2話4節(上)
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自宅に住み着く有害生物を放逐する。そんな目的のもとに導入された、数日間に及んだ幾つかの試み――総称「追い出し作戦」の顛末をここに記す。
◇◇◇◇
作戦その一、ご飯抜き作戦。
食事というのは生きる上での基本であり、人間のように社会性を備えたものにとっては親睦を深めたり、仲間である事を確認したりする為の場でもある。そんな食事を自分だけ用意されない、また、食事の場から除けにされたらどうなるだろう。きっと「自分は歓迎されていない、嫌われている」などと嫌な思いをするはずだ。あれだけひどく自分の作った食事を食べさせる事に執着していたのだから、そういったところの感性は郁も同じだろう。
そう睨んで、アトリは夕食は自分が作ると言っておきながら自分一人の食事しか用意しなかった。「アトリの手料理、楽しみだな」などと能天気にテーブルに着いた郁を無視し、自分の食事だけ並べるのは流石に胸が痛んだ。しかしこれは戦争なのである。敵に情けを掛ける、これ即ち死である――そう冷徹な思考を維持したアトリは黙々と食事を口に運び始めた。計画では見せ付けるように美味しく食べるつもりであったが、そこまでの悪人になりきれないのは、罪悪感など抱いて食べ物の味が分からないのは己の未熟さだと自戒する。
「ねえ、アトリ」
「……」
「ねえったら」
「……何ですか?」
「僕の分が見当たらないのだけれど」
「それは不二さんが招かれざる客だからですよ」
「……アトリ、不二さんは駄目だよ。ちゃんと郁、って呼んでくれないと」
「……郁さんは招かれざる客なので食事は有りません」
食事を再開すると、向かい側の郁は「ふうん」と頬杖をついた。これでやっと自分がここに居るべきではないと理解しただろうか。してくれると良いのだが――ふさふさの睫毛に縁取られたアメジストからは意図が読み取れない。何やら思案はしているようである。
「……分かった」
「分かりましたか」
「アトリは僕と食べさせ合いこしたいが為に、こんな回りくどい嫌がらせに出たんだね。ふふ、良いよ。それじゃあ頂こうか」
違う、そうではないとアトリは机を叩くがもう遅い。都合の良い解釈をした郁はさっさと椅子を隣に持って来て座り、アトリの箸を強奪した。そして皿の上の物を眺め、「君の可愛いお口にはこれが似合うね」とプチトマトを摘まみ上げる。
「ちょっと私の話聞いてましたか? というか、箸返して下さいよ!」
「ああ、勿論。聞いていたよ。君の声無き声もばっちりとね……アトリは素直じゃないから、こんなちょっかいを掛けて僕といちゃつこうとしたんだろう? 僕には分かるよ……さあ、アトリ。あーんしてごらん」
……ご飯抜き作戦はこのように失敗した。分かったのは、中途半端に嫌がらせをすると倍返しが待っているという事だけだった。
◇◇◇◇
作戦その二、閉め出し作戦。
住居というのは生活の基盤となる場であり、人が安心して過ごす為の場所である。同じ家で暮らすという事は、仲間である、或いは家族であるという事の何よりの証だ。そこから追い出されるというのは、集団からの追放と同じである。また、そこに入れて貰えないのは、仲間と見なされていない、よそ者と認識されているという事だ。小さな子供が、家から閉め出されただけで親に見捨てられた気分になるのはそういう理由からではないだろうかと、アトリはそう考えている。
アトリは今度は閉め出す事で「お前は私の仲間でない」と分からせる事にしたのである。
「出掛けたみたい……よし」
郁が食材の買い出しに行った隙に玄関扉の鍵を閉め、チェーンも掛ける。家の窓全てに裏口の戸締まりも完璧だ。これであの変態も入っては来れまい。後は相手が音を上げるまで家に立てこもるだけである。その為にアトリは秘密裏に食料も買い込んで来ておいている。暇潰しの為の漫画やDVDも十分にある。折角だからと、郁が現れてからずっと見そびれていたホラー映画を見る事にした。曇天の薄暗さと嫌な静けさが家を満たす、絶好のホラー日和であったからだ。
そうして薄暗いリビングで適度に肝を冷やしているうち、気が付けば郁が帰ってくるであろう時間が近付いていた。戸締まりは完璧。後は敵との根比べである。アトリは「これで諦めてくれれば良いんだけど……」と溜め息混じりに呟く。窓の外はより一層薄暗くなり、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。それはやがて、四月には珍しい大雨となって窓を強く叩いた。
同時に、映画も佳境を迎えつつあった。大雨のなか主人公が悪霊に追い回されている。仲間は皆悪霊にやられて、もう一人も残っていない。悪霊は暗闇と水煙に紛れて執拗に主人公を襲う。無力な主人公は悲鳴を上げながら逃げ惑う……一瞬だが、主人公と悪霊にアトリ自身と郁が重なった。
――側方の窓からペタペタと音がしたのは、それとほぼ時を同じくしてであった。心臓を跳ね上げさせながらそちらを向けば、帰って来た悪霊……もとい郁が開けて欲しそうに視線を向けていた。傘が無くてすっかり濡れ鼠になった、蝋のような肌のマネキン男の迫力は映画の悪霊以上であった。アトリはそれにビビりながらも敢えて無視してカーテンを閉める。それでもしばらく郁は「ねえ、開けておくれよ」と窓をペタペタしていたが、そのうち窓一杯に手形を残してどこかへ行ってしまった。映画は夜明けに伴い悪霊が消え、エンドロールが流れだしている。主人公は助かったようだ。
「こっちのも消えた……か」
そう安堵しかけたところで、郵便受けがガタガタと鳴って心臓が再び跳ねる。続いて鍵とチェーンが開けられる音がした。そんな馬鹿なと玄関に急行したアトリは玄関扉を開けて入ってくる郁を必死に押し出そうとしたが、力で敵うはずもない。郁は玄関に滑り込むと、寒い寒いと濡れた体でアトリに抱きついてきた。
「酷いじゃないか、アトリ。ダーリンを雨の中閉め出しにするなんて……でも、残念だったね。僕にはこれが有るからちゃんと家に入れるんだ」
しれっとそう言った郁は、合い鍵と蔓を見せつけて優美に勝ち誇ったような微笑みを浮かべる。普通に合鍵を使って鍵を、郵便受けから蔓を差し込んでチェーンを開けたらしい。それなら最初から窓辺になど立たず入って来れば良いものだが、変態で化け物な奴の思考はよく分からない。それよりも問題なのは……
「いつの間に合鍵なんか作ってるんですか……!」
「君が寝ている間に、ちょっと拝借して作っておいたのさ。それよりも、ねえ。雨にやられてすっかり冷えてしまったよ……アトリの肌で温めて欲しいな」
「ちょっと冷たい、冷たい! 離れてください風邪引いちゃいます!」
「だったら二人で温め合おうよ。良い方法を知っているんだ……試してみないかい?」
……閉め出し作戦はこのように失敗した。得られたのは、大きな疲労感と、件の映画はもう見られないというトラウマだけであった。
◇◇◇◇
作戦その三、爆弾発言作戦。
これは悪足掻きの産物であった。いつものように郁に迫られていたアトリは、苦し紛れに「じ、実は私、女性にしか興味が無いんです。だから郁さんとは一緒になれません」と口走ったのだ。当人としては非常にうまい作戦だと思った。何せ、性別は生まれつきのもので変えようがない。郁がいくら言い寄ろうとも「女性にしか興味がない」アトリの心は動かないので諦めざるを得ないはずだ。
……しかし、郁はそのようには動かなかった。郁はアトリの偽の告白を聞くや「なんだ。そんな事が問題だったんだね。ふふ、大丈夫だよ。僕達には、本来の性別や形なんてものは無いんだ。必要に応じて性別と形を変える事くらい、簡単に出来るよ。君が女性しか愛せないのなら、僕は女性に変わるだけだ」と晴れやかな笑みを浮かべたのだった。
そんなえげつない答えにアトリが返す言葉を失っているうちに、郁はみるみるうちに体を変化させてゆき、女性の、それも妖艶な美女の姿を見せる。多くの男性を虜にしそうな、見事なプロポーションを誇示するように腰に手を当て胸を張る姿は圧巻……否、それを超えて視覚の暴力であった。
「さあ、これで問題無いだろう? さてとアトリ、さっきの続きをしようか」
「ううう嘘です! 本当はそんな事ありません! だからそれ以上近づくのは……!」
鈴を転がすような声でいよいよ妖しく生々しい迫力を持って迫り来た郁に、アトリは慌てて自白するしかなかった。痛恨の極みであるが、ここで折れていなければ色々と大事なものを失っていたことだろう。「まあ、そんな事だろうとは思っていたよ」と生暖かい眼で肩を竦める変態綿毛(女性版)は憎たらしいが、仕方がない。
「しかし、こんな嘘を吐くなんてアトリはいけない子だね。これはちょっとお仕置きが必要だ」
……こうして、爆弾発言作戦も失敗。アトリはさっさと元の姿に戻った郁を再びあしらうのに苦心する事となった。
◇◇◇◇
――こんな風に、抵抗の数々は全て徒労に終わった。それどころか相手に暴走の機を与えて事態を悪化させてしまった。また、一連の抵抗で郁の執着心に火を付けた感も否めない。先の三作戦に留まることなく思い付く限りの嫌がらせを行ったにも関わらず、奴がより一層悪化したおめでたい発想でしぶとく生き残ってしまったのは、きっとその所為である。素人のつたない対策が凶悪な多剤耐性菌を産み出したのだ。
「……ふふ。どんな試練を課したって、僕のアトリへの愛は変わらないよ。いいや、むしろ強まるばかりさ――分かるかい、アトリ。君は僕という運命から逃れられないんだよ」
とうとう企てに感付いた郁がそう誇らしげに胸を張る姿は、アトリのやる気を打ち砕くには十分な破壊力であった。ここまでしぶといと本当に打つ手が無い。今やアトリに出来るのは、郁がこの酔狂に飽きるのを身を守りながら待つ事だけだ。
2021/6/1:加筆修正を行いました。