7話4節(下)
・注意:この話には、凄惨な負傷などのグロテスクな描写、お下品な描写が含まれます。苦手な方はお戻りください。
「はん……最後まで偉そうな奴だ」
男が吐き捨てた、人を馬鹿にしたような言葉は紛れもなく戦闘の終了を告げるものだった。もう敵はいない。危機は去ったのだ――そう理解したアトリは緊張が解けてがっくりと脱力した。今まで気を張っていたせいか、今更になって殴られた頬へじんじんとした痛みがやってきた。そこへずかずかと大股で歩み寄ってきた男は、相変わらず倒れた片割れを気遣う様子もなく、嘲笑するようなニヒルな笑みを浮かべていた。冷気を使い過ぎたせいか、その黒髪の毛先はパリパリに凍り付いている。
「時間稼ぎ御苦労。しかし、女に庇われるたあ、ざまぁねえな。郁」
「うるさいよ。相変わらず悪い口だね、夷月は……アトリにぱふぱふされてる僕が羨ましいからって、突っかかるのは止めて欲しいな」
「は? ぱふぱふ……?」
そこでアトリは郁を庇うのに胸を押さえ付けていたのに気付いて離れ、赤面した。同時に、こんな軽口が叩けるぐらいに回復して良かったと安堵する。
「もう離れるのかい……もっと僕を抱いてて良いんだよ? 遠慮なくぱふぱふを続けて良いんだよ? ねえ」
「もう魔物狩人はいません。それに、思ったより元気そうですし……他の人だって心配です。というか、生きてるんでしょうか……」
「僕だって元気って訳じゃないよ。水圧で押し潰されてばきばきにされて、びしょびしょなのに冷気に晒されて……他の子なら大丈夫さ。ちゃんと生きてるよ。だからもうちょっと、ねえ」
「ふざけてねえで起きやがれ。朔の野郎、随分派手に斬られてんじゃねえか。早く行ってやれよ、治療係」
夷月に蹴り飛ばされ、痛みに呻きながら郁が半身を起こす。手負いの味方を蹴りつけるなどとんでもない行動だが、今回ばかりはアトリも夷月に内心賛同した。朔なんかは胴体を日本刀でバッサリと斬られてしまったのだ。重傷どころか重体なのではないだろうか。
「ああもう、分かったよ……アトリ、君は霧月と武志の所に行ってあげてくれ。君の魔力を分ければ彼らは回復できる」
「魔力を分けるって、一体どうすれば……」
「左手で触れているだけで大丈夫だよ。あとは刻印が供給するからね」
そう言って、郁は手伝いに夷月を連れて朔の元へ行ってしまった。残されたアトリは立ち上がって周囲を見回す。コレールは撤退し、魔物狩人は夷月により退けられたが、黒騎士は惨憺たるありさまだ。朔は深い血溜まりへうつ伏せに沈んでいるし、武志は体のあちこちが有らぬ方向に曲がっているし、霧月はぶすぶすと煙を上げる炭化した塊となっている。人間であればどれも確実に死んでいるような状態だが、郁は皆ちゃんと生きているという。あれで生きているとは俄には信じがたいが、郁なんかは頭部を撃ち抜かれても生きていたのだから、有り得ない話ではないのだ――アトリはそんな忌まわしく悍ましい事実を再認識し、まずは一番近い霧月の元へ向かった。
鬼女の群れと哀れなるヤンキーの死体が焼かれた臭いで鼻がばかになりつつあるとはいえ、焼きたてスライムの焦げ臭さは思わず顔をしかめざるを得ないものだった。霧月は完全に流体化する前にやられたらしく、ぼってりとした塊の表面には左腕と顔の左半分、首筋の形が残っていた。顔に驚愕と焦りの入り混じった表情が残っているのが生々しい。これでまだ生きているのだろうか――アトリがそう内心首を傾げていると、炭化した塊が僅かに震え、焼け焦げた表面にひびが入ってぱりぱりと剥離しだし、そこから黒いスライム状の物体がドロリと流れ出てきた。アトリは思わずぎょっとして後退る。スライムは人の形に変化してゆき、霧月になった。その左頬や首筋、左腕には真っ赤な火傷が痛々しく広がっていた。
「ふう……酷い目に遭いました。ですが、あれしきの炎で死んでしまう私ではありません! アトリさん、むーちゃんは華麗に復活しましたよ!」
「む、霧月さん……思ったより元気そうですね……」
「ええ、勿論ですとも! 流体化に加えて表面を断熱装甲にしましたので、表面部分だけこんがり焼ける程度で済んだのです。内部はほぼ無事ですよ。流体化しきる前にやられた部分はちょっと火傷が残りましたが、まあ結果オーライです。後はダウンした振りをしてあの魔物狩人の隙を突くだけでしたが……夷月さんに出番を取られてしまいました」
あんな猛烈な炎で焼かれて一部だけの火傷で済んでいるというのは驚異的だが、結構元気そうで安心した――出番を取られたことへの負け惜しみをわあわあと並べ立て、自分ならこうして魔物狩人を成敗したと身振り手振りを交えて語る霧月を前に、アトリはほっと息を吐く。
「ああ、そうです! 私、見てましたよ! アトリさんったら私を差し置いて郁さんにぱふぱふするなんて、酷いです! 私もぱふぱふしてください!」
……ここまで厚かましいのだから全然大丈夫だと、アトリは霧月を捨て置いて武志の元へ向かった。武志は意識を取り戻したようだが、全身の骨が折れているようで動けないようであった。それでも喋ることができる程度には自然治癒していたようで、ぱふぱふと聞き付けるや一も二もなく「俺もぱふぱふして欲しい!」と喧しく喚き始める。そして、大声を出したせいで折れた骨に響いたようで、うう……と僅かに身を蠢かせて黙った。これは要治療である。
「左手で触っていれば良いんだよね……」
「ええ、そうです。そうすれば刻印を通じてアトリさんの魔力が武志君に流れます! たっぷりの魔力を貰えば、武志君の回復も早まります。私はギプスの代わりになりましょう!」
そうして再びドロリと溶けた霧月が武志を包んでゆく横で、アトリは武志の投げ出された左手と自身の左手を重ねた。すると、左手に禍々しい黒騎士の紋様が浮かび上がり、白く発光して明滅する。同時に内臓の奥から何かを引きずり出されるような、軽い吐き気を伴う不快感と脱力感に襲われる。これが魔力を引き出される感覚なのだろうか。反対に武志は段々と楽そうになってゆき、投げ出されていた左手を動かしてアトリの左手をしっかりと握った。
「……ん。だいぶ楽になった。もう俺は大丈夫だ。アトリは朔の所に行ってやってくれ。あいつの方が酷くやられてるだろ?」
「でも、武志はまだ治った訳じゃあ……」
「霊力由来の攻撃を受けて出来た怪我は治るのに時間が掛かるのです。これだけ魔力を貰えば武志君はもう大丈夫です。ここは私に任せて朔さんの所へ。きっと、とても心配しているはずですから」
そう促されれば朔の元へ行くしかない。アトリは「ごめんなさい。大したこともしてあげられなくて」と言い残してその場を後にする。先程のやり取りを思い出して足取りは重くなるが、逃げ出す訳にもいかない。
仰向けにされ郁に治療される朔は未だに目を覚ましていなかった。血だまりこそ霞と消え、小傷も綺麗さっぱり治っているが、袈裟斬りにされた箇所はそう簡単に治らないようであった。彼の鉄の如し外骨格は左肩から右脇腹にかけてばっさりと切り裂かれ、ぱっくりと開いた傷口からは断裂した筋組織が覗いている。出血は止まり、例の黒い蚯蚓状の触手が傷口をくっ付けようと伸びているが、その調子は弱々しい。鍛え上げられた鋼の肉体もこうなれば無惨なものであった。激情のまま突撃などしなければ、自分が苦し紛れに吐いた誓約などに拘らなければ、こんなことにはならなかっただろうに――目下の、死体のような顔で弱々しく呼吸する愚かな男を前にして、アトリは内心で苦々しい呟きを吐き出した。
「えらく治りが遅いじゃねえか」
「霊刀の傷は特に治りにくいからね。おまけに大量の出血だ……僕の回復術では小さな傷を消して、出血を止めるだけで精一杯さ」
「……朔さん、助からないんですか?」
「大丈夫。重傷ではあるけど致命傷ではないよ。ただ、治癒に必要な体力や魔力が少し足りないだけでね。アトリ。君が魔力を分けてくれれば持ち直すはずだよ」
思わず声をかけたアトリに、振り向いた郁はクスリと笑んで肩を竦めると彼女の左手を朔の投げ出された手へと持って行く。促されるままに手を重ねたアトリは、途端に先程よりも大きな脱力感に襲われ、まるで重い貧血の時のような目眩に苛まれた。くらくらと揺らぎ朦朧としてゆく意識の中、「おい馬鹿、全部吸われるぞ!」と乱暴に後ろへ引っ張られ辛くも現実に踏み留まる。どうやら夷月が首根っこを引っ掴んで朔から引き剥がしてくれたようだ。万全を期すためだろうか。そのまま朔と少し離すようにして冷たい床に座らされる。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ったく……相変わらずイカれた蜘蛛野郎だ。花嫁守る為に、てめえで花嫁殺しかけてやがる」
「大丈夫かい、アトリ」
「ええ。何とか……」
「危険な目に遭わせて済まない。まさか気絶したまま無理矢理魔力を吸い出そうとするなんて思わなかったよ……どうやら無意識下でも相当焦っているみたいだね。よっぽど君を奪われたくないらしい」
呆れたようにそう呟く郁の目下では、魔力をたっぷりと吸って活力を得た黒い触手状器官がしっかりと傷口を繋ぎ止め、保護するように覆い被さっていった。魔力の恩恵は傷口のみに留まらず、死体のように生気の感じられなかった顔は瑞々しさを取り戻し、弱々しかった呼吸は段々と力強いものに変わってゆく。固く閉じられていた瞼がゆっくりと開き、昏い柘榴石の瞳が光を取り戻す。
「う、うう……小娘がァッ……殺す、殺してやる。何処だ、魔物狩人は何処に行った……!」
「落ち着くんだ、朔。魔物狩人はもう居ない。戦いは終わったんだ」
「戦いが、終わった……? 何故だ。ア、アア……アトリはどうした、アトリは無事なのか……!」
「アトリは無事さ。駆け付けた夷月が魔物狩人を追い払ったからね。だから落ち着くといい。僕らからアトリを奪うものはもう何一つないのだから……」
深手にも構わず飛び上がるように上体を起こした朔は半ば錯乱した様子で敵を探し、郁に宥められる。彼は戦いが終わったと聞くや、今度は郁に掴み掛かってアトリの無事を必死に訊ねた。そしてアトリは死守されたのだと知ってようやく落ち着き、掴みかかっていた手を放す。
「それはともかくだ。まったく、無茶をしてくれたね。考えもなしに突っ込むなんて……魔物狩人の霊刀に掛かれば、僕らなんか豆腐みたく簡単に切り裂かれる事くらい知ってるだろう? あれが女の子じゃなくて大人の男なら真っ二つだったよ?」
「……そのような事は、分かっている」
朔は説教を始める郁から顔を背け、少し離れた所にいるアトリを視界に認めた。母親を見付けた迷子のような安堵を滲ませた柘榴石は、縋るように眼差しを絡み付けてくる。
「アトリ……何故、そんな遠くに立っている……側へ来い。もう何処にも行くな……」
弱々しい声音で手を伸ばしてくる朔に、アトリは未だ脱力感の残る体を引きずって恐る恐る近寄る。一時は魔物狩人の誘いに乗ろうとした身である後ろめたさから、動かずにいて責め立てられるのを恐れたのである――朔の胸先三寸次第で、心中を図られる可能性だって十分にあるのだ――。しかし、予想に反して朔は怨み言の一つも言わず、側にきたアトリの頬を労るように撫で、安心したように薄い笑みを浮かべた。そして傷付いた体を擦り寄せるようにアトリへ抱き付き、蠢かせた蜘蛛脚で更に抱擁する。敵の攻撃で頭に問題が発生したのか、衰弱のせいなのかは分からなかったが、これはこれでばつの悪いものであった。
そうして朔から眼を逸らせば、郁の何か言いたげな視線とぶつかった。睨んでいるとも言えるようなじっとりとした様態だ。……朔とハグしていることに嫉妬している、という訳ではなさそうだ。
「アトリ。さっきはどうしてあんな無茶をしたんだい」
「え……? あ、いや……あそこで何もしないままだと郁さんが殺されると思って……」
「君は無謀だよ。丸腰で魔物狩人の前に立つだなんて……あそこで夷月が入って来なかったら、君も僕ごと彼女に斬られていたかも知れないんだ。もうあんな無茶はしないでくれ。僕らは幾ら傷付いたって元通りになれるけど、君はまだそうじゃないんだからね……」
すぐに夷月が現れて魔物狩人を撃退したことを考えると、自分の行動はただ郁の肝を冷やしただけの無駄な行動だったのかも知れない――そう考えたアトリは視線を伏せて大人しく謝罪する。郁はそれに肩を竦めて「分かってくれたなら良いんだ」と言うと、更に言葉を継いだ。
「……でも、嬉しかったよ。君があんな風に身を挺して僕らを庇ってくれるなんて思わなかったから。これはアバンチュールを期待しても良いのかな? ねえ?」
変態綿毛はどんな時でも変態綿毛のままだ。途中まではまだまともなことを言っていたのに、いつの間にか卑猥な寝言へと擦り変わっている。真剣に反省した自分が馬鹿だった――アトリは頭を撫でる変態の手をぺしりとはたき落とした。
「相変わらずの鉄壁なんだから、もう――それにしても、思ったよりも有るんだね」
「……何がですか」
「何って、決まってるじゃないか。おっぱいだよ。なかなか良い質量と程好い柔らかさだったよ」
それを聞いて怒りだしたのは、アトリでもなく朔でもなく、黒スライム担架に運ばれて来た武志であった。「郁だけずるいぞ! 俺もぱふぱふして欲しい!」と暴れたところで傷が痛んで呻きだす。担架になっている霧月も口を開き「ああ、私の方が先に頼んでいましたのに」と悔しがった。夷月一人は呆れたように溜め息を吐き、アトリを半目で見やっている。あからさまに「こいつのどこが良いんだか」と言うような、それでいて舐め回すように値踏みしているかのような視線だ。この男は今までの黒騎士とは姿勢を異にしているようだ。もしかすると、彼こそがアトリと黒騎士を綺麗に別つものになるかも知れない――アトリはすうすうと寝息を立てつつのし掛かってくる朔を支えながら、そんな淡い希望を抱いた。あくまでも目的は普通の生活を取り戻すことなのだ。
「さてと……応急処置も終わったことだし、早々に帰るとしようか。また新手が来ては堪らないからね」
「言われなくてもとっとと帰るぜ、俺ァ。ここは焦げ臭くてやってられねえ――血の匂いは幾らでも構わねえが、焼死体の臭いなんざ真っ平御免だ」
武志と霧月から集中砲火を受ける郁は、話題をすり替えるように手を叩いて撤退を指示する。それに顔をしかめて首肯する夷月は朔をアトリから乱暴に引き剥がして肩に担ぎ、先頭を歩きだした。武志を乗せた黒スライム担架……もとい霧月も渋々ながらそれに続く。戦闘結果としては勝利を収めたはずなのに、帰還風景はまるで敗残兵のようにずたぼろという酷いありさまだ。
「さあ、僕らも行こう。アトリ。こんな恐い目に遭った所に長居は無用だよ。早く帰って、心と体の傷を癒さないと」
いくら気遣いたっぷりの甘い言葉を吐かれたとて普段ならぺしりと叩いて拒むところだが、アトリは今回ばかりはされるがままといった塩梅で大人しく郁に手を引かれた。脱力感は徐々に回復しているものの、一日の間にあれやこれやありすぎてもう疲れきってしまっていたのである。
階段を降りて見えた一階は先の戦闘で焼け焦げ、水浸しになり、あちこちに生えた巨大茨で荒らされ無惨な様相を呈していた。そこで何よりも目を引くのは散乱する炭化死体だったが、黒騎士は特に気にした様子もなく通り過ぎてゆく。
「か、郁さん……死体を放っておいて良いんですか」
「ああ。僕らには関係ないからね。まあ……これ以上傷んでも大変だし、足の付かない方法で通報くらいはしておくけれど。アトリは気にする必要なんか無いよ。こんなのよく有ることだからね」
そう言う郁の口調は淡白なもので、死者を悼むような色はない。道端に転がる虫の死骸程にも気にしていないようだった。そんな自分を庇ったアトリを諌めた時とは大違いの態度は、彼の中にある大事なものとそうでないものを分ける色濃い線引きの存在を窺わせると同時に、彼がただ甘ったるいだけの変態ではないことを雄弁に語っていた。やはりアトリを守っているのは正義のヒーローなどではないのだ。
今日一日で事態は随分と重さを増した。コレールと手下の鬼女に魔物狩人と、黒騎士の敵は攻撃に本腰を上げたような形だし、戦いはこれから激化の一途を辿るだろう。自分は自分で身の振り方を考えなければならない――死体を避けて歩きつつ、アトリは気だるい頭でそのように考える。倉庫を出た先には、黒々とした夜闇と街の光で薄れる星空が広がっていた。
2021/6/11:加筆修正を行いました。




