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6話1節(上):モノマニアのお人形遊び


[1]


 寒春には珍しく、本日は朝から汗ばむ程の陽気である。そんな祝日の街はどこもかしこも人、人、人……日射しに恵まれたゴールデンウィークの最序盤は、殺人的な威力をもって人混みに慣れないものを圧殺する。


 その傾向が最も顕著と言える鉄道の駅から、一人の青年が人波に揉みくちゃにされながらまろび出た。小柄でいかにも柔弱そうな彼は、まるで地獄の戦場から帰還した兵士のように死んだ眼をして、きつい日射しを厭う。


「ああ、朝から何てきつい日射しなのでしょう……このままだと私、溶けてしまいます。死んでしまいます……郁さんったら、どうして今更花嫁で私を呼び出すのでしょう……」


 怨み節を呟くこの青年もまた黒騎士であった。ただし、彼は早い段階で花嫁を諦めた個員だ。とうの昔に花嫁への興味を失っている彼は、郁の呼び出しを〝それはもうとても〟面倒に感じていたが、無視すると後が怖いのでと仕方無く夜海を訪れていた。


「とにかく、この住所に行きましょう……ここに居ては私、本当に死んでしまう。死んでしまいます。二重の意味で……」


 青年は緩慢な動作でスマートフォンを操作する。住所を教えられ、あらかじめ星を付けておいた地図を表示すれば、そこまでは徒歩で二十分程度のようであった。この陽気の中で二十分。地獄めいたその内容に青年は軽い目眩を覚えるが、それよりも恐ろしいのはあの白い悪魔である。何があろうとも進むしかない。あの蔓でありとあらゆる辱しめを受けるのだけは御免だ――ぶるりと身を震わせた青年は、重すぎる荷を負わされた驢馬のように情けない足取りで歩きだしていった。


 全くの余談であるが、青年がタクシーを使うとかいった手段を取らないのは本拠を知られない為……ではなく、タクシーを呼び止める度胸が無い為である。かつて一度だけ、勇気を出して「へい、タクシー!」と手を挙げたが、十台連続で無視されたのがトラウマになっているのだ。



◇◇◇◇



 アトリと変態どもとの戦いは、とうとうゴールデンウィークという激戦期間に入ってしまった。久世朔は「離れれば殺す。心中する」と本気で言っているし、アトリも化け物に対する盾を必要とする以上、追い出すことも出来ずにずるずるとここまで来たのである。それでも、せめて適正な距離感と節度を持った付き合いをと涙ぐましく足掻き続けたアトリだが、その効果はゼロに等しかった。


 変態は一家に一人もいらない、三人などバナナの叩き売りレベルだ――そんなアトリの苦悩は、脅威が去らない限りどこまでも続くのである。おのれ、悪夢のなんとかとかいう大馬鹿野郎どもめ……そんな感じに、アトリの化け物らに対する憤懣は日に日に高まるばかりであった。


 ――今日のアルバイトは昼過ぎからということもあり、アトリは変態どもの巣窟と化した自宅に留まっていた。ごそごそと何やら忙しい変態どもを差し置き、リビングのソファで文庫本を読み耽っている。心頭滅却し変態どもの存在を無として過ごすのも、もう慣れっことなってしまった。


「アトリ。今日のアルバイトはお昼からなんだろう? せっかくのゴールデンウィークなんだから、これから僕とデートでもしようよ。ね?」


 台所を片付け終わった郁が、趣味の悪いエプロンを脱ぎながらやって来て、図々しくもアトリの隣に座る。ちらりと横目で伺ったその姿は、横座りで無駄にピンク色な空気を醸し出し、ソファにのの字を書いて頬を染めるという安定の気持ち悪さであった。無視して本を読み続けようにも、こうも間近に来られては気が散る――アトリは冷え冷えとした表情で、仕方なく顔を上げた。


「……嫌ですよ。何が悲しくて危険しかない誘いに乗らなきゃならないんですか。出掛けるなら、武志くんや朔さんを誘って行ってください」

「それじゃあデートにならないじゃないか。もう……アトリったら、つれないんだから。あ、分かった。アトリは外になんか出ず、家で僕とイチャイチャしたいんだね。ふふふふふ……それならそうと言ってくれれば良いのに。恥ずかしがり屋さんなんだから」

「何をとち狂えばそんな結論に至れるんでしょうね」

「きっと、君への溢れんばかりの愛がこういう結論に至らせるのだろうね。多くの先人も、『恋は狂気だ』と言っている……アトリ、君もそんなに冷めていないで、少しは恋の情熱に身を任せてはどうだい? 新たな世界への扉が開けるかもしれないよ。物は試しだ、まずは僕と今日こそアバンチュールを……ぐふぁ!」


 お得意の恋愛惚けで勝手にヒートアップして迫りだした郁はアトリを押し倒そうとしたが、彼女もいつまでも好きにされている訳ではない。マウントポジションを取られたところで、全身をバネにして素早く鳩尾へと蹴りを入れ、俊敏な動作でするりと脱出する。こうして、未だこの変態に女子力で劣るなかサバイバル力と攻撃力だけが日増しに成長してゆく――そんな哀しみを胸に抱え、アトリはリビングという名の危険地帯を後にした。背後で変態が咳き込み悶えているが、学習しない奴の自業自得である。



◇◇◇◇



 大きな溜め息を吐きつつ廊下に出れば、今度は物置扉から飛び出た武志がドタドタと走ってくる。能天気な野生児には珍しく、思い詰めた顔をしていた。この時点でもう厄介事のにおいがぷんぷんする。


「あ、アトリ! ちょうど良かった……助けてくれよ!」

「助ける、って……何をです?」

(しき)から渡された宿題、明日までなのに全然できてないんだ……このままだと俺、郁にお仕置きされる!」


 半ばパニックの武志から話を聞き出すと、どうやらこういうことらしい。


 二ヶ月前。武志は、彼の無知を憂いた識という片割れから宿題を渡されていたのだが、今の今まで宿題の存在を忘れて何もしていなかったのだという。

 期限までに宿題が出来なければ、郁により口に出すのも恐ろしいお仕置きをされてしまう。それを避けるためには宿題を今日中に終わらせる必要があるのだが……最初に助けを求めた朔には「くだらん。精々怠惰の報いを受けて苦悶しろ」と訳の分からない言葉で一蹴されてしまった――武志には、朔の言い回しは難解過ぎたのだ。その証拠に「タイダとか、クモンとかって何だ? うまいのか?」と首を傾げていた――。そんなこんなで、頼める相手はもうアトリしか残っていないのである。


「アトリって勉強できる方だろう? なあ、頼む。これ手伝ってくれよ」


 突き出された分厚いプリントの束は、夏休み一ヶ月分程度の量だろうか。ぱらぱらと目を通せば、それらは高校一年分の簡単な復習と常識問題で構成されているようだった。……本当に全然やっていないようで、綺麗な白紙である。二人がかりで頑張ったとして今日一日では終わらない事は明らかだ。何より、アトリは昼過ぎからアルバイトなのである。これは本当にどうしようもない。それでも少し位手伝ってやれば良いのだろうが、どうせ今日で終わらないなら結果は同じ。それに、日頃何かにつけて「おっきくしてやろう」と胸を揉もうとしてくるような奴のためにわざわざ骨を折る義理もない。


「この量を一日でだなんて、流石に無理がありますよ。私はお昼からアルバイトですし……」

「頼む! そこをなんとか、な?」

「自業自得ですよ。観念してください」

「……アトリ。お前って、結構性格悪いしケチだよな。見損なったぞ! そんなんだからおっぱいもちっさいままなんだぞ!」


 性が悪いのはいいとして、胸が小さいのは余計だ――ビシィと指さされながらアトリはそう顔をしかめる。その視界の端では、もぞもぞとリビングの変態が復活していた。相変わらずゾンビ並みのしぶとさである。しかし今日ばかりは都合が良い。……使えるものは変態でも使え、の精神だ。


「郁さぁーん、武志が三月に渡された宿題まだ終わらないって、私に手伝わせようとしてまーす」

「お、おい! アトリ、それはダメだろう!」

「何だって? まだ終わってないのかい、あれ。困るよそれじゃあ! 僕にはゴールデンウィーク中、アトリとあんな事やこんな事をするプチハネムーン計画があるんだからね! 君のバカさ加減に何日も付き合う訳にはいかないんだ。さあ、宿題なんて今日のうちにとっとと終わらせてしまうよッ!」


 何やら聞き捨てならないことも言っていたが、目論みは大方うまくいったようである。嘆きたっぷりに額を押さえた郁は、まくし立てるように文句を言いながら、武志を何処かへと引きずって連れ去っていった。ドナドナされる武志は、何やら「裏切り者」だの「鬼」だの喚いていたが、「うるさいよ、武志。君が選ぶ道は二つに一つ……このまま宿題をやらずに死ぬか、死ぬ気で宿題をするかだ」と郁に鎮圧されて静かになった。いい気味である。あの奔放すぎる野獣は毒花にでもやられて痛い目に遭った方がいい――そんな風に、アトリは彼らを笑顔で見送った。



◇◇◇◇



 無事、厄介者共のいなくなったリビングで一息つき、今度こそ文庫本を読むのに集中しようとしたアトリだったが、それは背後から伸びてきた白い腕により阻まれた。そろりと接近してきた朔が背後からアトリを抱き竦めたのである。朔は譫言のようにアトリの名前を呼び、首筋に鼻先をすり付けてくる。そして不慣れだがねちっこい手付きで、抱きしめた彼女の肩や細腕をまさぐった。その気持ち悪い仕草は、恋人のそれと言うよりは獲物にかぶりつく蜘蛛そのものだ。――ああ、一番厄介なのが残っていたかと、アトリは内心で嘆息する。


「何してるんですか……朔さん。変態なら、あの二人でもう十分間に合ってますよ」

「……私は変態でない。貴様の花婿だ」


 聞き分けもなく朔はアトリの首筋へ顔を埋める。すんすんと耳元でやかましいわ、首が生暖かいわで、鳥肌が立つほど最悪だ。彼女が気持ち悪さに身じろぎすれば、照れていると勘違いしたのだろう。小さく笑って抱擁を強めてくる。


「朔さん……花婿だからって、やって良いことと悪いことがあるんですよ? ほら、変なことしてないで離れて下さい。本が読めません」

「断る。貴様の匂いは私の心を安らがせる。こうして寄り添っている間は、寂寥と不安を忘れられる……今は邪魔も居ないのだ。まだこうしていたい。本などその辺に放って置いてしまえ」


 逆効果だというのが未だ分からないらしく、底冷えする甘い声もやめる気配はない。こうも気持ち悪いとうっかり殺虫剤を掛けてしまいそうだ。……もっとも、効くかどうかには大いに疑問だが。


 ――先日のスプラッター事件以降、朔は「お前は、私の真の姿や悪癖を目の当たりにしてもなお、見限らずにいてくれた唯一の女だ」などと言い始め、アトリへ慕情めいた依存心を寄せ始めた。おまけに、このような郁ばりの厚かましい態度だ。非常にまずい状況である。アトリよりも良い乳の持ち主が現れれば簡単に引き剥がせそうな武志と違い、朔は受け入れて優しくする人間が居るかどうかも危うい状態だ。それなのに日々執着を深められては、引き剥がしのハードルがぐんぐん上がってしまう。


 そもそも、アトリが朔を拒絶しないのはあくまでも保身のためだ。アトリは朔の異常性を当然恐れている。ただ、扱い方を間違えると自分が解体されるという危機感から、彼を受け入れ優しくするポーズを取っているに過ぎない。それがこの蜘蛛男を更に調子づけているのが悲しいところであるが、解体よりはましなので仕方ない。……あくまでも解体よりはましというだけで、正直なところ、血なまぐさい異常者なんて御免であるのだが。なんとも難しい局面だ。


 怒りを買わぬよう慎重に、しかし、これ以上調子付けぬよう決然と――そのように、アトリが細心の注意を払って纏わりつく朔に悪戦苦闘していた時だった。薄暗く甘ったるい空気をぶち壊すように、ピンポーンと気の抜けるような電子音が来客を知らせた。


「誰だ……こんな時に」


 思わぬ邪魔が入ったと言わんばかりに、怨みがましく不機嫌に呟く朔。殺気立ってすらおり、そのせいで擬態が解けかかっているらしく蜘蛛脚がアトリの視界をちらほらする。このままでは白昼の住宅街で解体ショーが起こると確信したアトリは、朔の腕から抜け出て玄関に急いだ。住宅街の平和の為にも、さっさと訪問者の用件を済ませてお帰り頂かなくてはならない。でなければ、待つのは白昼の惨劇とアトリの社会的な破滅である。



◇◇◇◇



 そうしてリビングを飛び出したアトリが玄関扉を開けると、そこには見知らぬ黒髪の青年が立っていた。小柄で生白く、いかにも内気そうな青年だ。いきなり扉が開いて驚いたのか青年は目を見開いてあわあわと狼狽したが、どうにか背筋を正し、どもりつつも口を開いた。


「こ、こんにちは……ひ、雛形、アトリさんのお宅は、此方でしょうか……私、雛形アトリさんに、お会いしに来たのですが……」

「雛形アトリは私ですが……どちらさまですか?」


 青年は白いシャツにサスペンダーで吊られた駱駝色のズボン、そして茶色のキャスケットという、何だか古臭い出で立ちである。左手には松葉色の風呂敷包みを携えている。知り合いにこんな人物はいない。宅配便やセールスではなさそうだが、宗教の勧誘だろうか――そう思い、アトリは青年に訝しげな視線を向けた。青年は躊躇いがちにアトリへ視線を向けてきたが、目が合うと肩をびくりと震わせ、もじもじして琥珀色の瞳をさ迷わせる。


「ああっ、すみません、すみませんっ……申し遅れました。私は、天音(あまね)霧月(むつき)という者です。決して怪しい者ではありません。黒騎士、と言えばお分かりになられると思います……郁さんに呼ばれて、あなたにお会いしに来たのです」


 一番怪しい者じゃないか――そう口を突きそうになった毒を飲み込んで、アトリは外向きの笑みを作る。挙動不審ではあるが大人しそうなこの男は、黒騎士の中でもまともそうだから悪いようにしてはいけない。頼り無さげではあるが、もしかすればこの男は変態どもに対する防波堤に使えるかも知れないのだから。


「ああ、そうだったんですね。すみません、そうとは知らずに怪しんだりなんかして……失礼しました。取り敢えず、中へどうぞ」


 天音霧月は相変わらずもじもじしながらそれに応じて、帽子を脱ぎつつおずおずと家に上がる。黒騎士と言えば物怖じどころか遠慮もしない奴ばかりかと思えば、こういう内気な者もいるのかというのがアトリの感想であった。


「ここに来るまで色々と不安でしたが、あなたのような優しそうな人が花嫁で良かったです」


 心底安堵したようにそう語る天音。この穏和な物腰ならまだ話が通じそうだ。ちゃんと防波堤として機能するかも知れない……そんな希望を抱いたアトリは、決心して口を開く。


「ああ、ええと……それについてなんですけど」

「どうかされたのですか?」

「言いにくい話なんですが……私、花嫁になってからというもの、郁さんや武志くん、朔さんのめちゃくちゃな行動に振り回されてしまって。このままじゃあ、良いお付き合いはとても出来そうにありません。あなたはまともな方のようですし、出来れば、彼らを諌めて貰えたら助かるんですが……」

「ああ。それはむごい……相手はあの三人ですものね。さぞかし大変だったでしょう」


 初めて向けられた労りの言葉に、アトリはその身を震わせた。嫌悪の為ではない。純粋に感動にうち震えたのである。狂気じみた変態ばかりと思っていた集団に良心的な人物がいた――砂漠でオアシスを見つけたような、良い意味で衝撃的な事態であった。天音は瞠目するアトリを安心させるように、凛とした表情になって言葉を続ける。


「ご安心ください。私が来たからには、可愛らしいあなたを彼らの好きにはさせません。だってあなたは、私が長年探し求めた理想の少女なのですから!」


 急に何を言い出すのだとアトリが硬直するなか、霧月は慇懃な動作で跪き、恭しく取った彼女の手に頬ずりした。繰り返すが、いきなり頬ずりしたのである。その表情は陶酔を極め、ちょっぴり出た涎がこの男の変質者ぶりを際立てた。


「ああ……思った通り、とっても柔らかくてしっとりしたお肌ですね……ああ、この顔も、腕も、脚も、何もかもがいとおしい。余す所なくスリスリしたい……!」

「や、止めてください、放してください!」

「良いですね……その困惑し怯えた表情も、なかなかいじらしいです。ついでに今日のぱんつの色も教えて頂けると幸甚至極なのですが……あ。ちなみに私、ぱんつは白派です」


 こちらを見上げ、キラキラした表情で変態的な質問をかましてくる天音。こいつも他の兄弟同様に変態だ、さっきのは猫被りだと悟ったアトリは全身が総毛立ち、一瞬でも奴を信用して希望を託した事を大いに後悔した。そんなアトリの本能は逃亡一択を迫ったが、引き剥がそうと思っても天音はアトリの手を強固に握っていてなかなか離れない。


「どうして離れようとするのですか? 他のお三方にはうんざりされているのでしょう? 守って差し上げますから、私から離れてはいけませんよ」

「結構です。あなたが一番危ないって、これでよく分かりましたっ!」


 吐き捨てるようにそう言い、アトリは天音に伝家の宝刀・金的をトーキックの要領で放つ。郁のように学習していない天音は脆いもので、簡単に痛恨の一撃を許して崩れ落ちた。アトリは悶絶する変質者を置いて、狂気的な殺戮マシーン……もとい朔に奴を処理させるべくリビングへ向かおうと踵を返した。しかし、脚に何かが纏わり付いて進めない。視線を落とすと、苦悶の表情と脂汗を浮かべた変質者がしっかりとアトリの脚へ抱き付いていた。しぶとさは従来品と同じという訳だ。


「う、うう……これしきの事では離れませんよ……! それにしても、ああ……アトリさんのおみ足がこんな近くにっ……こ、こちらもスリスリして良いでしょうか?」

「良いわけないでしょう! 離れろ変態!」

「ああんっ、その厳しいセリフ……! 腹黒ツンデレ属性付きだなんて、最高ですねアトリさん!」


 頭の痛くなるような台詞が次々と飛び出すなか、いくら暴れても変質者は靴底のガムのように離れない――そんな時間が永遠に続くかと思われたその刹那だった。種々様々な妄言を吐いていた天音が、「ぐはぁっ」という声と共に突然吹っ飛んだ。そのまま廊下をごろごろと高速で転がってゆき、玄関扉に激突して止まった。残ったのは不健康に長い脚。どうやら朔が彼を蹴っ飛ばしたらしい。惨劇再びである。しかし今度は手加減したらしく、犠牲者は原型を留めていた。


 「何をしている」と、朔は天音へ軽蔑しきった冷たい眼差しを遣っていた。心を持たぬ蜘蛛の親玉らしい冷酷さだ。対する天音は、それにも動じず不満の意を顔全体で表現しながら体を起こす。見上げたしぶとさであった。


「あいたたた……何をするんですか、朔さん。痛い、痛いですよ」

「黙れ。下らん事をするな、霧月」

「くだらなくなんかありません! 私は、アトリさんという至上の創造物の素晴らしさを賛美し、全身全霊で愛でていたのですよ! 朔さんみたいな頭の固い人にはそれが分からんのです!」

「……相も変わらず、訳の分からん戯れ言を」

「そんなのが分かる位なら、頭が固い方が良いですね」

「な、何ですか。お二人とも、人をゲジゲジを見るような眼で見てっ!」

「ゲジゲジって言うより、変質者ですよね」

「変質者ではありません! あなたの魅力に惑わされた哀れな子羊です!」


 黒騎士相手では毎度のことであるが、会話はいつまで経っても平行線だ。天音は己が変質者だという事実を認めず、ゲジゲジだの子羊だの寝言を吐いているが、それは日々をまっとうに生きているゲジゲジや子羊に失礼というものであった。彼らは、邪な欲望に突き動かされて人を(たばか)り、少女を欲望の捌け口にするなどしないのだから。犬畜生にも劣るという、犬に大変失礼な言葉があるが、あの言葉はこの男にこそぴったりであろう。今度から文部科学省は、「天音霧月にも劣る」という言い換えを推奨するべきだ。こいつこそはそういう扱いを受けるべき存在なのだ――アトリは、天音霧月に対してそのように深い失望と軽蔑を抱いた。



2021/6/7:加筆修正を行いました。

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