7話3節(下)
・注意:この話には戦闘のグロテスク描写、お下品な描写が含まれます。苦手な方はお戻りください。
――永遠に尽きる事の無い、君への無限の愛を見せてあげる。
そんな全身が粟立つような気持ち悪い台詞とねっとりした紫色の視線を残して、郁は押し寄せる鈍色と褐色の波に対峙した。同時に、彼らを取り囲み守るよう発生した無数の巨大茨が無数の鬼女の津波を堰き止める。
「さあ……イイ声で鳴くんだよ!」
堅牢な防壁を成していた巨大茨は大蛇のように激しくうねって動きだし、取り囲む鬼女の群れを絡め取って肉片へと変えてゆく。分身がいくら居ようとも、荒れ狂う巨大茨の前には無力な群衆でしかない。たちまち、アトリの眼下には阿鼻叫喚の地獄画図が出来上がってゆく。これが愛だとするならば何と凄惨な形なのだろう――巻き起こる血煙、舞い踊る肉片、立ち上ってくる生々しい血臭……それらに若干顔を青くさせて吐き気を催したアトリは心中でそう嘆き、早いところコレールが自分を引き上げてしまうのを願ってしまった。
「ああ……っ、何て甘美な音なのだろうね! うっかり気を遣ってしまいそうだよ! これだから戦いは止められないんだ!」
声が裏返る程に身悶え、自身を掻き抱く郁。花のかんばせには恍惚と欲情の色が濃く浮かんでいた。時折、茨の奔流を潜り抜けた鬼女が斬りかかろうとしているが、ある者は武志の「化け物の中でも更に化け物」と言われる暴力的なまでの膂力で両断され、またある者は高速で閃く朔の大鉈で八つ裂きにされ、そのまたある者は霧月に鉄槌であしらわれて潰れたトマトの親戚へと姿を変えた。
そうして邪魔者はことごとく片付けられ、郁はずっとあの調子で悲鳴のオーケストラを指揮し聴き耽る。そんな己らの指揮官の様子に武志は「郁の奴、何か股間のあたりがぱつぱつだぞ!」と空気を読まぬ発言をし、霧月は「破廉恥です!」と赤面して顔を覆う。朔は眉をひそめつつも、鬼神の如し暴れようを緩めることはない――唯一の心の拠り所を奪われた怒りは変態を前にしても不変なのである――。……とにかく、戦場に於いても黒騎士は黒騎士であり、殊に不二郁の色情狂ぶりはここに至ってなお悪趣味に光り輝いていた。むしろ、この血腥い局面に於いて悪化している節さえある。
「くそっ……この変態が! 小癪な真似を……!」
「変態? それは誉め言葉と受け取っておくよ!」
「余裕ぶって居られるのも今のうちと知れ、マンドラゴラもどきが!」
ド派手に繰り広げられ続ける変態の殺戮劇場に堪えかねたのだろう。青筋を立てたコレールは翳した手から猛火を噴き出させ、眼下の配下ごと郁らを焼き尽くさんとした。それに郁は素早く対応し、茨のドームを作って炎を防いだが、あれでは中で蒸し焼きになるのが関の山である。コレールは追い討ちを掛けるように猛火を浴びせ、その煽りで鬼女どもだけでなく死体の山まで燃やされ、倉庫内には生き物の焼ける嫌な臭いがもうもうと立ち込めた。
中二階の床に下ろされていたアトリはむかむかと吐き気を催すようなそれに思わず嘔吐いたが、視界の端に映る放火魔は平気なようであった。嗅覚が馬鹿であるか、こういった臭いに慣れているのであろう。
「はは……他愛も無い。人間モドキが粋がるからこうなるのだ」
ぶすぶすと煙を上げる焼け焦げた茨のドームを見下ろし、コレールは勝ち誇ったような、蔑んだような嫌味ったらしい笑みを浮かべた。頭部を撃ち抜かれても生きているような化け物が蒸し焼き程度で死ぬかどうかは不明だが、茨の下に居るであろう彼らが動く気配はない。やはり死んでしまったのだろうか――最悪の可能性を思ったアトリが嘆息している間に、沈黙した焼け跡へ数を取り戻した鬼女がぞろぞろと近寄ってゆく。敵の死を確実なものとするべく、四方八方から剣を突き刺してやろうとしているのだ。これで本当に終わり……そうして一本目の剣が焼け跡に突き刺された瞬間だった。ブシュゥーッという音と共に真っ白な蒸気と熱気が噴き出したかと思うと、それに呼応する形で炭化した茨がボロボロ崩れ、中から噴出した熱湯の奔流が一階を洗い流していった。あとに残ったのは、散乱する人間の屍と僅かに生き残ったらしい鬼女ら、そして黒紫の瘴気に守られた黒騎士であった。
「ふふ。まんまと引っ掛かったね……たかが人間モドキと侮るからだよ」
晴れゆく瘴気の中で、件のマンドラゴラもどき――憎き敵ながら秀逸なネーミングである――が悪意たっぷりに気障な笑みを浮かべた。傷一つない己の体を誇示するように艶かしい足取りでつかつかと歩み出てきて、油断なく細剣を携えたまま、豊満な唇を指先でゆっくりと撫で舌舐めずりしてみせる。色魔らしいマイペースな素振りはこれ以上無いほどの余裕を敵に見せ付けた。
元々お世辞にも気の長い方とは言えないコレールの眼には、それはもう舐めきった態度に見えたのだろう。アトリの視界の端の彼は分かりやすく顔を真っ赤にし、歯茎を剥き出しにしてぎりぎりと歯を食い縛っていた。
「貴様ッ……! 何故無傷なのだ! あれだけの猛火に遭って何故涼しい顔で居られる! 何をした!」
「答えは極々シンプルなものだよ。君の攻撃はまったく僕らに届いていなかったんだ。僕らが茨の山に厚い水の層、それと熱も光も通さない瘴気の三重で防御を固めていたせいでね。……もう少し詳しく説明しようか。君の炎は茨の山を燃やしたけれど、その内側の水の層までは突破出来ず、ただ高温の蒸気と熱湯を生み出しただけに終わったんだ。そして、その蒸気や熱湯の熱は僕たちを包む瘴気のベールを越えられなかった。君のやったことはまったくの無駄で、ただ敵に良い武器を与えただけに終わったってことさ。――しかしまあ、あれで殺ったつもりだなんて笑止千万だ。不注意にも程がある。こちらとしては相当数が自滅してくれたようで大助かりだけど……ねえ?」
横から聞いているアトリでもいちいち癇に障ると感じる、そのくどい口振りは明らかな挑発だ。敵に舐めくさった態度を向けるその一方で、紫水晶の奥は狡猾に付け入る隙を伺っている。対峙している鬼女はそれを肌で感じているのか黒騎士から一定の距離を保って警戒しているようだが、肝心の指揮官はそうでもないらしい。「人間モドキの分際で……一度凌げた程度でいい気になるな! 次は消し炭にしてやる……!」と元々逆立った髪を更に逆立てて激昂し、掌に炎を出現させた。
「もう一度やってみるかい? 僕らはまだまだ色んな芸当が出来るんだ。さっきのはお遊び程度だけど、今度はもっとえげつないのをかましてあげるよ。君もただでは済まないだろうね」
覚悟はあるのか、と言わんばかりに郁は射抜くような冷たい視線を送る。その背後では三人が臨戦態勢で身構えていた。怯む様子すらない堂々たる様子は、彼らに圧倒的な優位性があることを雄弁に物語る。
ゆえにコレールは躊躇した。相手は強力な魔物とは思えない、精々中級程度の魔物……それも人間モドキだ。上級に位置する自身の攻撃をそう何度も凌げるとは思えない。しかし先程、自分の攻撃を利用する形で手痛い反撃を与えてきた器用な連中でもある。何かもっと質の悪いトリックを隠し持っている可能性も否定しきれない。ここで感情のままに強力な攻撃を浴びせるのは簡単だが、下手を打てばこちらが火だるまになる――敵の優位は真実か偽りか。それを判じあぐねたコレールの答えは至極単純なものだった。
「ソルダ、もう一度奴らを押し潰せ!」
「で、ですがコレール様……」
「お前の分身はまだ七百余りも残っているだろう! 先程のような派手な攻撃をそう何度も出来るような連中ではない! 消耗させて小賢しい真似が出来ぬようにしろ!」
「……御意」
いくら疑問を感じようと、主人がそう命じるなら従うしかないのが使い魔の悲しい定めである。コレールに最も近い位置にいたソルダは戸惑いを滲ませつつも大人しく命令を聞き、再び鈍色と褐色の波で黒騎士を押し潰そうと突撃命令を出し、自身もその中に埋没する。
それを迎え撃つ黒騎士は今度は巨大茨など使わずに分散し、それぞれの得物とちょっとした程度の能力を使う程度に応戦し始めた。彼らは四方八方から押し寄せる分身軍団を千切っては投げするが、そんなもので圧倒的な数の力に勝てる訳もなく、少しずつ押さえ込まれ、惨憺たる消耗戦の様相を呈してゆく。やはり今までの余裕は精一杯のブラフだったのだろうか――士気の高さとは裏腹に、数の暴力に手間取り、僅かながら疲労が見え隠れし始めている黒騎士の姿は、見る者にそんな不安感を与えてくる。
「ああっ、ここまでですか……無念……!」
あまりにも数の違う戦いゆえか、それとも疲労ゆえか、黒騎士の攻勢が崩され始める。鉄槌という鈍重な得物は乱戦に不利なようで、まず霧月が押し込まれ悲痛な台詞を残して敵の波へと沈んでいった。とどめにぐっさりやられているのだろう。アトリの居る中二階からは、分身の群れの間に間に、閃く刃と散る黒い血しぶきがちらちらと見え隠れした。
そうして一人やられたことで残りの三人は死力を尽くして合流し、互いの背中を預け合い始めた。最初からそうしておけば良かったのではというような、半端なやり方が透けて見えるようなその光景は、先程とは打って変わって無様で滑稽なものであった。惨めさが一周回って、諸行無常の趣すら感じさせる。
「そら見ろ。どんな大口を叩こうと所詮は人間モドキ……正統な魔物には遠く及ばん。いくら派手にはったりをかましても実態はそうして惨めに足掻くのが関の山だ。――まあ、たった四匹でこれだけ耐えたのだけは誉めてやる。精々、己の力を見誤った事を悔いて死ぬんだな」
嘲笑するコレールの口調には己の優位性を取り戻した安堵といささか気の早い勝利の愉悦が混じっていて、主人のその様子に確信を得たソルダの分身軍団も士気が高まる。口数が増えるのも自然の道理だろう。
「馬鹿な奴らだ。お前達は私を倒しきる前に力尽きる。もう諦めたらどうだ?」
「冗談もほどほどにしろよ! 俺達はまだ負けてない! 勝負はここからだ!」
「そうだ……まだ私達はアトリを取り戻してすらいない。貴様らを血祭りにしてもいない!」
「まったく、気が早いね。僕らはまだ負けた訳ではないよ。絶対に君たちを討ち果たして、花嫁を取り返してみせる」
三人で背を預け合ってどうにか押し潰されずに持ちこたえているだけの身の割に、黒騎士はしぶとい調子であった。何か秘策を持っているのか、負け惜しみを吐いているだけなのか、あるいは死を目前にして狂ったか――元々狂気しか感じない集団であったがゆえに、コレールにもソルダにも真相は窺い知れない。ただ、アトリには何か身の毛のよだつような予感があった。黒騎士は狂気じみた変態であるが本当の馬鹿ではない。どちらかと言うと質の悪いウイルスのように狡猾で、目的の為には手段を選ばない。道化の裏で何か致命的な事が密かに進行している……明確な根拠は無いものの、アトリの胸中にはそんな確信めいた予感が芽生えていた。
「揃いも揃って、詰んでいるのが分からないのか? ここまで馬鹿だといっそ哀れだな!」
「詰んでいるのは君たちの方だよ。分身は本体を殺せば消えるもの……そんなことが分からない程、僕らも馬鹿じゃあない」
「その口振り……貴様、まさか……!」
「ふふふ……全ては僕が本体を探し出すまでの時間稼ぎさ。君が僕らを「はったりくらいが関の山の人間モドキ」と見くびってくれて助かったよ。お陰で、ここに入ってから今まで何の障害もなくこの建物全てを霊根でカバーすることが出来た。もう君たちは丸裸だ。誰がどこに居るか、僕には手に取るように分かる」
郁はただ、無謀にぐだぐだな戦いを指揮した訳ではなかったのだ。小競り合いじみた会話をしている間も、巨大茨を弄んでいる間も、不自然な苦戦を演じていた間も、彼は霊体の根――霊根を倉庫中へ張り巡らし、それを高精度な魔力センサーとして用いてソルダ本体の居所を捜索し続けていたのである。
わざと発される建物中へ張り巡らされた霊根の気配にコレールは瞠目する。それはまさに網の目のようであり獲物を捕らえる蜘蛛の巣であった。相手は意気がった馬鹿な人間モドキではなく、知識を有した狡猾な戦闘集団であったのだと今更思い知らされる。前提条件をことごとく覆され、コレールは己の戦術判断の誤りを悟るが、戦場となる倉庫全体を掌握された今となってはもう遅い。
「さあ……今度は僕らの番だ」
豊満な唇が美しい弧を描く。――分身の源泉である本体は分身よりも強い魔力の波動を持つ。無論、それは直接見ただけでは分からないよう隠蔽されているものだが、高精度の魔力センサーである霊根を通せば見破ることは容易い。倉庫中に張り巡らした根を通して郁が感じていたのは、片割れらの混沌とした波動であり、ソルダの無数の分身が放つ霞のような波動であり、コレールの不快な炎の波動であり、アトリの少し翳った日のような波動であった。
……霞のような分身の波動の向こうには一つの僅かに強い波動が感じられる。それこそが本体の放つ魔力の波動であり、標的には既に霊根が二重、三重と幾重にも絡み付けられている。あとは誰もが視認出来る目印を付けてやるだけと、逆襲の準備は整っていた。
「みんな、本体はあれだ! さっさと殺ってしまうよ!」
郁がそう叫ぶと共に、ソルダの本体に絡み付いた霊根から茨が生え、得物の肉体に食い込んで血のように真っ赤な花を咲かせる。目印を得た武志と朔は鬨の声を上げてそちらめがけて突撃し、分身は逃げる本体を守るようにそれを阻む。狂乱や愉悦に表情を歪ませながら茨と水と瘴気の三重奏で惨禍を体現する黒騎士と、増えに増えた分身ソルダの鈍色と褐色の壁はギリギリとせめぎ合い拮抗した。押し込まれそうであったのも単なる演技に過ぎなかったらしい。
「ちっ……! 本体の居所が分かろうと、手が届かなければどうという事は無い! もっと数を増やして押し潰せ、ソルダ!」
中二階から喚くようにそう指示を飛ばすに留まるコレール。猛火での援護という手段が残されている状況でのその決断は、再び高熱蒸気・熱湯攻撃の引き金になって本体を失う、あるいはフレンドリーファイアで本体の守りを薄くしてしまうといったリスクを恐れるあまり彼が及び腰になったことを意味していた。
一方、命令を受けた分身の群れは荒れ狂う巨大茨に引き裂かれ、巻き起こる水流に押し流され、叩き付けられる瘴気に体を蝕まれながらも黒騎士を押し潰そうとひたすら攻勢を強めていた。ここで分身の壁が崩れたなら、背後の絡み付く茨に手間取る本体は三重奏の惨禍に為す術なく呑み込まれてしまう。それゆえに分身の群れは死に物狂いで重厚な肉の壁を作り続け、忌まわしき人間モドキを押し潰そうと前進し続けるしかなかったのだ。しかし、それを嘲笑うように巨大茨はうねる勢いと本数を増してゆき、その攻勢は形振り構わず分身を投入しているソルダ側を押し返しつつある。
「ふ、ふふふ……その絶望に歪んだ死に物狂いな顔。ぞくぞくするよ……! 堪らない! これが、僕はこれが見たかったんだよッ!」
「こいつ……! まだこんな力を残しているのか、化け物め!」
「それは違うよ。君たちの悲鳴が、絶望に歪む顔が、僕に溢れんばかりのリビドーを呼び起こして更なる力を与えているのさ!」
平たく言うなら、郁は変態的なサディストであり、性的興奮を魔力かそれに類するパワーの源に出来る……ということなのだろうか。アトリの目前では、コレールが「あの変態、感情エナジーを魔力に変換する手合いか……!」と歯噛みしている。興奮すればするほど強くなる色情狂の変態によって敗北の危機に晒される……敵からすればこんな屈辱もないだろう。助けられる側のアトリも、そんな変態が活躍しているのを見て何とも言えない気持ちになっている。
「くそっ、こんなふざけた奴にむざむざ殺されて堪るか!」
果敢にも一体の分身が巨大茨を潜り抜けて郁へと剣を振りかざし、鍔迫り合いとなる。敵の重厚な剣を針のような細身の剣で受け止めるなど無謀と思われたが、郁の剣は僅かにたわむだけで折れる気配はない。
「細いから簡単に折れるとでも思ったかい? うちの刀匠はそんな柔な物は作っていないよ!」
敵をいなして突き殺した郁に今度は背後から複数の分身が襲いかかるが、それは素早く伸ばされた蔓によって敢えなく蜂の巣にされた。化け物の強靭な肉体も、それを守る金属の鎧も貫通する蔓の殺傷能力に、アトリは「私はあんなもので捕獲されていたのか」とぞっとする。あのお花人間はアトリが思っていたよりずっと危険な生き物なのかも知れない。
「ふう……このままじゃあ、きりが無いね。霧月!」
郁も武志も朔も、分身の群れに阻まれて身動きが取れない。そんな時に郁が呼んだのはとっくの昔にやられたはずの霧月であった。姿は見えないが、どこからともなく「は、はい! 私の出番ですね!」と元気な返事が聞こえる。どうやら最初に霧月がやられたことすらも〝振り〟でしかなかったようだ。敵は何から何まで黒騎士に担がれていたらしい。
「霧月、流体化した君なら分身の壁なんか関係ないだろう? あの本体にきついのを浴びせてやるんだ! そしてこの前の汚名を雪ぐんだよ!」
「了解しました……! この天音霧月、必ずや雪辱を果たしてみせましょう!」
どこからともなく響いた声は死刑宣告に等しい。分身らは慌てて足元を伺うが、最大限にみっしりと詰まった隊列の中では床など見えないも同然で、時折足下を通り抜ける滑った何かを感じても、林立する脚が敵の姿を隠してしまう。中二階のコレール自ら焼き払ってやろうにも、肝心の標的が見えないのだからどうしようもなかった。分身を減らせば霧月を視認して焼き殺せるが、露になった本体へ郁ら三人が襲いかかって詰む。このまま分身の壁を維持すれば郁ら三人は阻めるが、霧月を素通りさせてしまい詰む……完全に手詰まりとなった分身軍団は恐慌状態となり、統率が乱れてゆく。
そんな頭上の混乱を追い風に、霧月は一気に敵の群れの足下をするすると抜けていた。踏んづけられようと蹴られようと、ぐちゅりと形を変えるだけなので進行に支障はない。彼の最大のコンプレックスである形の無い体はこういう時には大いに役立つのだから皮肉なものである。
(見えました。あれが本体ですね)
まったく同じ金属の脛当てが林立し蠢く中に、遂に霧月は茨の絡んだ脛当てを発見した。体や鎧から生えた茨に絡み付かれ、幻惑効果を持つ花の香気に毒されて精悍さを失った、のろのろ逃げ惑う哀れな獲物……それが今のソルダ本体であった。己の身が傷付くのも構わず慌てて茨を取り払っているようだが、茨は次から次へと生えてくる。まったく無駄なことであった。
ソルダ本体の足下まで這ってきた霧月はむせかえるように濃厚な香気に躊躇いながらも、目前の獲物に素早く張り付いて全身を満遍なく覆ってゆく。気付いた周囲の分身が霧月を取り去ろうとするが、指はことごとくぬるりと通り抜けてしまう。本体の方は頭部を覆い尽くされて呼吸が出来なくなったがために激しく暴れたが、霧月が剥がれることはない。炎で攻撃すればソルダも焼け死ぬため、コレールも手出しできないようだ。
全身に密着したせいで薔薇の香気はいよいよ危険な濃度になり、霧月は頭をくらくらさせながらも最大出力の電流を浴びせようと全身を奮い起こす。体内に流れる魔力が活性化し、スライムの体表には青白い光のラインが幾筋も表れる。自分の中で喚く本体も、狂乱する周囲の分身も、逆転敗北の決定に罵声を吐くコレールも今の彼には遠い。霧月はそのまま、全身を満たす最大量の電気で頭を真っ白にさせつつ、そのすべてを身中の獲物に流し込む。聴覚に心地好い断末魔の絶叫と、嗅覚を擽る生き物の焼け焦げる匂い、触覚を揺さぶる暴力的な振動だけが明確に知覚され、それは霧月の勝利の美酒となった。
2021/6/10:加筆修正を行いました。




