鳥の魔女からの伝言
野菜が植えられている場所を踏まないように注意深く歩いて〈石段〉の出入口の側を通り過ぎ、崖のふちのところまで進み出ると、眼下にはごうごうと音を立てる〈流れたり流れなかったりする川〉があった。
「ああ、今は、流れているときですわね。あそこに、大がえるのゲールさんが座っていますわ。」
星の娘はそう言って、向こう岸に戻った大がえるの姿に手を振ったが、大がえるはじっと座ったまま、何の反応も見せなかった。
「番人の男の子はどこかしら。小屋の中で休憩中かしら――まあ、おじいさま、あれ!」
星の娘は急に目を丸くして、斜め上の方を指差した。
それは川を渡り、草原を越えた先、ロスコーの森の方だった。
そこには森の緑から抜きんでて高くそびえる大樹の姿があったが、まるで緑の大屋根のように広がったその梢のあいだに、きらきらと光る金色の温室のようなものがあるのを彼女は見たのだった。
その建造物は、ここまで遠ざからなければ見ることができないほど、大樹の遥か上のほうに築かれていた。
「いったい、何でしょう? あんな巨大な樹の上に建物があるなんて、本当に不思議なことですわ!」
「あれはな、庭の王国の天文台じゃよ。天文学者が住んでおる。ここからでは茂った葉に隠れて見えんが、その少し下には、王国軍の見張り台があるはずじゃ。
あの大樹に天文台と見張り台を建設するにあたって、天文学者と王国軍の連中はひどくもめたという話じゃよ。つまり、どちらが、より高いところに陣取るかという問題でな。」
「まあ。それでは、天文学者さんが言い勝ったということですの?」
「彼はこう言ったそうじゃよ。『私は星々の動きを見張る。あんたがたは王国の敵の動きを見張る。私のほうが、ずっと高いところを見張らなければならないんだ!』――この一言で、みな納得し、天文台のほうが上に設けられることになったそうじゃ。」
「確かに。」星の娘は頷いた。「とても理にかなっていますわ。」
星の娘はもう一度、興味深く天文台のきらめきを眺めた。
そうしているうちに、彼女は、やや下の方にもうひとつ不思議なものがあるのを見つけた。
はじめは、それが老人の言った〈見張り台〉だろうかと思ったのだが、どうもそうは見えなかった。
とても遠くにあるそれをよく見ようと、星の娘は目を細めた。
それは、どうも、一軒の小屋のように見えた――何もない空中に、小屋が浮いている、などということがあるとすればだが。
「おじいさま?」星の娘は、自分の見ているものに自信が持てず、いくらかあやふやな調子で言った。「あれは――」
だが、次の瞬間、彼女は言葉の続きを飲み込んでしまった。
遠い視線の先で、宙に浮かんだ小屋の扉が急に開き、そこに、黒い人影のようなものが見えたと思うが早いか、その人影がぱっと空中に飛び出したからだ。
あっと言う間も、目を覆う間もなかった。
だが、そのおかげで星の娘は驚くべき光景をその目で見る機会を失くさずにすんだ。
黒い人影は石のように空中を落下し、その半ばで、突然重力の糸から解き放たれたように、ひゅうっと舞い上がったのである。
目と口とを丸く開けて星の娘が見守るうちに、黒い人影はきりきりときりもみ回転をしながら宙に無限記号を描き、それから、弾丸のようにこちらにすっ飛んできた。
それがどうやら人間の姿をしている、と星の娘が見てとったときには、
「どけ、どけーっ!」
乱暴な怒鳴り声と共に人影が突っ込んできて、ざあっと畑の土の上を滑るように着地した。
星の娘はとっさに腕をあげて顔をかばったが、体じゅうに土と、ちぎれとんだ野菜の葉の切れ端を浴びるはめになった。
「まあ! なんてこと。」
腕を下ろした星の娘は、思わず叫んだ。
「オニユリさんの畑がめちゃくちゃ!」
「うるさい! 何だよ、おまえら? おまえらがそんなところに、ぼうっと突っ立ってるから、もう少しでぶつかりそうになったじゃないか! 謝れ!」
いきなりそう怒鳴ったのは、空中から飛び込んできた人物だった。
見れば、それはオニユリとほとんど歳が変わらないような娘で、手に真っ黒な長い杖を持っていた。
彼女は、それにまたがって飛んできたのだ。
彼女は袖のない黒い衣を着、両腕にたくさんの金の輪をはめていた。
きつい顔立ちを取り巻くように、じゃらじゃらと金の耳環や首飾りをつけ、高い位置でひとつにくくった黒髪にも、金の飾りがつけてあった。
「ええ、そうですわ、あたくしたち、ただここに立っていましたの。そちらが、いきなり、暴走牛みたいに突っ込んでいらっしゃったのよ。」
星の娘は、きっとして言った。
「ですから、謝るとすれば、そちらからじゃありません?」
「うるさい! おまえら、何だよ?」
黒い衣の娘は、地団駄を踏むようにして叫んだ。
「あたしは、オニユリに伝えることがあって来たんだ。おまえらなんかに用はないんだよ!」
「こちらこそ、あなたみたいに礼儀のなってない方に用なんかありませんわ。いきなり飛び込んできておいて、人を怒鳴りつけるなんて、なんて不躾なんでしょう!」
星の娘がそう叫び返すと、黒い衣の娘は顔を真っ赤にして口を開け閉めした。
「こっ、おっ……おまえらなんか、あたしの魔法で、はげちょろけのカラスに変えてやる! あたしは、魔女なんだぞ! 謝るなら、今のうちだぞ!」
「ああ。」それまで黙っていた老人が、急にぽんと手を叩いて言った。「では、あなたが、鳥の魔女といわれているお人じゃな? 杖にまたがって空を飛び、その速いことは、どんな翼の強い鳥にも負けぬと。」
「そ、そうだ!」
黒い衣の魔女は、勝ち誇ったように叫んだ。
「あたしが、鳥の魔女だ。あたしに逆らうと、はげちょろけのカラスに変えちまうぞ!」
星の娘は、いくらかひるんだが、老人はにこにこしたままだった。
「はて、あなたの魔法は、空を飛ぶことだけと聞いておりますがのう。ものの姿を変えることは、専門外ではありませんかな?」
黒い衣の魔女は、ぐっと言葉に詰まり、顔を青くしたり赤くしたりした。
「もちろん、そのぶん、空を飛ぶことにかけては王国一の腕前。」
老人は穏やかに言葉を続けた。
「ですから、御自身の持つ力にふさわしく、そのように慌てて物を言ったりなさらずに、悠然と構えておかれるのがよろしかろう。砂漠の魔女どのも、きっと――」
「お、お、お、おまえ。」
その名を聞いた瞬間に、鳥の魔女はあっという間に真っ蒼になった。
「あの人を知ってるのか!」
魔女は急に、気の毒なほど慌てふためいて後退り、杖にまたがって逃げ出そうとした。
「待って!」星の娘は思わず叫んだ。「オニユリさんに、伝えることがあったのではなくて?」
「明日、東風が来るっ!」
それだけ叫んだ時には、鳥の魔女の姿はもう、突風に吹き飛ばされた枯葉のように遠ざかっていた。
星の娘は、鳥の魔女が豆粒ほどの大きさになるまで一直線に飛び、彼女の小屋に逃げ戻って、急いで扉を閉めてしまうまで、呆れて見送っていた。
「まあ、なんて、おかしな娘でしょう!」
星の娘は、ようやく言った。
「急に来て、文句を言ったかと思ったら、もう行ってしまいましたわ。砂漠の魔女さんの名が出た途端に、とても怖がっていたけれど、なぜかしら。それに、明日、東風が来るって、何のことかしら?」
「おーい!」
そこへ、ちょうどオニユリが走ってきた。
星の娘が、つい今しがたの出来事をすっかり話して聞かせると、オニユリは大笑いした。
「あいつらしいよ! あのクローテは、王国で一番若い魔女なんだ。魔女には珍しく、見た目のままの歳で、あたしと同じくらいだよ。あいつは、初めて会った人と話すのがすごく苦手だからさ、思いがけずあんたたちと出くわして、恥ずかしかったんだな。」
「砂漠の魔女さんのことを、ひどく怖がっていましたわ。」
「だって、あの人は、クローテの大師匠だからさ。――そうだ、あいつが来たってことは、あたしに何か用事があったはずだよ。何か言ってなかったかい?」
「『明日、東風が来る』って。」
星の娘がそう言うと、オニユリの顔がぱっと輝いた。
「そうか! あいつの風読みは、間違ったためしがないんだ。なら、明日には、あの人たちが帰ってくるぞ!」
「誰ですかな?」
「どなたですの?」
ふたりは同時に訊いた。
「翼の騎士たちさ!」
オニユリは今から待ちきれないというように、そう叫んだ。
「騎士たち?」
星の娘は、不思議そうにそう繰り返した。
「そうさ。」オニユリは誇らしげに言った。「この王国の空を守る騎士たちだ。騎士といっても、馬に乗るんじゃない。翼に乗って、空を飛ぶんだ。」
「ああ。」
星の娘はやっとそう言ったが、翼に乗って空を飛ぶ騎士というものの姿をはっきりと思い浮かべることはできなかった。
戦闘機のパイロットのようなものかしら、と彼女が考えているうちに、オニユリは両手を打ち合わせて叫んだ。
「そうだ、忘れるところだった。あたしはここに、晩飯の材料を採りに来たんだよ。」
オニユリはそのあたりを歩き回って、目ぼしい根菜を二、三本引き抜き、それらを小脇に抱えたまま、腰からナイフを抜いて手際よく青菜を刈り取っていった。
ふたりは感心したようにその早業を眺めていたが、やがて同時に我に返り、慌てて手伝いを申し出た。
「晩飯の準備には、まだ、もう少しかかるけど。」
老人に根菜を一本と、星の娘に青菜の束をいくらか渡しながら、オニユリは言った。
「そろそろ、こっちに戻ってきといたほうがいいかもな。もうすぐ日が沈む。暗くなる前に、眠る練習をしといたほうがいいと思って。」
「眠るのに、練習が必要かしら?」
星の娘が驚いて言うと、オニユリは頭をかいた。
「いや、あたしは慣れてるから大丈夫だけど、慣れてないと、落っこちるかもしれないからさ。ずいぶん前に、兄貴が初めてうちに泊まったときは、絡まってぐるぐる巻きになっちまって、大変だったんだ。」
「落っこちる? それに、ぐるぐる巻きですって?」
「――オニユリさんの家では、寝る時に、ハンモックをお使いなのですな。」
謎の老人がそう言って、星の娘の疑問を解決してくれた。
「ハンモック? あたしは『ゆりかご』と呼んでるけどね。あたしのばあちゃんも、そう呼んでたからね。――よし、これで晩飯の材料はそろった。行こう!」
一同がつれだってお茶屋に戻ると、旅人はあいかわらず焚火のそばで服の乾き具合をみていた。
オニユリは「すぐ済むよ。」と呟くと、水がめから汲んだ水で野菜を洗い、ナイフで器用に皮を剥き、ざくざくと刻んで鍋に放り込んだ。
「これでよし。それじゃお客さん、あんたも、ちょっと来ておくれ! これから、寝床の説明をするからね。」
オニユリがそう言うと、旅人は生乾きの服をもう一度広げ直し、黙って立ち上がった。
オニユリは一同を店の裏手に案内した。
林の中を抜ける細い道をたどって行くと、黒っぽい板で造られた、お茶屋と同じくらいの大きさの小屋が見えてきた。
その側には、小さな緑色のテントが張ってあった。
「あのテントが、あいつの家だよ。」
「あいつ?」星の娘は、最初、オニユリが誰のことを言っているのか、まったく思い当たらなかった。
「ああ。明日には、具合が良くなってるといいけどな。」
「――ああ! あの方。」老人とふたりで病院に担ぎ込んだ若者のことを、星の娘はやっと思い出した。「あの方、こちらにお住まいですの?」
「本当は、軍の兵舎があるんだけどな。あいつ、そこだと、あの意地の悪い隊長連中にいやがらせをされるんだ。だから、こっちに避難してきてるってわけ。ここなら、だいたいいつも〈雪の王〉がいるし、安心だ。」
それは何者なのかと星の娘が訊ねる前に、オニユリが大きな声で呼びかけた。
「雪の王! 泊まりのお客さんだよ。」
黒い板壁の小屋の角をまわって、大柄な白い獣がのっそりと出てきた。
星の娘は、はじめ、それを巨大な犬だと思った。
それから、その鋭くとがった耳や顔つきを見て、その白い獣がオオカミだということに気付いた。
「珍しいことだ。」
一同が踵を返して逃げ出すよりも先に、ごろごろと深いところで唸るような声が響いた。
「一度に三人も、泊まりの客があるとはな。」
白いオオカミ、雪の王は、ぎょっとするほど澄んだ色の青い目でじっと一同を見た。
「ふん、変わった奴らだが、悪い者どもではなさそうだ。」
「一夜の宿をお借りいたします。」と老人が言い、丁重に頭を下げた。
雪の王は鷹揚に頷き、緑色のテントをちらりと見た。
「今日は、あれがまだ戻っておらんな。あの、若い人間。」
「あいつは、殴られて怪我をしたから、軍病院に連れていったよ。」
「ふん、あの若造どもの仕業だな。」雪の王の唸り声が、一段低い響きを帯びた。「今度、奴らがこのあたりを通りかかることがあったら、俺が、軍人であるということの意味を教えてやろう。」
「雪の王は、庭の王国の北面を守る、雪オオカミ軍の軍団長だったんだ。」
オニユリが言った。
「氷鬼どもとの戦いで足を折ってから、引退したんだけどさ。――ほら、このあたりの方が暖かいから、古傷が痛まずにすむんだよ。だが、今でも雪の王といえばオオカミたちのあいだでは伝説の戦士だ。ときどき、若いオオカミたちが相談に来ることもあるよ。」
「まあ、そうですの。」
星の娘はやっとそう言ったが、今晩のところは若いオオカミたちがぞろぞろ訪ねてくるなんてことがありませんように、と内心で祈らずにはいられなかった。
「雪の王が小屋の外で目を光らせているから、眠っているあいだに何かに襲われるなんて心配はないんだ。あとは、うまく『おさまる』こつさえ見つければ、朝までぐっすり眠れるよ!」
オニユリがそう言って小屋の戸を開け、一同はぞろぞろと後に続いた。




