 根性見せろ!」
ふと老人の脳裏に、黒髪の若者を引きずり起こしながら毒づいているオニユリの姿がよみがえり、ああ本当にそっくりだ、と感じて、笑いが込み上げてきた。
「ええい、何を笑ってんだい、気色悪いね。さあ、立って!」
老人がやっとの思いで地面から尻を離して立ち上がると、老婆は軽々と星の娘を抱きあげ、老人の背中におぶさらせた。
「あたしが抱いていってやったほうが、はやいだろうが、」
と、老婆は言って、いつの間にか手にしていた槍の柄をしごいた。
その槍は、オニユリのものよりも握りが太く、少し短いようだったが、穂先は冷たい銀色に輝き、どんなものでも串刺しにしてしまいそうだった。
「何かあったときには、あたしが食い止めなきゃならんからね。いいかい、ここからは、何があっても一言も喋るな。――いいね、一言も、喋るんじゃない! さあ、行くよ!」
老人は、老婆の後に続いて歩き出した。
先ほどまでとは比べ物にならないほど、足が重く、ただ一歩を前に出すのに何十秒もかかるような気がした。
若い頃に読んだ、兵士たちの訓練の様子を書いたルポタージュの内容が、老人の頭の中をぐるぐると回った。
若い兵士たちは重い装備を担いで夜通し山の中を歩き、あまりの疲労に、歩きながら眠ってしまい、小川を渡るときに橋の手すりを踏み越えて川に落ちる者までいた――という話だ。
水を詰めたボトルをバラストとして荷物に詰めておくのだが、あまりのきつさに、上官にばれないよう荷物の中のボトルの蓋を緩め、少しずつ水をこぼして荷物を軽くしていった、という話もあった。
(じゃが……わしの場合には、少しずつこぼしていく、なんて技は、使えんからな……)
軽いと感じていたはずなのに、今は鉛の人形のように重い星の娘の体を、老人は歯を食い縛り、しっかりと背負い直した。
ともすればぼんやりと霞みそうになる視界の中央に、老婆の背中にある鳥の刺繍があった。
赤い布地の上に、色とりどりの糸でぬいとりされた鳥は、大きく翼を広げ、首を伸ばして足をたたみ、今まさに天空をゆく姿でそこにいた。
老婆の足取りに合わせて、鳥の姿は微妙に動き、まるで本当に生きてそこに飛んでいるように見える瞬間があった。
周囲の植生は少しずつ変わり、背の高い広葉樹の森に、もっと背の低いねじれた木々がまじりはじめ、周囲はいよいよ暗く、鬱密としてきた。
ごつごつとした大きな岩があちこちに見え、その表面を、複雑な色をした苔やつる植物が覆っている。
奥へ奥へと進むにつれて、岩はますます大きくなり、見上げるほどに巨大なものもあらわれはじめた。
空気に湿り気が増し、密度が濃くなり、重くなったように感じられた。
つんと鼻をつくような、獣のにおいがしてきた。
羽虫が飛び交い、這う虫が木々の幹や地面にうごめいている。
中にはちらちらと弱い光を放つものもいて、辺りの景色はもう影絵のようだった。
老婆は歩き続け、老人は星の娘をおぶって、その後についていった。
老人の頭の中では、小川に落ちる兵士たちの話がさっきからずっと繰り返し回っており、その目には、老婆の背にある鳥の姿だけが映っていた。
そのとき、不意に、目の端で何かが動いたような気がした――左の真横、少しばかりの木々を隔てたところで、小山のような灰色の何かが。
老人は、そちらに目をやることはしなかった。
黙々と歩き続けるうちに、そういう巨大な動くものが、幾度も眼に入るようになった。
目の前を、巨大な岩山がふさぎ、老婆は黙って進路を逸れ、迂回した。
老人はその後についていった。
ごうっと生温かい風が起こり、苔をまとった岩山が、動いた。
それは、巨大な巨大な熊に似た獣で、背中から腕にかけてを古錆びて苔むした鎧で覆い、体を丸めて眠っているのだった。
黒ずみひびわれた爪は一本が人間の体よりも大きく、指の毛にも灰色がかった緑の苔がついていた。
恐慌をきたして喚きだしても不思議ではないところだったが、老人は奇妙に冷静にその側を歩いて通り過ぎた。
これが《鎧を着た獣》たちなのだ。
彼らがこの森に棲むことで、秘密の湖への道は守られている――
あちこちに、枝から枝へと張り巡らされたクモの巣が目立ちはじめた。
巣を織りなす糸には、水晶の粒のようなしずくが無数についており、巣の中心に座り込んでいるクモたちは、どれも宝石のように輝く体をしていた。
老婆は慣れた様子でひょいひょいと身をかがめ、クモの巣を破らぬように通り抜けていった。
老人は、老婆の動きをそっくりまねて、そのすぐ後をついていった。
遥か上のほうで、高く澄んだ鳥の鳴き声が響き、羽ばたきの音が聞こえた――
翼にうたれた枝が揺れ、ばらばらっと水の粒が落ちてきて、老婆と老人の頭上に降りかかった。
老人の背中でぐっすりと眠っていた星の娘は、頬をぱたぱたと冷たいしずくにうたれて、うっすらと目を開いた。
彼女の目に映ったのは、自分を背負っている老人の肩と、見たこともない暗い森の風景と、巨大な巣の中心に居すわった、腹の大きさが子供の頭ほどもある光るクモの姿だった。
彼女は、ひゅっと息を吸い込み、絹を裂くような悲鳴をあげた。
老人は飛び上がり、老婆が振り向いた。
彼女たちのほとんど真横で、岩の壁のように見えていた場所にカッと一条の亀裂が走り、らんらんと光る巨大な赤い眼が一同を睨みつけた。
「あっちだぁ! 走れぃ!」
老婆の槍の穂先が一瞬、ひとつの方向を示し、次の瞬間にはぶうんと唸って回転した。
眠りを破られた岩壁のような《獣》が巨体を揺すって地面から起き上がり、咆哮をあげた。
「茨の扉へ向かって走れ!」
と、と、とーんと老婆の小柄な体が枝を蹴って宙へと駆け上がり、巨大な《獣》の鼻先を槍の石突きでぶっ叩くのが見えた。
《獣》が怒り狂って腕を振り回し、草刈り鎌のように木々の枝を薙ぎ払って振り飛ばす。
「走れっちゅうとるだろうが、このボケェ!」
老人ははっと我に返り、背中でまだ叫び続けている星の娘には構わず、老婆が指した方向に向かって猛然と駆け出した。
湿った根がぐねぐねと地面に盛り上がっていたが、それを踏んで滑っても、転ぶ前に次の一歩が出て走り続ける。
命の危険に直面したことで、眠気も疲労も一度に吹っ飛び、歳からは信じられないような動きができた。
やがて目の前に、黒い柵のようなものが見えてきた。
腕ほどの長さがありそうな無数のとげを生やした、太い茨の枝が絡み合い、こちらと向こうとを隔てる壁となっているのだ。
(茨の扉――!?)
通り抜けられそうな場所はどこにもなかった。
もう少しで、あのとげだらけの壁に頭から飛び込んでしまう。
だが、勢いがつきすぎて止まれなかった。
背後でめりめりと生木が裂ける音がした。
止まれば転んで追いつかれ、《獣》に食われてしまうだろう――
「開けてくれえーっ!」
老人は、目を閉じて叫び、叫びながら、黒い茨の壁に突っ込んでいった。




