11話1節(下)
「おはよう、アトリ。今日も可愛いね……食べちゃいたいくらいだよ」
そう言って、どさくさ紛れに朝のチューをかまそうとする郁をアトリは慣れた動きでかわす。先日の魔物狩人による誘拐未遂事件以来、郁はアトリが魔物狩人より自分達を選んでくれたと歓喜に沸いている。そしてその高まった愛情は、こうして何気ない瞬間にチューだのハグだのを挟み込んでくるという形で表現されるようになってしまった。まったくもって迷惑な話である。そういう海外ドラマのようなクサイ真似は画面の中で十分だというのに。
――食堂はちょうど朝食の準備が完了した頃であるようだ。テーブルの上には焼きたてのクロックムッシュやシーザーサラダ、コンソメ仕立てのオニオンスープなどが並んでいる。
「どうだい、美味しそうだろう? 今日のメニューは玉ねぎ尽くしなんだ。良い新玉ねぎが手に入ったからね。――知っているかい? 玉ねぎは栄養豊富で、カーマスートラでは媚薬の一つとして紹介されているんだよ。ふふ……」
自慢げに、そして意味深にそう囁くのはいつの間にか背後へ回り込んでいる変態綿毛である。やはりというか最早お約束というか、一度つれなくされたところで懲りる気は更々ないらしい。毎度ながらご苦労なことだ――朝っぱらからカーマスートラだの媚薬だの話題に出されてげんなりしつつ、アトリは改めてテーブルに並ぶ朝食を眺める。よくよく見てみれば、どの食べ物にも玉ねぎが入っていた。それも所謂マシマシと言うべき量であり、彼がいかに邪な思いを込めたかがよく分かる。
「はあ……昔ならいざ知らず、玉ねぎたっぷりのメニューなんて別段変わったものじゃないと思いますけど。朝イチから媚薬たっぷりのメニューを出そうっていう神経だけは正気を疑いますね」
「なんだい。アトリったら今日はいつにも増してツンツンだね。玉ねぎは嫌いかい?」
「玉ねぎは平気ですよ、子供じゃあるまいし。――それよりもです。大丈夫なんですか、みんな玉ねぎたっぷりメニューにして。玉ねぎは媚薬なんでしょう?」
「即効性の媚薬って訳じゃないから、大丈夫なんじゃないかな。アバンチュールで一番大事なのはムード作りだからね」
そう言いながらしれっと尻を撫でる綿毛にムード作りもへったくれもないような気がするが、そこを突っ込めばまた面倒くさいことになるのは目に見えている。アトリは尻を這う生白い手をぺしりと叩き、さっさと着席した。こんなのは日常茶飯事なのでいちいち構っていては日どころか年が暮れてしまう。あしらうだけあしらったら次の行動に移るのが吉だ。
そうしているうち調理場からは玲が、食堂の出入り口からは夷月や朔の哨戒組と識ら朝練組、そして新顔の祐がぞろぞろとやって来た。みんな揃えばいただきますをするのが黒騎士の慣例である。「時間切れのようだね」と郁はそれ以上のアプローチを諦め、自分の席へと戻っていった。
◇◇◇◇
――黒騎士も八人揃うと、だだっ広い食堂にも賑わいというものが生まれてくる。長テーブルに並ぶ人数分の食事なんかは一人っ子のアトリからすればある種の壮観さすら感じられた。まさか一生のうちにこうして大人数で食卓を囲む時が来るとは思ってもいなかったから、なおさらである。
「いいか、アトリ。食事というのは唾液の出かたや内臓の働き如何で消化・吸収の度合いが変わってくる。食事時はなるべくリラックスし、一口一口よく噛んで味わい、食べ物の滋味をしっかり感じるようにすることが大切だ」
まるで田舎のばあちゃんかよく出来た母親のようにそう言い聞かせてくるのは、隣に陣取っている識である。郁とはまた一味違った狂気の光源氏計画を胸に抱くこの男はどうやら食育にも興味があるらしかった。適当に「はいはい」と流し黙々と食事を続ければ「はいは一回だ。それと、食べ物をよく噛むのは良いが、そんな何も面白くなさそうな顔で黙って食べるのは褒められないな」とたしなめてくるあたり、実に面倒くさい。
「今日は玉ねぎ尽くしで健康的ですね! こんなにたっぷり食べたら血液サラサラになりそうです!」
「これで納豆とかあったら最高なのになー。なあ、どうしてうちはいつも納豆が出ないんだ?」
「――納豆は僕が嫌いだから出してないんだよ。要るなら今度から買って来ないこともないけれど……僕の側では食べないでおくれよ」
テーブルの向こう側。「ホントか? やった!」と無邪気に喜ぶ武志とは対照的に、郁はげんなりした顔でシーザーサラダをもしゃもしゃ咀嚼する。この世の悪徳すべてを愛していそうな、あのインモラル極まりない綿毛がうええといった顔で嫌悪感を露にするのは珍しいことだった。
「ふふ……郁は納豆が弱点なんです。覚えておくといいですよ。何かと役に立つでしょうから」
識と反対側の隣からそう耳打ちしてくるのはあの卯月祐だ――奴は他の片割れに先んじてちゃっかり隣席に収まったのだ――。新たな天敵とも言えるそいつに不意討ちで接近されたアトリはげっ、と身を軽くのけぞらせた。それに対しても面白そうに目を細めるのだから、やはりこいつは筋金入りの悪趣味である。あまりというか、もう極力近付かないでおこう……そう決意を新たにしたアトリに祐は甘やかな笑みで今一度身を寄せる。
「そんな他人行儀でなくてもいいんですよ? そうだ。良いことを思い付きました。早く仲良くなれるよう、僕と朝ごはんを食べさせ合いこしませんか?」
「遠慮します。人をからかうのもいい加減にして下さい」
「からかうなんて。僕は本気ですよ? 僕もアトリさんといっぱい仲良くしたいです。ですから、そんなに素っ気なくされたら傷付いてしまいます」
あざとくも唇に人差し指を当てていかにも寂しそうな表情を見せる祐だが、その目は明らかに面白がって笑っている。やはり人を玩具にして遊んでいるのだ。まったく、本当にいい性格をしている。
「おふざけと分かってて引っ掛かる馬鹿はいませんよ。はあ……」
この際腹黒ぶりっこは置いておいて、さっさと朝食を食べてしまおうとペースを速めるアトリ。それに識は何か言いたげな目をしているが、今は食事をゆっくり楽しんでいられるような状況ではないのでスルーだ。
そんな一部始終を見ていたテーブルの向こう側では武志が「振られたな、祐!」と悪意無く言い、夷月が「ハッ。ざまあねえな」と物凄く馬鹿にした笑みを浮かべている。お決まりの小競り合いの前哨戦みたいなものである。これもいちいち構っていたら遅刻してしまうのでアトリは関知しない。――そう。たとえ突如視界の端で銀色が閃いて、ドスドスッと夷月の目前にカトラリーが刺さってもだ。
「ああ、すみません。ついうっかり手が滑ってしまいました」
「はあ? 喧嘩売ってんのかテメエ……表に出ろ!」
冷え冷えとした眼でニッコリと笑う祐に、夷月は狼のように犬歯を剥き出しにし荒々しく立ち上がる。一触即発の雰囲気はまるで龍虎図のようだ。お陰ですぐ側の武志は「やるのか?」と乱入する気満々で、霧月は危険を感じたのかそそくさと机の下に潜ってしまった。その様子に識はまたかと嘆息している。どうやら、祐と夷月がこんな風にいがみ合うのはいつもの事であるようだ。
「おやおや……ただのうっかりにそこまでいきり立つなんて。相変わらず絶望的に単細胞なんですね」
「何がウッカリだ、この野郎! テメエ今殺す気で投げただろうが!」
血が上った夷月に対して祐は辛辣な上、わざわざ慇懃無礼に突っかかって怒らせるのを楽しんでいるようにも見える。そんなだから二人の間に走る緊張感はいよいよまずい感じで、今にも乱闘を始めて食卓を滅茶苦茶にしそうだ。
――そんな中、真っ先に動いたのはいつの間にか現れた緑色の蔓だった。先ほど閃いた銀色よりも速くうねり伸びたそれは、喧嘩両成敗と言わんばかりに祐と夷月の尻にブスリと一撃を加え、一瞬にして彼らを沈黙せしめる。
「やれやれ。困った子たちだね……朝ごはんの席で喧嘩していいなんて、僕は許可した覚えはないよ。今度やったらお仕置きだからね」
常日頃から、食卓の支配者は食事の席での狼藉を禁じている。それを破れば今のように成敗されるか、口に出すもいやらし……ではなく、おぞましいお仕置きが待っている。どうやら、それはあの禍々しい腹黒ぶりっ子の上位存在も例外ではないらしい。識にも夷月にも引けを取らなかった憎たらしいアイツは今や固く冷たい床の上で声なく悶絶している。片手でやられた尻を押さえ、もう片手で呻きの漏れそうな口を塞ぎ、あのとてつもなく冷ややかな空色を涙目にしている様には諸行無常の響きすら感じられた。
驕れるものは久しからずというやつだ――天敵の無残なやられっぷりにちょっと胸がすいたアトリは、ごちそうさまと手を合わせ、食器をまとめてその場を立ち去った。
◇◇◇◇
食後の歯磨きや荷物の用意を終えても、まだ少し時間の余裕がある――。出発までしばしの時間調整をとアトリはテレビの前で今日の運勢コーナーを見ていた。彼女は三月生まれのおひつじ座だ。
「占いですか。今日の運勢が知りたいなら、テレビなどより僕を頼って欲しいものですね」
そう言ってソファー越しに背後から腕を回してきたのは祐である。離してください、とアトリが煩わしげにしても退ける様子は無い。嬉しそうに微笑み、その空色を細めるだけだ。きっと〝人の嫌がる事を進んでやろうとするタイプ〟なのだろう。まったく面倒なやつが来たものである。
「……祐さんは占い師なんですか」
「まあ、そんなものです。タロット占いが得意ですよ」
「タロットには碌な思い出がないのでパスしていいですか」
「だめです……と言いたいところですが。今は時間が無いので今日のところはテレビに譲りましょう。明日からは僕が運勢を教えてあげます。ですから、帰ったら僕にお誕生日と血液型、それと携帯の電話番号とメールアドレスを教えてください」
「誕生日や血液型は良いとして、携帯の電話番号とメールアドレスって何ですか。占いの振りした迷惑サイトですか、あなたは」
「迷惑サイトだなんて、ひどい喩えですね。僕はアトリさんと仲良くしたいだけなのに」
甘い声で息をするように紡がれる寝言をバックグラウンド・ミュージックにして、アトリはテレビへと意識を戻す。このなんだか面倒くさい男に構っていては今日の運勢を見逃してしまう。幸いにも、おひつじ座はまだ出てきていない。一位か最下位であるらしい。
「アトリさんは僕にだけ冷たいです。もしかして、新人いじめとかするタイプですか?」
「変な言いがかり付けないでください。流石に私もそこまで堕ちてないですよ。……心配しなくても、扱いは皆同じようなもんです。いい子ぶってたら付け上がる相手にまで猫を被るなんて、労力の無駄ですからね」
「おやおや。花婿に愛嬌を振り撒くのは労力の無駄、だなんて。そんなひどい事を言う人にはいたずらしないといけませんね……脇を擽られるのと、うなじをすりすりされるのと、髪をくしゃくしゃされるのと、どれが良いですか? せめてものお情けです。好きなのを選ばせてあげます」
「脇とかうなじとか変態ですか。性悪で変態とか救えないですね。やめて下さいよ……やったら朔さん呼びますよ。――って、あ……おひつじ座最下位じゃないですか、やだあ!」
『残念、最下位はおひつじ座の人! 今日一日、めんどくさいトラブルに悩まされるかも……そんなあなたを救うラッキーカラーは銀色!』申し訳程度にトーンを落とした呑気な声が他人事のようにそう告げる。まるで人を見透かしたような内容にアトリは頭を抱えた。ラッキーカラーの銀色が背後の腹黒大王を思い起こさせて、更にもやっとする。
「おひつじ座でしたか。ふふ……僕とお揃いですね。お互い、今日一日最下位の運勢を背負って頑張りましょうね」
「フォローのつもりですか」
何ともまあ、いやな追加情報である。今日の運勢など見なければ良かった。そう思いながらアトリは祐の腕をほどいて部屋を出た。置いて行かれた腹黒大王はそんなこと露ほども気にしておらず、「おや。もう出発ですか? いってらっしゃい。アトリさん」と声をかけて余裕を見せつける。もう奴とは話したくもないアトリだが挨拶を無視するのもどうかと思い、申し訳程度の「いってきます」をペッと吐き捨てた。
◇◇◇◇
腹黒大魔王の手から逃れ外に出れば、爽やかな朝の空気と眩しい日射しがアトリを包んだ。何だか浄化された気分。気を取り直して今日一日をすっきりとした心地で過ごせそうだ。
玄関先には今日の護衛担当である朔と武志、霧月が集まっていた。待ち時間の有効活用だろうか。霧月はスマートフォンでゲームに興じ、武志と朔は徒手組手のような何かを人間離れしたスピードで行っている。……そこら辺によくいる学生と変わらぬ様の霧月は良いとして、武志と朔の格闘など通行人に見られては大変なのではないか。そう思って止めようとしたアトリだが、霧月曰く、この家の敷地には強力な偽装のまじないがかけられており外からは何の変哲もない普通の家に見えるらしい。道理で黒騎士がいくらしっちゃかめっちゃかしても苦情が来ない訳である。
そうこうしていると組手をやめた朔がやってきた。まるで刃物のようなやる気と殺気の高まり具合は街に繰り出せば一発で職務質問を食らいそうな塩梅。ここ最近の朔はずっとこんな調子である。
港湾倉庫での乱入、アトリの逃亡幇助に次いで今度は誘拐未遂。二度ならず三度までも魔物狩人に花嫁を奪われかけたことで、この病的に神経質で物々しい男は悠長になどしていられなくなったのである。一時は「もうアトリを外になど出さない」と監禁に踏み切ろうとし、郁らに「アトリを中卒女子にするつもりか」と反対されれば、今度は「ならば私がアトリに張り付く。寄る害虫は全て刀の錆にしてくれる」とおはようからおやすみまで側に隠れ潜むなど、手の付けられない過保護さであった。……何気なく開けたクローゼットにあの節足動物じみた長身が縮こまるようにして潜んでいるのを見つけた時のことは、未だ忘れられそうにない。
「どうした? 何故、そんな不安げな顔をしている。お前は私が守る……何も憂いに思う必要はない」
原因は敵でも何でもなくあなたなんですが。そう嫌みの一つでも言いたいアトリだが、きりりと凛々しく引き締められた強面や真剣な眼差しを向けられると何も言えない。やり方は非常に迷惑極まりないが、朔自身は大真面目に自分の花嫁を守ろうとしているだけなのだ――まっすぐな眼差しからはそんな気配が痛いほどに感じられて、攻撃的な態度を取るのがどうしても憚られる。そして一生懸命頑張っているだけなのだから少し大目に見ようとか、本当にまずい所だけはフォローを入れようとか、そういった方向に思考が振れてしまう。……控え目に言ってもアトリは十分朔に絆されていた。そんなだから気が付けば「行くぞ」と手を引かれ家を出ている。
はてさて、今日はどんな一日になるのか――「あっ、朔さんだけ手を繋いでます!」「ずるいぞ、俺も俺も!」などとわあわあ騒ぐ霧月らを背に、本日の星座占い最下位の女は朝日を浴びる街を眺める。今日も今日とて、街は平和そのものだ。
2021/8/17:加筆修正を行いました。




