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9話1節(上):耽美家の奇想


[1]


 連休明けの平日というのはどうしてこうも気だるいのか――まだまだゴールデンウィーク後遺症の抜けないアトリは、布団を引っ被ってもぞもぞしていた。早朝から庭に響くトレーニングのむさ苦しい声はもちろん、窓辺を温める麗らかな陽射しすら鬱陶しい。今日はそんな気分だった。


「学校……行くのも億劫だなあ……」

「ああ? 優等生ぶっといてサボりたあ、とんでもねえ女だな」

「うるさいですねぇ……人間そういう日もあるんですよ……って、げっ、夷月」


 引っ被った布団からちょっとだけ顔を出せば、すぐ目の前に物騒なプリントTシャツや鋲付きレザーパンツで武装した黒髪ロングのメタル野郎が突っ立っている。いつの間にか部屋に押し入ってきていたのだ。朝から嫌なものを見たと、アトリは布団をかぶり直す。


「改めて布団被ってんじゃねえよ。げって何だ、おいコラ」

「そのまんまの意味ですよ……それよりもです。何お気軽に忍び込んでやがるんですか」

「昨日、静かに入って来れねえのかって文句付けたのはテメエだろうが。俺ァ忘れてねえぞ」

「へえ。昨日言われたことなんか覚えてるとか、思ったよりおつむは悪くなかったんですね――ですが仮にも女子の部屋ですよ。寝起きですよ。遠慮しようとか思わないんですか」

「ああん? 俺の女の部屋なんだから問題ねえだろ。オラッ、いつまで寝てやがんだ。起きろ」


 憎まれ口に露骨な顰めっ面を浮かべた夷月はずかずかと歩みを進め、躊躇いなく布団をバサァと捲り上げる。あんまりの狼藉に憤り、無防備なパジャマ姿を隠すように体を丸めるアトリはまるでハリネズミだ。ご立派に敵意という名の棘を背負(しょ)っているが、所詮は小動物レベルの威嚇で迫力が無い。


「なっ、この! 何するんですか! あんたにはデリカシーってもんが無いんですか!」

「はあ? んなもん、朝イチで便所へ流したに決まってんだろうが」


 哀れなハリネズミを鼻で笑う狼男は、相変わらずのダーティで凶暴な物言いだ。朝イチのトイレまではデリカシーを持ち合わせていたということすら疑わしい。こんな奴を多感なティーンエイジャーの部屋に居させ続けていいはずもないので、アトリは着替えを理由にさっさと追い出してしまった。敵は「それがテメエの男に対する態度かよ」などとほざいていたが知ったことではない。



◇◇◇◇



 制服に着替えれば気分も幾分かしゃっきりして、アトリは真面目な学生の顔を取り戻して廊下に出た。味噌のいい匂いが二階にまで届いている……今日の朝ごはんは和食のようだ。


「……それで、なんであなたがまだここに居るんですか」


 横目で睨めば、腕組みして壁に背を預けた夷月が鼻で笑う。あれだけ手酷くぞんざいに扱われたというのに、まったく見上げた鋼のメンタルである。否、この場合は懲りない奴と言うべきか。


「何でもへったくれも有るかよ。今日こそテメエに俺の魅力を分からせる為に朝から来てやったんだ。何もせず尻尾巻いて帰るワケねえだろ」


 不敵な笑みを浮かべて壁から離れた夷月は、流れるような所作でアトリを壁際に追い詰める。いわゆる壁ドンというやつだ。少女漫画の主人公ならばここで胸をキュンとさせるところなのだろうが、生憎ここにいるのは擦れた現代っ子である。「カツアゲじゃないんだぞ」と渋い顔をしても、「キャア、ステキ! 抱いて!」とはならない。こんなのに引っ掛かるバカがどこにいるというのかとすら思っている。更に言うなら、犬のように人の首筋やら髪やらへ鼻先を擦り付けてくんくんするのを止めて欲しいというのが正直な感想であった。


「朝っぱらからじゃれつかないでください。私も暇じゃないんですから……ほらポチ、ハウス!」

「そのポチとかいうのやめろつってんだろうが! くそっ。軟弱そうな見た目の癖に強情な奴だ……まあ、それくらいでないと張り合いがねえ」


 そう言って金色の瞳をぎらつかせる夷月は飢えた獣でしかない。恋心とか好意とかそんな上等なものは持ち合わせず、狩猟本能や闘争心といった原始的な衝動に従って目の前の獲物を狙っている。もうワイルドを通り越して単なる野性動物だ。山に帰れと言いたくなる。


「ハア……しつこい男は嫌われますよ」

「バカ言ってんじゃねえ。こういうのは持久戦だ、一度目を付けた獲物は最後まで追い回すもんだぜ? 一回や二回逃げられただけで諦めるかよ。テメエがへばるまで追いたくって、必ず俺のものにしてやる」

「そういうのをストーカーって言うんですよ」

「うるせえな……ったく、屁理屈ばっか言ってねえで、さっさと落ちちまえよ。大人しく俺らの花嫁でいりゃ、幾らでも美味い思いをさせてやるぜ?」


 身を屈め顔を寄せてきた夷月は悪どい微笑みを浮かべてそう囁く。獰猛なまでに粗暴な調子はそのままに、今までになかった悪魔的な甘さが混じっていた。変則的な攻め口にぞわっと鳥肌を立たせたアトリが硬直すれば、ここぞとばかりに穢れを知らぬような桜色の唇を軽く食む。そして、こういう芸当も出来るのだぞと言いたげにしたり顔をしてみせた。


「ば、ばか、いきなり何するんですか……! こういうのはもっと、順序立てて、段階を踏んでするものです!」

「ハッ、この期に及んでそれかよ。せっかく骨と毒が有ってイイ女になりそうだってのに、いい子ちゃん面なんざしやがって。このままイイ事してやるから、んなもん廃業しちまえよ」

「や、やめてください。不純異性交遊は、しませんよ!」


 調子づいて二度目のキスをしようとする夷月にアトリは四苦八苦して抵抗するが、所詮はどこにでもいる普通の女子高生の腕力である。ケダモノの腕の中からまったく抜け出せない。金的も今回は軽くいなされてしまってどうしようもなかった。ああ、このまま敢えなく食い散らかされてしまうしかないのか――アトリがそう諦めかけた時、小柄な人影が夷月の背後に見え隠れしたかと思うと、スパァンッと軽快な音を立てて彼の頭をはたいた。


「いってえ……何しやがんだ、霧月!」

「何しやがるはこっちの台詞です! 夷月さんあなたアトリさんに何しようとしてるんですか! 誰も近くに居ないのを見計らって無理やりチュウして、あわよくばあはんうふんに持ち込もうだなんて、まったくもう! ですが残念でしたね! 朔さんが居らずとも、まだこのむーちゃんが居るのですよ! むーちゃんの眼が黒いうちはそんな事させませんよ、ばーかばーか!」


 夷月の背後に立った霧月はスリッパを変型しそうなほどに握り締め、最大級の遺憾の意を込めて、目一杯歪めた童顔でわあわあ喚く。いつも丁寧な口調に「ばか」などという罵倒語が入るのはかなり珍しく、それだけ怒っているらしいことが窺えた。――しかしそれも、アトリと眼が合ったところでがらりと変わる。


「ああ、アトリさん、もう安心ですよ! 朔さんが居なくとも、このむーちゃんが貴女をセコムしてあげますからね……こらっ、このっ、とっとと離れなさい! 私だってまだチュウして貰ったこと無いのに、二回目なんて許しませんよ!」


 せっかく良い所を見せたのを無駄にしたくないのだろう。霧月は柄にもなく白馬の騎士を気取ってきらきらした雰囲気を撒き散らし、ふんすふんすと鼻息荒くセキュリティの売り込みを始める。そのままどうにかして夷月をひっぺがしたいようだが、単純な腕力では夷月が上のようで、邪魔くさそうにあしらわれてしまうお粗末ぶりだ。段々と苛立ってきたのか、最後の方は夷月の背をスリッパでバシバシ叩きながら本音を駄々漏れにさせている。


「ちっ。うるせえ奴だな……いい所で邪魔しやがって」


 流石にスリッパで叩かれ続けながらいちゃつく趣味はないようで、夷月は渋々ながらもアトリから離れる――離れざま、名残惜しそうに鼻先を擦り合わせる姿はいつかテレビで見た狼を思い起こさせた――。

 それを引き離すように小柄な体を滑り込ませるのが霧月だ。不逞者を押し退けた自宅警備員はさも自然な動作でおはようのスリスリをしようとしてくるので、結局のところ、夷月とは同じ穴の狢もいいとこである。腹立たしいので左右のほっぺたをつねって伸ばすと「いひゃいれす、いひゃいれすう」と情けなく悲鳴を上げる。


「テメエも懲りねえ奴だな。返り討ちにされてりゃ世話ねえぜ」

「夷月さんに言われたくありません! それにですね、スリスリ出来なくても、アトリさんのあの愛らしい花のかんばせで冷たく見下ろされるだけでもう堪りませんよ私は!」

「調子こいてキメエ事言ってんじゃねえぞ」


 恍惚に浸っている霧月のケツを夷月は容赦なく蹴り散らかし、霧月は「ああんっ」と敢えなく床と仲良しする羽目になる。日頃から夷月は、霧月の常軌を逸した「理想の少女」への偏執ぶりを気持ち悪がっている。また、気弱で卑屈な態度にイライラしており、よくこうして足蹴にしているのだった。


(……まあ、そんな事はどうでもいい。とっとと下に降りて朝ごはん食べなくちゃ。遅刻しちゃう)


 例によって例のごとく、目の前でトムとジェリーよろしく喧嘩し始めた二人を放置して、アトリは食われた唇をごしごし拭いつつその場を後にする。高校生の朝というのはそんなに暇ではないのだ。



2021/6/22:加筆修正を行いました。

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