5話2節
[2]
闇に包まれた執務室には、コレールと一匹の使い魔がいた。邪魔者の捜索と討伐の経過報告のためである。その内容は決して芳しくなく、跪いたままの使い魔は、一秒ごとに膨れ上がる主の怒気に身を震わせている。
「……それで。グリフは邪魔者の餌食となり、お前達は未だ奴らを仕留めるどころか見つけられてすらいない、と」
「は、はい……私とコルドはグリフの救助要請を受けましたが、間に合わず……その場に残された敵の痕跡と、グリフの残留思念を回収するに留まりました。しかし、それも探索の手助けには……」
使い魔の差し出した青い鱗と残留思念を宿した石を、コレールは鼻を鳴らしながら受け取った。そして、消えかかった残留思念から記憶を引きずり出す。乱暴な接触に残留思念がか細く悲鳴を上げるが、そんなことに構いはしない。
――グリフは倒れた所を踏みつけられたらしく、視界にはアスファルトしかない。惨たらしい死の恐怖に怯えるグリフは見苦しく命乞いをし、主と組織を裏切るような言葉を吐いていたが、敵らしき男の声はそれを冷酷に一蹴する。そして、振り下ろされた刃物の衝撃で終焉。
それなりに信頼を託して送り出した者の無様な末路に、コレールは思わず残留思念入りの石を握り砕いてしまった。そうして、グリフの魂の残滓は悲鳴にもならない短い声を漏らして永久に消滅する。
「花弁の次は鱗か。声も前とは違う……しかし、魔力の波動は同一」
ここまで相似した性質を持つとすれば、それは同一人物が姿を変えているか、群体型の魔物かである。だが、人間並みの自律行動が可能な体や知能を持つ群体型など、コレールは聞いたことがない。恐らく、多くの異形やその筋の人間もそうだ。一般的に、群体型の魔物といえば、どれも知能の低い原始的な生き物なのだから。……だとすれば、可能性は一つだけ。姿を変えられる魔物一匹だ。
「クーペ」
「はっ」
「敵は恐らく、姿形を変えられる魔物だ。そして、恐らく予想以上に手強い。邪魔者の始末は最優先だが、叶わぬ場合は撤退し、得た情報を報告しろ。倒せるなら倒すに越した事は無いが、そうでないなら少しでも多くの情報を得て対策を考えねばならん。僅かだが、収集要員にも被害が出始めている……これ以上の勝手は許すな」
「……畏まりました」
使い魔――クーペは主の有無を言わせぬ迫力に圧されつつ、闇に姿を消す。今までこのように煩わされたことのない主だ。今回の件は相当頭に来ている……どうにかして忌々しい邪魔者を片付けなければ、グリフの二の轍を踏む前に自分と同僚は処断されてしまうだろう。そんな恐怖から逃げるように、彼女は主人の前から下がったのであった。
◇◇◇◇
久世朔との遭遇から一夜が明けて。アトリは今回も無事に朝を迎えられたことを天に感謝しつつ、起床して身嗜みを整え、制服に着替える。今日の天気は曇りであるが、窓を開ければ少し冷たい風が吹き込んできて気持ちが良い。今年は例年に比べて寒い春であるらしく、どちらかと言うとこういう日が多いようだった。
今日一日も変態どもと戦い抜く決意を胸に、自室を出たアトリ。扉を開けたすぐ側には血錆色の大鉈を持った久世が三角座りで陣取っていて、出て来た彼女をじっと見ていた。どうやら人間の姿を取っているようで、外骨格や蜘蛛脚こそは無いが、今度はそのタイトなゴシックファッションでお化けのようになっていた。朝から容赦なく襲い掛かる新たな視覚の暴力に、さっきまでの爽やかな空気は跡形もなく吹っ飛んでしまった。出鼻を挫かれたアトリは掠れた声で「……何、やってんですか」と言うのが精一杯だった。
「不寝番をしていた。お前が寝込みを襲われぬとも限らんからな」
「ええと……それは、どうも……?」
「礼には及ばん。お前は私の花嫁になると誓約した。その誠意に応え、お前を守護するのが花婿たる私の責務だ。何者であろうと、徒にお前を穢し散らす者は許さない」
お堅くそう語った久世は、無機質な白を僅かに桜色に染め、ふいと顔を背けた。よく見ると耳までほんのり桜色だ。この物騒な発言は照れている台詞なのだろうか。警備システムとしては頼もしい限りだが、まったく恐ろしい声色と思考回路である。
ともかく、こんな怨霊もどきと朝っぱらから絡み続けるのは御免だ。敵の目が離れている今のうちに撤退だと、アトリは一階へそそくさ降りようとした。しかし、それを這い寄る地獄のような声が引き留める。
「おい待て、何故逃げる。貴様は昨日の誓約を忘れたのか」
「こ、怖い顔しないでください……! 誓約なら、忘れ……忘れてませんよ? ただ、久世さん、不寝番で疲れているみたいだからっ……」
「……気遣っての事、と言いたいのか」
「そう、そうです」
久世の鋭さを持った昏い眼差しからは真意が読み取れない。ただ、滲み出るおどろおどろしい緊張感が肌を刺すだけだ。それでも大鉈の錆となる訳にはいかぬと、何とか必死に釈明するアトリだが、般若のような顔は微動だにしない。その反応にアトリが最早これまでと観念すると、久世がゆっくりと口を開く。
「そのような気遣いは要らん。私はお前の側に居られれば、それで良い……どのような理由であろうとも、私を置いて行くような真似はするな。名も、他人行儀に久世などと呼ぶな。そういった行為が疑念を呼ぶのだと記憶しておけ」
「それは、すみません……」
「――だが、私を労おうというその心遣いは嬉しく思う。疑心を抱き、恐れさせて悪かった」
先ほどとは打って変わり、久世は、朔は般若の顔を静かに綻ばせ、甘くしおらしい態度で謝罪の言葉を口にした。大鉈も黒い靄に消えた。アトリの予想は良い意味で裏切られたのだが、狂気の蜘蛛男の甘やかな笑みなど更なる恐怖を呼び起こすものでしかない。しかし、久世朔の前では拒絶即ち死である――身の安全の為、これ以上朔を刺激したくないアトリは曖昧な笑顔で「だ、ダイジョブです」とだけ返す。
「お前はこんな私を責めず、忌み嫌わず、包容する……そのような女は、否、そのような人間は一度も私の前に現れなかった。お前は……お前こそは、私達の伴侶となるべく生まれた存在なのだな」
蜘蛛男の顔に浮かぶのは、まるで宗教的な陶酔と濃厚な好意であった。それはアトリの最も望まない反応だ。命惜しさにやむなく受け入れただけという事実を言えば、朔の誤解は解けるだろう。しかし、そうすればアトリの命は今度こそ大鉈の露と消える。非常に不本意だが、ここは黙っているしかなさそうだ――感極まった蜘蛛男の濃厚な抱擁を受けつつ、アトリは人知れず顔を歪めた。そこを起きてきた武志に目撃され、「ああ! 朔だけハグとかずるいぞ!」と朔もろともに粉砕骨折しそうな勢いで抱き付かれるのは、これより数秒後のことである。
その後の食卓の風景は奇妙なものだった。郁と朔は昨日の惨劇など忘れたかのように目玉焼きに掛ける醤油のやり取りをし、武志はぼこぼこな面――朔が己と花嫁を粉砕骨折せしめんとしたことへの報復を行ったのである――でハフハフと朝食にがっつく。それら全てが日常のように平然と行われていた。どうやら、彼ら黒騎士にとっては凄惨な暴力すら非日常の範疇に値しないらしい。そんな光景に、アトリは「奴らが存在する限り、私に心安らかな生活など永遠に戻らない」と再認識せざるを得ない。毎朝毎朝、ヘヴィなものである。
お弁当を渡される頃には、アトリの魂は半分抜けかかっているもいいところだった。女三人寄れば姦ましいなどと言うが、変態三人寄れば狂気の沙汰だ。冒涜的な混沌そのものだ。常人の神経でここまで耐えていることそのものが奇跡というものだ――そのように、アトリの意識が忌まわしき現実から解脱しかけているのを、郁は郁なりに察したらしい。心痛めたように表情を曇らせて花嫁に寄り添い、「ああ……アトリ。どうやら朔の激しい気質にあてられてしまったんだね」と肩を抱いて慰めにかかる。いつものことながら、自分が原因であるという自覚はないらしかった。
「朔は可哀想な子なんだ。真っ直ぐすぎる性格が災いしてね、花嫁候補から裏切られたり、花嫁候補を他の男に奪われたりを繰り返してきて、ちょっとおかしくなってしまったんだ。彼は君まで失うのが恐いんだよ。だから、ついつい物騒なことをしてしまうんだ――でも、本当は花嫁思いの良い子なんだよ。どうか嫌わないで、優しくしてあげてくれないかな?」
「……花嫁思いの良い子が、何とか・オア・ダイって迫りますか?」
「あれでも朔は君のことを好いているんだよ? いつもは何とか・アンド・ダイだからね」
「なにそれ恐い」
久世朔は死を撒き散らす怪物か何かか――郁の手を退けながら遠い目をするアトリに、今度は洗面所から戻って来た武志が、「あ、アトリ……朔は怒りっぽいけど良い奴だぞ!」と青紫のパンダ面で擦り寄ってくる。おバカなりに考えた文句なのだろうが、その顔面で言われても説得力ゼロである。彼の有名な動物研究家が言う、「これは愛情表現なんですねぇ」と同じようなものだ。あれは怒りっぽいとかいうレベルじゃない。アトリはぐいぐいと迫る金色のもさもさを「寄らなくてよろしい」と押し退けつつ、そう嘆息した。異常な人懐こさはこの獣の特徴であった。
――そんなお粗末な蜘蛛男フォロー大会も、本人が来れば潮が引くように強制終了する。黒騎士は、こういった時には妙な慎ましさを発揮する質であるのだ。
◇◇◇◇
そんなこんなで家を送り出されれば、朔がぴったりと張り付くように付いてきた。昨日の宣言通り、アトリの送り迎えをするためである。お陰で出掛けに武志が「朔だけずるいぞ!」と騒ぐので、明日からは一人ずつローテーションすることになってしまった。きっちりとガードされるのは化け物の存在を考えれば有り難いことなのだろうが、せめて外でだけは変態どもから解放されたいと切望するアトリには有り難迷惑というものでもある。
朔は、変態どもの中でもいろいろ狂気的に拗らせている男だ。一緒に歩いていなければいけない状況でも、アトリの歩調は自然と早まり、距離が離れてしまう。すると朔はすかさず彼女を呼び止め、「何処へ行くつもりだ。まさかこの期に及んで逃亡を図っているのではあるまいな……」と釘を刺す。更には「……どんなに離れていようとも、この刻印が貴様と私達を結び付ける。私達から逃れようなどとは努々思わない事だ」などとうるさい。何度ちょろく丸め込まれても、不安は消えないという訳である。はなはだ面倒くさい話だ。これでは、お付き合いをした女性が尽く逃げ出してしまうのも理解に難くないことであった。
そんなだから、妥協点である学校の近くで朔と別れた時には、アトリは自由を取り戻したことに歓喜し、思わず心中で万歳三唱してしまった。
2021/6/3:加筆修正を行いました。




