表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/106

5話1節(下)


 ――その頃の雛形家はのどかなもので、ほわほわと漂うチーズとホワイトソースの香りに包まれて、ゆったりとした時間が流れていた。今日の夕飯は海老と帆立のグラタンにコールスローサラダだ。


「ふふふ。これで、今日こそアトリも僕のセクシーな魅力にイチコロさ。さあ、アトリ……! 今日こそ僕を食べておくれ!」

「……郁。お前なんか食べたらアトリが死んでしまうぞ」


 そんな空気のなか、綿毛は愛しい花嫁の帰りを待ち構え、新作である薄紫色のフリルエプロンをひらりとはためかせていた。とうの昔に食事を済ませ、側のソファで寛いでいた武志は毒花の恐ろしい企みに眉尻を下げている。彼は野獣であるがゆえに、綿毛の迂遠ないやらしい台詞を理解できない。彼が本当に有毒な己の身を供する気だと思っていた。……そんな反応に、この幼い片割れには艶事の情緒など分からないのであったと思い出した郁はあからさまに嘆息して口を開く。


「そっちの食べるじゃないよ。武志はまだまだお子様だね……そんな事よりもだ。アトリ、早く帰って来ないかなあ……」

「そうだなあ。早く帰ってこないかなー。郁は難しいことばかり言うから退屈だぞ!」

「あのねえ」


 武志の身も蓋もない言い様に郁が反駁しようとした時、玄関扉が開けられる音が飛び込んできた。アトリが帰ってきた――そう思い至るや否や、郁も武志も、それまでの遣り取りのことなど忘れて玄関へと駆け出してゆく。



◇◇◇◇



 狂気の蜘蛛男……もとい久世朔を伴って帰宅したアトリを出迎えたのは、相変わらずでれでれしている変態綿毛と、遊びたい盛りの大型犬であった。蜘蛛男とあわせ混沌としたメンツである。


「おかえり、アトリ。おや……朔もよく来てくれたね」

「郁……何故アトリを一人で帰宅させている。こいつは不用心に過ぎる――貴様とあろう者が、それに気付いていないとは言わせんぞ」

「いきなりその事かい? 僕も武志も、送り迎えをしてあげたいのは山々なんだけどね……アトリは照れ屋だから、僕らを連れて通学できないんだよ。だから、僕らは彼女の意思を尊重してお守りを持たせているのさ」

「照れ屋……?」

「そうそう。アトリって本当に照れ屋だぞ! 俺がじゃれようとすると、すぐ逃げるんだ」


 片割れたちから口々にそう言われ、久世は鋭さを湛えた無表情で考え込む。――照れ屋などというのは郁らの幻想である。アトリが郁を避けるのは彼が色情魔であるからだし、武志とのじゃれ合いを避けるのはそれが死に直結する猛獣との格闘だからだ。決して照れているのではない。

 そんな思いを込めて、アトリは「違いますよ」と強めに否定したが、果たして届くのかどうやら。何せ、相手は病的な思考の蜘蛛男である。理解されるよりも、とんでもない解釈をして「やはり他の男と通じているのでは」と殺しにかかられる方が容易に想像できる。アトリは朔と顔を合わせて一時間も経っていないが、既に「奴はそういうものだ」という確信を持っていた。


「……照れ屋か。最後まで私との誓約を躊躇っていたのも、剥きになって否定するのも、そういう事か」

「ああ、もう……! 最悪の展開よりは良いけれども! 良いんだけれどもっ……!」

「訳の分からない反応をするな。それは照れているのか」

「あなたたちの目には、照れてるって映るんでしょうねッ……!」


 がくりと床に崩れたアトリを、久世は不思議なものを見るような眼で見続けていたが、郁に「取り敢えず部屋を接続して来なよ。ご飯用意しておいてあげるから」と言われると去っていった。危険人物が一人いなくなったと喜ぶべき状況にも関わらず、アトリの胸中には薄ら寒い風が吹いていた。端から諦めていながらも、心のどこかでは、あの恋人面する蜘蛛男が己の心情を理解することを期待してしまったのだろう。そんな己の愚かな無意識を恥じながら、アトリは自室に逃げ帰るべく立ち上がった。しかし、その目前では郁がニコニコと笑みを浮かべて見つめてきている。おまけ武志が何故か横でおろおろしていた。


 ――ほとんどの場合、ニコニコしている時の郁は碌なことを考えていない。武志が横でおろおろするならほぼ黒……それも危険性大だ。ただしここで無視すれば、奴が躍起になり、アグレッシブな方法で振り向かせようと暴走してしまうのがお決まりのパターンである。こういう場合の最善の選択肢は「心が荒んでいても、一応構っておく」の一択だ。


「……どうしたんですか、郁さん。ご飯は用意しなくて良いんですか」

「良いんだよ。ご飯は並べるだけだからね。それよりも、ねえ……アトリは何か気が付かないかい? ほら、僕のエプロンとか」

「色が変わりましたね」

「んもう、そうじゃないよ! アトリは本当に焦らしプレイが好きだね……ほら、ここ。こんなに大きく刺繍してあるだろう?」


 郁が指差したエプロンの胸部分には、「Eat me」という文字がでかでかとあしらわれている。おまけに末尾へ赤いハートマーク付きと、趣味の悪さに拍車が掛かっていた。アトリは、よくも毎日毎日こんな気持ち悪いアイデアを思い付くものだなと嘆息するしかない。


「お腹を壊したらいけないので、訳の分からないナマモノは食べません。どうしてもと言うんなら、武志に……」

「お、俺だって嫌だぞ! 毒で死んでしまう!」

「僕だって君に食べられたくなんかないよ。生憎、そういう趣味は無いんだ。まったく……アトリの照れ隠しもバリエーションを増したね。でもね、その氷の鎧の中にうぶな乙女心を隠しているのはお見通しなんだよ。僕の前でそんな事をする必要はない……さあ、恥ずかしがらず、裸の心をさらけ出しておいで。僕が全て受け止めて、倍返し……いや、百倍返ししてあげるよ! もちろん、ベッドの上でね!」


 寝言を抜かして両手を広げる郁に、アトリは絶対零度の眼差しを向ける。奴の台詞の大半には如何わしい意味しかないからだ。一方、武志は文句の半分も理解していないようで、頭の中を疑問符でいっぱいにしながら首を傾げている。郁は頭の半分が夢の世界に飛んでいる。誰の言葉も、思いも、誰にも届かない……そうして悲しい沈黙が場を支配するかに思われたその時、ドドドドドと凄絶に床を鳴らしながら、そいつは現れた。


「郁、目を離した隙に、貴様ァ! 見損なったぞォォォ!」

「何だい、朔。君も混ざりたいなら早くそう……うぐぉうふぁ!」


 物置扉から飛び出し、廊下で十分な加速を付けた久世は、咆哮して殺人的なドロップキックを放つ。振り向きざまにそれを食らった郁は受け身を取る間もなく吹っ飛び、金属製の玄関扉へ激突して黒い血溜まりに沈んだ。

 それに目もくれず、久世はアトリの方へと歩み寄り、労るように彼女の手を包む。大事ないかと確認して礼を言われれば、花婿としての義務を果たしたまでと接続作業に戻ってゆく。どうやら、如何わしい行動をする郁の撃退も「義務」の一部に入るようであった。さっきは色々とボロクソに思ってしまったが、病的な面さえ除けば、いい人なのかも知れない――現金なアトリの思考回路はそんな風に久世の評価を上方修正させた。


 残されたのは、無惨な綿毛の屍だ。自業自得とはいえ、こんなモザイク処理が必要な姿にされてちょっと可哀想だ――芽生えた僅かな哀れみから手当てできる事はないかと振り向きかけたアトリだが、それは武志に阻まれた。どうせすぐ元に戻るから、あっちでご飯を食べようと言うのである。凄まじい出血量を放っておけずに渋るも、「だ、大丈夫だ。こんなのいつもの事だ! あれくらい、遊びみたいなもんだ!」と慌てて押し切られ、リビングに放り込まれてしまった。

 そうして誰も居なくなった廊下には、くすん、くすんと肉塊が啜り泣く声だけが小さく響いていた。



2021/6/3:加筆修正を行いました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【番外編】
クレイジーダーリン(EX):番外編
【小説以外のコンテンツ】
第一回:黒騎士人気投票(Googleフォームへ飛びます)
Twitter
【参加ランキング】
小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ