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9話3節(下)


 ――黒騎士に敗れた舞が去ってから少し経って。周囲から敵の気配が消えて一安心した様子の黒騎士は、魔物としての姿を保ちつつ武器を一旦消し去った。郁以外の四人はそれぞれ何か言いたげにアトリへと近づいてくる。

 郁はああ言っていたが、敵がいなくなればやられるのが裏切り者の常である。全ては己の自業自得とはいえ、狂える花婿達がこれから何をする気か考えれば恐怖心は抑えられない――迫りくる黒騎士のぬらりと光る眼に耐えきれず、アトリは郁の腕の中から抜け出ようともぞもぞするが、彼の腕はウツボカズラのように捕らえた獲物を逃がさない。いよいよ有毒食虫植物系男子の本領発揮という訳だ。


「まだ逃げようだなんて。魔物狩人は君の味方ではないのは、さっきので十分わかっただろう?」

「……魔物狩人の所に行く気はないです。規格外なんてよく分からない理由で一生閉じ込められるなんて、さすがに受け入れられない」

「じゃあ何故」

「裏切り者がおめおめと舞い戻って、ただで済むとは思えないからですよ」

「馬鹿な子だね……僕らがそんなことをする訳ないだろう。あんな誘いに乗って、こんな危ない目に遭ったのには怒っているけどね。だからって酷いことはしない。逃げた子猫にそんな仕打ちをする人間はいないだろう?」


 本当に人を猫か何かと思っているのか。郁はたしなめるような甘ったるい声で、抱いたアトリの喉元を指先で優しくくすぐる。煩わしいはずのそれにどこか謎の安心感を覚えてしまうのだから己の飼い慣らされ具合も大概である――アトリはそんな風に自身を不甲斐なく感じるが、それ以上に予想外のトラブルで傷付き疲弊した心と体が重荷となっており、郁の甘やかしがぬるま湯のように心地好い。そうして毒気の抜けた彼女に安心したのか、夷月や玲ら残りの四人が寄り集まってくる。……いや、完全に包囲されたとでも言うべきか。


「そうです、郁さんの言う通りです! 悪いのはあの魔物狩人ですよ! 私達の眼を盗み、迷えるアトリさんを拐かしておきながら、ゆっるいガードで悪夢の軍勢の攻撃を許すなんて……けしからん奴です! くうう。お陰で私の至宝にこんなひどい傷が……!」

「魔物狩人に惑わされても、アトリは最後にちゃんと戻ってきたんだ。だから俺は気にしないぞ。また取られそうになったら、追い払えばいいだけだしな!」


 黒騎士の中でも精神年齢が幼いような霧月や武志は、にっくき魔物狩人を単純に悪人と見なしているらしい。あくまでもアトリは魔物狩人に誘惑された被害者であり、全ての罪は魔物狩人にあるような口振りで懸命にフォローを入れてきた。本当はそうではなく、花嫁にされた時からずっと黒騎士を裏切り捨てる機会を伺っていたアトリには、その好意がありがたくも少々心苦しい。それを知ってか知らずか、霧月は愛しの花嫁に傷が付いたことに悔し泣きし、武志は何だかぼろぼろな姿のアトリを労るように撫でて元気づけようとした。

 そこへひょこっと入ってきたのが玲だ。不気味なほどに整った生白い顔が後ろにも前にも横にもあるというのはかなりホラーな景色であった。


「ねえ、痛みは大丈夫? 血は止まったみたいだけど」

「あ、ええ……お陰様で。今はだいぶ平気です」


 玲はビスクドールめいた美貌を心配そうに曇らせている。ここにきて初めて、この青年の感情らしい感情を目の当たりにしたような気がする。今まで穏和な微笑み一色で静かな狂気を見せていた人物とは思えない姿だが、あれは戦闘用の顔だったのだろうか――そんなアトリの戸惑いをよそに、玲は深淵のように底知れない翡翠の瞳に安堵の色を浮かべた。どうにも取り留めがない人物である。


「なら、よかった。郁から連絡があって、別動隊の僕も大急ぎで君の気配をたどって駆け付けたけど……ちょっと間に合わなかったみたいでヒヤッとしたんだ。取り返しのつかないことにならなくて、本当によかった」

「みんなアトリのことを心配してたんだぞ? いきなり身代わり札と入れ替わって消えちゃったから、最初はちょっとしたパニックだったんだからな。――郁だけはいつかこうなるって分かってたみたいで、夷月の報告を聞いたらすぐ俺たちに命令飛ばしてきたけど……とにかく、すっごい心配したんだからな!」

「本当、一時はどうなるかと思いましたが……早く見つけ出せてよかったです――今回は緊急でしたので、携帯の電波を辿って居場所を特定しましたが……電話回線は総務省付きの雷神一族が監視していますから、ちょっとリスキーなのです。いつも出来る方法ではないので、もう二度とこんな危ないことをしないでくださいね? むーちゃんからのお願いです」


 互いの発言が被るのも気にせず口々にそう言う彼らには焦燥の名残が浮かんでいて、今回の逃亡が寝耳に水であったことが窺えた。まさか学生を使って靴箱に手紙を置かせるなどという手法で警戒網をすり抜けるなど、学生生活とは程遠い化け物にはちょっと考え付かないことであったのだ。――もっとも、それも郁に限っては想定の範囲内だったようで、逃亡発覚後の対応は迅速だったようだが。やはり恐るべきはクレイジーサイコスパイダーでも何様俺様な狼男でもなく、この抜け目ない変態綿毛なのである。


「それにしても……なあ。なんで魔物狩人を逃がしたんだ? あいつも敵なんだから、早く始末した方が良いだろう?」


 不安だった心情を吐き出して一段落したのだろう。武志は敵を撤退させたことへの不満を露に、いかにも不完全燃焼といった塩梅で唇を尖らせる。多くの動物が自分のメスを奪いにきた敵を許さないように、このケダモノもまた、自分の花嫁を奪おうとした魔物狩人を許さないつもりであるようだ。


「あれが僕らが与えられる最大のダメージだよ。魔物狩人も一応、人間だからね……君だって分かっているだろう? 人間を殺すなんて善良な一般市民がやっていいことじゃない」


 年少の兄弟を諭すような口ぶりの郁は、つい先ほど「その気になればやれないこともないんだぞ」と脅しを掛けたのも忘れているのだろう――そもそもの話、善良な一般市民は銃刀法違反も決闘もしない――。嘆かわしいことだが、こういった限定的な健忘症もといご都合主義は黒騎士の十八番(おはこ)であった。だからといって、突っ込んでいたら日が暮れて明けてしまうだろうから、何も言わない。言わぬが花というやつだ――どさくさ紛れに解放されたアトリは、そんな具合に目の前のやり取りを半目で見ていた。


「霊力不活性化の呪いでほとんどの術が使えなくなる……術頼みのあの子は魔物狩人として死んだも同然だよ。まあ、永続式ではないから一、二か月程度の足止めが関の山だろうけど、それだけ時間があれば十分だ」

「中途半端だなあ……どうして二度と霊力が使えないようにしなかったんだよ」

「魔物狩人は一人じゃない。お仲間が永久に休業させられたとなれば、流石に相互不干渉の彼らでも報復に出てくる。魔物狩人なんていうのはね、生かさず殺さず寄せつけないのが一番なんだよ。だから呪いも短期間で完全に解除できる軽いものにしたんだ。その間に皆を集結させて磐石の態勢を築き、先に悪夢の軍勢を片付けるためにね……しなくても良い二正面作戦なんか、僕はする気はないよ」

「うん、うん……悪くない作戦だね。アトリが魔物狩人の所へ行けなくなった今、対策は後からじっくり行えば良いものね」


 そう賛同する様子を見せる玲とは違い、武志はまだ納得がいかないようでむくれている。敵を敵とすら見ず道端の虫や石ころくらいにしか思っていない玲と違い、武志は魔物狩人を敵として単純に憎んでいる。その分なかなか強情なのだ。


「そんなことができるなら、夷月が追い詰めた時にやらせれば良かったじゃないか。そうしたら俺たちも家にこもってなくて済んだし、アトリだって怪我しなかったのに」

「駄目だよ。いーくんはそういうの得意じゃないもの。呪いは術式を編む繊細な作業が必要なんだ。それにもって式神四羽と魔物狩人の相手も同時にしながらなんて、とてもじゃないけど無理なんじゃないかな」

「彼はがさつだからね。結局のところ、これが最速のタイミングだったんだよ」

「それなら、まあ……仕方ないな。夷月にそんな難しいことさせたら大惨事まっしぐらだもんな」


 玲や郁は口々にそう言い、ようやく武志は矛を収める気になったようだ。しかし、それに納得いかないのが説明のためとはいえ唐突にボロクソ言われた夷月である。それでなくても普通に誰でも怒るような酷い扱いだが、誰よりも負けず嫌いな彼にとっては起爆剤もいいところですらあった。


「……誰ががさつだ! 黙ってりゃ人の事を術もまともに使えねえイモ野郎みてえに言いやがって!」

「だいたい本当のことじゃないか。君に魔物狩人の無力化なんて任せたら、加減を間違えてうっかりでポックリだよ」

「そうだよ。いーくん、現実はちゃんと受け止めないと」

「うるせえ、バカヤロー! いーくん言うんじゃねえって、さいさい言ってんだろうが!」

「うわあ。いーくん、こわーい」

「まったくだよ。そんな恐い顔をしているから、アトリにチンピラ扱いされるんだよ? もっと紳士的になったらどうだい」

「くっそ……言ってろこのカマ擬きどもが!」


 一噛みつけば二どころか十も反撃を受ける窮状にへそを曲げた夷月は、とうとう玲らにそっぽを向いてしまった。口喧嘩で押し負けたことが悔しくてしょうがないのである。そして、輪の外で傍観者として成り行きを見守っていたアトリにガン飛ばしながら近寄ってきた。

 郁をはじめとする気の穏やかな方の黒騎士はほぼ不問で済ませるつもりのようだが、このアウトローじみた狼男はそうではなさそうだ。平手の一発くらい飛んでくるかも……不機嫌にぎらつかせた金色にそんな不穏な直感を覚えたアトリは脊髄反射で身を固くさせ、亀のように首を引っ込めた。とうとう鼻先が擦れ合う至近距離に来た夷月は、指貫グローブに包まれた獣人の手をむんずと持ち上げる――。


「ちっ。元はと言えばテメエが(わり)ィんだ。魔物狩人なんざに担がれて、勝手に逃げて、勝手に怪我しやがって……人間なんざ、すぐ壊れて死んじまうんだ。テメエもまだほとんど人間なんだからな。んな無謀な事、二度とするんじゃねえぞ」


 思いっきり顔をしかめて悪態をついた夷月だが、予想とは裏腹に持ち上げられた手がアトリを張り飛ばすことはなかった。恐怖の対象であったその手は彼女の頭頂に置かれ、その柔らかな紅茶色をガシガシ撫でくり回している――硬い獣毛が地肌をざりざり擦って妙な感触だ――。まるで親狼が子供をグルーミングするような仕草は、アトリの居場所は他でもないここなのだということを教えているようだった。そのまま、改めて安否を気遣うように鼻先すんすんとひくつかせ、うなじや首筋、鎖骨の真ん中を辿ってゆく。不意に「血の匂いがする……」と何とも言えない吐息混じりの声を出すあたり、やはり変態には違いなかったが、それでもアトリを害する気は無さそうだった。


 黒騎士から感染しつつある再生力で血の跡以外元通りとなった左腕へと夷月の鼻先が近付く。血の匂いではない何かを嗅ぎ付けた彼は、露骨に不快そうな顔をして鼻を鳴らした。身だしなみについては毎日それなりに気にしているつもりだが、そんなに悪臭がするのだろうか。それもピンポイントで――ロマンの欠片もない無味乾燥なアトリとて年頃の女の子である。自分の匂いを嗅がれているなかで臭そうにされれば、そんな懸念と羞恥で顔を青くしたり赤くしたりしてしまう。


「ムカつくぜ……テメエの腕、まだ魔物狩人の臭いがぷんぷんしやがる。お前は俺のもんだっつうのによ――まあ、今日逃げてみて十分懲りただろ。お前の味方になるような奴なんざ、俺らくらいのもんなんだからな」

「……そっちの臭いでしたか」

「それ以外に何があんだよ」


 懸念を払拭されてほうと安堵のため息を吐くアトリにもお構いなしに、夷月は彼女の腕を自分の手でごしごしと擦る。どうやら自分の匂いを付けようとしているらしかった――よほど魔物狩人の臭いが気に入らないのだろう。しつこいほど念入りだ――。そんな仕草がまるで犬みたいだと思ったアトリが「お手」と手を出すと、彼は反射的に手を乗せてきた。……すぐ我に返って「俺は犬じゃねえ、狼だ! んな事やらせるんじゃねえ!」と怒ってまたそっぽを向いてしまったが。それと入れ替わりに寄ってきたのが郁である。


「分かっただろう? 僕らはこんな事で君を見放したりしない。だから、もう僕ら以外に身を預けようなんて考えてはいけないよ」


 これが自分たち黒騎士の総意だと言いたいのだろう。ちょっとばかり自慢げに、そして溢れんばかりの包容力を込めてそう囁く郁。夷月の態度にしてもそうだが、黒騎士は本当にアトリを許すつもりらしかった。裏切りに踏み切った以上、黒騎士に捕まれば何らかの報いを受けることになるだろう――そう覚悟していたアトリには到底解せない話であった。あんまりに甘い処遇に一抹の気持ち悪さすら感じるので、つい身を固くして後ずさってしまう。


「本当に許すんですか……? 私、裏切ったんですよ? あなたたちと一緒になれば人間じゃなくなる。それだけならまだしも、日毎あなたたちに絆されて私が私じゃなくなっていく……それが嫌で、恐くて、気持ち悪くて離れたんですよ?」

「許すもなにも、裏切りだなんて大袈裟さ。言っただろう? こんなの子猫が逃げ出したほどにもないって。僕らは一途な男なんだ――それにね。そろそろそういう反応が出る頃だとは思っていたんだ。信じていない、むしろ存在を否定さえしてる愛や温もりを与え続けられれば……その上、自分がそれに影響され始めたのを自覚すれば、嫌で恐くて気持ち悪くなるのも自然な反応だからね」

「……よくお分かりで」

「当然だよ。愛や温もりを知らない君を育て直すと言ったのは僕だからね。どうせ、僕らと一緒にいないと魔物の生け贄か隠れ里に一生幽閉なんだ。このまま絆されるのを受け入れてみたらどうだい?」


 憎々しい口振りも蛙の面に水で、郁はいかにもキザったらしい流し目でアトリの頬を撫で、腰を抱いて戯言を並べる。いつぞやかに言い散らかした段取りの錯綜した光源氏計画も、父母役始めキャストの九割超は全て自分という頭がいかれているとしか思えない家族ごっこも、奴の中では今現在進行形なのである。

 どんな困難に見舞われようとも諦めない姿勢は敵ながら天晴れと言うほかないが、その果てしなく続く変態の執念を一身に受けるこちらからすればたまったものではない――一体、日に何回ドン引きすれば良いのか。アトリは絡みついた毒花の腕を一生懸命外そうとしつつ、やはり今日何回目かも分からない嘆息をした。


「ハア……この期に及んで何を言ってるんです。本気ですか?」

「もちろん、本気だよ。君の拒絶反応はたぶん一時的なものだ。今までの人生との温度差に戸惑っていると言うのかな。今の状態が普通に感じられるようになれば、そういった不快感も消えると思うんだ」

「思ったより真面目なことを言い出しましたね……変なものでも拾い食いしましたか」


 変態のくせしていきなりカウンセラーのようなことを言うものだから、アトリも変に力が抜けてきょとんとしてしまう。それをいいことに郁は彼女をひょいとお姫様抱っこして、体ごとすり寄せるように頬ずりする。今度はおまけに額へキスを落とすなど、熱烈さが増していた。綿毛の頭の中に詰まったピンク色のおがくずは、すっかり能天気な新婚熱々モードに戻ったのだろう。


「僕は至って正常さ。いつだって君の凍えた心を温めることだけ考えているよ――さてと。もう邪魔者は追い払ったし、君は僕らの腕の中へ戻ったんだ。そろそろ難しいことはなしにして、僕らの愛の巣へ帰ろうじゃないか。今宵はどろっどろに甘やかして、僕らの愛情を再確認させてあげよう」


 鳥肌が立つようなウィスパーボイスの戯言は悲鳴を上げて逃げ出したいほどの気持ち悪さだが、木々を風のように駆け抜け始められれば、もうどうしようもない。大人しく抵抗を諦めたアトリは耳に残るぞわぞわを我慢して、振り落とされぬよう郁の軍服の胸元をきゅっと掴んだ。


 気持ちの悪い花嫁育成計画に乗せられるのは癪だし、裏切っておいて出戻るなど大いに抵抗がある。しかし、規格外という訳の分からない体質で魔物狩人の救済対象から外れてしまった今、自分の味方となるのは黒騎士だけ。少しでも無事に生き延びたければ、黒騎士と共生することを受け入れるしかないのだ。彼らがまだ寛大であるうちに――そんな、こずるい女の業の深さと醜さ丸出しの思考にアトリは我が事ながら嫌気が差す。あまりに居たたまれなくて現実逃避するように身を丸めれば、頭上の悪魔はくすぐったそうに笑みを漏らして抱擁を強めるから、なおさらである。



2021/7/3:加筆修正を行いました。

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