6話3節(上)
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太陽がビル群の向こうへと沈みゆく黄昏時。廃ビルの上で、一匹の魔物が唇を噛みながらそれを眺めている。コレールにより放たれた刺客の最後の一匹――縄の使い魔・コルドだ。
コルドらに邪魔者の抹殺命令が下ってから二週間。敵を仕留められないどころか三匹のうち二匹が返り討ちに遭うという惨憺たる結果に、彼女らの主人は強く焦れて別部隊の使い魔も動かし始めた。それはコルドが見限られたということに他ならない。
それでも処断されず、任務を続行するよう命じられているだけましなのだろうが……実態は追加投入された部隊のための斥候への格下げに近い。――もう、主は自分の働きに期待していない。その事実に打ちのめされたコルドは、焦燥に支配されて夜海を駆けずり回った。邪魔者達を見つけ出して殺せば、主からの信頼を挽回する事が出来るのではと考えたのである。しかし、敵の気配はコルドを嘲笑うように人海へ消えたままで、今日一日も無為なものに終わりかけている。
「こんな場所で油を売っている訳にはいかない……どうにかして、邪魔者を仕留めなければ。他の奴らよりも早く……!」
そう意気込み直したコルドは、家畜の群れの中から忌々しい殺戮者を取り除くべく、廃ビルから飛び降りて薄闇の辻に消えて行った。
◇◇◇◇
七区駅近くの喫茶店・ローズマリー。その裏口からとぼとぼと出て来て、ため息を吐いたのはアトリである。変態どもが朝からしっちゃかめっちゃかした分の疲労が顔に出ていたらしい。マスター――自称ママ。二メートル超えのスキンヘッドマッチョ。乙女心の持ち主で、店内の可愛らしいアンティーク調の内装は当人の趣味――の白鳥操に「どうしたの、アトリちゃん! ひどい顔よ!」と心配され、ちょっと早めに帰されてしまった。空元気での誤魔化しも、歴戦の猛者たる彼女には通用しなかったのである。最後には、半ば力業で追い出されるようにバックヤードへ放り込まれてしまった。
「迷惑かけちゃったなあ……」
そう肩を落としながら表通りに出ると「アトリさぁーん」と間の抜けた声が飛び込んできて、彼女は思わず肩をびくりと跳ね上げさせた。向けた視線の先には、春の陽気のような顔で、手をぶんぶんと振りながら小走りでやって来る霧月の姿がある。……なお、この呼称の変更は天音霧月本人の強い希望からであり、アトリに他意はない。
周囲にお花でも咲き乱れそうな空気で小走りする霧月は、目が合ったところで石畳につまずき、「へぶらっ」と地面に張り付くように転倒した。見た目相応にどんくさい所もあるらしい。立ち上がるなり、照れてもじもじしながら寄って来るのがちょっと気持ち悪い。
「お迎えに上がりましたよ、アトリさん! 予定よりもお早い帰りですね? 近くで時間を潰していて良かったです」
「……六時間も待つつもりでいたんですか」
「ふふふ。アトリさん、私を軟弱な男と思われては困ります。私は、アトリさんの為ならば二十四時間雪の上でわらじを温め、渋谷駅の前で百年間待ち続けるのも厭わぬ男です。六時間くらい、カップ麺を待つのと変わらないのですよ!」
ひ弱そうななりと違い、頼れる男であることをアピールしたいのだろう。霧月は力強い調子と大袈裟なまでの身振り手振りでそう訴えるが、アトリとしては路上で熱弁を振るうのはやめて貰いたいものであった。恥ずかしいので他人の振りをしながら歩き始めれば、霧月はそそくさとそれに付いて来る。こちらを覗き込むようにして、こてんと首を傾げる姿は、何とも言えないシュールさを醸し出していた。
「……それで、何故アトリさんは帰宅を早められたのです?」
「顔色が悪いから早く帰宅しろと言われたんです――何処かの誰かさん達のせいで」
「何と、それはいけません! 帰りましょう! 寄り道せずに真っ直ぐ帰りましょう! 何なら私がお姫様抱っこで……」
片膝を突いて腕を広げる霧月は、たぶん後半の怨み言は聞いていない。黒騎士が話の一部を聞かないのはいつもの事だが、この男もその例に漏れないようだった。己の一人相撲にアトリはこの怨み言も結局は八つ当たりだと情けなくなり、霧月から顔を背けてつかつかと歩を進める。「無理はいけませんよ!」と付いて来る霧月は相変わらず鬱陶しい。
そうして碌に言葉も交わさぬまま黄昏時の路地を進む。黄昏時の別名は逢魔時、または大禍時……今のアトリには特別縁起の悪いものである。とはいえ、既に質の悪い魔物が引っ付いている状態で逢魔も大禍もないのだが。
霧月は行きと同様、懲りずにべらべらと喋り続けている。言葉は交わされていないが、一方通行で流れ続けてはいるのである。その内容といえば、朝に出会ってからずっと「いかにアトリが霧月の理想を体現しているか」「理想の体現者たるアトリの素晴らしさ」の二本立てだけだ。アトリはよくも一日中それだけで話し続けていられるなと思うと同時に、これでもかという程に讃美されることに居心地の悪さを感じていた。霧月の好みがそうであると言えばそれまでの話であるが、己を取るに足らぬ汚い人間だと思っているアトリにとっては、手放しの称賛など非常に釈然としない。
「……はあ。どうして、私なんかが理想とぴったりなんでしょうね」
「私なんかだなんて、何てことを仰るのです! 私はアトリさんだからこそ、こんなに惚れ込んだのですよ! 魔物でも人間でもない私が唯一親近感を覚えられる、大人でも子供でもないあなた。大人と子供の中間特有の美しさを持つ、しなやかで柔らかいあなた……全ては私が長年追い求めてきた理想です。私はあなたを伴侶とする事で完全になれた」
「完全? 何の事ですか、それは」
「……お恥ずかしい話ですが、私の本当の姿は片割れの皆さんと違って不完全なのです。どろどろなのです。不定形なのです。だから私は形の有るものが、美しい形を持つものが羨ましい。どうしようもなく強く憧れるのです――昔は良さそうな体を見様見真似で模写したり、食べて取り込み複製しようとしたりと……とにかく色々致しましたが、どれも全てうまくゆきませんでした。なので、私は花嫁に願いを託す事にしたのです。何よりも強固な魂の結び付きを持つ花嫁の体は、自分の体も同じですからね……今はとても満ち足りていますよ。あなたの体はもう私のもの。この美しい体は私と不可分のものなのです――そういう訳ですので、アトリさん。決して「私なんか」と仰らないでください。あなたにとっては価値の見いだせない体でも、私にとっては優曇華や天上の宝玉にも等しいのです」
それは、よく分からない狂人の悍ましい論理であった。
一般化して表現するならば、霧月にとっての花嫁は自身のコンプレックスを解消するための代理……いわば願望の依り代といったところだろうか。その線で行くならば、理想の少女とは、霧月が同一視しやすく、それでいて要求通りの美しさを持った肉体の事なのだろう。――アトリは霧月の願望を叶える道具として、あの刻印を与えられたという訳だ。
しかし、不可解なのは「花嫁の体は自分の体も同じ」という思考である。魂が結び付けられようと所詮は別個の存在である花嫁を、自分と同一視できる感覚はアトリには理解できない。元々、他者の存在を必要としない精神性を養ってきたアトリである。それゆえに自我の境界線を無視した霧月の考えは、不気味な侵略者のそれとしか思えなかった。恐らくは、水と油のように相容れないだろう。
今度こそは駄目だ、こいつだけは駄目だ――そんな強い拒否感を抱いたアトリは、霧月から少しでも離れようと身を引く。しかし、それも敢えなく手を握られて阻止されてしまった。霧月の鳶色はしっかりとアトリを捉え、慈悲を乞うように、また、縋り付くように視線を絡めてくる。
「本当に、あなたは私の理想にぴったりの形です。刻印の完成が待ち遠しい……そうすれば、あなたの時の流れは私達と同じになる。この形が崩れる事は永遠になくなるのです。何て、何て幸せなことなのでしょう……」
霧月はお気に入りの人形を愛でるように恍惚とし、アトリの頬に手を滑らせた。朔とは別の類いの、悍ましく危険な表情であった。顔面だけでも平静を保とうとしたアトリも、遂に表情筋をひくつかせざるを得なかった。その様子を覗き込むように見つめる霧月は、白面をうっそりと歪ませる。
「おやおや……私に怯えていらっしゃるのですね。新雪のように淡白なお顔が恐怖に染まっていますよ。ああ、私の悍ましい欲望がアトリさんを汚しているのですね。うふふふ……何だか背徳的な興奮が込み上げてきます」
「……あなたは、本当にどうしようもない変態ですね」
「厳しいお言葉ですね、ふふふ……どうぞこれから、末永く宜しくお願いしますよ。この身が朽ち果てても、生まれ変わっても、ずっと一緒に居ましょうね」
精一杯の憎まれ口も、天音霧月式の気持ち悪いのろけに敢えなく敗れる。それにアトリが絶句し総毛立っていたその時だった。突如、横から黒い影が躍り掛かって来るのが見えたかと思えば、ぐい、と乱暴に霧月の方へと引き寄せられた。霧月の懐にぎゅうぎゅうに押し込められながらも影の方へ向いたアトリが見たのは、両腕が荒縄状の触手の束となった鬼女であった。――アトリは、この嫌悪すべき肢体愛好家の咄嗟の働きに守られたのである。
2021/6/7:加筆修正を行いました。




