8話1節(下)
「――夷月さんも、ご飯食べますか?」
台所に戻り、ラップの掛けられた朝食の一つを勧めたアトリに夷月はムッと眉間に皺を寄せた。そのまま不機嫌な眼差しをテーブルの上の食事へ這わせている。アトリを女だ何だと見下しているような彼である。もしかするとアトリの作る食事が気に食わないのかも知れない。
「ええと……お口に合わないようなら、強要は――」
「は? 何の話だ。テメエも今は食わねえんだろ。なら俺も朝飯は後でいい。仕事はきっちりやる主義なんでな――ついでに、さん付けもやめて呼び捨てにしろ。武志にはそうしてんだろ」
無愛想にそう言い切った夷月はポットから急須に熱湯を注いでお茶を作る。アトリの手伝いという自分の仕事はきっちりこなすつもりであるようだ。
「分かりました……じゃあ、夷月は霧月さんの所に朝ごはんを届けてくれますか? 二手に別れた方が早く済むと思うんです」
「霧月の所か……テメエがあいつの所だけ行かなかったってなったら、あの野郎うるさく喚くぞ」
「……はあ」
「運ぶのは俺がやってやる。あいつの相手はお前がしろ」
そう言われてしまえば頷かざるを得ない――お盆を持って先に行ってしまう夷月を追って、アトリも駆け出した時である。インターホンが久方ぶりの来客を告げた。こんな朝早くから誰だろうと、アトリは足を止めて玄関へと向かう。夷月も警戒するように鼻を鳴らして付いてきた――まるで注意深い警察犬のようだ――。
家とその周辺地域は結界で守られているというので敵の襲来とは思いたくないが、用心には用心をしなければならない。そうして覗き見たドアスコープの向こうにはよく見慣れた宅配業者のお兄さんが突っ立っていて、「おはようございまーす!」と威勢良く声を張り上げた。
「……全部霧月さん宛ての荷物ですね。何なんでしょうか、これ」
「さあな。あの野郎、一体何をこんなに買い込みやがったんだ……」
宅配便のお兄さんが置いていった大中小三つの段ボール箱を前にアトリは首を傾げる。どれも通販サイトのロゴが入った段ボールだ。大中二つは結構重いので、一個ずつ運んで行くしかなさそうだ。
「取り敢えず、小さいのと中くらいのを運びますか……って、わっ」
「テメエはそれを持ってけ。これは俺が運ぶ。女にこんな重いもん運ばせるかよ。――大体な、さっきからてめえは俺を使わなさすぎるんだ。俺を戦うしか能のない馬鹿か何かだと思ってんのか」
アトリに朝食を押し付けた夷月はいとも軽々と大中小三つの箱全部を重ねて抱え、ぶちぶちと文句を言いながら物置扉の向こうへと行ってしまう。どうやら網シャツの下の屈強なマッチョボディは伊達ではなかったようだし、本人はそれを日常でも役立てる主義であるようだ。末長く仲良くするつもりのないアトリとしてはあまり馴れ合いたくないものだが、看病期間中くらいはもう少し彼の力を頼ってもいいかも知れない。
「オラァ、霧月! 飯だ!」
「ひいっ! い、夷月さん……! 朝から何ですか、何なんですかあ……!」
自室の扉を乱暴に蹴り開けられた霧月は情けない悲鳴を上げて飛び上がり、ベッドの上で小さく縮こまる。当の夷月はそんな霧月の哀れな様子も意に介さず、ずかずかと部屋に入って段ボールを適当な場所へどっかりと下ろした。その乱暴な扱いに霧月は弾かれたように抗議の声を上げたが、「ああん?」と睨まれてすぐまた小さくなってしまう。二人の力関係はあんな具合らしい。
――ともかく、二人をあのまま放置しておく訳にもいかないし、とっとと朝食を渡してしまわねばならないのでアトリも続いて入室した。
「あっ、アトリさあん……!」
「おはようございます、霧月さん。朝ごはんを持ってきました」
「朝ごはん? それはアトリさんが作ってくれたのですか? 手作り、手作りなのですか?」
なんだかダサいジャージ姿で泣き付くように寄ってきた霧月は、アトリが持ってきた朝食を覗き込み嬉しそうに童顔を綻ばせる。そして、手作りだと聞くや否や歓喜に頬を染めた――基本的に台所は郁のテリトリーとなっていたため、今の今までアトリの手料理に焦がれつつも食べることが叶わなかったゆえである――。そんな彼は寝起きという訳ではないようで、赤青タータンチェックのベッドの上にはノートパソコンやお菓子の箱が転がっている。どうやら、静養期間を与えられたのを良いことに、朝から動画サイトやネットゲームに興じていたようである。
元々受けたダメージの総量が少ないのもあって霧月は郁よりも更にぴんぴんした様子だが……霊力の込められた炎で火傷を負ったので弱体化しており、戦いでは使い物にならないらしい。彼曰く、魔物狩人の霊力は魔物を弱らせ殺すことに特化していて、魔物には毒である。傷を通して侵入した霊力が自浄能力によって抜けるまでは大人しくしているよりほかに無い。与えられた療養期間は傷を治すためというのはもちろん、それ以上に霊力の影響を抜くためという意味合いが強いのだとか。
「むぐむぐ……このおにぎりはアトリさんの手で握られたのですね! つまり、これを食べるというのは、アトリさんの大福餅の如し柔らかな手をもぐもぐしているのと同じということですね……!」
ハムスターのようにおにぎりを頬張りつつ、霧月はそのような寝言を言い放つ。こちらはこちらで通常運転の変態ぶりであった。ただし、郁と違って霧月は自分の手を本当にもぐもぐする訳ではないので、アトリは眉間に皺を寄せて口角をひくつかせるに留める。昨日、また会えたなら少しは優しくしようと改心したばかりなのを思い出したのである。しかしそれも、メンチを切った夷月が「気持ち悪いこと言ってねえで真面目に食べろ、この変態が」とどついて無意味に終わった。どちらにせよ霧月は誰かにシメられる運命だったのである。
「――それじゃあ私はこれで。食器やお盆は後で取りに来ますね」
「え? もう行ってしまうのですかアトリさん! 嫌です嫌です、もっとちゃんと私を看病してください! 戦場に立つ私達にはメンタルケアだって必要ですよう!」
夷月に引き剥がされそうになってもアトリへ元気にしがみ付き続ける霧月にメンタルケアの必要性は見受けられないが、この子泣き爺の親戚は自分の要求が通るまでは離れないつもりである。流石は郁の片割れと言うべきか、しつこさは彼に負けていない。
「ちょっとだけで良いのです。もうちょっと手厚く私のお世話をしてくだされば良いのです! 例えばぱふぱふとか、ぱふぱふとか、ぱふぱふとか!」
「ぱふぱふは却下です」
「そんなあ……なら、なら火傷のお薬を! アトリさんのそのスベスベもちもちの手で優しくお薬を塗ってください! 自分で塗るのは意外と難しいのです!」
「最初からそういう大切なことを頼んでくれればいいんです。さ、薬をください。ちゃちゃっと塗ってあげますから」
「ちゃちゃっとじゃ嫌です! ゆっくり優しく塗ってください!」
「はいはい」
差し出された陶器製の軟膏容器を受け取り、アトリは指示された通りにゆっくり優しく軟膏を塗る。祐という黒騎士の作った火傷薬だというそれはまるでハンドクリームのようで、塗り広げる度にココナッツの甘い香りがした。そうして大人しく火傷薬を塗られる霧月は撫でられる犬のように心地好く満ち足りた表情を浮かべている。患部は左頬や左手、左の首筋といった自分で塗れる場所にも関わらず、ここぞとばかりに頼んできたのは甘えたい一心からの行動だろう。こんな穏やかな表情をしているのだから、決していかがわしい目的がある訳ではないと思いたい。
「……はい。終わりですよ」
「もう終わりですか?」
「はい、終わりです。まだ武志と朔さんに朝ごはんを届けていませんから」
「仕方ないですね……あまり遅くなっては、武志君あたりがお腹を空かせてしまいますものね……私は当初の予定通り、引きこもりライフをエンジョイしましょう。こうして補給物資も届いたことですしね……」
少し寂しそうにしながらも諦めた様子で、ベッドから降りた霧月は「補給物資」と称した段ボールを開けて何かを取り出し始める。段ボールから次々と取り出されるのは漫画やアニメDVD、ゲームソフト、お菓子といった物品で、それらは霧月の筋金入りのインドア趣味に欠かせないグッズだ。重かったのは大量に買い込まれたそれらのせいだったのだ。
「テメエ……んなくだらねえもんを俺に運ばせやがったのか!」
「く、くだらなくありません! それにですね、別に私は夷月さんに運んで下さいなんて頼んだ覚えもありませんっ……!」
霧月にとってはお宝の山でも、彼の二次元オタク趣味を全く理解していない夷月からすれば酷くくだらない物の山であるらしい。自分からやったこととはいえ、そんなものを運ばされたと知った夷月は霧月に再びメンチを切った。しかし、今回は己の好きなものが懸かっている霧月は怯えつつも引かず、「肉食リア充でDQNでお馬鹿の夷月さんには二次元の良さが分からんのです!」と噛み付いた。しかし「誰が馬鹿だ、おい。リアジュウだのドキュンだの、訳分かんねえ言葉を並べ立てりゃ誤魔化せるとでも思ったか。ああ?」と凄まれると、一転して謝り倒し始めた。DQN……もとい柄の悪い相手は恐くて苦手らしく、どう頑張っても夷月に対しては弱い立場のようだ。
「夷月さん……何もそんないじめなくても。それに、人の趣味を貶すのは良くないです」
「あ、アトリさん……」
「テメエはこいつに甘いんだよ。そのうち付け上がるぞ」
「もうとっくに付け上がってますよ――まあ、それはともかく。夷月さん。荷物を運ぶのを代わってくれたのにはお礼を言います。でも、人の好きなものを貶すのはどうかと思いますよ」
「はっ、別に貶したつもりはねえよ。俺にとってくだらねえものはくだらねえだけだ」
「夷月さん……あなたって人は……」
「アトリさん、あなたこの荷物を運ぼうとしたのですか⁉ だ、駄目です、無茶をしてはいけません! あなたは大事な大事な、漸く巡り会えた私の理想の少女なのですから……体を痛めては大変です! こんなのは夷月さんに運ばせれば良いのです! この人、脳味噌まで筋肉なんですから! 馬鹿と鋏は使いようです!」
頑ななまでにエゴイスティックな夷月の態度に辟易し、どう話すべきかと頭を悩ませていたアトリへ、霧月が食いかかるようにそう捲し立てる。理想の少女は二次元趣味よりも重大な関心事であるようで、その口調は今までで最高の必死さであった。また、夷月に対する物言いはさっきよりも酷くなってボロクソであった。そんなことを言えば当然、再び夷月にシメられるのに、霧月はまた憎たらしく減らず口を叩いて攻撃する。そして三度夷月にシメられる……まるでトムとジェリーだ。どうやらあの程度の罵り合いは日々のレクリエーションの一環に過ぎないらしい。
真面目に心配して間に入って損した。自分も暇ではないし、もうそっとしておいてあげよう。仲良く喧嘩しな、だ――徒労感に襲われたアトリは未だ醜い泥仕合を続ける霧月と夷月を放って、「お大事に」とそそくさ退室した。
◇◇◇◇
夷月を置いてさっさと台所に戻り朝食を持って来たアトリは武志の十四号室の扉を開ける。すっきりとした青を基調とした部屋の隅のベッドには、全身を包帯とギプスで固定されたミイラもどきが鎮座していた。野獣もこうなっては形無しだ。
「ん、この匂いはアトリと……メシ!」
そうしてもぞもぞ蠢く武志は唯一自由に動く首をアトリの方へと向け、お盆の上の朝食に瞳を輝かせる。どうやらお腹はきちんと空いているらしく、かたわらに椅子を持ってきて座ったアトリへ「お腹ぺこぺこだぞ!」と燕の雛のようにうるさく訴えた。
「お待たせしましたね……何から食べますか? 鰹おにぎりと梅おにぎり、それと沢庵にわかめスープがありますけど」
「んーと、じゃあ梅おにぎりがいい!」
首以外動かせない武志は誰かに食事を摂らせて貰わなければならない。なのでアトリが一口サイズに割った梅おにぎりを口に運ぶと、武志は嬉しそうに大口を開けてそれを食べる。食欲は旺盛なままのようで、運ばれた食べ物をぱくぱくと食べ、早く早くと次を催促してきた。その貪欲さは燕の雛なんて可愛いものではなく、まるで鯉の餌やりであった。多めに用意したはずの食事が凄まじいスピードで消えてゆく。アトリとしては早く終わって好都合だが、健康のためにはもう少しゆっくりと食べた方が良いのではとも思わずにはいられない。もっとも、何もかもが人間のスケールを超えている野獣にはあまり関係無いのかも知れないが。
「――ふう。おいしかった! でも、せっかく腹ごしらえしたのに全然動けなくて退屈だぞ!」
「全身を骨折してるんです……治るまでは大人しくしていてくださいよ。骨が変にくっついたら大変でしょう? まあ、これは人間の話ですけど……」
「ちぇーっ……あーあ、早く怪我なんか治して、思いっきり体を動かしたいぞ!」
「気持ちは分かりますけど、今はゆっくり休んで怪我を治すことに専念しないと駄目ですよ」
念押しされてやっと観念したらしい武志はふかふかの枕に首を預け、お預けを食らった大型犬のように嘆息した――先ほどから燕の雛になったり、鯉になったり、大型犬になったりとまるでキマイラだ――。宥めるようにもさもさの金髪頭を撫でてやれば、食後ゆえかうとうととし始める。素直というか単純な奴である。
「おい、テメエ! 何勝手に俺を置いて行ってんだ!」
そうしてやっと野獣が静かになったと思ったのに、狼男ががなりながら押し入ってきたものだから、野獣はばっちり目を覚ましてしまった。さっきから余計なことをしてくれる奴だ。
「……夷月さん」
「何だよ、その眼は……つうか、さん付けはやめろっつっただろ」
「ハア……怪我人の部屋に入る時はお静かに、ですよ。それで霧月さんはどうしたんです? 仲良く喧嘩してたじゃないですか」
「ああ? 気持ち悪い例えをすんじゃねえ。……あいつならゴチャゴチャうるせえから布団の中に叩き込んでやったぜ」
「喧嘩! 喧嘩してたのか? 良いなあ、霧月は! 俺だって夷月と取っ組み合いしたいぞ!」
「馬鹿言うな。んな体じゃ話にならねえよ。大人しく休みやがれ」
首を目一杯に起こしてわあわあ言い出す武志を、夷月は鬱陶しそうに額を小突いて黙らせる。あの野獣を完全に手の掛かる末っ子扱いするとは、流石と言うべきか。
「むうー……あの魔物狩人にやられてなけりゃなあ……お陰でアトリに良いところ見せられなかったし、動けなくなったし……」
「はっ。あんな小娘にやられるたあ、テメエの腕もだいぶ落ち込んだみてえだな?」
「むっ。そんなことはないぞ! 魔物狩人との戦いは初めてだったから、ちょっと手間取っただけだ! 昨日であいつのやり方は覚えたんだ、今度は絶対にリベンジしてやるぞ!」
「また戦う気なんですか……? こんな酷い怪我をしたのに……」
「当たり前だ! 怪我なんてすぐに治るから大したことじゃない。これから戦いはもっと激しくなるだろうけど、それが良いんだ。戦うと元気になるし、いっぱい体を動かせるからな!」
そんな物騒な言葉を吐く武志は勢いを誇示するように腕を動かそうとし、びきりと走った痛みに呻いて大人しくなる。夷月はそれをシニカルな笑みで見下ろし、「それだけ口が回るなら大丈夫だな。おい、次行くぞ」とアトリを引っ張って部屋から出た。
アトリとしては痛みに呻く武志が心配であったが、夷月曰く黒騎士にとってはあれくらいの怪我も痛みもありふれたもので、放置しておけば治るという。人間であれば何ヵ月か、下手すれば一年程度も入院していないといけないような怪我も、彼らにとってはその程度でしかないのである――まざまざと見せ付けられた事実にアトリはまた人間と黒騎士は何もかもが違うのだと思い知る。黒騎士の見た目は不気味だが人間そっくりなので、そこの所を無意識のうちに忘れそうになる。だから、常々化け物扱いしておきながら、心のどこかではついつい人間のように扱ってしまうのだ。
◇◇◇◇
一番の重傷者が眠る七号室は白や黒の無彩色で統一された薄暗い部屋であった。部屋のあちこちにアンティークランプが置かれ、調度品はどれもゴシック風と、まるでお化けの住む部屋だ。
そんな部屋の主は死装束のような白い患者衣姿で真っ黒いベッドに身を横たえ、屍のように微動だにせず眠り続けていた。多量の出血と霊刀の傷による衰弱で、帰還時から昏睡に近い状態で眠り込んだままなのである。
まさか死んでいないだろうなとアトリが覗き込めば、朔はいきなりカッと眼を見開いた。お陰でお粥の載ったお盆を引っくり返しそうになったが、背後から夷月ががっしりと支えてくれたので怪我人に熱々お粥爆撃をしてしまう事態は回避された。お礼を言えば夷月は「どんくせえ奴だな」とそっぽを向いてしまう。
「お、おはようございます、朔さん……すみません、起こしちゃって……」
「……朝から目は覚めている。ただ眼を閉じて休んでいただけだ。謝罪は必要無い。それは食事か?」
「ええ……お粥みたいなものは食べられるって話だったので、梅お粥を。どうです? 食べられますか?」
「ああ。腹の傷に響くと二三日は病人食のみしか許されていないが……粥ならば問題無いだろう。匙を添えて傍らに置いておけ。腕は動くのだ、お前の手を煩わすまでもない」
「いやいや、良いんですよ、そんな無理しないでも! 朔さんの場合は誰かに食べさせて貰うべき案件ですよ! さあほら、あーんして!」
持ち前の生命力からか既に意識ははっきりとしている朔は、絶対安静であるのに自分で食事を取ろうとしている。こんな状態にも関わらずアトリに手間を掛けさせぬよう無理をするとは、割と元気なのにも関わらず手厚い看病をねだる何処ぞのむーちゃんとは大違いである。しかし、お粥を寝たまま自分で食べるなど危険極まりない行為だ。そんな無謀な痩せ我慢を阻止すべく、アトリが慌てて一匙掬ったお粥を突き出せば、朔はおずおずとそれを口に含む。昨日のデートの件といい今回の食事といい、朔は誰かに何かして貰うこと自体に慣れていないようだった。
「――馳走になった」
「はい、お粗末様でした」
「梅粥は美味かった……だが、毎食ともなれば手間だろう。今度は粥を作らずとも良い。そこの戸棚にゼリー飲料と栄養ドリンクがある……それを取ってくれ」
手の空いている夷月が指された戸棚を開くと、そこには大量に買い置かれたゼリー飲料と栄養ドリンクがぎっしりと詰まっていた。食事をする暇も惜しい時に使うのだという。しばしば食事を摂らないことがあると思ったら、こんなものに頼っていたのだ。体を大事にしろと人の食生活に口出ししておきながら、自分の事は棚上げであったらしい。腹立たしいことである。
「駄目です。私の手が空いているうちはそんな不健康なのは許しません。朔さんは動けるようになるまで私の作ったお粥を食べるしかないのですよ。良いですか? 分かりましたね?」
ちょっとした意趣返しに朔は顔をしかめてアトリを見つめる。そんなにお粥は嫌なのだろうか……そう訊ねれば彼は首を横に振り、おもむろに口を開く。柘榴色の瞳は不安定に揺れている。
「お前は責めないのか。見限らないのか。お前を守るという誓約を果たせなかった私を……お前が敵の手に落ちるのを許しただけでなく、魔物狩人に斬り伏せられるような不甲斐ない私を、花婿失格とは思わないのか」
アトリから見れば、多勢に無勢の戦い、そしてそれに次ぐ魔物狩人なる天敵の襲来という厳しい連戦で朔はよく戦った方である気がするのだが……朔本人はそう思っていないらしい。敵に後れを取ったことを気に病んで自罰的にうじうじしている。
どうもこの男はアトリに誠意ある花嫁であるよう執拗に要求してきたのと同じように、花婿としてアトリを守り続けるという誓約を己に重く課しているようだ。人を束縛するだけでなく自分までも束縛する痛々しい誠実さに、アトリは「どこまでも神経質というか、律儀というか……」と内心呆れる。おおよそ正気ではない。また、こんな人間のために身も心も削るような真似をするなんて馬鹿だとも思うし、いくばくかの罪悪感も覚える。……気持ち悪い厄介者という認識を少し改めた方がいいかも知れないと考えてしまうのは、贖罪意識や憐れみのせいだろうか。
「……大丈夫ですよ。ずっと一緒にいろって誓わせたのは朔さんじゃないですか。今は傷を治すことだけ考えて、ゆっくり休んで下さい。こんなに傷付いたあなたを見るのは、とても胸が痛みますから」
取りあえず情緒不安定になった朔を宥めるため、アトリはそんな白々しい言葉を口にして彼の頬を撫でる。本当は適当な機会に皆捨て去ろうとしている癖に――心の片隅でそのような自嘲が生まれるも、だからどうしたと知らない振りを決め込む。一方の朔はアトリが自分を見放していないことを確認して安心したようで、自由になる腕を動かしてアトリの手に己の手を重ねうっそりと眼を閉じる。
「――守るべきお前に庇われ、無様に負けたにも関わらずこうして包容されるなど、花婿として慙愧すべき話だが……反面、嬉しく思う己がいるのだ。私は確かに愛されているのだと、未だ見限られてはいないのだと……」
そう言って病的な恍惚の笑みを浮かべる朔に、背後の夷月が小さく「ハッ。相変わらずヤクでもキメたような頭しやがって……ちょろい奴だな、おい」と毒づいているが当人には聞こえていないようだ。そんな様子にアトリは「宥めたは良いが、誤解を深めてどうする」とものすごく後悔すると同時に、相変わらずの愚直な信頼に「そんなだから騙されるのだ」と苦い思いを抱く。
「……朔さんは、まだそんなに信用してくれるんですね。私のこと」
「当然だ。お前は魔物狩人の手を取らず私達を選んだ。そして今、こうして私を見限らず傷を癒せと言う……これ以上信に足る事実は無い」
苦々しく吐き出した言葉に、朔は迷いなくまっすぐそう返してくる。先ほどまでのうじうじした調子はもうどこにもない。うわべだけのアトリの言葉を一心に信じているようだった。
この男は、捨て去った時に壊れてしまうのではないか――そう思わせる危うさからアトリは逃げるように目を逸らした。
「傷が癒えたその時こそは、お前の至誠に応えてみせる。二度とお前を誰にも脅かさせない、誰にも奪わせない……必ずやあの忌々しい魔物狩人を討ち果たし、首級をお前に捧げよう。二度とお前が惑わぬように」
どうしてそう簡単に憎悪をたぎらせて物騒な発想に至るのかは理解できない。しかし、不穏な言葉とは裏腹にその声色は穏やかで力強く、柘榴色の瞳は慈しむような色に満ちていて、それが朔の心からの愛情表現なのだということだけはアトリにも分かってしまった。ゆえに無碍に否定することもできない。
「く、首は困ります……追い払ってくれるくらいがいいです」
「お前がそう望むなら、そうしてやる」
「そうしてください。ささ、怪我人は休息が第一ですよ。早く元気な姿を見せてくださいね」
朔は気休めの言葉を本気にし、アトリの手を握ったまま安堵の中で眠りに就く。そして再び、屍のように微動だにしなくなり、微かな寝息だけが途切れ途切れに鼓膜を揺らした。死んでいるのか寝ているのか紛らわしい眠り方だ。
そんなありさまに辟易しつつ、アトリはさっさと絡められた指を一つ一つ外して席を立つ。朔の安らかな寝顔が自身の嘘と誤魔化しの罪の象徴のように見えて、いたたまれなくなったのである。……だから、そんな自身の背中を夷月が鼻先を一つひくつかせて訝しげに見つめていたなど、彼女は知らない。
2021/6/17:加筆修正を行いました。




