9話1節(下)
リビングキッチンに来てみれば、今しがた配膳を済ませたらしい朔が席に着こうとしていた。アトリと顔を合わせた彼は「朝食は出来ているぞ。さあ、座れ」とぶっきらぼうながらも穏やかな調子で彼女の椅子を引くが、その背後で未だぎゃんぎゃんやっている夷月と霧月の姿を認めるや否や、禍々しいまでの不穏な空気を醸し出し始めた。
「この馬鹿どもが……私を捨て石にして逃げ出したかと思えば、抜け駆けなど企み油を売っていたか……!」
「わ、わわわわわ……! すみませんすみません! 出来心だったんですう! 明日からちゃんとお手伝いしますう!」
テーブルを離れ、ただならぬ威圧感を発しながら処刑の構えを取りだす朔に霧月は震え上がる。まだ傷が塞がったばかりで、激しい運動を禁じられ、未だ療養を命じられている朔だが、既に家の中を自由に動き回る程度には復活している。奴は関節技地獄くらいなら容易に繰り出せる危険性を取り戻しているのだ。霧月が脊髄反射レベルの素早さで土下座するのも、仕方ない事と言えば仕方ない事であった。一方の夷月はといえば「やんのか? あぁ?」とメンチを切り、それに朔も殺気立って一触即発の雰囲気だ。非常に、非常によろしくない。
「おおっ? なんだなんだ、ケンカか?」
そこに庭先での自主トレを終えた武志――ちょっと汗臭い――が入ってきた。こちらはつい数日前まで絶対安静のミイラ男であったが、今ではもうすっかり元通りで元気いっぱいだ。黒騎士というのは本当に、刀傷だろうと複雑骨折だろうとすぐ治るものらしい。恐ろしい話だ……そう嘆息したところで自身も向こう側へ行きそうな身であるのを思い出して、アトリは胸中でうなだれた。
ともかく、問題は武志である。昨日復帰許可が出るや否や、「よし、ちょっと運動してくる!」と夷月を拐い、日が暮れるまで山奥で元気に死合っていたような化け物がこの状況を放っておく訳がない。祭りを前にした子供のようにアクアマリンの瞳をきらきらさせ、既に臨戦態勢に入っていた。こんなのが喧嘩に加われば、たちどころに乱闘となり、リビングキッチンは跡形もなく粉砕されるだろう。
黒騎士が喧嘩するのは彼らの自由だが、家を破壊されるのだけは勘弁してもらいたい。そのためにはあの恐ろしい化け物の間に入らなければならないが、それでは自分の身が危うい……そうアトリが懊悩していた時だった。緑色の何かが舞うように閃き、今にも互いへ躍り掛かりそうな猛獣どもは床に崩れ落ちた。揃いも揃って尻を押さえて悶絶している。とうとうラスボスが出てきてしまったのだ。
「いけない子たちだね。家の中で本気の乱闘はしちゃ駄目だって、昨日も言ったばかりじゃないか。そんなにお嫁に行けない体にされたいのかい。まったく……ほら、さっさと席に座るんだ。せっかくの朝ごはんが冷めてしまうよ」
凶器となった緑色の触手蔓を幾本もゆらゆらさせ、お決まりの叱り文句でぷりぷり怒る悪趣味なフリルエプロン姿の綿毛。奴こそがキッチンの支配者であり法律であるのを、哀れな犠牲者たちはうっかり忘れていた。
――自身も大概であるがゆえに普段は割と寛容な郁だが、おいたの過ぎた片割れには容赦ない。お仕置きはその時々によって変わるが、何であろうと沈黙せざるを得なくなるえげつない攻撃であるのは確かで、黒騎士の面々はそれを恐れているようだった。誰だって口にするのも悍ましい辱しめを受けるのは嫌なのである。……手段としては何ともアレだが、こうでもしないと個性の強すぎる連中をまとめ上げるのは難しいのかも知れない。
そんな訳で、目の前の惨劇に身を寄せ合い震えていたアトリと霧月はササッと着席し、素知らぬ顔でいただきますした。誰だって自分の身がかわいいのである。犠牲者三人ものろのろと各々の席に着く。ドーナツクッションを敷いた方が良いようなありさまだが、それも持ち前の回復力ですぐどうでも良くなるのだろう。
◇◇◇◇
「……ったく、ひでえ目に遭ったぜ」
「ほとんど自業自得じゃないですか。ご飯時にあんな事すれば郁さんにやられるって、私でも分かりますよ」
先ほどの辛苦を思い出しつつ、鰆の西京焼きと白飯をがつがつ喰らう夷月にアトリはすかさずダメ出しする。武志や朔もそうには違いないが、特にこの男の場合は自業自得以外の何物でもない気がするからだ。憤っている朔にわざわざ喧嘩を売るなど愚行としか言い様がない。
「お説教か? はっ、これだから優等生サマは……おい、郁。メシおかわりだ。それとそこの余ってる鰆も貰うぜ」
「あーっ! それ俺も狙ってたやつだぞ!」
「だから何だよ。こういうのは早い者勝ちだ」
箸でひょいと鰆をさらった夷月はこれ見よがしに戦利品へかぶり付く。おまけに涙目になっている武志へ勝ち誇った顔をしてみせるなど、どこまでも大人げないイヤな奴だ。茶碗へご飯をよそった郁も嘆息している。
「……意地汚いですよ、夷月」
「んあ? これくらい普通だろ……つうか、てめえは少食なんだよ。俺みたいにもっと食え。でねえと出る所も出ねえだろうが」
「ああ、ああ、そうですか。獣避けになるなら、喜んで一生スレンダーボディでいますよ」
反省する様子もないだけでなく、臆面もなく十代女子の体型に口出しする不逞野郎には付き合いきれない。お返しに皮肉をぶつけたアトリは奴にそっぽを向いて食事を続ける。後ろで何やら言っているが、振り向かず黙々と味噌汁を啜った。白ネギとなめこの旨味が気だるい体に沁みる。
そんなアトリの視線の先では、朔が今まで以上に朝食をよく食べていた。こちらはリベンジに燃えて力を付けようとしていて、ただの食事とは思えぬ物々しさである。
「……郁。雷獣の生き肝はいつになったら出せる。私が頼んでもう二日経ったぞ――あれを食えば修復などすぐ済むのは貴様も知っている筈だが」
「雷獣の生き肝かい? あんなとんでもなく高価なものを食べなくても、あと数日もすればばっちり回復するよ。君は平素からちょっとワーカホリックなんだ。生き肝を食べるより、休む時はしっかり休むことを覚える方が先だよ」
すげなく却下された朔はぐうと唸りつつ胡瓜の漬物をかじる。薄々分かっていたことだが諦めきれない、そんな雰囲気だ――生き肝を欲するなど、いよいよ化け蜘蛛じみてきたように思う――。その脇で霧月や武志が「あんな不味いのを食べるなんて!」と顔を青くしている。ほぼ毎回、敵から取り出した謎の球体を食っている彼らが引くのだから、それはもう人智を超えた不味さなのだろう。
「何なんですか? ライジュウの生き肝って」
「雷獣っていうのは落雷と共に現れる妖怪だよ。人間の伝承では鵺みたいに色々な姿で伝わってるけど、異形が雷獣って呼ぶのは雲の中に棲んでるアナグマかタヌキみたいな獣さ。――雷獣は雷を起こす妖怪だから、その生き肝に宿る魔力はべらぼうに大きいんだ。おまけに栄養価もすこぶる高い。人ならざるものにとっては、効き目抜群のエナジードリンクみたいなものなんだよ。物凄く貴重で高価な上に死ぬほど不味いのが玉に瑕だけどね」
何でもないことのようにそう語る郁だが、アトリは妖怪も食い物にされてしまう異形社会の実情にロマンのなさと世知辛さを感じてしょうがない。妖怪というのは普通の生き物と違って弱肉強食の理や生態系の外にあるものだと、心のどこかでそう信じてきたのだが……現実は非情だ。
とにかく、生き肝が食べられないと知った朔は未練がましくたまらない様子で、アトリの方を縋るように見つめる。まさか私の肝を食べるつもりなのかとアトリは身を硬くするが、どうやらそういうことではないらしい。
「ゆっくり休んでなどいられるか。悪夢の軍勢だけではなく、魔物狩人も出て来たのだ。私がアトリを守ってやらなければ……」
「あ、ああ……そっちなんですか……私なら大丈夫ですよ。郁さんから新しいお守りを貰いましたし、今は武志や霧月さんや夷月がガードしてくれますから。だから、朔さんは無理せず養生してください。守ってくれるのは元気になってからにしましょう?」
「アトリ……お前というやつは……」
食われなくて良かったという安堵半分、実はまだ離れる気満々なんだよなという後ろめたさ半分で、アトリは今日も朔に嘘を吐く。相変わらずバカ正直にアトリを信じている朔は、優しい言葉と微笑みに心地良さげな表情を浮かべた。騙している本人が思うのもおかしいが、こんな体たらくでは悪い女に騙されまくりなのではないかと心配になってくる。……そんな二人の世界に割って入ったのが夷月だ。
「珍しい事も有るもんだな。てめえみたいな冷血野郎がこんなちんちくりんにそこまで入れ込むなんざ」
「夷月、貴様ァ……! アトリの慈愛を受けている身でアトリを愚弄するのか!」
どうしてそこでわざわざ敵を作るような真似をするのか。アトリには理解出来ないが、どうもこの男は自分が蚊帳の外に置かれると難癖を付けながら輪の中へ入ろうとする癖があるような気がする。まるで一昔、いや二昔前のガキ大将のようだ。会話に加わりたいなら普通に話せばいいものを、やたらめったら全方位に喧嘩を売るとは、奴はある種のマゾヒストなのかも知れない。――それはともかく、今は朔を宥めるのが先だ。また喧嘩になってあの悪魔の蔓がうねるのをアトリは見たくない。
「朔さん、そこまで怒らなくても。夷月のあれは野蛮人なりの日々のレクリエーションみたいなものですから、私はそこまで気にしてませんよ」
「……そうであっても私が許せない。誓約を守れなかった私を赦し、見捨てず世話し続けてくれたお前にあのような侮辱など!」
ここのところの看病で朔はすっかり逆ナイチンゲール症候群にかかってしまったようだった。アトリへの侮辱は自分への侮辱。アトリの敵は自分の敵――愛着も過ぎれば劇物になるようで、逆ナイチンゲール症候群は朔が元来持っていたそんな危うい姿勢をより一層強化する運びとなってしまった。こんな状態でアトリの背徳を知った日には、憤怒を通り越してショック死してしまうのではないだろうか。そんな一抹の不安を抱えつつ、どうどうと優しく宥めてやれば暴れ馬ならずの暴れ蜘蛛は段々と落ち着きを取り戻し、心地良さそうに眼を細めた。良くも悪くも素直というか単純な奴である。
「歯痒いものだ。こんな狂犬にお前の守りを任せなければならぬなど……」
「ちっ。どいつもこいつも人を犬扱いしやがって……安心しろよ。何かありゃすぐキレて我を忘れる単細胞のテメエよりはずーっとましだ。魔物狩人が来ようとこいつはきっちり守ってやるよ」
「何だと貴様」
「やんのかコラ」
とうとう立ち上がって睨み合いを始めてしまった。せっかく宥めたのも水の泡だ……鋭い眼光をぶつけ合い火花を散らす血の気の多い野郎どもにアトリが脱力していると、かたりと控え目な音を立てて郁が立ち上がった。荒々しい二人とは違い、こちらは指先の動き一つにすら品の良さを感じさせる優美な所作であったが、その背には有無を言わせぬ重圧めいた迫力が渦巻いている。とうとう堪忍袋の緒が切れそう、といった塩梅だ。
「ねえ。そんなにお嫁に行けない体にされたいのかい?」
いつも余計なまでに饒舌な郁がたった一言、それだけ言ってニッコリと微笑んでいる。奴は今度こそ本気で二人を悪魔の蔓の餌食にする気だ。端から見ているだけで怖気がするのである。いよいよ本当に口にするのも悍ましい仕打ちが差し迫った二人の恐怖はいかばかりか。いい加減喧嘩せず食べろと言われ大人しくなった彼らは、心なしか尻を守るように身を縮めていた。
◇◇◇◇
「お手伝いをしなかった子にも何か仕事を割り振らないとね……霧月は結界の補強、夷月はアトリの送り迎えにゴミ出しを追加だよ。武志は……そうだね、庭の草むしりに行っておいで。花壇の植物まで抜いちゃ駄目だよ」
食後、そんな郁の指示とともに霧月と武志は出かけて行き、朔は養生するため自室へ戻っていった。夷月はよく分からない。ゴミ出しにでも行ったんじゃないだろうか。
アトリはといえば身支度を整えて鞄を持ち、家を出るにはまだ早いのでソファーでテレビを見ていた――今日のおひつじ座の運勢は四位とまあまあだ――。その隣に陣取った郁が何やらもじもじしているが、どうせ碌でもないことだろうとスルーを決め込む。しかし、そんな事で完全復活した食虫植物系男子が諦めるはずもない。
「アトリ……流石の僕だってね、そんなに冷たくされると胸が痛むよ?」
「加齢からくる神経痛じゃないですか? 年齢だけで言えば百歳オーバーの超後期高齢者ですし」
「酷いことを言わないでおくれよ。僕は人間換算なら十八、九歳くらいの若者だって言ったじゃないか……それよりもだ。もっとずっと大事な話が有るんだよ、アトリ」
「大事な話……?」
「そう。大事な話。今日は僕とアトリが出会って一ヶ月の記念日だよ」
カレンダーに眼をやれば、なるほど確かに今日は忌まわしい変態綿毛と遭遇してちょうど一ヶ月となる日だった。日付が赤いマジックペンで囲い込まれていて、その下には流麗なカッパープレート体で「One month anniversary♡」などと書き込まれている。鬱陶しいくらいに記念日を大事にするこの男は、以前にも「出会って一週間の記念日」などと宣っていたように思う。ギャルかと突っ込みたくなるような思考だ。……もっとも、こいつの場合はそれを口実に如何わしいことをしたいだけなので、ギャルに失礼かも知れないが。
大事な話というから何かと思えばそんなくだらない話なので、アトリは拍子抜けすると共に視線をテレビへ戻した。だが、それを良しとしないのが不二郁である。距離を詰めてプリーツスカートの上の手を握った彼は、ふさふさの白い睫毛に期待を乗せて艶然と微笑んだ。
「学校に行くのも良いけどね、この喜ばしい日に僕とアバンチュールするのも悪くないと思うよ。僕らは花嫁花婿の仲なんだから、特別な日くらい学業は二の次にして……ね?」
「誰がアバンチュールなんかしますか。何だかんだで一ヶ月も一緒にいる羽目になりましたけど、大人しく餌食になる気なんかこれっぽっちも無いんですからね。勘違いしないでください。――それにこの前の話、忘れたんですか? 私、必要以上の仲良しごっこはしないって言いましたよね」
「それなら僕だって、何が有っても離れないって言ったはずだ。アトリ……君は何も気にすることはない。降り掛かる火の粉は僕らが払ってあげる。だから、君は僕らと愛を育むことだけに集中するんだ」
「まだそんなことを考えてるんですか。せっかく元気になってきてるっていうのに……ここに残ってたって、良いことなんか一つもないですよ」
渋い顔のアトリに手を振り払われた郁は、めげずに今度は両手を恋人繋ぎして彼女を捕らえる。そして、だめ押しと言わんばかりにその身を擦り寄せた。とうとう交わらなかった視線が交錯する。妖しく輝く紫水晶は「どうあっても逃がさない」というような愛執を何より雄弁に語り、愛しい人のすげない態度で切なく揺れていた。
人を愛したことはおろか、恋をしたこともないアトリですら、それが全身全霊を懸けて恋をしているものの眼なのだと直感的に理解してしまう。そんな風に不思議な引力のある恐ろしい眼だった。
「……そんな眼でこっち見ないでください、暑苦しいです」
「それだけ本気だってことさ。ふふ……こんなに燃え上がるような気持ちになったのは初めてだよ。色は思案の外とはよく言ったものだね――ねえ、アトリ。君もそろそろ素直になったらどうだい? 自分で言うのもなんだけど、こんなにセクシーで優しくて逞しいハイスペックダーリンは他にいないよ?」
「色男、金と力はなかりけり……って知ってますか? そんな都合のいい男なんか居ないことくらい、私みたいな子供でも分かります」
「そんなことはないよ。僕はお金だってちゃんと持ってるし、アトリも知ってるように腕っぷしだって折り紙つきさ。勿論、色男としてもこれ以上ないレベルだよ? 何だったら今ここでアバンチュールして証明してみせ……」
言い寄り魔から色魔に進化した郁が気障ったらしく顎を掬い、いよいよ身の危険を感じたアトリが鳩尾狙いのボディーブローで強制終了を試行しようとした時だった。「朝っぱらから何盛ってやがるんだ、この腐れビッチが」という不機嫌な声と共に、いつの間にか郁の背後に回っていた夷月が彼を乱暴に蹴り散らかした。朔の殺人ドロップキックに比べれば全然可愛い威力だが、アバンチュールに浮かれて油断しきった郁を退けるには十分で、彼は「あいたっ」という気の抜けた声と共にソファーから脱落していった。
「はんっ。眼を離せばすぐこれだ……相変わらず油断ならねえスケベ野郎だな、オイ」
顔から絨毯に突っ伏したふわふわ綿毛を半眼で見下ろし、夷月はそう吐き捨てる。朝一番に襲いかかってきていた男のものとは思えない言葉だ。これはひどい。まだ五月と時期としては早すぎるが、今年のお前が言うか・オブ・ザ・イヤーはこれで決まりかというくらいひどい。
郁も同じようなことを思っているのか、「自分のことは棚上げかい。僕は知ってるんだからね……」とモゴモゴ言っていた。当の夷月はそんなもの路傍の石ほどにも興味ナシで、「グズグズしてっと遅刻すんぞ」とアトリの腕を掴んで立たせているが。
「……ったく、つくづくトロい女だぜ。易々食われかけてんじゃねえよ」
「人を尻軽女みたいに言わないでくださいよ。こっちは誰にも食べられる気なんかないんですから。っていうか、なに付いて来てるんですか」
「今日は俺がテメエのお守りだからに決まってんだろうが。」
「それはどうも……それにしても、その厳ついレザージャケットどうにかならないんですか。嫌ですよ、隣を歩かれるなんて」
「はあ? テメエ、これの良さが分からねえのかよ。はっ。これだからいい子ちゃんってヤツは……」
何はともあれこれで学校へ行けると立ち上がったアトリは、付いてくる夷月と毒を吐き合いながら部屋を出ていく。玄関でローファーを履き、夷月の髑髏チャーム付きレザーブーツにも眉をひそめて言い合いしていると、早くも復活した郁が追いかけてきた。
「待ってアトリ。お弁当忘れてるよ。あとこれも」
パステル調な桃色の弁当包みを持った郁は、女子高生がよく鞄や携帯に付けているような、毛糸を巻いて作られた人形――いわゆるブードゥー人形――を取り出した。よく見ると普通のものより手が込んでいて、白色の愛らしいそれは同色の毛糸で髪を、黒いフェルトで豪華な軍服を誂えてある。心なしか、どこかの綿毛を彷彿とさせた。いやな予感がする。
「僕の魔力を吹き込んだ身代わり人形だよ。二十四時間いつでもどこでもずっと一緒にいたいけど、実際なかなかそうもいかないからね……僕の代わりと思って持っていてよ」
やっぱりそういうグッズかとアトリが頭を痛めている隙に、郁はささっと弁当包みを鞄へ入れる。そして、心を込めた手付きでカオル人形をアトリの手に包み込ませた。あの色魔が作った身代わり人形と言うと色々不穏な気配がするので、アトリは丁重に返品しようとするが、奴は素早くも心を込めた手付きで再びカオル人形を持たせる。
正直言って、たぶん、これは受け取らない限り終わらないパターンだ。流石に持っていて死ぬようなことはないだろうし、こうなったら魔除けと思って鞄に入れておこう――二三度の攻防の末、観念したアトリは仕方なく人形を受け取る。それに満面の笑みを浮かべた郁は「今日は特別な日だからね。寄り道をせず早く戻っておいで」と甘さたっぷりに彼女を送り出すのだった。その姿には目的を無事果たせた達成感からかある種の爽やかさすら漂っているが、一方のアトリは朝から濃すぎる時間の連続で既にぐったりである。
2021/6/22:加筆修正を行いました。




