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2話4節(下)


 ここ数日の失敗を回顧し終わり嘆息するアトリの目の前では、郁が取り込んだ洗濯物を畳んでいる。居座ってからずっと、この厄介者は新妻の如し甲斐甲斐しさで雛形家の大部分の家事をこなしているのである。

 最初は勝手にそんな事をされて堪るかと猛反発したものだが、郁は相変わらずの花婿面で主夫業を続けるので、とうとう反発するのにも疲れて今は好きにさせている。そうして「アトリが試練に打ち勝った僕を認めてくれた」と勘違いを深めた郁が、更に調子づいて根を下ろし始めているのは憂慮すべき事態であるが、有効手段が無い今はどうしようもない。


 自分は至って慎ましく生活してきたのに、どうしてこんな厄介事が転がり込んで来たのだろうと、アトリはうんざりしてため息をついた。


「おやおや。ため息ばかり吐くと幸せが逃げてしまうよ?」


 誰のせいだ、とアトリは内心で毒づくが、口にはしない。下手に構っても墓穴を掘るだけだというのは、この数日で嫌と言うほど学習している。スルーあるのみだ。


「……まただんまりかい? 最近のアトリは大人しいね。ちょっと前なら、もっと僕に食い付いてきてくれていたのに……どうしたんだい? まさか、もう倦怠期に入ってしまったのかい」

「倦怠期じゃないですよ。そもそも始まってもないんですから……何をやっても駄目だから、何もしない事にしただけですよ。でも、花嫁になるのを受け入れた訳じゃないですよ。私は郁さんのおままごとには付き合いませんからね。だから、とっとと一人おままごとは止めて別の人を探した方が良いですよ」

「何だ、拗ねているのかい? でも、そんな憎たらしい事言ったって無駄だよ。君は僕の運命の人なのだからね、今はおままごと程度でしかないとしても、僕は諦めないよ。いずれおままごとを現実の夫婦生活に変えてみせる。取り敢えず、始めの一歩として僕と火点し頃のアバンチュールを楽しもうじゃないか」


 投げ遣りに憎まれ口を叩くアトリにも、郁は機嫌を損ねる様子はない。どちらかというと、久々の反応でやる気満々になってしまっていて、いやらしい空気を身に纏ってじりじりと迫り来ている。しかし、アトリは抵抗するのを止めただけで郁を花婿として受け入れた訳ではない。迫る変態に顔をしかめ、彼の顔面を両手で押し退けた。手のひらの下でまだ何か言いたげにふがふがむぐむぐ言っているのが、いつもの優雅に気取った姿とミスマッチで滑稽である。

 ――それにしても、いつもひどい事を言われたりされたりしているのに、よくもまあ飽きもせずでれでれとしていられるものだ。


「……はあ。いい加減、諦めたらどうですか。こんな風にしつこく無茶苦茶な事をして何になるんです。そんなだからお嫁さんが貰えないんですよ」

「違うね。今までが手緩かったんだ。人間じゃない僕には人間以上に障害が多い。正攻法で挑んだって、いつまでも駄目なままなんだよ。だから、君だけは少し強引にでも手に入れるんだ」


 それがたった一つの冴えたやり方のように郁は言うが、平穏を求めるアトリにはいい迷惑である。


「花嫁になるのは嫌だって言ってるじゃないですか。何なんですか、もう……会ってこの方ずっと酷い事言われて酷い事されてばっかりなのに、いつまで粘着するつもりなんです。あれですか? 変態な上にマゾなんですか? 勘弁してくださいよ……」

「僕は変態でもなければマゾでもないよ。ただ、綺麗にラッピングされた言葉よりも本性剥き出しの言葉に魅力を感じるだけさ。だってその方が君の心をナマで感じられるからね」


 本性剥き出し。アトリとしては非常に不本意な状態であるが、この変態におべんちゃらなど通じないのだから仕方ない。


「あなたが言うと卑猥な感じしかしないのは気のせいでしょうか。まあそれはともかく……顔色はともかく顔は良いんですから、本性がどうだって受け入れてくれる人が居る筈ですよ。私みたいな可愛げのない人間より、ずっと良い人が……」

「僕は君を花嫁にすると決めたんだ、他の人間の事なんて知らないよ。それによく言うじゃないか。割れ鍋に綴じ蓋って。君みたいな極度のツンデレには、僕くらい一途な男がちょうどいいよ。まあ……そんな事より。今は君をどうやって僕にメロメロにして、僕無しで生きられなくするかで頭がいっぱいなんだ」

「良い年こいた男がメロメロとかやめて下さい」


 郁は相変わらずのおめでたい頭具合で、段取りを色々すっ飛ばした暴論を囁き、心底うっとりとした様子でアトリに頬擦りする。もう何か色々と気持ち悪いので警察に通報してやろうかと思うアトリだが、すぐに郁に警察は無力だというのを思い出して消沈した。しっかりしろ国家権力、である。


「相変わらずツンツンなんだから、もう。まあ、そんなつれないところも中々そそられるんだけどね……そう言えば、アトリのご家族はどうしているんだい? ここに住み始めてもう一週間になろうというのに、まったく音沙汰が無いじゃないか。僕としては、君の花婿としてきちんと挨拶しておきたいのだけれどね」

「……母が一人だけですけど、単身赴任先で忙しいみたいですから帰って来るのは年に一度くらいです。この前帰って来たばかりですし、当分は家に寄り付かないと思いますよ」


 突拍子もない質問にアトリは「今更それを聞くか」と呆れるも、渋々口を開き、ぽつりと吐き捨てるようにそう言った。諸事情あって、家族の話題は好きではないのだ。アトリとしては出来れば察して適当なところで切り上げてほしいものだが、この厚かましい綿毛にそういった気遣いを期待するのは無駄というものであった。


「ふうん……それってずっとなのかい?」

「去年からです。まあ、その前からずっと家に帰る方が少ない人でしたけど」

「それじゃあ、アトリはずっと家で一人ぼっちって訳だね。なら、尚更好都合じゃないか」


 そう語る郁は満面の笑みを浮かべていた。確かに、邪魔が居ないというのはそれはもう好都合だろう。一匹きりの羊ほど食べやすいものは無いのだから。郁は熱を上げて更に語りだす。


「僕らが一緒になれば、アトリはもう家族が居ない寂しさを感じなくて済むし、僕は辛く寂しい花嫁探しをしなくて済む。ああ……やっぱりこれは運命だ。僕たちは結ばれるべきなんだよ。ふふっ、案外世の中って巧く出来てるものだね」


 予想の斜め上を行く郁の言動にアトリは呆然とするしかない。席を立ち、ふふふと笑いながら躙り寄って来る変態綿毛に、アトリは本能的な危機感を覚えて思わず後退りした。


「今まで一人で寂しかっただろう? でももう大丈夫だよ。これからは僕がアトリの家族だ」

「……家族?」

「そう、家族だ。これからずっと、おはようからおやすみまで僕が側に居てあげるよ。さあ、手始めに僕の胸に飛び込んでおいで! 抱き締めてあげるよ!」


 おはようからおやすみまでなど、まさに悪夢だ。それ以外の何物でもない。おまけに家族など死んでも願い下げである。家族などもういらない。家族だけは絶対に駄目だ――アトリは郁の気持ち悪い企てから逃げるように後退り続けたが、遂に壁がその行く手を阻んだ。もう逃げ場はない。有効打が出せなくても戦うしかないのだと、アトリは郁を睨め付けた。


「別に寂しくないですよ。家族なんて、馬鹿馬鹿しい……そんなの居なくて良いですから、私の事を思うならとっとと他を当たって下さい。私は郁さんの花嫁なんか嫌です」

「何て事を言うんだい、アトリ。家族が居なくて良いだなんて……」

「本当の事です。ここは昔からおかしい家なんです。専制君主の母に、奴隷みたいな父と私……ここでは全てが母の胸先三寸で決められて、動かされるんです。人間としての尊厳なんて微塵もない……父は弱くても一人前にプライドと理想だけは持っていましたから、度々母に文句を言っていましたけど。結局はそれに耐えきれなくなって浮気相手を作って、母に破滅させられました。私の事にはついぞ眼を向けないままでしたね。……それからの母との二人暮らしは散々なものでしたよ。母は私を自分の分身か人形かと思っているようで、私が不良品にならないよう管理するんです。逆らえば父のようになると散々脅されました――私にとって、家族なんてものは、そんな風に碌でもないものでしかないんですよ」


 そこまで言い切ったところで、アトリは荒げた息を整えながらちらりと郁の様子を伺う。彼はきょとんとしていた。いきなりこんな重い話をされれば、誰だってそうなるものである。ましてや相手は頭から爪先まで恋愛惚けにどっぷり浸かった綿毛。年がら年中ハッピーな頭であろう奴に理解を求める方が無理な話だ。


 そんな事は端から十分に承知しているはずなのに、アトリの胸中は妙に波立って不愉快だった。期待外れ、見込み違い、肩透かし……この感情は紛れもなく失望だ。アトリは、郁を拒絶しながらも無意識のうちに理解を求めたのである。それはアトリにとって何よりもの失態であり、屈辱であった。己の過失であるが、矜持を崩された気すらする。

 既に絆されているとでもいうのか、有り得ない――そんな苛立ちをぶつけるようにアトリは言葉を継いだ。今はとにかく、この綿毛の夢想を一つでも多くぶち壊しておかなければならない。そうしなければ待っているのは悪魔の生け贄という末路なのだから。


「――そんな両親も、学生時代からの付き合いで恋愛結婚なんていうくっつき方だったそうですよ。当初は仲睦まじい夫婦だったとか。それがあんな風に壊れるんです。愛だの恋だのなんて、ガラスと同じですよ。壊れるまでは美しいけれど、何かの拍子に壊れて誰彼構わず何でも傷付ける……そんなものの為に人間を辞めるなんて、馬鹿のやる事ですよ」

「そんな事は無いよ」

「……そんな事は、ない?」

「ああ、そうだよ。そんな事はない。確かに、愛はガラスみたいなものだ。だからこそ、そんな壊れやすいものを大事に守って育んでいく行為は美しい……そして崇高だ。僕らとの婚姻で人間を辞める事は馬鹿のやる事ではないよ。それは愛への殉教だ。劇的で、芸術的で、胸を締め付ける程に美しい行為だよ」


 まくし立てるように口走るアトリを遮った郁の言葉は予想以上にぶっ飛んでいた。語るうちに熱が入ったのだろう。そのデスマスクにも似た生白い顔をうっとりとさせ、妖しげな瞳には到底似合わないきらきらした光を乗せて、少女漫画ばりの気障ったらしい仕草でアトリの手を取った。それら一連の行動は、アトリを「なにこの人予想以上にキモい」とドン引きさせ、帯びていた厭な熱を払い落としてしまう。


「まあ、僕らの愛が壊れる事は無いんだけどね。僕らは人間の男のように薄情じゃない。君がいくらつれなくったって、冷たくたって、僕らは君を愛する事をやめないよ。ずっと側に居て、死んだって放さないんだ。――刻印はそのためのものだ。口約束のような人間の婚姻では安心出来ないけれど、君を僕達と同じにしてしまえば、君は人間の男なんかと一緒にはなれやしないからね。ずっとずっと、僕達だけが君を愛することが出来るんだ。ふふふ……」


 何て、何てキモい奴らなんだと、アトリは更にどん引きするしかなかった。愛の定義からして何かがおかしい。一般的に、好き合った二人のうち一方から愛情が消えたら、もう両者間の愛は壊れたも同然ではないのか。自分が愛してれば大丈夫とか、ストーカーの論理ではないか。大体、呪いめいたもので相手も同じにして縛るという前提からしておかしすぎる。これが魔物の間ではスタンダードだとでもいうのか。


「ちょっと待て、郁さんと同じ……?」

「そうだよ。君の体と魂は徐々に僕達と同じ魔物に作り変わって、僕らの伴侶として長い生と永遠の若さを手に入れるんだ」


 何らかの魔法めいた力の影響ではなく、体と魂の作り替え。明らかになった悍ましい絡繰にアトリは戦慄した。それならば余計にこいつの花嫁になる訳にはいかないと決意を新たにもする。


「これで分かっただろう? 僕らとの婚姻の素晴らしさも、婚姻一つにここまで縛りを付ける僕達の花嫁に対する愛も……だから、もうあんな悲しい事は言わないで、安心して僕らの花嫁になると良いよ。大丈夫さ、きっと君は良い花嫁になる」


 顎を掬おうとした郁の手を払い、アトリは顔を背けた。


「わ、私は良い花嫁になんかなれません。子供は親と同じ轍を踏むんです。よく有る話じゃないですか、虐待されていた子供が虐待する親になっていたなんて。私も、いつかは親と同じように……それに、知っていますか。人から愛されない者は人を愛しえないんだそうですよ」


 自嘲気味にそう呟けば、郁は首を傾げて「ラーヴァターか――可愛いげのない知識だけはたくさん持っているんだね」とこぼして二の句を継いだ。


「それなら僕が、今からでもここに君のための家庭を作るよ。君はまだ大人じゃない……僕が母親や父親の代わりをして、君を育て直して愛してあげるよ。君が将来、幸せな結婚生活を送れるようにね」

「気持ち悪い事を言わないで下さい。私は人間を辞めるなんて嫌ですし、郁さんと家族なんて真っ平ごめんですよ! 私なんかにいつまでも構ってないで、お願いですから他を当たって下さいよ……」


 常軌を逸した気持ち悪い宣言にアトリは悲鳴混じりの抗議をするが、郁がそんなことで彼女を逃がすはずもない。


「嫌だね、僕は君を花嫁にするんだ。アトリ。これは運命なんだよ……ああそうさ、君の悲しい生い立ちを聞いて確信したよ。僕は君と一緒になる為にここへ辿り着いたんだ。きっとそうさ……それに、さっき君は抵抗をやめるって言ったばかりじゃないか」

「郁さん自身から逃げるのは無理そうなので諦めましたけど、花嫁になるのを受け入れた訳じゃないですよ」


 アトリ自身、それが稚拙な屁理屈でしかないとは分かっていても、現状を拒否する手段はもうそれしか残っていない。この変態綿毛の頭に詰まっているのは単なるピンクのおがくずではなかった。もっと悍ましい、人智を超えて病的なピンク色の何かだったのだ。これでは、アトリが常識的に考えて練り出した策など宇宙空間に放り出されたミジンコみたいなものだ。


「もう。またあまのじゃくな事を言って……まあ、そういう素直じゃない所も嫌いじゃないよ」


 次々と頭の痛くなるような気持ちの悪い妄言を抜かす郁に、アトリはやはり見つけた時放置しておくべきだったと悔やむ。これだけ軽くて飛んだ頭なら反応が悪いままだと飽きて出て行くかも知れないと思っていたのに、一週間は経とうという今もこの調子だ。この男の気持ちが萎えるのは何時になるのだろうか。もしかすると永遠に訪れないのではないかと、途方に暮れて弱気になってきた。


「ああ……もう! だから、私には家族も愛も要らないんですって!」

「家族だけじゃなく、愛も要らないだなんて……じゃあ、アトリは何が欲しいんだい。愛以上に貴いものが、この世に有るとは思えないけれど」

「ごく普通の平均的な人生ですよ。人並みの成績、学歴、職業、収入……それに平穏。それに比べれば愛なんて何の役にも立ちませんよ。そんなもののために、こんな所であなたみたいな訳の分からない男の餌食になって平均コースを脱落なんて……」


 そこまで言ったところで自分の心にダメージが来て、アトリは思わず頭を抱えた。郁はといえば、アトリの世知辛い思考に「若いうちからそんな寂しいものの考え方をするのは良くないよ。君はまだ若いんだから、もっと情熱に身を任せないと」と肩を竦め、何か良いことを思い付いたように表情を明るくする。お願いだからこれ以上の妄言は止めてくれというアトリの懇願に似た祈りは、敢えなく叩き潰されるのだろう。


「……そうだ。こうして一緒に居るのだから、これからは僕がアトリに人生のあらゆる悦楽を教えてあげよう。そうすればきっと、その不健全な悲観主義も少しは良くなるよ。そうと決まれば善は急げだ。さあ、まずはベッドに……」

「結局はそこに行き着くんですね、見損ないました。郁さんのお株なんてとっくに底割れしてますけど、それでも見損ないましたよ」


 何をどうしたって、いつも最終的にはこうである。抵抗しても「ふふふ。そんなに照れるなんて、アトリは本当にうぶだね」の一言で終了だ。ある意味では一貫してぶれないと言えるだろうが、アトリにとっては迷惑千万な話でしかない。


 果たして、こんな化け物を撃退できる日など来るのだろうか……そんな塩梅で遠い眼になりつつ、アトリは迫り来る郁をあしらう作業――変態綿毛無間地獄に戻るのだった。


2021/6/1:加筆修正を行いました。

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