13:世を喰らう蛇(4)
[4]
夜海六区の某所。かつてソルダが黒騎士と戦い、無惨に果てた場所とは別の港湾倉庫街――その区画の端にある何の変哲もない倉庫の中は、邪悪な使い魔どもの巣窟と化していた。人間を家畜と蔑む彼女ら悪夢の軍勢が、その家畜の作った街の一角を利用するのは変な話だが……こういった形の拠点は決して珍しくない。魔物狩人らから身を隠しつつ、人間の精気を搾取するという目的のためには、これが一番効率的なのだ。
下級・中級の使い魔が働き蟻のように忙しなく行き来する無機質なコンクリートフロアを見下ろす中二階には、紅魔十傑に列される上級使い魔が三人。何処からか強奪してきた上等なマホガニーのテーブルで、これまた何処からか強奪してきた年代物のワインを嗜んでいる。その表情が揃ってぶすくれたようなのは、先日コレールから下された攻撃自粛命令のせいだ。悪夢の軍勢でも武闘派とされるコレール軍、その急先鋒を務める血気溢れる彼女らにとって、人間モドキなどを叩き潰すのに四の五の足踏みしている現状は苛立たしいことこの上ない。それこそ、真っ昼間から酒など食らわないとやっていられない程度にはだ。
三人の使い魔のうちの一人――鋸状の刃を纏った異形の腕を持つ鬼女・シーは、グラスになみなみと注がれたボルドーを飲み干し、鬱憤混じりの大きなため息を吐き出す。
「はあっ。コレール様は何を考えているのだ……たまたま、出来の悪い使い魔が立て続けに殺られただけではないか。それを兵器の全回収など行って、攻撃自粛令まで出すなど」
「何も不思議なことなんかないさ。元々、四闘士の末席がお似合いの、気位に能力が釣り合わないお方だ。他の四闘士様のように我々使い魔を十全に使いこなす技量なんかハナから持っちゃいない。人間モドキなぞに後れを取るのも、当然の結果ってやつだよ」
「あらあら。主に対して随分と辛辣なコメントですねえ……不敬ですよ、ふ・け・い。――ま、そもそも我々があのお方に払うべき敬意なんて、雀の涙ほどもないんですけどね! あははっ」
シーが漏らした不満を呼び水として、全身に鎖を巻き付けた豊満な美女・シェイヌが主の悪口を吐き捨てる。それを諌める体をして、左腕に金色の弓を持つ妖女・アルシェが慇懃無礼に嘲笑する。酒席は忽ちに不在の主の陰口大会へと早変わりし、他の使い魔……特に主に忠実なルージュが聞いたならば憤慨すること間違いないであろう、ふてぶてしい嫌味や文句が飛び交う。気に入らないものの悪口陰口で盛り上がるのは、人間であろうが魔物であろうが変わらない。女というものの業深き生態だった。
元々、使役されるべき存在として生まれたであろう使い魔、それもその上位種が主を「気に入らない」などおかしな話だが……しかし、彼女ら上級使い魔というのは得てしてそういう存在である。能力の高さに比例した自我の強さを持ち、時に忠誠心を欠くことすらある。下級や中級の命惜しさの土壇場の裏切りとは訳の違う、明確な叛意や悪意を自由意思の元に抱く。製作者である巫女リラムは、上級使い魔をそのように設計して生み出した。悪夢の軍勢を直接率いる指揮官たる四闘士ならば、この程度の難物は御してみせて当然であり、出来ぬ者に四闘士を名乗る資格などないのだ。――つまるところ、上級使い魔は強い駒であると同時に、四闘士の資質を測る試練でもあると言える。故に、シーらの不遜な振る舞いはコレールの不興を買って処断を招くことはあっても、悪夢の軍勢そのものへの反逆とは見なされない。
ここに集う紅魔十傑のメンバー三人……シー、シェイヌ、アルシェは上級使い魔の中でも特にそういった負の面が強調された個体であった。彼女らは使い魔という立場上仕方なくコレールに従っているだけであり、内心では主の器の小ささを見透かし、軽んじて憚らない。だからこそ、主の采配に何か不満があれば、咎め立てする者さえ居なければ、こうして嫌味や陰口を叩くのが常となっている。
「――ボンブの奴は痺れを切らして抜け駆けしたようだが、無様に返り討ちに遭ったそうだな。それも裏世界などで果てたがために、人間霊や動物霊なんてゴミみたいな連中に骸の砂も残留思念も食い尽くされたとか」
「そうそう。調査隊の斥候も、一人巻き込まれて犠牲になったようですよ。弱いから死んだだけと言えばそれまでですけど、ボンブも調査隊も少々かわいそうですねえ。せめて、コレール様が最初から使える道具を寄越していればこんな事にはならなかったでしょうに」
「言ってやるな、アルシェ。あの方の詰めの甘さはいつもの事さね……その尻拭いをするのも私ら紅魔十傑の仕事だ。――役目も果たせない出来損ないのアルミュールやボンブはともかく。誇り高き真の紅魔十傑である私らなら、コレール様の炎なんか無くとも、人間モドキの群れの一つや二つ屠るのは容易いこと……ここは敢えて、命令破りでも何でもして、我が主の憂いの種を摘み取って差し上げようじゃないか」
口先だけの忠誠を説いて命令違反を正当化するシェイヌに、他二人も迷わず同調する。もちろん、そこに主への忠誠心などは欠片もない。彼女らの胸にあるのは何をやらせても手際の悪い主への侮蔑と、人間モドキなどに煩わされている戦況への不快感、そして「自分たちは決して敗者と同じ轍を踏まない」という強い確信だけだ。早急に黒騎士を排除せよとリラムに睨まれている以上、結果さえ出ればコレールも文句は言えまい……そんな傲りが、状況が、彼女らをここまでふてぶてしくさせている。――戦況自体は未だ拮抗の域を抜けないこの戦いだが、コレール陣営には早くも綻びの兆しが見え始めていた。
「……しかし、たかが人間モドキに三人がかりというのは少々はしたない話。ここはまず、私が討伐に赴くとしましょう。お二人とも、異論はありませんね?」
おもむろに立ち上がったアルシェの問いに、シーもシェイヌも特に抵抗なさげに首肯する。いくら自軍を悩ます敵とはいえ、相手は人間どもに紛れて暮らすような人間モドキ。家畜の群れに逃げ込んだ害獣と大差はない。それを最高位の使い魔たる紅魔十傑三人がかりで討伐するなど、はなはだ馬鹿馬鹿しく有り得ない話だった――それこそコレールがそんな命令を下した日には、侮辱と捉えて離反を決意するだろう――。だから、アルシェが殺りに行くと言うなら二人は止めやしない。そして一緒に赴くこともない。ただただ、猟犬代わりの中級使い魔何匹かを連れたアルシェを見送るだけだ。行く先にどんな悍ましい生き物が待っているかなど、見送る者も赴く者も、誰も考えもしない。
もっとも、それも無理のない話だろう。自分たちを特別な存在と信じ、それ以外を獣以下として徹底的に蔑む選民思想と、敗者を力不足と詰るばかりの歪な実力主義の下では、全ての敗因は「負けた者が弱かっただけ」で片付けられる。敵を知ることなど端から不要なのだ。
***
所は変わって、夜海市二区橙条の中心街である。朝とは打って変わった、アスファルトに陽炎が揺らめくような陽気のなか、人々は上着を脱ぎ、袖を捲り、それぞれの目的地へと足早に向かっている。
そんな真昼の白い空の下、群れなして聳え立つビルのひとつに三つの影が佇んでいる。郁ら護衛組の黒騎士たちである。彼らは、暗殺を請け負った狙撃手よろしく、眼が痛くなるような強い日光を隠れ蓑に、片側三車線の大通りの向こう側にある華頂百貨店をひっそりじっとりと見つめ続けていた。その視線が捉えるのは、言わずもがなアトリの母が指定したという会食場所――八階に収まる件の中華料理店「桃源楼」だ。
「はあ。まったく……月に一度の習慣だか何だか知らないけれど。いつもは構いも愛でもしない子供を休日にわざわざ呼びつけるなんて、どういう了見なんだろうね。アトリは〝定期的なご機嫌伺い〟だとか言ってたけど……やくざの親分じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しい」
「随分とイラついているのだな。アトリの前での雅量ぶりは、単なるポーズだったという訳か」
「……まあ、そんなものさ。それでなくても心細い思いをしているあの子に、余計な心配をさせるのは野暮ってものだからね。――今回はアトリの意思を尊重したけれど、正直言うと、僕だってアトリをあんな酷い人間の元へやるのは嫌だよ。彼女はもう僕の花嫁、僕の家族なんだ。彼女をぞんざいに扱うような人間に家族面させるのも、同じ食事の席を与えるのも、はらわたが煮え繰り返りそうだ」
こんな時でも冷静沈着な識の指摘に、郁は一抹のいやらしさを感じてばつの悪そうな顔をしつつ、そう言葉を接いだ。黒騎士をまとめる者として、そしてアトリの頼れるダーリンとして泰然自若の姿勢を崩そうとしない郁だが、彼の心中も決して穏やかなものとは言えない。余裕ぶった微笑みの皮を一枚剥げば、そこには愛しの花嫁との時間を奪うものへの悋気、花嫁の親というだけで身勝手に振る舞う人間への憤り……そういった感情がマグマ溜まりのように行き場なく煮えたぎっている。表に出さないのは、偏に己の立場を理解しているがゆえの自制に過ぎない。
目の前の男――アトリ曰くサトリの化け物――も、そこはとうの昔にお見通しである。分かっていて敢えて口にするのは、お節介焼きゆえの心配からに他ならない。能面じみた顔の細眉が珍しくハの字に歪んでいるのも、まあそういう事だ。
「そこまで嫌なら、力ずくで止めても良かったのではないか? 大人の余裕と言えば聞こえはいいが……所詮、痩せ我慢は痩せ我慢だ。そんな事を続けていてはいつか擦り切れるぞ」
「痩せ我慢とは身も蓋もない言い方をしてくれるね。まあ、ご忠告はありがたく受け取っておくよ。……それで、そういう君はどうなんだい。相変わらずのお澄まし顔でずいぶん余裕そうじゃないか」
じっとりと睨まれて肩を竦める識だが、その能面顔には焦りの色など微塵もない。今回のことも彼にとっては全て想定内の出来事であり、ああだこうだと気を煩わせる必要もないのだろう――音無識とはそういう男だと、郁は生まれる前から知っている――。
「俺もこの件に不快感を覚えてはいるが……同時に大きな意義も感じているからな。焦りはない。ここで会食の様子を監視していれば、あいつの家族関係を正確に把握することができる。それはきっと、あいつをより深く理解し幸福へ導くヒントとなるはずだ」
「君にとっては何でも情報蒐集の好機にしかならないって訳だ。相変わらずぶれないねえ……」
「当然だ。俺にはアトリの全てを知り尽くし、幸せにしてやる義務がある。あいつの心を縛るトラウマも悪意ある家族も、分析して取り除いてやらなければ」
それが世界の真理であるように、さも当然といった調子でそう嘯く識。このお節介焼きの老教授からすれば、未熟で欠落だらけの可憐な少女はさぞ庇護し甲斐のある存在なのだろう。彼はアトリの事を溺愛し、己の持てる知識、見識の全てを惜しみなく注ぎ込んでいる。嫉妬や怒りといった目の前の些事に囚われることなく、ただアトリを幸せにしてやる為だけに迷いなく行動できるのは、そのある意味狂的なまでの思い入れの賜物に違いなかった。
「まあ、そんな事は今語るべきことではない」そう無駄話を打ち切った識は、おもむろに朔へと眼を遣る。――二人より少し離れた場所で、擬態を解除した軍服姿でいる朔は、樹上の肉食獣よろしく密やかに殺気を滲ませて会食場所を監視していた。アトリに何かあれば、彼はハリウッドのアクションスターの如く、あの大きな窓ガラスをド派手にぶち破り、速やかに下手人を粛清することだろう。
(尤も、そうなる可能性は万が一にもあるまいが……な)
郁は多くを語らないが、今回の件については既に裏で手を回している気配がある。その証に、あの店の中からはよく知った者の匂いが幽かに感じられた。恐らく、あの店で何か起こっても、朔が飛び出す前に事は速やかに、そして隠密裏に片付けられるだろう。アトリのすぐ近くに忍ばされている〝あれ〟は、そういう仕事の得意な男だ――そこまで思考した識は、我が司令官の相変わらずの秘密主義へ密かに嘆息すると共に、遅かれ早かれ〝あれ〟に出会うであろうアトリの苦労を不憫に思った。小動物にとって、蛇は天敵中の天敵だ。
***
華頂百貨店八階に収まる高級中華料理店「桃源楼」は、二区の街並みを一望できるような好位置にあり……壁一面を占める強化ガラスの向こうには、無数の建造物群からなるごちゃごちゃした街並みが広がっている。窓辺の大きなテーブルでそれらを眺めるアトリは、この眺望を切り取った成金趣味の御殿に特権階級気取りのいやらしい不遜さを感じ、居心地悪く身震いした。――ただ、それもここを御用達にする小金持ち達にとってはお気に入りのポイントであるようで。近くの席から漏れ聞こえてくる、資産家らしき中年男性や有閑マダムらの雑談は、目下の街で忙しなく働く人々への蔑みと優越感でぎとぎとであった。まるで、古く汚ならしいラーメン屋の壁にこびりついた油のようだ。
(……まあ、この人と比べれば、そんな人間も聖人君子の範疇にすっぽり入っちゃうんだろうけど)
我が母の邪悪さを思えば、鼻持ちならない小金持ちなどかわいいものだ。何せ、彼ら彼女らは、ただ無邪気に自分の地位や財力に酔いしれているだけ。人の心を徹底的に踏みにじり、壊すことに愉悦を覚えるような悪性までは持ち合わせていないのだから。
そう胸裡で嘆息したアトリはよそ見をやめ、自分たちのテーブルへ視線をゆるゆると戻す。テーブルには精巧な珊瑚細工じみたフルコース料理が一人分。それを悪狐のような面構えの女が次々と貪り食っている。常日頃から、高級ブランドのパンツスーツに身を包み、どれだけの札束が要るのかも知れない腕時計やワニ革のバッグを携えぎらつかせるこの女にとっては、高級料理の数々もジャンクフードと大差ないのだ。この女……雛形千鳥にとっては。
雛形千鳥。アトリとよく似た紅茶色の髪を持ったこの女性は、会社役員でかなりの高給取りだという。「千鳥の所有物」という人間未満の存在でしかないアトリは詳しいことを知らないが……こうして息をするように贅沢三昧できたり、七区菫坂のそこそこ良い住宅街の一軒家と別の街の一等地に建つマンションの一室を所有していられたりする事からして、あながち嘘でもないのだろう。
――尤も、子供という名の奴隷であるアトリがその恩恵に与れることはない。そこらの小金持ちのペット以下の存在として、法律に触れない範囲で、世間体に傷が付かない範囲で千鳥にいたぶられるだけだ。例えば、今こうして受けている仕打ちのように。
「どうしたの、アトリ……あなた、さっきから全然お料理に手を付けてないじゃない。わざわざあなたの為に注文してあげたのよ? まさか食べないって言うんじゃないでしょうね」
俄に不機嫌そうな様子を見せ始めた千鳥が、顎をしゃくって一つの料理を勧める。目の前の小ぶりな皿に盛られた、こんがりと揚がった甲殻類のような何か……蠍の姿揚げ。これがアトリに用意された昼分の〝エサ〟だった。
蟹や海老と違い、食卓へ並ぶには些かグロテスク過ぎるその形態は見る者の食欲を著しく減退させ、胃を鷲掴みにしてひっくり返したような強烈な吐き気を催させる。出来ることなら口にしたくないものだが……〝せっかく頼んだ料理〟を食べないとなれば、この暴君の不興を買うのは必定だ。自分や黒騎士の身を守る為にも覚悟を決めるしかない。
(大丈夫。大丈夫……この間の豚の脳の味噌炒めや、鶏の睾丸入りスープよりはずっとましな部類だもの。少し変わった海老だと思えば、平気なはず。量も少な目だし、早く食べてしまおう……)
薄い衣に包まれてなお、ひょっとすれば動き出しそうな姿態を保つ蠍を箸で恐る恐るつまみ上げる。おおよそ食べ物とは言い難いそれを今から口に入れて、咀嚼して、飲み下さなければならない――そんな悍ましい行為への恐怖に、手はまったく別の生き物のようにカタカタと震え、とうの昔に息絶えたはずの蠍が箸の先で奇妙に躍った。
アトリはそれを一息に口へ放り込み、噛み砕き、無理矢理飲み下す。口内を引っ掻き回すバラバラの脚の感触やドロッとした内臓の臭気に涙が滲むが、そんなもの気にしてなどいられない。逆らえば、どんな酷い目に遭わされるか分からないのだ。目の前に供されたものがどんな下手物であろうと、毒物であろうと、彼女には「食べる」という選択肢しか残されていない。
「そうそう、いい子ね。せっかくのお料理なんですもの……生産性ゼロのグズみたいにちんたら食べるなんて、お利口なアトリちゃんはそんなコトしないわよねえ」
自分とよく似た、それでいて狐憑きのように歪みきった顔が、毒々しいまでに紅い唇で丸く鋭い三日月を作る。保身のために我が身を苦痛と屈辱にまみれさせる、そうするしかないアトリの無様な姿に心底満足したらしい。千鳥はくつくつと嘲り嗤いを溢しながら、餡の滴る鶏肉をしゃぶるように口へ放り込む。
この怪物にとって、人の不幸……殊に我が娘の苦痛は最高の調味料なのだ。だからこそ本来無駄金でしかない子供との食事に惜しみ無く金を使える。そうして、贅と趣向を凝らした上で子供を徹底的に貶め、いたぶることを一種の娯楽にしてしまえるのだ――
口内の異物を飲み下し、ようやっとそこまで思考が及んだアトリは、いっそ暴力じみた剥き出しの悪意に胸の内が傷つき疼くような不快感を覚える。それは本来あり得ないこと、明確な異常であった。こんなものは物心ついた時から日常茶飯事、とうの昔に慣れきって何も感じなくなっていたはずなのだ。いつから自分はこんなに弱くなったのか。やはり今朝懸念した通り、黒騎士にちやほやされるうち精神強度が落ちてしまったのではなかろうか……そう思い至り、己の薄弱さに嫌気がさした。
「……ごちそうさまでした」
「あら、ちゃんと食べきったわね。あんまりグズグズしてるから途中でギブアップするかと思ったんだけど」
「すみません……珍しい料理だったので、食べるのに少し手間取りました」
そう。本当に、本当に珍しい料理だった。果たしてこれは本当に食品として許された物体なのかと疑うくらいには――そんな次の句を喉奥にしまい込み、アトリは身を小さく縮こめる。ここで余計なことを言って母の不興を買っても仕方がない。それくらいなら、はなから従順な愚図として謗りを甘受している方が賢明だ。ちっぽけな自尊心や脆いだけの繊細さ、そんなものはこの怪物の悪意をやり過ごす上で何の役にも立たないのだから。
それにしても、下手物料理の生臭さがまだ抜けない。まるでドロドロの生ゴミが口内に満遍なくへばりついているかのようだ。水でも何でも良いから、とにかく口直しが欲しいところだが……この饗応を無駄にされる真似を千鳥は許さないだろう。そもそもの話、ここのメニューは総じてとんでもない高額で、水一杯すらもアトリが軽々しく自腹で頼めるものではない。だからといって化粧室へ駆け込み洗面台で口を濯げば、それはそれで角が立ち、あからさまに母の機嫌を逆撫でることになる。――清々しいまでの八方塞がり。毎回ながら、本当にこの席は自分へ嫌がらせをする為だけに用意されているのだなと痛感させられる。
「こんな小皿料理ひとつ食べきるのに手間取るなんて……本当、そういうグズな所は父親そっくり。優秀な私の血を半分引いててこれなんだから、カスの血なんて害悪以外の何物でもないわね」
わざとらしいため息混じりに、そして心底楽しげに。千鳥は我が子を貶める言葉を憚りなく紡ぎ出す。それは別れた夫への憎しみと言うにはあまりにも軽く、戯れと言うには残忍きわまりない。まるで幼児が捕まえた虫の脚を一本一本むしり取るような具合だ。確たる動機など何ひとつない、思慮など欠片もない、原始的な悪意を満足させるだけの身勝手な享楽。
そうでなければ、あんなあまりにも恥知らずな言葉を軽々しく吐けはしないだろう。そもそもアトリを作って生んだのは、その共同作業者にグズな男を選んだのは他ならぬ千鳥なのである。アトリがひとりでに二人の間から生まれ出た訳ではない。この要領の悪い人間の出来損ないは、間違いなく雛形千鳥が作って育てたのだ。それを千鳥自身が公然とグズだカスだと貶すのは、「私はこんなカスしか育成できない無能な母親です」と宣言しているのに等しい。
エリートだと勝ち組だと気取るのに、そんな簡単な事実にも気付かないのだろうか。そんな単細胞では、イジメにのめり込んで自滅するクラスのボス猿たちと何ら変わらないではないか――そう思えば、アトリは雛形千鳥という人間の知性や品性を疑う外ない。そして、こんな人間が勝ち組として大手を振って生きているのを許す世間の良識が空恐ろしく、おぞましくてしょうがない。
(……とはいえ。それに媚びへつらうしかないカスがどうこう言う資格もないのだけれど)
自分を取り囲む世界のおぞましさには胸が軋むほどの不快感を覚えるが、自分自身の不甲斐なさを棚上げして文句を垂れるほど馬鹿ではない。アトリは一切の悪感情を表に出さず、“カスらしく”心にも無いへりくだった謝罪を口にして、卑屈なまでに申し訳なさそうな表情を浮かべた。そうして母への忠誠心が変わらぬことを示す。
それは他人から見れば滑稽なまでの負け犬ぶりだろうが、いっこうに構わなかった。所詮、雛形家における子供というのは親の好意で生かされているだけの家畜か奴隷。こうしてひたすら親に迎合してへりくだり、歓心を得るのが仕事なのだ。それが出来なければ、かつての父のように後腐れなく――つまり二度と逆らわぬよう、再起不可能な形で――廃棄される。「悪い子だとお父さんのように捨ててしまうから」……そのように脅されたのは一度や二度の話ではない。
そんな危険と恐怖を抱えながらもどうにか生き長らえ、もう少しで大学進学なり就職なりできる立場になったのだ。ここでくだらないヘマをして全てを台無しにする訳にはいかない。今はまだ、千鳥にとって善き子供として振る舞わなければならない。……その過程でどんな扱いを受けようと、どんな感情を抱くことになろうと、生存という一事の前には押しなべて些末だった。
「――ねえ。これだけ言われても、そうやって頭ペコペコ下げてばかりで言い訳の一つもしないとか。情けなくないの?」
「……すべて、お母さんの仰る通りですから。私なんかが口を挟むことは、なにも」
「ふーん。全ては私の不徳の致すところって言いたいの? 本当につまんない子ね。……まあいいわ。アトリちゃんが愚図で凡庸でつまらない人間なのはどうしようもないけど。そうやって自分の身の程を弁えてる所は嫌いじゃないもの」
知ってる? 部下がよくボヤくんだけど……世の中じゃ、中学生とか高校生とかくらいの子供って反抗期だか思春期だかで言うこと聞かないものなんですって。それどころか、勉強もせず友達と遊び回ったり、お小遣いをせびったりするとか。親がいないと何にもできない穀潰しの癖に、随分と身の程知らずよねえ――
そう嗤いながら、千鳥は狐面のように釣り上がった眼をついとアトリへ滑らせる。釘を刺しているのだ。この従順な奴隷が反抗期や思春期などというくだらないもので血迷わないように。お前はいつまでも私の忠実なお人形であれと、そうでなくてはならないと。言外の圧力を以て。
「――それで、最近学校はどうなの。まだ大学に行きたいなんて思ってるの」
「はい……その為にバイトのシフトを増やして貯金しています。奨学金の資料も色々集めました。勉強もきちんと続けています。この調子なら志望校に合格するのも難しいことでは……」
「相変わらず無駄なことしてるのね。いくら高校までの成績が良くたって大学では通用しないのよ? 大した個性も才能もないアトリちゃんがあそこで成果を上げられるとは思えないんだけど」
千鳥は、アトリが大学へ進学しようとしている事をよく思っていない。否、それどころか時間と金の無駄だと疎ましく思っている節がある。世間体があるから表向きは「どうしても進学したいなら自分で学費を工面しろ」と言っているが……こういったプライベートな場ではアトリが如何に没個性な無能であるかをあげつらい、心を折ろうとするのが常であった。
しかしながら、大学への進学はアトリにとって譲れない一線である。確かに自分は千鳥が言うように「大した個性も才能もない」凡才だが……寧ろ、そうであるからこそ進学しなければならないのだ。何の才能も後ろ楯も持たない凡庸な子供が、恐ろしい親の軛から逃れ、たった一人で安定した暮らしを得る為には「学歴」や「教養」という武器がどうしても必要だ。
母の機嫌を損ねることは極力避けたいが、それでも、どうにか進学を許して貰えるように話さなければならない……アトリは散々痛め付けられた胃がきゅうっと絞まるのをこらえながら、慎重に言葉を紡ぐ。
「そこは十分承知しています。承知しています、けれど……学歴さえあれば、それこそ私みたいな愚図でも選べる就職先が大幅に広がります。これから社会人になって養育費を返していくことも、より確実に、より効率的に遂行できるはずです」
「ふーん……全てはお金の為ってわけ? まあ、そういうのは嫌いじゃないわ。肩書きだけ手に入れて体裁を取り繕うなんて、何の取り柄もない愚図に相応しいキャリアプランだもの。――あとは私の財布を痛ませさえしなければ、許してあげてもいいかもね」
金のためというなら進学も認めてやらないでもないが、自分は無駄な事業にびた一文出すつもりはない。金は奨学金なりバイトなりでかき集めろ。それが出来ないなら、さっさと就職して養育費を返していけ……千鳥が言いたいのは、そういうことだ。
そしてそれはアトリも元より承知の事項である。神妙に黙して頷いた彼女は、それ以上の言葉を紡ぐのを慎んだ。でき損ないの自分に何も期待していない千鳥が、気まぐれであっても進学を許す言を口にしたのだ。わざわざ、ここで蛇足をやらかして今までの胃痛を無意味にすることはない。
「まあ……こんな景気の悪い時代だから、アトリちゃんみたいな愚図が学歴なんて持ったところで大した差はないでしょうけど。精々、奨学金で破産しないようにして頂戴ね? 私、人の不始末を尻拭いするのが一番嫌いだから」
絶妙なタイミングで振られる厭な話題、正論の皮を被った悪意の重圧……それら全ては、如何に相手を深く効率的に傷つけるかという事だけ計算されて吐き出されている。幾ばくかの安堵を覚えて少し緩んだアトリの心を深く抉るには、十分すぎる威力だった。我が娘を虐げるという楽しみに対して、千鳥は決して手を抜くつもりはないらしい。――やられる方からすれば、何が良いのかまったく理解できない娯楽であるが……こんな事を楽しみとする人間の陰惨な心理など、理解できない方が幸せなのだろう。
それよりも今は、あらゆる謗りや蔑みをただただ甘受し耐えるべき時だ。不興を買って、せっかくの進学の話を水の泡にされては堪らない。……それに、傷ついたからと簡単に弱みを見せでもすれば、この怪物は躊躇いなく、そして忽ちに自分を食い潰すだろう。さながら〝我が子を食らうサトゥルヌス〟のように。自分以外の誰もを道具か食い物程度にしか思わない、悪意と我欲のアマルガムならそれくらいはやりかねない。
深海の重圧にも似た、凍てつくようなストレスに苛まれながらも、そう思考をまとめたアトリは嵐をやり過ごすように息を潜める。胃は相変わらずキリキリ痛むし、なけなしの自尊心はボロボロだが、今はとにかく耐えなければならない。それがあとどれだけ耐えれば良いのかは、まったく見通せないが……
そうして更に胃の痛みが増した時である。何処からか、そそくさと一人の男――身なりからして千鳥の秘書か何かであろう男――が現れ、「……様からお電話が」と千鳥へ耳打ちした。相手が誰かまではよく分からないが、仕事絡みの急用であるらしい。あの千鳥が大人しく差し出されたガラパゴス携帯を受け取り、慇懃な敬語で何やら約束を取り付けている。
「――まあ、それは……ええ、ええ……すぐそちらへ参りますわ。それではまた……」
そう言って通話を切った千鳥は、一つ舌打ちし、乱暴にハンドバッグを引ったくって席を立った。どうやら今すぐ通話相手の元へ伺わなくてはならないようだ。誰かに振り回されることを極度に嫌う人物だけに……心中察するだけでおぞましい。
「ママ、急用が入ったからもう行くわ。お会計はママが済ませておくから、アトリちゃんは好きにしなさい。残りものを漁るなり、新しく注文するなり何でもね……」
不機嫌ななまじりを気怠くこちらへ向けた千鳥は、そう言い残すや否や、肩で風切る足取りで早々と席を去ってゆく。最後の最後までアトリへの当て付けを忘れないのは、せめてものストレス解消といったところだろう。アトリはそれに曖昧な愛想笑いを返し、母の後ろ姿が視界から消えるまで手を振って見届けた。――あれほど尊厳を踏みにじられていながら、それでも尻尾を振るなど情けないにも程があるが、あの人でなしに楯突く真似をすると後が恐ろしい。無力というのは、本当に面倒くさいことだ。強ければ売らなくても良い媚を必死に売らなくてはならない。
(いけない、いけない……余計なことは考えないようにしないと。演技に支障が出る)
あの怪物の前で間抜けないい子ちゃんを演じきるには、日々の精神状態もきちんと管理しておかなければならない。強い反抗心や怒りは擬態の精度を落とすだけだ。
そうして毒気に曇った思考から意識をずらしたアトリは、目の前のテーブルに目をやる。さすがの自分も残り物を漁って食べるほど落ちぶれたつもりはない……食べ物に罪はないが、ここは捨て置いて帰ろうと鈍い動きで席を立つ。
お客様、と背後の何者かから肩を叩かれたのはそんな時だった。
***
「――奥で千歳様がお待ちです。どうぞこちらへ」
背後からいきなり声を掛けてきた給仕は、人形のように顔色を変えず、あれよあれよという間にアトリを店の奥へと連れて行く。チトセサマが何者かは知らないが、無関係だと言っても無駄だった。給仕の所作はあくまでスマートながら、その力は恐ろしいほど強く、抵抗のしようがない。……金を落とす客の要望に最大限応えて、下手物料理を出すような店だ。こうして他の要望にも応えられるよう、それなりの人間を雇っているのだろう。
そうして連行された先は、如何にもVIP専用といった趣の豪奢な部屋だった。内装や調度品は赤と金を基調とし、差し色に翡翠の飾りが用いられている。まるでマフィアの密会にでも使われそうな雰囲気だ。
役目を果たした給仕は「では、失礼いたします」と部屋の主に一礼し、消えるように去ってしまった。取り残されたアトリの前には悪趣味なほどに豪奢な空間と、飽食を体現したようなテーブル一杯の大皿料理の数々。そして、その中心には、部屋の主でありこのハプニングの元凶であろう男がこれまた豪奢なソファへゆったりと陣取っていた。蝋のような生白い肌に真っ白い髪を持った、まったく知らない顔。
男の年齢は二十代くらいだろうか? しかし、見ようによっては十代後半にも、三十代前半にも見える。色気のある端整な顔立ちやスタイルの良い体つきは如何にも女性受けしそうだが……少し目に掛かりそうな、微妙な長さの銀髪から覗く、得体の知れないニマニマ笑いや獲物を観察するようにねっとりとした金色の眼はまるで蛇そのもの。そういった概念と彼とを決定的に隔ててしまっている。親しみやすさは欠片もなく、危険のにおいしかしない。アトリからすれば、まるで猛獣の……それこそアナコンダの檻にぶちこまれてしまったかのようだ。出来れば今すぐに帰りたい。
「いやあ、災難やったなあ」
身の危険すら覚えて硬直するアトリに対して、謎の青年はいやに気楽な様子でそう語り掛け、歓迎の意を示すように腕を広げる。初対面だというのに妙にフレンドリーな態度、鼓膜を舐める甘くしっとりとしたウィスパーボイスは、その見た目と相まってナンパ男のそれそのものだ。拭いがたい軽薄な調子が根底に満ち満ちている。
相手が人間か魔物かはよく知らないが……どちらにせよ、この手の人間が危ないことは十六にもなれば分かるものだ。やはり危ない所へ来てしまったのだ。ここへ来る前に言い含められていた通り、朔を呼ぼう――そうして、アトリは渾身の叫びを上げるべく息を吸い込んだ。
「……! ちょ、ちょい待ちい! 僕は別に怪しいヤツやないよって!」
慌てた男が一瞬にして距離を詰め、そのひんやりした大きな手でアトリの口をぴたりと塞ぐ。突然の暴挙に当然アトリは激しく抵抗してモゴモゴ呻くが……口を塞いだり腰を抱いたりする男の腕はまったくびくともせず、全然逃げられない。これは危機だ、本当の危機ってやつだとアトリは更にじたばたするも、男の腕は人を絞め殺さんとするアナコンダのように巻き付いて離れない。
「むぐ、むぐぐー!」
「ああもう。こないに暴れて、お転婆さんやね……僕は黒騎士。怪しいヤツやないよ」
「むぐ……ぷはあっ。く、黒騎士……?」
目を丸くして大人しくなったアトリにもう叫ぶ危険性は無いと判断したのか、男は口を塞いでいた手を離し、爬虫類のような美貌へにんまりとした笑みを浮かべる。そして、「やっと分かってくれたか」と言わんばかりの得意気な声音で次の句を継いだ。
「そ、僕は黒騎士……黒騎士の三番目、千歳雪人。アトリちゃんのお婿さんや。せやから、そないに警戒心バリバリにせんでもええんよ?」
……なるほど。言われてみれば、その蝋のような生白い肌もどこか薄気味悪い美貌も彼らの同類そのものである。郁や識そっくりの驚きの捕獲力にも納得がいく。しかし問題は、その黒騎士がどうしてこの店のVIPルームでアトリを待ち構えていたのかだ。まったく訳が分からない。
「本当にあなたが黒騎士だとして……何してるんですか、こんな所で」
「んふ。そないにジットリ睨まんといて欲しいわぁ。僕、別に悪さしよ思うてこないな所におった訳やないんよ? ただ、郁に頼まれたお仕事が一段落したごほうびに、ここで美味しいもの食べたらええって呼ばれただけで……」
「はあ……郁さん、ですか」
郁は『僕たちは会食の席に同行しない』と約束したが、『同じ店で他の黒騎士を食事させない』とは言っていない。約束の抜け穴を突いて抜かりなく手を回していたのだ。――しかし、桃源楼は完全予約制の店であるはずなのに、当日によくVIPルームなど取れたものである。約束の抜け穴の使い方といい、部屋の取り方といい……これでは本当にマフィアか何かのようだ。
(目の前のこの人も、何だか堅気の人には見えないし。黒騎士ってそういう所があるのかもしれない……)
ダーティでヤバい連中に囲われている。それは普通の生活という鋳型に入っていたいアトリからすれば何だか嫌な状況だが、そのヤバい連中に守られているからこその今だとも分かっている。嫌がってはいけない。
あるかも知れない黒騎士の暗黒面や千歳雪人に一抹の苦手意識を抱きつつも、そう結論を出したアトリは、ごちゃごちゃ考えるのをやめて意識を目の前の男へと戻す。ぼーっと顔を見つめすぎたのがいけなかったのか、視線がばちりと合った千歳雪人は、爬虫類のような生白い美貌を照れたように緩めていた。
「んふふ……そないに見つめられると、なんや恥ずかしいわぁ。どないしはったん?」
「あ、いいえ……ちょっとぼーっとしてました。すみません」
「そうなん? まあ僕、自分で言うのもアレやけど、結構なイケメンやもんね……こないに近くで見てたらぼーっとしてまうわなあ」
断じてそういう事ではない。そういう事ではないのだが……わざわざ、このアナコンダの擬人化みたいな胡散臭く危険そうな男を怒らせることはない。アトリはうっかり余計なことを溢さぬよう、厳重にお口へチャックした。――尤も、そんなやけに大人しいアトリの様子に、千歳はにんまり口を逆さに歪めてしまったが。
「んー、やっぱり元気ないみたいやね。……堪忍なあ。ホントはもっと早う助けてあげたら良かったんやけど、細工に手間取ってしもうて」
「細工……? 助けるって、いったい何を……」
「さっき、あの女に仕事の電話が掛かって出てったやろ? あれやったの僕なんよ。――せっかくご褒美のおいしい料理食べよと思うて来たら、あの女、人のお嫁さんいじめて悦にはいっとったさかい……ちょーっと、偽の連絡入れてな?」
一仕事終えた悪戯っ子のような表情でパチリとウィンクする千歳。全て良かれと思ってやった事なのだろう。その声音には、手柄を自慢する犬じみた弾む調子が紛れていた。
しかし、対するアトリは心穏やかではいられない。あの怪物を嵌めて追い出すなど、随分と恐ろしい事をするものだ。自分が騙されたと知った母はきっと犯人探しをするだろうし、報復だって苛烈を極めるだろう。せっかく黒騎士の存在を隠し通したのに、これでは水の泡になりかねない――。思わず顔を青くして震え上がる。
「な、なんてことを……というか、どうして千歳さんが母の仕事用の連絡先とか取引相手とか知ってるんですか……」
「そこらへんは情報屋の企業秘密やさかい。……まあ、安心し? なりすまし先はあの女より強い立場やし、あれが僕のやった事やてバレる心配もあらへん。あの女の一人負けで終わることや。アトリちゃんは、なーんも恐がらんでええんよ?」
そないな事より。アトリちゃん、あの女にいじめられて美味しいものなんか何も食べさせてもろてないやろ? こっちにおいで、僕がたーんとご馳走したる――間延びした甘ったるい猫なで声でそう言った千歳は、例の豪奢なソファへとアトリの手を引く。痛くはないが、絶対に外れず離れない絶妙な力加減。これでは逃げられない。
「ああ、違う違う……そこやなくて、こっち」
逃げられないなら、せめて少し離れた場所にいようとソファの端へ座れば、千歳はアトリの腰をすかさず手繰り寄せる。妙に慣れた手付きは遊び慣れた男の爛れた空気を纏っていて、やはり、あまりお近づきになりたくない感じだ。
そんな渋い感情を持て余して身を縮こまらせるアトリに対して、千歳は実に満足そうな様子である。獲物を捕まえてご機嫌そうな彼は「んふふー」と独特な笑い声を漏らしつつ、その長い腕でアトリの肩を抱いて密着してしまった。場所が場所であるのも相まって、こうなると軟派男というより、キャバクラなんかでお気に入りのお姉ちゃんを侍らすセクハラオヤジのようだ。
やはり朔を呼ぶべきではないか……そう顔をしかめながら、アトリは肩を這い回ろうとする骨張った手指を冷徹にはたき落とす。
「はあ……冷たいなあ。こないな色男相手に、随分そっけない反応やないの」
明確な拒絶を受けたにも関わらず、千歳に懲りた様子はない。いけず、と言いたげに口を尖らせながらも、肩からはたき落とされた手を今度はアトリの手に絡めてくる。その蛇のようにしつこいくっ付き方からして……どうやら、初めましての距離感を考えて離れてくれるというような気は無いらしい。
「これはいったい、何のつもりなんですか」
「なにって……そんなの決まっとるやないの。いじめられて元気ないアトリちゃんを癒してあげよ思うて、スキンシップしとるんよ。――ほら僕、傷付いた自分のお嫁さんをほっとける質やないし」
思ったより数段下の低い声で可愛げのない事を言ったにも関わらず、相変わらず懲りない千歳はそんな台詞を口にして身を擦り寄せた。その爬虫類じみた顔にピッタリと張り付いた笑顔は仮面のようで胡散臭く、似合わない台詞に薄っぺらさを与え、あからさまに裏がある印象を演出する。
千歳本人の真意はよく分からないが、相手を癒そうにも、爬虫類系の怪しい男がそういう事をすれば逆効果になるとか考えていないのだろうか……奇怪な行動ばかり取る、この千歳雪人という得体の知れない男をアトリは心底不気味に思う。
そして、千歳はアトリの視線からある程度のことを察したのだろう。能天気そうに緩めていた表情へ陰を差し、蛇のような金色の眼をじっとりとさせ、わざとらしい大きなため息を吐いた。
「はぁ……アトリちゃんまで、そないに僕んこと恐がるんやね。傷つくわあ……他の人間とか魔物とかはええけど、花嫁のアトリちゃんにそないな顔されるなんて。僕、傷ついて傷ついて泣きそうやわあ……」
「花嫁である前に初対面なことすっ飛ばして好き放題する人に言われたくないですよ。ああもう、いい年した男性が嘘泣きとかやめてくださいよ」
「……郁から聞いとったけど、アトリちゃんってドライないけずやね。僕、これでもお茶目なゆるキャラポジションなんよ? ほら、よく見たらかわええやろ? なあ?」
あざとい仕草で己を指差す雪人の姿は甚だ厚かましく、どこかの変態綿毛と出会った日を思い起こさせる。彼が黒騎士であることは紛れも無い事実であるようだ。疑っていた訳ではないが、ここまで似たようなアグレッシブさを見せ付けられると、そんな感想を抱かざるを得ない。……ついでに愛嬌良く擦り寄って不本意なイメージを覆そうというのか、蛇が獲物に巻き付くようにしてねっとり腕を回してくる所なんかは、触手蔓をまとわり付かせてくる郁そっくりだ。にょろにょろしていると性格まで似てくるのだろうか。
迫りくる無駄に整った爬虫類顔を押し退けて、アトリは嘆息と共に視線をよそに遣った。目の前のテーブルには豪勢な大皿料理の数々がひしめき合っている。四、五人前かそれ以上はあるのではないか。
「千歳さん。こんなことしてないで、食事、されたらどうですか? 量もなんか多いですし……中華は冷めたら美味しくないですよ」
「これ、僕一人が全部食べる訳やないよ? アトリちゃんと一緒に食べよ思うて準備しとったんや」
「……二人でも多すぎる量じゃないですか?」
「んー、せやろか。僕、これくらいはペロッと食べてまうよ? ――ああ。もしかしてアトリちゃん、ここがお高いお店やさかい、僕のお財布のこと心配してくれてはるん? んふふ……心配することなんか、なんもあらへんよ。あのケチくさい女と違って、僕にはこのくらい何でもないよって。さあさあ、たーんと食べ?」
まるで恋敵を引き合いにしてするような謎の経済力アピールをした千歳は、爬虫類顔らしからぬ優しい微笑みを向けてアトリに料理を取るよう促す。……中華の席では主賓が料理を取ってから、時計回りに回転台を回して、他の者が料理を取るという。テーブルこそ円卓ではないが先に料理を取らせるあたり、彼は本当にアトリのためにこの席を用意したのだろう。
しかし、会ったばかりの小娘にここまでする千歳の心理がよく分からない。黒騎士の花嫁のこだわりや執着は初対面か否かなど関係ない節があるのは確かだし、もしかすると先程の虐待じみた見苦しい会食に同情を覚えたのかも知れないが……それでも、千歳がアトリにここまでする筋合いは無いはずなのだ。
「……そないに遠慮せんと、何でも好きに食べたらええよ? 美味しいものは人も化け物も幸せにするよって」
相手の真意はまったく見えないが、重ねてそう促されれば食べない訳にもいかない。遠慮も過ぎれば失礼でしかないことくらいは十六の小娘でも知っている――アトリは、促されるままにおずおずと取り皿へ料理をよそいだした。例の下手物料理のせいで口の中がずっと気持ち悪いのだ。あんなことの後であるがゆえ、正直、食欲はないが……食べていいと言うのなら少しばかり口直しを貰おうと、近くにあったフカヒレのスープを小皿に注ぐ。
それを満足そうに見届けた千歳は爬虫類めいた美貌を深く深くニンマリとさせ、手近にある瓶の蓋を開けた。大きな氷の入ったグラスになみなみと注がれた、薄い琥珀色の液体からは花のような甘い匂いと強いアルコール臭がする……千歳はこんな真っ昼間からお酒を飲むつもりらしい。
「んふふ……ええ匂いやろ? これは桂花陳酒。白ワインに金木犀の花を漬け込んだお酒でな、僕のお気に入りなんよ」
アトリの視線の意味を「興味」と勘違いしたらしい千歳は、カランと氷の入ったグラスを傾け、彼女にも金木犀と酒精の薫香を分け与える。ほんのりと頭をくらくらさせる華やかな甘い香りは香水のように魅力的だが、実態は未成熟な脳髄を侵す毒そのものだ。アトリは顔をしかめて尻を横へ横へとずらし、その芳しくも危険な液体から距離を取った。
「んふ。そないに恐がることないんよ? 初めてのアトリちゃんにはちょぉっと刺激が強いかもやけど、ほんまに甘くて美味しいお酒やさかい……ささ、一口ちろりと」
「の、飲みませんよ! 私はまだ未成年なんですよ……千歳さんは知らないんですか、未成年者飲酒禁止法!」
「なぁに、心配いらへんよ。舐めるくらいなら神社のお神酒とそう変わらんし。ほら、ちょぉっとだけ」
「いやいや、何でそこで更に勧めるんですか……飲まないって言ってるじゃないですか。そういうのは、あ、アルハラっていうんですよ!」
真っ昼間から酒を嗜むだけでも相当にアレだというのに、その上、未成年者に飲酒を勧めるなどどうかしている。これは完全に見習ってはいけない類いの大人だ。――アトリのそんな厳しい視線にも千歳はまったく悪びれない。大きな蛇がゆったりのたくるような緩慢さで肩を竦め、悪戯っぽくニンマリ笑いを浮かべてみせすらする。だからどうした、と鼻で笑っているかのようだ。
「僕のお嫁さんは随分マジメさんなんやねえ。でも、ええ子ばっかししとるのもつまらんやろ? ……人も化け物も、死ぬ時はコロリと死んでしまうもんや。何でも食べられる時に、飲める時にたんと味わっとかんと損やないの」
「太く短くの刹那的な享楽主義ですね。……私はそういうのは遠慮します。人生は慎みと計画性をもって細く長く過ごしたいので」
「はぁ……マジメを通り越して禁欲的やね。せっかくの若い花盛りやのに勿体ないわあ。……もっと愉しいこと仰山しても、バチは当たらん思うんやけど」
酸いも甘いも噛み分けたような、否、それら全て一片残らずしゃぶり尽くしたような空気を漂わせて、千歳は改めてテーブル上の美味しい料理を勧めた――酒を飲ますのは諦めたらしい――。お手本を見せようというのか、今度は己が率先して料理に手を付ける。北京ダックも小籠包も春巻きも、蛇が蛙を一呑みにするようにペロリと平らげてゆく。その合間にお気に入りの桂花陳酒をちろりと舐めるのも忘れない……その様は、まるで酒宴に興じる鬼か大蛇かのようだ。
ああ、ここは自分みたいなただの人間が居ていい場所ではないのではないか。気を抜くと、頭からばりばり食われてしまうのではないか――本能的にそんな心地を懐いたアトリは、男の隣で居心地悪く身を縮こめながらフカヒレスープをちびちび飲み始めた。初めて口にした、この店のまともな料理は下手物料理の不快感を打ち消してくれたものの……居心地の悪さからか繊細な風味までは感じ取れない。そもそも、虐め同然とも言える母との会食だけでお腹一杯だったのだ。更にそこへ、得体の知れない蛇男と密室で二人きりなどという追加イベントをぶちかまされれば、味覚の一つや二つくらい簡単に死んでしまう。
「どないしたん? アトリちゃん、全然食べへんね……もしかして中華は嫌い?」
「い、いいえ……そういう訳では」
鎌首をもたげた蛇のような緩慢な仕草で、千歳は遠慮なしに顔をぐぐっと近付けてくる。鼻先が擦れそうなほどの至近距離に来たそれは、ぬめ光る鱗やチロチロと覗く先割れした舌が無いのが不思議な姿態だ。切れ長の瞼に収まった金色の瞳なんかは、沼地から顔を覗かせるアナコンダのそれとよく似ている。……一見すれば気遣わしげに細められたような千歳の眼は、そこに獰猛な捕食者を見てしまったアトリにとってはもう「あの人と似た恐ろしい眼」としか思えない。
これは無理矢理にでも料理を口に運ぶべきだろうか。機嫌を損ねでもしたら、絞め殺されるか食い殺されるかされてしまいそうだ――間近に迫った蛇男に強迫観念ともトラウマともつかぬ感情を揺り起こされたアトリの胃は、哀れにも再びキリキリと痛み始める。理性の部分ではそれが被害妄想の類いだと分かってはいるのだが、一度励起された恐怖は簡単に消えてはくれない。母という暴君によってよく訓練された体は、恐怖から条件反射的に場を取り繕うような言葉を吐き、迷いなく手近な所にある料理を取り分けて口に運ぶ。……尤も、それは中華料理特有の油と調味料の混ざった強いにおいに吐き気を感じてしまい、叶わなかったが。
「アトリちゃん? なんや顔色がようないやないの……もしかして、食欲ないのに、僕に気ぃ使って無理矢理食べようとしたん?」
「ち、違います。大丈夫です、ちゃんと食べられますよ……うっぷ……」
「アホなこと言うたらあかんよ。今のアトリちゃん、顔が真っ青や……食べ物のことはええから、少し休み?」
ニンマリ笑いを引っ込めた真顔の千歳が、身を守るようにとぐろを巻く蛇よろしくアトリに腕を回す。恐らく、少しでも気分が楽になるようにという気遣いなのだろう。慎重な手つきで背中をさすってくる。人よりもひんやりした手は厭な熱に取り憑かれた体に心地よく、胸にうずくまる気持ち悪さがすうっと取り除かれてゆく。
やはり、今まで感じていた恐怖は被害妄想に過ぎなかったのだ。眼こそはあの人と似通っているが、千歳はあの人よりずっと優しい。――客観的に考えれば当然のことだった。何せ、千歳はあの人のように娯楽感覚でアトリを虐げたりなどしない。それどころか、あの人の悪趣味な遊びを影で終わらせ、アトリがありつけなかった食事をごちそうしようとしていた。その善意の理由は今もってよく分からないが……少なくとも、千歳をあの人と同列に恐れる必要はなかったのだ。そう思い至ると申し訳なさしかない。
「すみません……せっかくの食事なのに、こんな台無しにしてしまって」
「ううん、謝るのは僕の方や。ようやっと会えるゆうて舞い上がってばかりで、自分のお嫁さんの調子も分からんかった。……テーブルのもの片付けたら、すぐここから出したるさかい。それまで堪忍な」
意気消沈したような嘆息混じりにそう言った千歳は、アトリをソファの端にそっと寝かせると、テーブル上の料理や酒をさっさと平らげてゆく。どれもこれもウキウキ顔で用意したごちそうであったはずだが、今となってはどれも作業的に片付けるだけのものでしかないような食べ方だ。原因が自分であるだけに大きな声では言えないが、何というか、すごく勿体ない気がする……罪悪感にいたたまれなくなったアトリは急いで身を起こす。
「千歳さん。私は大丈夫ですから、外に出れば郁さん達もいますから……千歳さんだけでもゆっくり食べていってください」
「そんなのいややわ。僕一人で食べてもおいしゅうないし、アトリちゃんが僕置いて郁のとこに行くのもおもしろないし。……なあ、意地悪言わんと、ここでちょっと待っとって。僕、すぐに食べてまうさかいに」
「いや、そんなに急がなくても」
「ええから。僕の側におって?」
とどめに吐かれた甘い声は、軟派男の手練手管というより、妙になついてきた野生の獣の鳴き声か、或いは客に本気の恋をしてしまった遊女が媚びて囁くようなものに近い。この種の人物には珍しい挙動だった。甘い奇襲に豆鉄砲を食らったアトリはそれ以上の言葉を継げられず、千歳はそんな彼女の姿を認めると食事に集中しだす。大食いチャンピオン決定戦の選手のように、一切の無駄なく、それでいて豪快にとんでもない質量を胃に収める……その様はヨルムンガンドやアポピスといった、世界の全てを呑み込む神話の大蛇を彷彿とさせた。どこまでいっても蛇男は蛇男であるらしかった。
いつも閲覧ありがとうございます。11ヶ月ぶりの更新です。大変お待たせしました。
今回のテーマは「主人公のメンタルをゴリゴリ削る週間・PART3」です。削れ過ぎて却って正気に見えるが、内実は明らかにおかしいパターン。被害妄想のあたりが顕著かと思います。
雪人の方言(のようなもの)は粗があるかと思いますが、許していただけると幸いです……
〈追伸その1〉
ただいま、第一回黒騎士人気投票を実施中です。もしよろしければ、お気に入りの黒騎士にペシッと投票してみてください。(目次・本文ページ下部にリンクがあります)
2019/6/7時点では、朔や祐が人気のようです。
〈追伸その2〉
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