6話3節(下)
・注意:この話には、凄惨な負傷などのグロテスクな描写が含まれます。苦手な方はお戻りください。
敵の奇襲から花嫁を守りきった霧月はそれまでのでれでれした顔を思いきりしかめ、ぽやぽやした琥珀の瞳に恨めしげな色を乗せる。
「……ああ、何て嘆かわしい! あなたも私の幸せを邪魔なさるのですか! 邪魔は朔さんだけでお腹一杯ですよ、私は!」
「ちっ。うつつを抜かしている間に、小娘の方を先に絞め殺して気勢を削いでやるつもりだったが……私に反応出来るだけの余力は残していたか」
嘆く霧月に対し、鬼女の対応はほぼ無視とぞんざいである。その言葉は馬鹿にしたり、挑発したりするためのものと言うよりは、切羽詰まってこぼした独り言のようであった。この鬼女は、今までの鬼女のどれよりも緊張感に溢れている。仲間を殺され続けていることで心理的に追い詰められているのかも知れない――そのように敵を注意深く観察するアトリとは対照的に、霧月は怒りに身を震わせていた。心なしか鼻息を荒くしてもいる。
「そ、そんな荒縄でアトリさんを緊縛しようだなんて……! なんて羨まし……じゃない、けしからん奴なのでしょう! 花婿である私だってなかなか好きにさせて貰えないのに……ああ、憎らしい!」
「今なんて言いかけました」
「いえいえ何も、何も言っておりませんよ。天地神明に誓って何も。そうです、アトリさんの柔肌に包まれた肢体へ荒縄を食い込ませてみたいだなんて、そんなけしからん事は一切……」
「言ってるじゃないですか」
霧月に真っ当な心の動きを期待する方が間違っているのだということは、アトリも分かっている。しかしこんな危機的状況に在ってもなお、変態的な妄執を晒し続ける霧月には失望を禁じ得ない。自然、彼を見るアトリの眼は寒々しくなる。奴はそれにすら頬を染め、「クールな眼差しも素敵です、ぞくぞくします」と少女のようにもじもじするので、眼前の鬼女も霧月に冷たい視線を向けていた。
「敵を前に、何を訳の分からないことを言っているのだ、こいつは……まあ良い。このような腑抜けならば、却ってやりやすい!」
縄触手を広げて戦闘態勢を取る鬼女に、霧月は顔をしかめ、腕の中のアトリを見下ろす。きりりとした面構えは頼り甲斐にあふれているが、今までの当人の行いのせいでアトリには不安しか感じられない。
「アトリさんはここに居てください。決して前に出て来てはいけませんよ。あなたの柔肌に傷が付くなど、私にはとても耐えられませんからね」
過保護な親のようにそう言い含めた霧月はアトリを被膜結界で包み、身を翻すと同時に黒い靄に舐められる。お決まりの黒い軍服は、所々に工具や計器の入ったポケットやホルダーが付いていて技術者を思わせた。茶色い革手袋に包まれた手には、スレッジハンマーに酷似した巨大な鉄槌が携えられている。どうやらこの男、小柄な見た目にそぐわぬパワーファイターであるらしい。
「聞きなさい、人の世を脅かす悪の権化め! 人のしあわせ邪魔するその野暮な根性! この愛と平和の使者、むーちゃんが叩き直して差し上げます!」
霧月はそんな口上を上げつつ、もはや人間が持てるような重量ではなさそうな得物をトワリングバトンを扱うようにクルクルと回してポーズを決めた。その姿は日曜朝の女児向けアニメを彷彿とさせたが、やっているのは可憐な少女ではなく変態M男であるし、持っているのはマジカルアイテムではなく殺傷力たっぷりの鉄槌である。また、愛と平和の使者などと名乗っているが、実際の所は欲望と狂乱の使者もいいところだ。むーちゃんという自称については呆れて物も言えない――何もかもが徹底的に間違っているありさまに、アトリは頭を抱えた。もうどこからどう突っ込んで良いものやら、彼女には分からない。
そんなアトリの苦悩を余所に、霧月は「お覚悟っ!」と鉄槌を振りかざして敵へと襲いかかり、怒濤のハンマーラッシュを叩き込む。絡み付く縄触手をものとのせず、時に片手で引きちぎり、時に振り回すのに利用している。あの小柄な体のどこにそんな腕力があるのかは不明だが、霧月がとんでもない質量の鉄槌を振り回しているのは紛うことなき現実であった。その証拠に「一撃必殺、粉砕骨折です!」と敵を叩き潰せば、アスファルトもクッキーのように容易く粉砕されてゆく。
――ああ、これは即死だ。そう考えかけたアトリはある違和感に気付く。潰されたはずの鬼女から、一滴も血が流れていないのだ。これだけ派手にやられれば、地面に叩き付けられたトマトのようになっても不思議ではないのだが、鉄槌の下から伸びるのは力無く投げ出された四肢のみであった。言いようの無い不安からそれらを見つめていたアトリは、敵の身がピクリと動いたのを見逃さなかった。
「……む、霧月さん! 敵、敵がまだ生きてる!」
気付いた霧月が飛びすさるよりも一拍早く、敵の肉体全てが縄の束に変化した。そして、鉄槌の下から這い出した縄の塊は霧月へと襲いかかり、彼がその顔を驚愕に歪めている間に呑み込んでしまった。がんじがらめに締め付けられた霧月は懸命にもがくが、縄はほどけるどころか更に締め付けを強くする。こんな状態では自慢の鉄槌も無用の長物であった。
霧月が完全な詰みに陥ったことで、敵は勝利を確信したのだろう。縄の塊にその恐ろしい顔だけ浮かび上がらせると、ホホホホホと高笑いして言葉を紡ぎだした。
「馬鹿な奴め……私の体は縄で出来ているのだ。ハンマーで潰されたところで、痛くも痒くもない! よくも今まで、人間モドキ風情が我らを翻弄してくれたな……楽には逝かせんぞ。ゆっくりと、窒息の苦悶と死の恐怖を味わうが良い!」
「あぐっ……かは……」
ギリギリと音を立てつつ、鬼女は縄の締め付けを強めてゆく。藻掻く事すら出来なくなった霧月はとうとう息を詰まらせ始め、やがて瞳孔を開ききって、首や腕をだらりと力無く垂らした。アトリに掛けられた被膜も雲散霧消する。郁は頭を撃ち抜かれてもしぶとく生きていたが、霧月は首を締められただけで死んでしまうらしい――勝利の凱歌と言わんばかりに、耳鳴りを起こすような高笑いを響かせる鬼女を前に、アトリはそう愕然として立ち尽くす。
不意に、何処からかパチッ、パチッと音が聞こえたのはまさにその時だった。次の瞬間には、アトリの目前で地をも揺るがす轟音と共に紫色の閃光が起こっていた。鬼女の悲鳴らしき「ギャッ」という声も、死んでいるような霧月の姿も、轟音と閃光が全て掻き消すなか、アトリは駆け抜ける衝撃波から身を守るように体を丸めるしかなかった。
……そんな、落雷にも似た衝撃と閃光が去った頃にアトリが顔を上げれば、辺りには髪の毛が焦げたような嫌な臭いと灰色の煙が立ち込めている。
もうもうと立ち込める煙の中から何かが飛び出し、茫然自失とするアトリの前にべしゃりと落ちる。それは真っ黒くヌメヌメしたスライム状の物体であった。粘液に覆われて気味悪く脈動している。敵かと思い、弾かれたように後ずさりしたアトリに、黒いスライムは「大丈夫ですよ、アトリさん。私です」と口を作り喋った。それは紛れもなく霧月の声であった。
「む、つき……さん?」
「はい、そうです。あなたのむーちゃんですよ。あのけしからん奴から逃れる為に、体を流体化させたのです。――このようなだらしない姿、出来ればあなたには見せたくなかったのですが」
そんな言葉と共に黒いスライムはむくむくと膨れ上がり、人の形を形成し、色が付いて軍服姿の霧月になった。霧月は「ああ、いけない。一度意識が途切れたせいで被膜が消えています」と、解けてしまった被膜結界を掛け直す。煙の向こう側から怒気を孕んだ唸り声が響いたのはその直後であった。それは、もはや何を言っているのか判別も付かない、怨嗟の咆哮のようだった。
「……おや。意外としぶといようで」
煙の中から、黒焦げになった鬼女がよろよろと現れる。彼女は、干からびた蜥蜴や蛙を思わせる恐ろしい形相に、白く濁りきった眼でこちらを睨みつけていた。その姿にアトリは思わずひゅっと息を呑み、それを霧月が背に庇う。「大丈夫です。あのような見苦しい奴は、私がすぐに片付けましょう」と悠然たる微笑みを浮かべたその姿は、今までの悪行を帳消しに出来そうな程に凛々しい。
「よくも……よくも、人間モドキの分際で……」
「やり返すつもりでしょうが、それは無理と言うものですよ。私はこの身で高圧電流を発生させられるのです。私に触れれば、あなたは今度こそ消し炭となるのみ。敵を絞め殺すしか能のないあなたが私をどう倒すというのですか」
「ぐぅっ……」
「貴方の罪は重いですよ。私の花嫁をけしからん風に辱めようとしたのです、それ相応の罰を受けて貰わなくては」
口を三日月形に歪めて処刑宣告した霧月は、ゆっくりとした足取りで鬼女へと接近してゆく。接触――それ自体が死を意味する状況に、鬼女はじりじりと後退せざるを得ない。そして、舌打ちをするや否や背を向けて脱兎の如く走りだした。極端に相性の悪い相手である。撤退は当然の流れとも言えた。
「ああ、そうです――ひとつ、言い忘れておりました。あなたの体には私の粘液がたっぷり染み込んでいます。その粘液は、一回きりではありますが、私の意志一つで強い電流を起こします。良いですね、荒縄は吸収率が良くて」
霧月が逃げる敵に向かって手を翳す。死の宣告に身を翻した敵が凄まじい形相で眼を見開いた刹那、さっきよりは少し規模の弱い電光が発生した。断末魔の悲鳴とともに火花が散り、白い煙と凄まじい悪臭――恐らくは生き物の焼けた臭い――が立ち上る。朔の解体とは毛色を異にする凄惨な光景に、アトリは思わず顔をしかめた。
「何の為に、私が敢えて苦しい目に遭ったとお思いで? こうして差し上げる為ですよ……って、ああっ」
風が煙と悪臭をさらってゆくと、鬼女のいた場所には黒焦げになって煤けたアスファルトしかなかった。ドロンされたようである。それに霧月は得意気な様子を引っ込め、慌てて駆け寄るなり、その跡にしゃがみ込んで手を這わせる。
「居ない……逃げられてしまった……ああ、どうしましょう! 美味しい霊源を食べ損ねて……い、いや、それより……余裕こいていたら敵を取り逃がしたなんて知れたら、私しばかれてしまいます……!」
青い顔で恐れおののきながらアトリの元へ戻ってくる霧月に、先程までの偉容は欠片もない。やはり、黒騎士というのはどんなに活躍しても、穴開きバケツのようにどこか抜けている。きっとそういう哀しい性を背負っているのだろう。
「アトリさん、アトリさん。お願いです。この事は内緒にしておいて下さいね。私、しばかれたくありません」
「だ、大丈夫ですよ、霧月さん。敵は倒せなかったけど、私たちはこうして無事なんですし……」
「そうでしょうか……そうですよね。私はアトリさんを守るというお仕事を完遂したのですし、大丈夫ですよね!」
そう強引に自己完結させて安心を手に入れた霧月は、さっさと普通の姿に戻る。そして、おもむろにアトリの手を取るなり、彼女の肌に傷一つ付かなかったことへ安堵と満足を示し、蕩けた笑みを浮かべて頬ずりした。相変わらずの気持ち悪い行動にアトリは顔を引き攣らせたが、助けて貰った手前、きつく拒絶するのは気が咎める。苦心の末、アトリに出来たのは「……そこまで心配しなくても」とそっと手を引っ込める事だけだった。しかし、それが霧月のこだわりに火を付けてしまったらしい。
「何を仰いますか。私は、漸く巡り会うことの出来た至上の美術品を、その価値も分からずぞんざいに扱うような愚か者でも、わざわざ火にくべてしまうような酔狂者でもありません。あなたの可憐な肢体に傷が付くことを、どうして許容出来ましょう!」
霧月は、絡み付くようなじっとりとした眼差しを向けながらそう熱弁する。先程見せた、あの粘液まみれの黒スライムが「本当の姿」ならば、誰かの体を羨ましがるのも当然なのだろうか。叶わなかった夢を花嫁に託すのは自然なことなのだろうか――やはり、アトリには理解し難い感覚であった。
だが、それで良いのだろう。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。理解や共感ができるほどに深入りしたならば、それはもう変態や怪物の仲間入りしているのと同じことだ。この件については深く考えないに限ると、アトリは意識を現実に引き戻す。目の前では、言うだけ言ってすっきりしたらしい霧月が「さあさあ、帰りましょう。人に見られては厄介です」とアトリの手を引き始めていた。




