10話1節(上):舞台に上がる観測者
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黒騎士から離れて普通の人生を取り戻したいアトリと、アトリを永遠の伴侶にしたい黒騎士。四月上旬から続いた彼らの果てしない戦いは、種々様々な紛争を経て、先日――五月上旬のとある日。おおむね快晴――にアトリの無条件降伏をもってひとまずの終結を迎えた。
しかし、残念ながらそれは黒騎士の愛情(という名の妄執)の勝利を意味しない。生まれ持った豊富な魔力のせいで悪夢の軍勢には供物として狙われ、魔物狩人には魔物と同等の危険物として存在否定され……そうした脅威を前に、自身の命と自由を保証してくれるのはまさかの黒騎士だけというありさまになったがゆえ、アトリは大人しく黒騎士と生きていくしかなくなったのである。戦いの終わりはゴールインではなく、やっとこさスタート地点へ立ったに過ぎない。
そんななし崩しで行きずりな結果でも、黒騎士にとっては大きな一歩なのだろう。彼らは大人しくなったアトリを喜びいっぱいに歓迎し、より一層甘やかすかのように溺愛ぶりを強めた。その勢いたるや、愛や温もりに慣れさせるどころかいっそ糖蜜漬けにしそうな塩梅である。……たとえ魔物狩人の弱体化に悪夢の軍勢の盛り返しで日に日に戦いの気配は強まっていようが、それをやめる気など露ほどもない。ゆえにここ最近のアトリの毎日は溺死しそうな程に甘ったるく、それでいてちょっときな臭い。カラメルの海に落ちたなら、ちょうどこんな具合なのだろう。
◇◇◇◇
――そのカラメル的な甘ったるくもきな臭い日々にあって、現在は日曜日のお昼前。アルバイトは夕方からとあって、アトリは遅起きという休日の贅沢をたっぷりと味わってからベッドを抜け出していた。そろそろお腹も空いてきたことだし、いざ遅めの朝食を取ろうというのである。
少々寝過ぎて固まった体を伸びでほぐしつつ、部屋から出る……ちょうどその時に視界の端へセピアとブルーの何かがちらついて、アトリは傍らの学習机に目を遣った。机の上には羊皮紙風の手紙に青い薔薇が添え置かれていた。言わずもがな、差出人は未だ姿を見せぬ文通ストーカーだ。奴はまた不逞にも女子の眠る部屋へ夜分忍び込み、得意気にこれを置いたに違いない。おまけに少々の収奪も行って――昨晩、机の上へ置きっぱなしにしたヘアピンが消えているのに気付いて嘆息しつつ、アトリは青薔薇をよけ封蝋のされた手紙をつまみ上げた。ご丁寧なことに、今日の薔薇も執拗に棘抜きされてツルツルスベスベだ。
(はあ……どうしてこうなったんだか……)
胸中の嘆きの答えは自分でもよく分かっている。初めての置き手紙へ安易に返事を書き加え、手紙のやり取りを許したのがいけなかったのだ。メールも電話も御免こうむるがゆえの苦肉の策であったとはいえ、今思えば愚行としか思えない。お陰であれからというもの、相手にされると分かった奴はこまめに手紙を送りつけるようになり、本当に文通がスタートしてしまった。……再び激化する戦いの中でも文通ストーカーは元気なようで、見ての通りそれは未だ続いている。
うんざりするような手紙の肝心な内容はどのようなものかといえば、それは一言で簡単には表現できないものだ。端的に言うなら、それは他愛もない近況報告であり、アトリの側にいる片割れへの負け惜しみであり、そしてアトリへの愛の告白である……とでも説明すればいいのだろうか。アトリにはアレに似合う適当な語句が思いつかない。手始めに、参考として先日送られてきた手紙の一部を抜粋した方が話が早いかも知れない。
『僕が影で働いている間、君の側の片割れ達は騒々しく愛を囀ずってみせているようだけど……あんなのは軽佻浮薄もいいところで、雅趣の欠片もないよ。真の愛というのはもっと、プラトニックで密やかな関係性の元に育まれるものだ。例えばそう、直接触れる事も話す事も許されない、文通という手段でしか心を交わせない僕らがそれだと思うんだ』
文学的表現をふんだんに散りばめられた流麗な文字たちは、こんな塩梅に郁らアトリの側の片割れへのどす黒い嫉妬を滲ませ、同時にアトリへの熱烈な恋情を漂わせるという器用な真似をする。量さえ間違えなければ、ロマンチスト気味な文系インテリ青年の複雑な心情を反映した恋文に仕上がってくれたことだろう。――そう、量さえ間違えなければ。
実際の文通ストーカーの手紙は呪文集か超大作小説のように長いのだ。その長さといったら、先の抜粋文など爪の先ほどにも満たないほどだ。それが何枚かの便箋にびっしり書き連ねられてほぼ毎日送られてくるのだから、もう恋文というより呪いの手紙である。今もこうして封を破り、インクで黒々としてしまった便箋を広げれば、犇めく文字の一つ一つにぞっとするような重々しい情念が透けて見える。
アトリはそれに「うええ」と溢しつつも、忙しない眼球運動で要点を拾い集め、それからそっと呪いの手紙を封へ戻した――昔から国語や現代文のテストは得意だったので、これくらいはお手の物である――。内容は相変わらずの日刊暗黒徒然草であるので、返事は無難なものに留めておくが吉だろう。文通ストーカーはいつも勝手に盛り上がって、人の文意を都合よく解釈するが、それゆえに何が奴の逆鱗に触れるとも分からない。
第三者からすれば、そんな面倒くさいことをせずともこちらから返信を止めて文通を止めれば良いだけの話に見えるかも知れない。しかし、それがいかに危険な行動であるかアトリは骨身にしみて知っている。……一度、忙しさで忘れていたのを装ってそれとなくスルーを決め込んだら、病んだカノジョのような文面の手紙が一晩にして百通超も送られてきたのだ。だから、あれ以来、無難だろうが何だろうが返事だけは書くようにしている。あんな恐ろしいもので机が埋まり、包丁を持ったヤンデレの幻影を物陰に見るようになるのは二度と御免だ。
「よし……返事はこのくらいで良いか。あとはこのバラだな」
まだ瑞々しさを十分に保つ青い薔薇をアトリは丁寧な手つきで取り上げる。この青い薔薇はただおしゃれの一環で添えられているものではなく、手紙とはまた違った毛色の曰く付きのアイテムなのだが、花自体に罪はない。早く水を吸わせてやろうとアトリは花切り鋏で茎をちょこっと切り、すかさず同じ机に乗るガラスの花瓶へと生けた。これで三本目の青い薔薇は、先客と一緒になると物寂しい感じが消えたように思う。
こんなにも青い薔薇があるのは、勿論、文通ストーカーのせいである。彼はここ二日前から手紙に青い薔薇を添えるということに凝りだしている。その理由はよく分からないが、日毎綴られる文句によれば『青い薔薇の花言葉は「神秘的」。僕らのような闇のものを慈悲深く包容する夜の女神のような君にこそ、この花は相応しい』、『青い薔薇には、「一目惚れ」っていう花言葉もあるんだよ。これで一目惚れせざるを得なかった程の僕の熱情が伝わると良いな』などということらしいので、これは彼なりのご高尚な愛情表現なのだろう。手紙同様、ちょっと重たくて面倒くさい愛情表現である。それも同じく重たくて面倒くさい朔とはちょっと違って、なんというかねっとりとしている。
こんなのが来たらもっと大変なんだろうな。あんまり片割れとも仲良くしたくないみたいだし、少々ごたつきそうだ――アトリはどこか他人事のようにそう思いながら、部屋を後にした。戻る頃には返信用メッセージカードは忽然と姿を消していることだろう。……替えの利くちょっとした小物と一緒に。
◇◇◇◇
気を取り直して、今度こそいざブランチへ。そうして部屋を出たすぐ先には何やら黒い壁のようなものがあって、アトリは危うくそれにぶつかるところだった。どうにか踏み留まって視線を上げれば、それはどうやら軍服姿の朔であるのが分かった。戦闘態勢を完全に解いていないせいか、こちらを見下ろすその顔はいつになく冷徹で厳めしい。それは無力な非戦闘員でしかないアトリにはちょっと威圧感が強すぎて、何も悪いことはしていないのに気圧され尻込みしてしまう。
「お……おはようございます、朔さん」
「アトリ……お前はまだ眠っていたのか。どうした? 具合でも悪いのか」
「ああ……いや。そんなことはないです。ええとその、今日は日曜日だし、アルバイトは午後からなのでちょっと遅起きしただけです。――それより、その格好。復帰が許されたんですね」
「ああ、そうだ。今日より私も本格的な戦線復帰が許された。今し方、午前の哨戒を完遂し帰還したところだ」
「……傷の方は本当にもう大丈夫なんですか」
哨戒に出て帰ってきていることからも分かるように、朔の傷は完全回復したようだ。しかし、彼が負っていたのはただの小さな切り傷ではなく、胴体を斜めに横断するような刀傷。更に言えば、彼はつい昨日まで傷が開かぬよう静養を命じられていた身である。ただ治ったと言われても「大丈夫かしら」という気持ちは付きまとう。朔にはそれが面白くなかったらしい。彼はその鋭く精悍な面持ちを歪め、何やら軍服をごそごそし始めた。
「見ろ――この通り、傷は完治した。怪我もしていない。私はお前が思うほど軟弱な男ではない」
「確かに。ホントにまっさら……って、お、お気軽に脱がないでくださいよ!」
バッと勢い良く脱がれた上衣の下より現れた、傷一つ無い、真っ白くも鍛え抜かれた腹筋におおと納得してしまったアトリだが、はたと正気に返って顔を真っ赤にした。いくら種々様々な変態どもに慣れてきたアトリとはいえ、思春期真っ盛りの少女に変わりない。こんな白昼に異性の半裸を見せられれば人並みに羞恥する。それも、いかにも冷酷そうな堅物が恥ずかしげもなくそうするのだから余計にだ。ギャップゆえの妙ないやらしさがある。
「……何を恥じている? 別にみだりがましいことをしようという訳でも、閨事に及ぼうという訳でもない。ただ傷の有無を確認するだけのことだというのに」
「み、みだり。ねや、って……そういうのじゃなくても、恥ずかしいんです! 思春期っていうのはそういうもんなんです!」
「そういうものなのか? シシュンキというのは話に聞く以上に繊細なものだな」
「思春期を未知の生物みたいに言わないでくださいよ……一般常識ですよ。多分、こういうのは……」
「生憎だが私はお前以外のシシュンキの娘と関わった事は無い」
――それはそうだろう。こんな凶悪な蜘蛛男を手玉に取り、だまくらかし、搾取するだけして捨てる手練手管を持つ思春期女子などいてたまるかという話である。そんなのオジサンを食い物にする援交女子高生どころの恐ろしさではない。
そうして遠い目をするアトリにもお構いなしなのは、もはや彼の持ち味だろう。凛々しい顔付きで先の文句をきっぱり言い切った朔はまたごそごそし始め、てきぱきと軍服の上衣を着込む。そして、何を思ったか節足動物のように骨張った手でアトリの手を包み込み、壊れ物を扱うような手つきで己の頬へと寄せた。祈るように眼を閉じるのは狂信者特有の仕草だ。
「そしてこれからも、お前以外のシシュンキの娘と関わろうとは思わない」
「……朔さんって、時々タラシみたいなこと言いますよね」
「やめろ。あのような浅薄な輩と一緒にするな。私は己の快楽の為に甘言を弄したりなどしない」
「み、みたいなって話ですってば。そんなむきにならないでくださいよ。朔さんがああいうのとは対極の存在だっていうのは、ちゃんと分かってますよ――それよりです。朔さんはどうしてこんな所に来たんです。何か用事があったんでしょう?」
雛形家の二階にあるのは、アトリの部屋と母親の部屋、そして使う者のいない空き部屋二つだけだ。物置扉の向こうの異空間に私室を持つ黒騎士は基本的に立ち入る必要がない。それゆえ、彼らがここに来る時といえばアトリに用事がある時と相場が決まっている。軍服姿を解かないまま来るとなれば、それなりに急ぎの用事かも知れない。
「私がここへ来たのは、お前に任務の完遂と身の無事を報告する為だ。――私はお前に、復活の暁には一層の至誠を尽くすと誓った。お前は私にもっと己を大事にしろと望んだ。こうして帰参する度に姿を見せれば、それらを果たした事の最たる証となるだろう」
難解な言葉ばかり使うから分かりにくいが、どうやら一連の行動は律儀に約束を果たしていることをアピールしたいがためのものであったらしい。禁欲的にしかめられた冷血漢の顔には、仕事を果たした軍用犬のような誇らしげな様子が混じっている。当人は決して口にしないが、それが褒められたい感情の表れであるのはアトリも最近になって分かってきた。……なので、労いの言葉をかけつつ腕を伸ばし、彼の固く引き締まった頬を撫でてやる。頬っぺたというのは朔のスイートスポットであり、そこを柔らかな掌が滑るとどんな顰め面もたちどころにうっとりしてしまう。余程気持ち良い場所なのだろう。
しばらく頬を撫でられ至福の時間を味わった朔はようやく気が済んだらしい。落ち着いた空気を取り戻してアトリから離れた。しかし、その柘榴色の瞳はまだ何か言いたげである。聞けば「……郁が魔物狩人を討つなと言うのだ。奴への雪辱もお前の仇討ちも棚上げしておけと……私にはそれが歯痒い」と怨み言を一つこぼした。この執念深い殺戮者は先日の件で魔物狩人への殺意を更に昂らせているのであるが、それに待ったをかけられ燻っているのである――それでも独断専行に走らないのは元来指揮系統に忠実な堅物ゆえだ。魔物狩人との戦いで突出した時の印象で忘れがちだが、尋常ならざる怒りに駆られでもしない限り、彼が命令を無視することは殆どない――。
「力を削ったとはいえ、奴はまだ五体満足で生きている。いつ何時、お前にその毒牙を剥くとも分からぬ……アトリ、私をお前の影に入れろ。そうすれば私はお前を片時も漏らさず守ってやれる」
「影にずっとですか……? ええとそれは、ちょっとイヤかも……ほら、プライバシーの問題とかありますし」
自分の影というのはいつでもどこでも付いて回るものであり、消えることは無い。そこに朔を招き入れるということは、プライバシーの一切を彼にさらけ出すということに他ならない。また、基本的に影は足元に出来るから下から覗かれ放題であると思う。生真面目な朔はそんなことをしないと思いたいが、見られたくないもの――例えば着替えやスカートの中など――をうっかり見られてしまう可能性はゼロではない。いくら相手が花婿でも、それはあんまりだ。
「それもシシュンキ故か? ……まあ、どうであれお前が嫌だというのなら無理強いはしないが――アトリ、他に私に出来る事は無いのか? 私はお前を守る為なら何でもする……何でもだ」
「朔さん……この期に及んで、まだそんな身を削るようなことを言うんですか。私は一度逃げた奴なんですよ。もう少し、扱いをグレードダウンさせてもいいと思うんですけど」
「その話は終わった事だ。私はお前の過ちを許した。未熟なお前を許し、守り導くと誓った。お前を守るのに手を抜く道理など存在しない。……奪われる事を許す道理もだ」
「はあ」
「分かったなら行くぞ。お前には、私と共に霧月を叩き起こすという任務が有る」
これ以上の異議は認めないということだろう。朔は丁寧ながら力強い手つきでアトリの手を引く。その手がさりげなく固い恋人繋ぎにされるのは、彼なりの溺愛の印か――困ったように眉を寄せたアトリの前の広い背中は何も語らない。そのうち、彼が私服へ早着替えするべく湧き上がらせた黒い靄で背も何も隠れてしまい、真意を読み取るどころではなくなってしまった。
2021/8/8:加筆修正を行いました。




