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2話1節:侵蝕される日常


[1]


 不意に光が瞼を刺して、意識が浮上する。目を覚ましたアトリが居たのは自室のベッドの上だった。もう朝であるらしく、傍らのカーテンの隙間からは日が射し、外では雀が群れて鳴いている。


(……ああ、いけない。制服で寝ちゃったのか)


 起き上がって全身を見回せば、制服の所々に皺が出来てしまっていた。上着はハンガーに掛けていて無事なようだが、スカートは代えを着るしかなさそうである。上下問わず、制服の洗濯やアイロン掛けは少し面倒くさい――アトリは若干の煩わしさを感じつつ軽く伸びをした。昨日の疲れが嘘のような、すっきりとした目覚め。しかし、随分深く眠っていた為か昨晩の事がはっきりと思い出せない。帰って来て何をしたのか、夕飯を食べたのかどうかすらも。流石にそれは不味いと、アトリが必死に記憶を掘り出していると、不意に綿毛頭の男が脳裏で像を結んだ。


(綿毛? 綿毛……ああ、綿毛だ!)


 綿毛頭の男を切欠に、アトリの中で昨晩の忌まわしい椿事がフラッシュバックする。昨晩アトリは帰宅時にあの男と遭遇し、すったもんだの末、強引に魔物の花嫁にされるという狼藉を働かれたのだ。寝起きとはいえ、どうしてこんな大事なことを忘れていたのだろう。きっとあの怪しげな花粉で眠らされた副作用に違いない――そう思うアトリは忌々しい綿毛、もとい不二郁に対する憤懣を募らせた。と同時に、自分の身に何かされていないか不安になって、確かめるように全身へ手を滑らせる。どこにも、目立った異常は無さそうであった。


「あ、そうだ……印! 印は……」


 昨晩付けられた、魔物の呪縛の証であるらしいそれ。アトリは思わず左手を捲って見るも、そこには印どころかシミ一つ無い。まるで、昨日の事が夢か幻かのようにまっさらだった。何も無い事で肩透かしを食らったアトリは呆然と腕を投げ出す。夢だったのだろうか。夢にしては厭に生々しいものだったが、印は綺麗さっぱり消えているし、家は不気味なほどに静まりかえっている。アトリには、あの変態の痕跡や気配はまったく感じられない。


(本当に夢だったのかも知れない。昨日はかなり疲れていたから、きっと、帰ってすぐに寝ちゃったんだ。不二郁も何も、疲れが見せた悪い夢なんだ。そうだ。あれは、ばかばかしいただの夢……)


 半ばこじつけのような結論を反芻し、アトリは全てが夢だった事に安堵する。こんな事にうつつを抜かしていないで、学校に行く準備をしよう――そう思ってアトリがベッドから降りた時だった。ガチャリと部屋の扉が開けられて、誰かが滑るように入って来た。


「やあ、おはようアトリ」


 にこやかに、馴れ馴れしく朝の挨拶をするその男。服装こそ軍服から悪趣味な青紫のフリルエプロン姿に変わっているが、それは不二郁に相違なく、アトリの希望はあまりにも果敢なく打ち砕かれた。昨晩の事は夢ではない。アトリはまだこの変態の呪縛のただ中に居たのだ。


「どうだい、僕の睡眠花粉の効果は。昨日の疲れが嘘のようだろう?」


 自慢げにそう話しかけてくる郁を、アトリは放心状態で眺めていた。まだ悪夢が終わっていない事実を心が受け入れられずにいたのだ。「夢なら覚めろ」と頭の中で壊れたように繰り返すも何も変わらない状況に、目眩のするような失望を感じる。


「アトリ……? どうしたんだい。まだ、ぼんやりするのかい? 花粉を吸わせすぎてしまったのかな……仕方ない、ならダーリンのキスで目を覚まさせてあげよう」


 変態が何か気持ち悪い事を言って、唇を寄せてきている。頬に手まで添えて――そう認識した刹那、アトリははたと放心状態から回復した。防衛本能がそうさせたのかも知れない。気を取り戻したアトリは接近する敵の頬を反射的に引っ叩いていた。パチンという小気味良い音と共に、変態は「ぶっ」と声を漏らしてよろめく。気取った振る舞いも台無しの醜態であった。しかし、こんな事でゾンビ並みのしぶとさを誇る郁が引き下がる筈もなく、彼はすぐに頬をさすりつつ復帰する。


「もう……酷いじゃないか、アトリ。いきなり平手打ちだなんて。いくら君が照れ屋さんで、僕の美貌を間近で正視出来ないからって、これはあんまりだ」

「何言ってるんですか変質者が。そんな訳無いじゃないですか。変な事されそうになったから防御しただけですよ。勘違いも甚だしい」

「変な事じゃないよ。ダーリンが花嫁にキスするのはごく当たり前の事だ」


 まるでそれが世界の常識であるかのように、堂々と胸を張って郁はそう言い切る。化け物の世界ではそうなのかも知れないが、アトリは人間であるし、化け物の花嫁になったつもりもない。大人しく奴に吸い付かれる気の無い彼女は「さあ、仕切り直しだよ」と懲りずに迫る変態を再び張り倒す。そして、奴の眼前に腕をずいと差し出した。


「ほら、昨日不二さんが私に付けた花嫁の印はこの通り消えてしまいました。この婚姻は無効です。だから、あなたは私のダーリンでも何でもないんですよ」


 恨むならば持続性の無い印を恨むがいい。そして、とっとと私の前から失せるがいい――アトリはそう思いながらニヒルな笑みを郁に向けた。郁はそれにきょとんとした顔をしていたが、何かに合点が行ったのか、急に「ふふ、ふふふ」と気味悪く笑い出す。それにアトリがぎょっとして後ずさろうとすると、すかさず彼女の左手をがしりと掴んだ。相変わらず食虫植物のような男である。


「……ふふ。印が消えたら婚姻は無効、か。目の付け所は悪くない。でもね……残念だけど、印は消えた訳ではないんだよ、アトリ」


 郁が手を翳した瞬間、アトリの左腕に真っ黒いしみが浮かびだす。それは生き物のように蠢いて、あの名状しがたいグロテスクな蔓模様を形成した。自分の腕の気持ち悪い変貌に思わずアトリは投げ出すように腕を視界から追い出した。最早、こんなものは自分の腕ではない。そう言って掻き毟り、切り落としてしまいたい位のショッキングな様態になってしまっていた。


「ああっ! ……やだ。どうして、どうしてこんな」

「いつもそれが浮かび上がっていたのでは、日常生活に支障を来してしまうだろう? だから、いつもは見えないようにしてあるんだよ。決して消えた訳じゃない。婚姻は今現在も有効だし、僕は今でもいつまでも君のダーリンだ」

「そんな馬鹿な! だったら……だったら、今すぐこれを消して下さい。私は不二さんの花嫁になんかなりません!」

「それは出来ない相談だね。君は僕の運命の人で花嫁なんだ。何が有っても絶対に離れないよ」


 神経質かつ悲痛な反応をするアトリに対し、郁はあくまで誇らしげにそう語った。そして、アトリの手を包み込み握る。無機質な白に似合わぬ、しっとりとした感触と温もり。アトリはそれに怖気を感じて乱暴に振り払った。とにかくこの男が悍ましくて堪らない。また、こんなにも嫌悪を示しているのに、肝心の本人が能天気なままなのが癇に障った。


「やれやれ。ぐっすり眠っただろうに、随分と荒んでいるね……もしかしてアトリ、寝起きが悪いタイプなのかい」

「違いますよ」

「ふう。相変わらず、取り付く島も無いツンツンぶりだね……まあ良いよ。もう君は僕の花嫁なんだ。君は僕から離れられやしない。勿論、僕の方も言わずもがなだよ。時間はたっぷり有る……心理的な軋轢は、これからゆっくり時間を掛けて解消していこう。そして、その時が来たら、思う存分僕にデレデレしたら良いよ」


 やはりこの男は化け物で、人間の価値観も理解も拒絶する存在であるようだ。出会った時点で限りなく破局的な境地に在る関係に、解消すべき軋轢が有ると言い出す時点で決定的と言っても良い。こいつとの接触は人類には早すぎたに違いない。少なくともアトリにはそうであった。


「……どうされたって、変態綿毛なんかには絆されませんよ。諦めてどっかに行って下さいよ」

「諦めるも何も、もう君は僕の花嫁だ。泣こうが叫ぼうが喚こうが、平手打ちしようがそれは変わらないよ。僕はずっと君と一緒だ。ふふふ。ねえ、もうこんな押し問答は止めにして、朝御飯でも食べようよ。昨日は夕食を逃してしまって、お腹が空いただろう? もう用意は済んでいるよ」


 どうやらキッチンは敵の手に陥落したらしい。趣味の悪いエプロンを付けているのはそういう事であったようだ。これでティーセットのみならず、調理用具一式も買い換え決定である。どれもこれもいい値段するんだどうしてくれる、とアトリの中にふつふつと怒りが沸き上がった。


「ふざけないで下さいよ。何勝手に、さも当たり前のように人ん家の台所を使ってるんですかッ……!」

「嫌だな、人の家だなんて。昨日も言ったじゃないか。これからは僕もここに住むんだ。台所くらい使うさ。まあ、本当は二人だけの新居に住みたい所なんだけど……学生の身でそれはまだ早いだろうからね。しばらくはここが僕らの愛の巣だよ」

「あ、愛の巣とか、馬鹿じゃないですか。ホントどうかしてる! 最低ですよ! 寝言は寝て言えですよ、気持ち悪い……! 大体、大体です! 不審者の用意した食事なんて、危なくて食べられたものじゃあ……」


 怒りに任せたアトリがそう一息にまくし立てていた時だった。不意に、ぐう、と大きな音が発せられて彼女の声を遮った。その発信源は他ならぬアトリの腹であり、図らずも敵に腹鳴を聞かれてしまった彼女は赤面し、腹を隠すように押さえて言葉を飲み込んだ。


「ふふ……いくら憎まれ口を叩いても、体は正直だね。さあ、こんな所でぐずってないで、朝御飯にしよう」

「え、あ……ちょっとっ!」


 郁は俯いてしまったアトリの手を取り、エスコートするように部屋の外へと連れて行く。一度手を取られれば、どんなに暴れても離れられない。また、自分の体の突然の裏切りにアトリの士気は大きく挫かれていた。ゆえに彼女は、然したる抵抗も出来ぬまま、ずるずると一階へ誘われてゆくのだった。



2021/5/31:加筆修正を行いました。

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