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庭の王国への旅  作者: キュノスーラ
庭の王国
16/28

長老

 旅人は、林をやや奥まで入ったところで、息をはずませて立ち尽くしていた。


「見えなくなった。」


 彼は呟き、あたりを見回した。


「このあたりに、いたと思ったのだが。」


「おそらく妖精か、魔女か、そういったひとでしょうな。」


 老人は、今の娘の正体につながりそうな物語をターミナルで聞いたことがなかったか思いだそうとしたが、だめだった。


(あの輝くひとは、よい心を持つものか、それとも悪意を持つものか? この林の奥にはいったい何があるのじゃろう? アウローラくんは、オニユリさんの茶屋のことはよく話しておったが、この林の奥のことは、何も言ってはおらんかった。)


 その場に立って、なおもあたりを見回していた旅人が、あっと声をあげた。

 ぼんやりと赤みを帯びて輝く裸の姿が、遠い木々のあいだに見えた。

 彼女はじっとこちらを見ていたようだったが、視線が合うとたちまち長い髪をひるがえして逃げ出した。

 旅人はものも言わずに駆け出し、老人は慌ててその後を追った。

 娘のふるまいが、こちらに興味を持ちながら恐怖を感じていることによるものか、それとも、わざと誘い寄せようとする罠か、どちらとも判断がつかなかった。

 闇が深くなり、足元も、行く手もまったく見えなくなって、老人は立ち止まった。

 頭上には木々の梢が重なり、もはや月や星の光は届かなかった。

 靴の裏に伝わる感触から、足元は長年のあいだ落ち葉が積み重なってできたふかふかの腐葉土に覆われていることが分かった。

 老人はこれまで走ってきた方を振り返った。

 かがり火のあかりと思しき、かすかな赤い光が重なり合う黒い木々のあいだに見えた。

 楽器の音は、今や遠く、かすかにしか聞こえなかった。


「おーい。」


 姿を見失ってしまった旅人に向かって、老人は呼びかけた。

 返事はなかった。

 老人は繰り返し呼びかけながら、闇の中をあちらこちらと見渡した。

 闇に目が慣れ、近いところにある木々の影がほんの少し見えるようになったが、それ以上は無理だった。


「おーい!」


 周囲に目を凝らし、四方を向きながら呼びかけるうちに、老人は、ぎょっとして動きを止めた。

 闇の彼方に、ぼうっと赤っぽい光が灯っている。

 だが、その反対側にも、同じような光が見えた。

 どちらかは、人々が集まっているかがり火の光のはずだった。

 では、いまひとつは?


(あの娘じゃ。)


 老人は目を剥いて、遠いふたつの光を必死に見比べた。

 いまひとつは、奇妙な裸の娘がその身にまとっていた輝きに違いなかった。

 もしも彼女についていけば、この夜の闇の中で、林のもっと奥深くまで連れ込まれてしまうだろう。

 戻らなくてはならないが、いったいどちらが祭りのかがり火の光なのか、遠すぎて区別がつかなかった。


(まずい。)


 老人は目を閉じ、耳に全神経を集中して、ほんのかすかに聞こえてくる祭りの音がどちらから来るのかを聴きとろうとした。

 だが、だめだった。

 右かと思えば、今度は左から聴こえる気がする。

 左へ行こうとすれば、いや右から聴こえてくる、という気がする。

 老人は、立ち尽くした。

 もう、音は四方八方から聴こえてくるような気がした。

 恐慌に陥り、思わずやみくもに走り出しそうになったとき、だしぬけに、山で遭難したときはどうすればよいかということについて話す孫の声が、耳の奥によみがえった。


『まずは、落ち着いて、ばたばたしねえことが肝心なんだってよ。』


 と、孫のヘリオスは言っていた。

 彼はここのところ、地上の山によく登っていた。


『道迷いに気付いたときは、とりあえず深呼吸でもして落ち着いて、あそこの分岐で間違えたな、って確信できるポイントまで、引き返すことだ。そのまま勘で突き進むってのが、一番よくねえ。

 そしてな、元来た道も踏み痕も分からねえ、もう、いよいよどうにもならねえ、って時は、その場にじっとして、動かねえことだ。そうやって救助を待つのが鉄則なんだってよ。怖いと、ともかく動きたくなるもんだが、慌ててあちこち動き回れば、余計に迷ってどうにもならなくなる。動かねえ勇気を持つことが、早期発見、救助につながるんだ。――まあ、全部、本からの受け売りだけどな。』


 老人は、走り出したくなる気持ちを抑えて、その場に突っ立ち、胸いっぱいに息を吸い込むと、


「おーい!」


 両手をらっぱにして、こんかぎりの大声で叫んだ。


「おーい! おーい! 誰かあ! ここじゃ! おーい!」


 そのとき、急に、何かが老人の腰の後ろに触れた。

 あまり突然だったので、老人はうおっと叫んで飛び上がり、反射的に拳をかためて振り回した。

 だが、拳は何にも当たらなかった。


「何をするんだい、危ないね。」


 しわがれた、老婆(・・)の声がした。

 息を荒らげて振り向くと、目の前の闇の中に、小さな黒い影がわだかまっていた。


「これより奥は危ない。祭りの輪に戻りな。さあ、来なさい。」


 有無を言わせぬ力強さで手が握られ、一方の光のほうへと引かれた。

 強引ではあったが、その手つきや言葉には不思議な威厳と説得力があり、正体は分からずとも、危険は感じなかった。


「いや、あの、」


 老人は、切れ切れに言った。

 いきなり触られたときには、心臓が止まりそうになったが、最初の驚きを乗り越えた今、鼓動は胸が痛いほどの速さで打っていた。


「もうひとり――あと、ひとり、いますのじゃ。旅人の姿をした、若者。ふたりでこちらに来たのですが、はぐれてしまって――」


「やれ、祭りの夜には、よくあることさ。こんなこともあろうかと、祭りに加わるのを、待っていてよかったよ。あんたは、先にあっちへお戻り。」


 強い手が老人の手を握り、その指先を伸ばさせて、ひとつの光のほうへ向けた。


「ほれ、あの光だよ。そうやって、指先をまっすぐに伸ばして、いつも爪の先にあの光を乗せるようにして、ゆっくり歩いて行きな。そうすれば、皆のところへ戻れる。」


「あなたは、一体……」


 老人は戸惑って言った。

 老婆だと、声の質で直感したが、暗いために姿がはっきりと見えない。

 ただ、とても背が低いことは、声の聞こえ方と手の動きで分かった。

 そして、その話しぶりは、どことなく別の誰かを思い出させた。


「あたしが、もうひとりを見つけてきてやるよ。先に戻っていな。話は、あとで、光の中でゆっくりしようじゃないか。」


 もう一度、念を押すように老人の指先をしっかりと光のほうへ向けさせて、その人物はぱっと手をはなし、驚くほど身軽なすばやい足音を残して、闇の中へ消えていった。

 老人は、言われた通りに、小さく見える光を爪の先から離すことなく歩いていった。

 本当にこちらで正しいのかという不安はあったが、それを抑えつけ、ゆっくりと深い息をつきながら進んでいった。

 やがて、はっきりそうと確信できるほどに祭りの音楽が近くなり、炎のゆらぎと、跳ねまわるように踊る人々の影が見えてきても、老人は走ることなく、教えられた通りに指をまっすぐに突き出して、歩き続けた。


「おじいさま!」


 人々の輪の中から、ぱっと星の娘が飛び出してきて、笑いかけた。

 彼女は、自分で編んで作った花輪を頭にのせ、首にもかけていた。


「どこにいっちゃったのかと思った。ねえ、こっちに来て、いっしょに踊りましょう。オニユリさんもいるわ。すごく踊りがうまいのよ! ――あら、どうしたの?」


 緊張が解けて思わず座り込んでしまった老人を心配し、星の娘はテーブルのほうへ走っていくと、お茶の入ったカップを持って戻ってきた。


「大丈夫? 気分が悪い?」


「いや、――いや、大丈夫じゃ。」


 一口、二口とお茶を口に含み、老人はようやく人心地を取り戻した。

 そこへ、足取りも軽く踊りのステップを踏みながら、オニユリがやってきた。


「やあ、楽しんでるかい? あれ、どうした? 顔色が悪いじゃないか。」


「もう大丈夫ですわい。」


 老人は立ち上がり、自分の頬を擦った。


「いや、久々に、肝が冷えました。つい今しがた、あっちの、林の奥に迷い込みそうになりましてな。」


「えっ。」


 オニユリは驚きをあらわにした。


「夜にあっちに行くのは危ないよ。だいいち、真っ暗だろう? どうしてまた、あっちに行こうなんて思ったんだい?」


 老人は、若い娘たちの前で多少気恥ずかしい思いをしながら、暗い林に踏み込んだいきさつについて話した。


「裸の女か。」


 驚いたことに、その話は、オニユリにとっては特に驚くべきことではなかったようだった。


「そりゃ、きっと、湖の妖精のひとりだな。ときどき夜に姿を見ることがあるよ。」


「大変だわ。」


 一方で、星の娘は目を見開いている。


「旅人さんを助けに行かなくちゃ。ひとりで迷ってしまっているんでしょう?」


「それがのう。」


 老人は、オニユリを見つめながら言った。


「わしを助けてくれたひとがいたんじゃ。歳とった――そう、わしよりも歳上のように思うたが、女のひとで、わしの手を取って、こっちへ進むようにと教えてくれたんじゃ。そのひとは、自分がもうひとりを見つけてきてやるから、先に戻っているようにとわしに言った。そしてな、その人の話し方なんじゃが、どうも、オニユリさんに似ておったような気がしてな。」


「ああ、それは、あたしのばあちゃんだ。」


 オニユリはこともなげに言った。


「ばあちゃんは、夜でも、あの林の中を迷わずに歩ける。だって、林の奥に住んでるんだからな。

 あのへんには色々な連中がうろついてるが、誰もばあちゃんには手出しできないよ。何しろ、ばあちゃんを怒らせたら――」


「これ。」


 こつんと音がして、オニユリが顔をしかめ、頭を押さえた。


「痛っ。あ、ばあちゃん。」


「よう。」


 ねじれた杖をひょいとあげてみせたのは、ほとんど直角に近いほど腰の曲がった、小柄な老婆だった。

 炎よりも鮮やかな赤の布地に、びっしりと草花模様を刺繍した服を着て、灰色の髪をオニユリと同じ髪型に束ねていた。

 彼女は老人を見上げ、にやっと笑った。


「無事に戻れたようで何よりだよ。あんた、明るいところで見るほうが、いい男だね。」


「ばあちゃん、そんなことより、もうひとりのお客さんはどうなったんだよ。ばあちゃんが連れて戻るって話だったんじゃないのか。」


 オニユリがもどかしそうに言った。

 老婆はひとりで、あたりに旅人の姿はなかった。

 彼女は小さく肩をすくめた。


「あの若者は、湖へ行った。妖精に誘われてね。あとをつけて見届けたから、間違いないよ。――なあに、危ないことはない。あれはつまり、俗にいう一目惚れというやつさ。止め立てするのも、無粋な話さね。大丈夫、一晩過ごせば、自分で目が覚めて戻ってくるよ。」


「まあ。」


 星の娘は、複雑な顔をして、それだけ言った。

 そうやって話しているうちに、老婆の姿に気付いた人々が、次々にやってきた。


「長老、こんばんは!」


「よく晴れて、祭りにはよい夜で。」


「この前はありがとうございました。おかげさまで、うちの者の具合も、すっかりよくなりまして。」


「家畜小屋の虫封じ、またよろしくお願いしますよ。」


 誰もかれもが、老婆に敬意をもって挨拶していくのを見て、老人は驚き、訊ねた。


「あなたが、このあたりの長なのですか? それに、医師や獣医師のようなこともなさっているようですな。あなたは、魔女なのですか?」


「なに、長などというものではないさ。ただ、このあたりで一番、歳をくっているというだけのこと。」


 老婆は片手を振り、何でもないように言った。

 その動作や言い方は、孫のオニユリと、鏡に映したように同じだった。


「魔女なんて大層なものではないよ! あたしは、魔法なんてものとは縁のない、ただのばばあさ。けれど、長生きしてきたぶん、人よりちょっぴり多くは知っている。そう、医学や薬草の知識にかけては、ちょっとしたもんだよ。

 あたしは、あたしの師匠や他の魔女たちのように、世界の成り立ちのことやなんかは知らない。だけど、このあたりの土地のことなら、一番新しい獣道のことだろうと、一番ひよっこの薬草の株のことだろうと、あたしの知らないことはないよ。」


「その土地の気脈に通じた古老の知識ほどに貴いものは、他にあまりありますまい。」


 老人は言い、頭を下げた。


「妖精のあとをつけて、その住む場所まで歩いて行きつくなんて芸当ができるのは、魔女たちでなければ、あたしのばあちゃんだけさ。」


 横から、オニユリが自分のことのように誇らしげに言った。


「林の奥は危ないんだ、特に夜にはね! 奥は森になっている。影の森だ。そこには、鎧を着た獣たちがうろついていて、何も知らずに迷い込んだよそものは、あっという間に喰われちまう。ばあちゃんは、獣たちに気付かれずに歩く方法を知ってるんだ。影の森のずっと奥に行けば、秘密の湖があって、妖精たちが住んでいるっていうんだけど、あたしだって、この目で見たことはまだない。」


 興奮したオニユリの話の中から、老人と星の娘は同時に、ある言葉に気付いて、顔を見合わせた。


「鎧を着た獣――?」


「秘密の湖ですって?」


 ふたりの脳裏に、老人がロスコーの森で星の娘に語ってきかせた、黒髪の若者の物語の一節があざやかによみがえった。


『そして彼は旅立った。鎧を着た獣たちのうろつく影の森を抜け、秘密の湖の妖精たちの助けを受け、鷲たちの襲いかかる切り立つ峰に登り、その頂上で、薔薇の城の鉄壁の守りである大蛇と戦った――』


「それじゃあ、この林の奥にある秘密の湖に行けば、そこから、薔薇の女神様がいらっしゃるお城に行くことができるのね?」


 星の娘は、今聞いたことがとても信じられないというように目を見開いて言った。


「おや。」


 老婆の視線が鋭くなった。


「あんたたち、薔薇の城に行くつもりなのかい?」


「はい。」


 星の娘が何か言うよりも早く、老人が答えた。

 老婆の視線が老人に移った。

 歳経た獣のように深く、恐ろしくさえある目つきだった。


「あんたたち、見たところ、よそから来た人間だろう。あんたも、お嬢ちゃんも、この国の者じゃないね。それなのに、どうして薔薇の城へ行こうとするんだい? あの場所には、この国の者でさえも、めったなことでは行かないんだよ。」


「あなたは?」


「あたしが? ――行くもんかね! あの城は、神聖な場所さ。この国の根。大切なんだ。いや、分かってる、あんたたちの言いたいことは。このあたしに、秘密の湖まで案内をしてくれと言いたいんだろう? その先にある、城への道を見つけるために。

 いや、いや、駄目だ! あんたは、自分の心のいっとう深くにある大切な思い出のことを、そこらの人間にぺらぺら喋ってみせるかね? 教えられないよ。あそこは、有名な建物を見るような気分で気軽に行くような場所じゃないんだ。」


「そんな気軽な気分でならば、わしらとて、こんな厚かましいお願いはしませんわい。」


 老人はいささか語気を強めて言った。


「薔薇の城が、あなたがたにとって神聖な場所であることはよく分かっております。――そう、こんな言い方が許されるのならば、わしらの方が、あなたよりもよく知っているかもしれませんぞ。

 おっしゃる通り、わしらはよそ者。この王国の外から参りました。外といっても、ただ道を歩けば行き着くのとは違う、遠い遠いところから。そしてわしらは、来ることはできたが、帰る方法を失ってしまったのです。わしらが帰る道を見出すためには、おそらく、薔薇の城に行くしかない。」


 老人は、熱っぽく話しながら、翼持つ騎士エレクトラの言葉を思い出していた。


『これまで、あの場所に至ったことがある者は、薔薇の城に住む者を除けば、この私だけだ。だが、君たちはおそらく、あの場所を見つけるだろう。』


 遠い昔、一の女王と呼ばれていた黒髪の少女が、庭の王国をはなれて旅立った地――遥かな高みにあるという《天空の庭》。


(つまり……その場所へ行けば、もとの時空へと帰る道がある。かつて、アウローラさんは、その道を通って戻ったのじゃから……)


 薔薇の城を訪れ、《天空の庭》へと至る道を授かることこそ、今の彼らに与えられた、帰還するための唯一の選択肢だった。

 ここで引き下がるわけにはいかない。

 老人は自分よりもずっと背の低い老婆と向き合い、はっしと睨み合った。

 言葉の応酬はないが、歴戦の剣士が視線で互いを牽制しあうように、張り詰めた空気が流れた。


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