1話2節(下)
僕の花嫁はこんなにも近くに居るのだから――郁の喜色満面な様子とその言葉に、アトリは思わず声を失ってしまう。言うなれば、予想外の方向から爆弾が転がって来た感じであった。これは敵の目的意識をダシにして、さっさと家から出て行かせようという意図の発言なのだ。アトリが欲しかったのはそんな斜め上を行った回答ではない。寝言は寝て言えというものだった。
「ふふふ。驚くのも無理はない。僕だって、こんな唐突かつ強烈に運命を感じたのは生まれて初めてだよ」
「……はいはい、お話は分かりました。どうしてそうなるのか、訳は分かりませんけど。私は不二さんのお嫁さんにはなれませんよ。運命を感じられるような覚えも有りませんしね」
「君に覚えが無くても、僕には有るんだよ。今は何だかツンツンしていて素っ気ないけれど、君は本当は心根の優しい子だ。その証拠に、まどろんでいた僕へ心底心配そうに駆け寄って、必死に呼び掛けてくれたじゃないか。ぼんやりとだけど君の優しい声も手付きもちゃんと覚えているよ。そのあと、気が動転して警察へ連絡しようとしていたみたいだけど……本当はあれも、僕の為に救急車を呼ぼうとしていてくれたんだろう?」
本気でそう思っているらしい郁は、うっとりとした眼差しをアトリへ向けて柔らかく微笑んだ。勘違いもここまで来れば大したものである。
「それこそ誤解です。確かに最初は急病人かと思いましたけど、呑気に安眠なんかしてるから不審者として警察に引き渡そうとしてたんですよ。あなたを助ける気なんか、最初から無かったんです」
アトリは、こうなれば徹底的に突き放すしかないと思い、冷淡な口調で語気を強める。期待を裏切られた郁が逆上するリスクは大きかったが、このまま得体の知れない化け物の花嫁にされてしまうよりはずっとマシであった。
「またそんな風につんけんして……下手な照れ隠しだね。だったら僕の話にこんなに根気強く付き合ったり、僕の体調や花嫁探しの心配などする訳ないじゃないか。化け物の僕にこんなに良くしてくれる君は、運命の人に違いないんだよ」
「話を聞いたのは、話す事だけ話させて気が済んだらとっとと出て行かせようと思ったからです。体調や花嫁探しを気にしたのも、とっとと病院にでもどこにでも行って貰うためです。そもそも……逃げられない状況でもなければ、誰もあなたの怪しい話を聞いたりなんかしてませんよ」
「……そう、なのかい?」
「ええ、そうです。それ以外の何物でもない」
そこまで言及してやっと、郁はアトリの真意を理解したらしかった。浮ついた微笑みは消え失せ、代わりに悲しげな戸惑いの色が浮かび上がる。逆上する様子は無く、ただただ冷たい現実に意気消沈しているようだった。先程までの厚かましい態度と打って変わった、そのしょんぼりとした様子にアトリの良心がチクリと痛んだが、相手は常識外れの不審者だと同情の念を振り捨てる。ともかく、これで郁のアトリへの好感は消滅した筈であるから、もう花嫁にされる事も無いだろう。
「さあ、もう夜も遅いですから帰ってください。今日の事は誰にも話しませんから。……話したところで、誰も信用しないでしょうしね」
席を立ったアトリは畳み掛けるように冷たく退去を促した。うなだれていた郁が顔を上げて、何か言いたそうに寂しげな視線を向けてきたが、無視して腕を引っ張り上げて立たせる。そして、力なく無抵抗なままの郁を玄関へ押して行こうとした時、郁が「でも」といきなり立ち止まった。
「でも……今までの全てが僕の勘違いでも、僕は君のことが諦められないよ。化け物の僕にここまで普通に接することの出来た僕好みの人間は、この百六十年間で君が初めてだ。君はまさに僕の花嫁になる為に生まれてきたかのような存在なんだよ。きっとこの出逢いは運命だ。僕達は結ばれるべきなんだよ、アトリ……」
アトリの方へ向き直った郁は、彼女の手を取り、悄々した調子を残しながらもそう熱弁する。随分とロマンチックな事を言っているが、相手が不気味なマネキンもどきとあっては、アトリには迷惑千万な話でしかなかった。
冷たい仕打ちを受けても、この男は少ししょげただけで全く何も変わってはいない。それどころか、ただでさえ酷かった恋愛惚けが悪化の様相すら見せ始めている――アトリはその様子に何かいやなものを感じて、反射的に郁から離れようと後退る。しかし、郁は取った手を固く握っていて、アトリを逃がそうとしない。
「ねえ、アトリ……冷たい事を言わずに、僕の花嫁になってよ。僕はもう、百何十年もあちこちをさまよって花嫁を探すのには疲れたよ。それに君と巡り会ってしまった今、もう他の場所で君以上の相手を見つけられる気がしないんだ」
体を擦り寄せ、同情を誘うような調子で郁はそう哀願するが、所詮は初対面の男、それも人間ですらない不審者である。そんなものの花嫁になってやる気などアトリに有るはずもない。郁はアトリに真剣な眼差しを向けるが、アトリはすぐにそれから眼を逸らした。
「嫌ですよ、そんなの。私は結婚するなら普通の人が良いんです。あなたみたいな人外はお断りです。ですから、しつこい事言ってないで、早く出て行ってください」
「そんな事を言わないでくれ、アトリ。人間の男なんかとの婚姻よりも、僕の花嫁になる方がずっと良いことがあるよ? 僕の花嫁になれば、君の魂は僕たちと結び付けられて一蓮托生の関係になれる。そして、君は長大な寿命と永遠にも等しい若さを手に入れられるんだ。君が望むなら、僕たちを自由に使役する権限だってあげよう。浮気や離婚なんてしないよ。伴侶の結び付きは絶対だからね、お互い相手だけが全てになるんだ。例え死んだって離れられはしなくて、来世でもずっと一緒さ。ほら、とても素敵だろう?」
縋り付くような調子でそう自分を売り込む郁は、その話同様に狂気じみていた。どうもこれがこの男の本性らしい。不老長寿に化け物の使役権……そんなものと引き換えにこんないかれた奴と永久的に結び付けられるなど、アトリには堪ったものでなかった。
「そんなの婚姻じゃなくて、悪魔との契約じゃないですか……! 余計嫌ですよ、私はそんなの要らないです。そういうのが欲しい人間なら世の中にいくらでも居るんですから、そっちを当たってくださいよ」
「嫌だよ。僕は君と一緒になりたいんだ。いくら望まれたって、君以外はいらないよ。しかし、君は本当に無欲だね。普通、こういうのは無理を言ってでも欲しがるものなのに……どうしたものかな」
すっかり居直って調子を取り戻した郁は呑気に次の手を考えているようだった。肝心の獲物は捕まえているし、万が一逃げても蔓で捕獲出来るから余裕ぶっていられるのだろう。一方のアトリはとうとう対話による事態の解決を諦め、とにかくこの男から離れようと、その手を乱暴に振り払ってもう一度扉に向かって走り出した。しかし、再逃亡も虚しく、部屋を出る前に蔓がアトリの腕に巻き付く。蔓は引き返せと言わんばかりに腕をぐいぐいと後方へ引っ張った。
「ふふ、アトリも懲りないね。どうやったって、僕の蔓からは逃げられないのに」
愉しげな声色でそう告げた郁は、戻らないアトリの方へゆっくりと歩み寄り、慣れたスマートな所作で彼女を抱き竦めてしまう。これだけでも悲鳴を上げたいぐらいに不快であったが、そこへ更に何本もの蔓がアトリを包むように絡み付いた。今度こそ逃げられぬようにしてやろうという魂胆らしい。そうして密着された事で、花のような甘い香りと煤の匂いが混ざったよく分からない匂いが鼻腔いっぱいに広がる。
「……君の魔力は優しく体に馴染んで、とても心地好いよ。きっと僕らは良いパートナーになれる」
「そんなデタラメ言ってないで、とっとと放してくださいよ、この変態っ……!」
「変態とはひどい言い草だね。それに、僕は出鱈目なんか言っていないよ。人間は誰しも魔力や霊力を持つものさ。ただそれを知覚していなかったり、知覚するには弱すぎる程度しか持たなかったりするだけでね……まあ、そんな事今はどうでもいい。今はアトリ、君を花嫁にする事が第一だ」
暴れるアトリを絡め捕るように抱き込み、郁は馬鹿の一つ覚えの如くひたすら求婚を繰り返す。相変わらずの頭のねじが飛んでいるようなしつこさにアトリの神経はささくれ立った。この様子では、いつまでも嫁が貰えないらしいのも納得であった。
「だから、花嫁になんかなるのは嫌だって言ってるじゃないですか。私の言葉、通じてます? 頭大丈夫ですか?」
「ああ、通じているよ。アタマだって正常さ。むしろ冴えてるくらいだ。ふふふ……アトリは僕が求婚を拒否されたくらいで諦める男だと思っているみたいだけど、そうだとしたら大間違いだよ。君は僕の運命の人だ。何度はね付けられたって、君が花嫁になってくれるまで僕は求婚し続けるよ」
「そんなトレンディドラマみたいな、クッサイ真似は御免です! 一人勝手にトラックの前に飛び出して、星になっててください。私はあなたの道楽なんかに付き合いませんよ……くっ、このっ……!」
そんな事になって堪るかという一心で、脱出しようと藻掻くアトリだが、体を蔓と腕でがっちりと拘束されていて僅かな身じろぎしか出来ない。悪趣味にも、郁は暴れるアトリを嬉しそうに受け止めている。
「ふふ……そんなにモゾモゾと可愛い事をしないでくれないかな。くすぐったくて……何だかムラムラしてしまうよ」
「ああもう……! いい加減にしてくださいよ、この変態!」
「僕は変態じゃない。僕は君への愛の奴隷、そして君のダーリンになる男だ。ねえ、アトリ。僕は人間の男よりずっと良い伴侶になるよ。僕は人間よりも丈夫だし、よく働くし、人間に無い力だって持ってる。花の魔物だから、自前でアロマテラピーだって出来るしね。僕は何時だって君を守り、癒す事が出来るんだよ」
「アロマポットならもう間に合ってます! 警備会社は明日からでも契約しますしね! だから、気持ち悪い事抜かしてないで、とっとと帰れ、この変態が!」
苛立ちでメッキが剥がれだしているアトリに対し、郁は肩を竦めるぐらいで堪えた様子が無い。相変わらずアトリへ妖艶に媚び続けるその姿はおよそ病的ですらあった。
「アトリは本当に頑なだね……困った子だ。でも、君は僕の運命の人に違いないんだ。君が何と言おうと、僕は君を花嫁にするよ」
諦める気は無いが、いい加減にじれてきたらしい。郁はそう言って、いきなりアトリの左手を取った。嫌な宣告と共に左手を掴まれたアトリは「何をするんだ」と余計に暴れたが、男女の力の差もあって郁はお構いなしに薬指の付け根へ唇を寄せた。肉感豊かな唇のむっちりとした生々しい感触に、アトリの全身が総毛立つ。口付けられた箇所からは、紙へインクが滲むように黒い模様が広がっていた。それは薬指に輪を作り、手の甲から前腕にかけて奇怪なパターンを描いてゆく。そして、郁がわざとリップ音を立てて離れる頃には、左腕はまるで蔓に巻き付かれたかのように、禍々しい呪いの印で侵食されてしまっていた。
「ん……よし、これで君は僕の花嫁だ」
「そんな、こんな印ごときで無茶苦茶なっ……あああ、擦っても消えない……! 不二さん、この変な模様、今すぐ消してくださいよ!」
アトリは左腕を執拗にゴシゴシとブレザーに擦り付けるも、印は掠れもしない。消えない模様に段々不安になって、アトリは堪らず涙声になって郁に訴えた。
「今更そんな涙目で頼んだって駄目だよ。それは僕らが一生のパートナーである事の大切な証なんだから。今はちょっと寂しい模様かも知れないけど、それも他の十五人が同じように刻印を施せば美しい模様に完成していくはずだ。それまでは我慢してくれ」
「模様が問題じゃないんですよ……わざとボケてるんですか。それに他の十五人って何です。私、重婚するんですか? 段取りすっ飛ばした未成年との婚姻だけでも十分な法令違反なのに、その上重婚ですか? もうやだこの変態犯罪者!」
「おやおや、早くもマリッジブルーのようだね。安心しなよ。魔物との婚姻に法律なんて関係無いから。それに、僕らは十六人で一人分の存在だから重婚には当たらないよ。まあ、ちょっとしたハーレム状態にはなるかも知れないけど、それはそれで美味しいだろう?」
「全然美味しくもないし、全然何も、ちっとも面白くないですよ。あなたには常識ってものが無いんですか!」
「常識? 常識だって? ふふふ、アトリ、そんなものはぶち壊す為に有るんだよ。僕みたいな奇才にとってはね」
「ああもう……最初から分かりきってた回答だとはいえ、本当にどうしようもない……と、とにかく、私はあなたの花嫁になんかなりません、早くこんな印消してください!」
計算違いでこんな変態の手に落ちるという現実をアトリは認められず、かぶりを振ってヒステリックにそう喚く。裏を返せば、もうそれくらいしか手段が残っていないということだった。
「ふう、相変わらず強情な子だね。でももう、僕は君の花婿だ。これからこの家で寝食を共にしてゆく相手なんだよ。そこはきちんと理解しておいて欲しいな」
「何寝ぼけた事言ってるんですか。どさくさに紛れて人の家に住み着こうとしないでくださいよ。こっちは印消して出てけって言ってるんですよ」
「何を言うんだ。君の家なら僕の家も当然じゃないか。まったく、花婿をそんな邪険に扱う悪い花嫁にはお仕置きが必要だね」
郁はそう言うと手慣れたキザな手付きでアトリを押し倒してしまう。そして、何を考えているのか、機嫌良く蔓をゆらゆら揺らしながら覆い被さってきた。アトリはその行為に差し迫った危機感を感じて更に暴れたが、依然として郁はびくともしない。それどころか、足掻くアトリを見下ろして、待ち焦がれた獲物に食い付かんとする獣のように舌なめずりをしていた。
――どうにかしなければ、アトリがこのままずるずると変態の餌食にされてしまうのは火を見るより明らかだ。
「恐がらなくても良いよ……痛い事はしない」
(ちっ。相変わらず変質者みたいな事を……ん、変質者? そうだ、変質者だ……)
変質者という単語にアトリはある事を思い出す。
『痴漢に遭った時は急所を狙え。獲物を前にした痴漢はだいたい油断してるから、不意の急所への一撃で悶絶しない奴はそう居ない』
友人がいつか話していた痴漢撃退法である。幸いと言うべきか、脚には蔓が巻き付いていない。こうなれば、油断しきっている奴の急所に一撃見舞ってやる――そう逆襲に燃えたアトリは満足そうに肩や腕をまさぐる変態の手に全身が粟立つのを抑え、静かに狙いを定める。悲しいかな、一人ロマンスに耽る敵の急所は清々しいまでに無防備であった。
「ふふふ……まずは何をしてあげようかな。やっぱりここは無難に、罰としてチューかな」
(なにが無難に罰としてチューだ、このスケベ綿毛が……そんな風に調子に乗ってられるのもここまでだ。一撃で昇天させてやる)
アトリはそんな忌々しい思いと共に、ありったけの力を込めて膝を蹴り上げる。――膝頭が妙に柔らかく生温かい所にめり込んだ感触……どうやらクリーンヒットのようであった。不意の急所への一撃に郁は凄絶な形相で「ぐふぉっ」という無様な声を上げて悶絶し、アトリから蔓も腕も離して転げ落ち、股を押さえて脇にうずくまった。本体の苦痛を代弁するかのようにのたうつ蔓がエイリアン映画の触手のようでとても気色悪い。
「う、うう……! アトリ……何て事をっ……!」
(……魔物でも金的は急所なんだ)
無様で気色悪い光景を前に、アトリは妙な事に感心しながらその場から立ち上がる。蹴り上げた時の感触が未だ膝に残っていて不快だったが、それに拘着している余裕など無かった。敵が無力化している今が脱出のチャンスなのである。出来れば印も消したかったが、この際印の事は置いておくしかない――そう思ってアトリが踵を返した時だった。
「うぐっ……アトリ、何処へ行くんだい……!」
「なっ……!」
半ば呻きのような声と共に、郁がアトリの足首をがしりと掴んだのである。動く余力が残っていたと言うよりも、執念で再起したような感じであった。どこまでもしぶとい男である。アトリは自由な方の足で彼を蹴散らして逃げようとしたが、敢えなくそちらも掴まれてしまった。
「はぁ、はぁ……逃がさないよ。僕がこんな、うぐ、金的の痛み一つでくたばると思ったら、大間違いだよっ……! 君は、僕の花嫁なんだ……一緒に居て、くれないと」
郁は息も絶え絶えであったが、そのまま蔓と腕の力業でアトリを床へ引きずり下ろし、再び覆い被さってしまう。痛みにその美貌を歪ませ、額に脂汗を滲ませながらも、眼は執念でぎらつき、口元には異様な微笑みを浮かべている。そんな鬼気迫る見苦しい顔が吐息が掛かる程間近に来て、アトリは思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
「ふ、ふふ……別に、取って食べようって訳じゃないんだ……そんなに恐れないで、くれないか。ああでも、花婿の大事なトコを、蹴る悪い子には……お仕置きを追加、しなくちゃね……」
そんな台詞と共に、郁から漂う甘ったるい匂いが段々と強く濃くなる。それはアトリが呼吸をする度に体を弛緩させて思考力を鈍らせてゆく。それがどこか心地好いのがまた恐ろしい所であった。何の毒かは知らないが、郁はこれでアトリからじわじわと抵抗力を奪うつもりである。気を抜けば、抵抗し続けなければ奴の手に落ちてしまう――本能的にそう思ったアトリは力の抜けかけた喉から声を絞り出した。
「取って食べるのと……そう違わないですよ! だ、大体、十六そこらの小娘じゃあ花嫁として役に立たないんじゃないですか? それならもっと気立ての良い人を……」
「構いや、しないよ。少し前までは、君くらいの年齢での嫁入りは普通だったんだ。それに、僕は最初から完成された女性に興味は無い。僕は未熟な子を理想的な花嫁に育て上げたいんだ。そういった点で君は非常に有望だよ……そのしっかりした気質なら、育てればきっと良い花嫁になる……」
花嫁にした人間を理想の女性に育てる……恐るべき、段取りの錯綜した光源氏計画であった。流石と言うべきか、変態の化け物が考える事はとんでもなく悍ましく、アトリは思わず戦慄してぶるりと体を震わせた。
「誰があなたの花嫁なんかに……ええい、この!」
好きでもない奴の、そんな迷惑な計画の片棒を担がされるなど絶対に御免だ――そう決心したアトリは再び郁に金的を見舞おうとしたが、思うように力が入らないのもあって、今度はすかさず蔓を巻き付けられて阻まれてしまう。鼻先の郁が勝ち誇ったように表情を歪めた。
「もうその手は通用しないよ。僕だって、何度も大事なトコを蹴り上げられるのは御免だからね。だからもう、こんな事は終わりにして、二人仲良く初夜を過ごそうじゃないか……ねえ?」
「バカな事言わないでください、誰があなたなんかとッ……!」
「相変わらずきつい物言いだね。僕の花嫁は随分とご機嫌斜めのようだ……まあ、唐突な婚姻だったし、混乱してしまうのも当たり前かな。仕方ない、今日はもう眠ると良いよ」
郁は勝手にそう結論付け、一本の蔓をアトリの眼前に伸ばした。それは他の蔓と違い、先端に蕾のような膨らみが付いている。
「そ、そんなものを使って、何をするつもりなんです……」
「恐がらなくて良いよ。君を安眠に導く為の花粉を使うだけだからね。これで一晩ぐっすりと休めば、疲れも取れて、僕の事も落ち着いて受け入れられるようになる。そして、僕と一緒になる事の素晴らしさが少しは理解出来るようになるだろう……だからもう、今日はおやすみ」
眼前の蕾が開き、薔薇に似た毒々しい青紫の花を咲かせる。蔓はそれをアトリの鼻先にふわりと翳し、花からは妖しげな桃色の粉塵が舞った。アトリはそれを吸うまいと息を止めたが、それも長くは持たない。苦しくなったところで息継ぎをしてしまい、その途端に肺を甘い芳香と花粉が満たしてしまった。アトリの体は急激に力が入らなくなってゆき、強い眠気に襲われる。
(しまった、吸い込んだ……)
アトリの意識は崩れ落ちるように暗転し、急速に暗闇の中へ沈んでゆく。意識が眠りに浚われる直前、ふふ、と郁のあの甘ったるい含み笑いが聞こえたが、それはまるで夢魔の歓迎のようであった。
2021/5/31:加筆修正を行いました。