10話5節(上)
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郁ら黒騎士ご一行とともに無事帰宅し、夕飯だなんだと過ごしていたらもう午夜である。アトリは談話室と化したリビングで一人、特に面白くもない深夜番組をだらだらと眺めていた。……これでも一度は眠ろうと二階の自室へ戻ったのだが、とある事情からどうにも寝付けず、取りあえず気分を変えようと下りてきたのだ。
(うう……寝入り端に魔物狩人のこと思い出しちゃうなんて。あんまり気にしてないつもりだったんだけど、やっぱり、あんな事になればそうもいかないか……)
暗い部屋で瞼を閉じるたび、御剣舞の聞くに堪えない悪罵やごみを見るような眼差しがフラッシュバックしてしまう。アトリ自身、強い不快感は感じてもトラウマになる程のことではないと思っていたのだが、化け物でなく同じ人間から殺意や憎悪を向けられるというのはそう生易しいことではなかったらしい。遅効性の毒のようにそれはじわじわとアトリの神経を冒し、吐き気のするような恐怖を励起させる。明日は月曜日だというのに、日付が変わろうという今もテレビの前で夜更かしし続けているのは、それから逃れるためだ。
「……アトリ? 眠ったのではなかったのか?」
「識さんこそ……どうしてこんな所に。もうお部屋に戻ったと思ってましたけど」
「軍議のための情報をまとめ終わったので、一息入れようと思ってな。こちらはそういう用途で使われているのだろう?」
どこからともなく現れ、半開きになった扉からするりと身を滑り入れた識は、相変わらずのアルカイックスマイルで自前のほうじ茶の缶をざっと揺らしてみせた。そしてアトリの側へ歩み寄るや同じ目線にまで膝を突き、頬へと手を寄せる。
「ふむ。顔色が優れないな。精神的ダメージを負っているように見える……郁からカモミールティーは貰ったか?」
「……ええ、帰ってすぐに貰いましたよ。今日はそれでも落ち着かないので、ここにいるんです。――暗い所にいると余計なことばかり思い出してしまいますから」
「ふむ。あれには心的外傷緩和の……恐怖や動揺を和らげ、心を落ち着かせるまじないが掛かっているはずだが。ダメージがいつもより大きくて残ってしまったか。――少し待っているといい。郁ほど強いものは作れないが、今のお前を落ち着かせる程度のものは用意できる」
まるで薬を処方する医師のようにそう言い残した識はキッチンの方へと消える。しばらくすると、湯気を立ち上らせるマグカップ――中身は例のほうじ茶のようだ――を二人分持ってリビングへと戻ってきた。
「飲むといい。体が温まって落ち着くぞ」彼はアトリの前のローテーブルへマグカップを置くと、おもむろに彼女の背後へ回って腰を下ろす。すかさず長い腕を巻き付けるように伸ばして、ちょうど背後から抱きかかえるような形だ。
「何するんですか。公園でもう半年分は引っ付いたでしょう……少しは自重してください」
「まあ、そう嫌がるな。これもケアの一環だ。――知っているか? 海外の大学の研究によると、人間は愛する人に抱擁されると脳下垂体から「オキシトシン」というホルモンが分泌され、ストレスや不安の軽減といった効果を見せるそうだ」
「愛する人にされたらの話じゃないですか、それ」
「つれないな。仮にも俺はお前の花婿なのだが……ふむ。やはり、会って間もない俺はまだ愛するに値しないか」
「そんな、あからさまにしょんぼりしないでくださいよ。まるで私が悪いみたいじゃないですか……値するしないの問題じゃなくて。愛するとか愛されるとか、そんなのよく分からないし、できるとも思えないって話です。――ほら。もういい加減離れてくださいよ」
「生憎だが、それはできない。こうして抱き締めてみて分かったが、今のお前にはストレス性の体温低下が見られる……オキシトシン分泌が期待できなくとも、抱擁は続行するべきだ。こうして俺の体で包んでいれば、多少なりとも体温低下を改善できるはずだからな」
蛸というのは引っ付いたら簡単には剥がれないと言うし、彼もまたそういう質のものなのだろう。識は捕らえたアトリを決して放さず、面倒くさい理屈を並べて密着具合を強めてしまう。……すっかりその場に落ち着いたような空気を漂わせているその様は、お気に入りの蛸壺にへばりつく蛸を彷彿とさせた。
いかにも物静かな文学青年といった風のその地味ななりと同じように、性格も大人しければ良かったのに――体を温めるという名目でぴったりと張り付いた白いリネンシャツに包まれた腕を邪魔くさそうに見つめながら、アトリはそんな無意味なことを考え嘆息した。皮肉にもそうしている間に冷えきっていた体は男性らしい高い体温にじんわりと温められ、揺りかごの中にいるような心地よい脱力感と安心感に満たされてゆく。それは、いくら心を閉ざそうともその閉ざした心ごと包み込み恩恵を与えようとする、識のサルガッソ海じみた包容力の顕現のようであった。
「――ここは居心地が良いな。お前の気配と魔力に満たされていて、とても温かい」
「蛸からしたらあったかい程度の冷たさなんでしょう。……この家は、昔から妙にじっとりして冷たい」
暫しの沈黙のあとに飛び出した、寝惚けているとしか思えない言葉にアトリはそう顔をしかめる。今でもなお、この家の空気も自身の魔力もそんな上等なものだとは思えないのだ。しかし識はそんな反発にもふ、と微笑むばかりで堪えた様子がない。迷惑なことに、この理論家は自身の抱いた感に絶対の自信を持っているようだった。
「昔は、そうだったのだろうな。そんな残り香がする。――だが、今は違う。今のこの家はお前の開花しつつある魔力で満たされ、とても温かい」
「おちょくるのも大概にしてください。上辺と打算だけで何もできない、弱くて汚い人間の魔力がそんな上等なものな訳ないです。……魔力なんか見えないし感じないけど、きっとそうです」
「悪ぶるのはよせ。俺は陰から全て見ていたぞ――お前は非力ではあるが、弱く汚い人間とは違う。片割れ達があんなにものびのびと過ごしているのが何よりの証拠だ」
本当に汚い人間は、郁にいつまでも新婚ごっこをさせてはいない。武志を馬鹿にしたり、疎んだりもしただろう。いくら脅されていようとも巧く朔を裏切っただろうし、霧月を気持ち悪がっていじめたりもしただろう。夷月に媚びて取り入ろうとしたかも知れない。玲に至っては無視か嘲笑の的だ。……そもそも、汚い人間ならば魔物狩人の一度目の襲撃で黒騎士を見捨てている。お前のように味方の損害を我がことのように嫌い、必要とあらば信念を曲げてでも身を挺して味方を守ることはない。――そう述べてみせた識は、更に続ける。
「他の人間にとってどうかまでは知らないが、少なくとも俺達にとっては、お前は十分に優しく温かい。お前は、時に怯みこそすれど俺達の話をちゃんと聞いてくれるし、人間と同じように扱ってくれる。……そんな人間を「弱く汚い人間」などと思う者が何処にいよう」
そう語る識の声に迷いはなく、調査と称した今までのストーカー活動への揺るぎない自信が感じられる。また、同時に「汚い人間」というものへの口振りには一抹の哀しみと真実味がこもっていて、黒騎士が今まで味わった待遇が少し透けて見えるような気がした。黒騎士が揃いも揃って徒人に過ぎないアトリを世界にたった一人の尊い存在のように扱うのは、そういった事情が絡んでいるのかも知れない。
「お前はもっと自信を持つといい。確かにお前は年相応に未熟で、冷たい家庭環境で育ったことによる歪みも見られる……だが、それ以上にたおやかで魅力的だ。さながら砂漠のオアシスや樹海の泉のように、お前には飢えて渇いた者を自然と受け入れ、潤し癒す力がある。俺達のような寄る辺ない者にとっては、人の形をした楽園と呼んでも過言ではない」
「……随分と安い楽園ですね」
「お前から見ればそうでも、俺達にとっては何者にも代えがたい存在だ。――心配するな。至らぬ所は俺が庇護し、教導しよう。お前が一人前の花嫁としてやっていけるように。そして、愛し愛される事が如何なるものか理解できるように……」
いくら別人のような姿や振る舞いをしていても、黒騎士というのは根元は同じものという事なのだろうか。音無識という男もまた、郁と同じように狂気の光源氏計画を抱いているようであった。彼は慈愛たっぷりの優しい声音と真綿のような手付きでアトリを包み込み、後ろからすりすりと頬ずりしてみせる。……そのしっとりと柔らかな感触が妙に心地よいのは、抱擁の毒が芯にまで回ってきたせいだろう。アトリにはそれが思い通りに弄ばれているようで、ちょっと面白くない。
「ちょっと頭が良くて腕っぷしも立つからって、何でも思い通りになると思わないでください。私は、あなたみたいなサトリでストーカーの変態に教え導かれるなんて真っ平御免ですよ」
「ふ……手厳しいことだ。ならば、俺はお前のその頑なな心が氷解するよう全力を尽くすとしよう。ただ……」
全てを見透かしたような態度をするこのサトリに一矢報いるつもりで精一杯憎たらしく吐いた毒も、いい男ぶった余裕の笑みでいなされる。そして、奴はなにか含みを持った口振りでアトリの顎をくいと掬ってみせた。
「ただ、こう何度もサトリと言われるのはやはり歓迎できないな。俺は確かに魔物だが、人間同様に血の通った存在なんだ。血の通わぬ怪異と一緒にされたくはない。他の人間に忌まれるのは仕方ないとしても、花嫁であるお前だけにはそう思われたくはない……」
耳許で囁かれる切実さを伴ったベルベットボイスは鳥肌もので、内容如何は二の次にしてアトリはぞぞっと身震いする。どうもこの蛸男は己の不気味さを計算の内に入れていないらしい。たまらずじたばたと逃げ出そうとするアトリをしっかりと抱え込み、「分かるか? 人間と同じように温かいだろう?」とすっとぼけた事を宣った。
「この身の内には人間のように喜怒哀楽を感じる心だってある……俺は、お前の思うような化け物ではないんだ。そんな風に恐れるのはやめてくれ」
「そういう、問題ではなくて! 行動に、問題が、あるんですってば! 普通の人間がやっても、ものすごーくキモい行動になってるんですよ!」
「キモいなどとは、何を馬鹿なことを。俺の行動のどこに問題が有るというんだ? 俺達は夫婦の関係にあるんだ。これくらいの愛情表現は普通の範囲だろう?」
「本気で言ってるんですか……あ、あなたはちょっと思考回路がおかしいけれどバカじゃない。どうせ、そうやって気持ち悪いことを言っていじめるのを楽しんでいるんでしょう……!」
戦慄の果てにそう威嚇するアトリへ、背後の識はふふっと密やかに吹き出す。完全に馬鹿にされているような反応にアトリは「いい加減、この男を一発殴ってしまって良いのではないか」と拳を握ったが、それは振り上げる前に生白い癖に屈強な腕にしっかりと絡め取られてしまった。しっとりとした長い指が蛸の触手のように張り付く。
「……アトリ。お前は重大な誤認をしている。確かに俺の振る舞いの中にはサディストらしく見えるものも有るだろうが、俺は、好いた女には限りなくマゾヒスティックだぞ」
まあ、それも心が通じ合っているのが大前提だが――そう囁いた識はアトリの握り拳を丁寧にほどいてゆく。それはそれで気持ち悪い台詞だった。この男にはちょうどいい塩梅という概念が無いのだろうか……連綿と続く悪戦苦闘と戦慄の数々にぐったりしつつあったアトリは、とうとうこの一撃で虚脱状態に叩き落とされてしまった。識はそれを人を駄目にするソファよろしく受け止め、華奢な肩をいとおしげに上へ下へと撫でる。
「ようやく落ち着いてきたようだな。体温も平熱程度に戻っている……もうそろそろ、茶を飲んで眠るといい。明日は月曜日だぞ」
落ち着いているのではなく、疲れ果てているのだ――そう反論する間もなく、識は自分のほうじ茶を飲み干して颯爽と部屋から出て行く。ぽつねんと置いて行かれたアトリは所在なく視線をさ迷わせた。あの変態に散々弄ばれたせいで、テレビももう見ようという気はしない。自分もさっさと茶を飲んで、この残された二人分のマグカップを片付け眠るのが良いように思えた。
そうしてようやっと口を付けたほうじ茶は程好いぬるさに変わっていて、アトリはそれを一気に飲み干す。胃に優しい柔らかさを持ったそれは彼女の五臓六腑をほんのりと温め、頭にかかっていた重苦しい靄がすうっと消えるような感覚をもたらした。諸々の片付けを終えて自室に戻り、暗闇の中で目を閉じる頃には、魔物狩人の声も姿も、もうフラッシュバックしては来なかった。
2021/8/14:加筆修正を行いました。




