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5話1節(上):大蜘蛛の婿入り


[1]


 平日午後九時すぎの七区駅近くは、未だ続く帰宅ラッシュから多くの人間が行き交っていた。そのほとんどはやはりスーツを着込んだ勤め人だが、塾帰りの学生などもちらほら混じる。アルバイトを終えたアトリは帰宅の途にあって、一人そんな往来を通行していた。


 ――二度目の襲撃からは二日が経過した。あれから、郁や武志が安全の為に送り迎えをしようと度々申し出てくるが、アトリはそれを固辞し続けている。道中で化け物に襲われてもペンダントが有れば救助まで凌げるだろうと、彼らと……変態と一緒に居るところを知人に見られることの回避を優先したのである。


 敵の出現以降、黒騎士、特に郁はこの機に乗じて距離を詰めるような動きを見せている。しかし、黒騎士の手から逃れる希望が消えてはいない今、彼らは新たな自己防衛の手段を得るまでの繋ぎだ。アトリは捨てる前提の相手と必要以上に馴れ合うことは避けるべきであると考えていた。


(……問題は新しい防衛手段だ。化け物にも黒騎士にも有効そうなものなんて、魔物狩人くらいしか知らない。でも、魔物狩人なんて、どうやってコンタクトを取れば良いんだろう)

「おーい、雛形っ」


 自分を呼び止める声に、アトリは意識を思考の海から引き揚げて振り返る。そこには爽やかなアイドル顔の男子生徒――上條直人が居た。道行く人々には大なり小なり疲労の色が浮かんでいるというのに、彼は夜でも眩しいイケメンスマイルだ。やはり、ファンができるような人間というのは、普通の人間とは出来が違うのかも知れない。


「上條くん……? こんな遅くにどうして」

「今日は塾の日だったから、その帰り。雛形こそ、こんな時間まで何してたんだ?」

「私はさっきまでアルバイト。この近くの喫茶店なんだ」

「へえ……雛形ってアルバイトしてるんだ。えらいな。でもさ、こんな遅くに一人で帰るのはちょっと危なくないか? 良かったら途中まで一緒に帰るよ。バス停、この先だから」

「良いの? うーん……なら、お言葉に甘えようかな」


 アイドルばりの輝く容姿に包容力ある紳士な内面――この好青年には一点の曇りもない。こうして言葉を交わしているだけで、未だ続く変態との戦争で荒んだアトリの心も浄化されていくようだ。このような尊い存在の申し出を誰が断れるだろう。そうしてはにかみがちに頷いたアトリだが、不意に背筋へ刺すような寒気がしたような気がした。反射的にバッと振り返ったが、特に怪しいものは見当たらない。気のせいであるようだった。


 道中、話す内容といえば、学生らしいとても他愛ないことばかりであった。ただ上條は同学年よりも利発で話題に事欠かないし、話への乗り方や盛り上げ方も上手い。こういう所が女子生徒に好かれるのだろうなと、アトリはぼんやり考える。そうこうしているうちに上條の乗る路線のバス停に着いて、アトリはそこで彼と別れた。

 別れ際の上條は、一人帰宅の途に就くアトリに「気を付けて帰れよ」と声を掛けて小さく微笑む。それはもう惚れ惚れするような好青年ぶりにアトリも小さく笑みをこぼす。そうしてまた明日と別れを告げた瞬間にも、また刺すような寒気。何なのだろうと気味悪く思ったアトリは足を早めた。



◇◇◇◇



 薄暗いベッドタウンの道をアトリは早足で通り抜ける。今は駅前の街並みを眺望できる坂道に差し掛かった所である。普段ならそこは街の明かりを目で楽しもうと歩調を緩める箇所であったが、今日のアトリにそんな余裕は無い。

 ――あれから刺すような寒気はないが、誰かに見られ続けているような気がしているのである。気のせいならばいいが、魔物であったら堪ったものではない。アトリは得体の知れない感覚から逃げるように更に歩調を早める。……そんな時だ。目前の四つ辻からぬっと人影が現れたのは。


 人影の正体は長身の男であるようだった。どこか節足動物を思わせる、長く骨ばった痩せ気味の体にスーツをカッチリと着込んでいる。厳しげに張り詰めた佇まいからして、公務員かそれに類するお堅い職業の人間だろうか。しかし、男のアッシュグレイの髪色はそれらの職業では有り得ないので、本当の身分は類推が付かない。

 ――とうに日の沈んだ時間だというのに、そこまで子細に相手の様子が分かるなどおかしな話だが……真相は何てことはない。四つ辻から出てきた男はそのままどこへ行くでもなく、立ち止まってアトリの方を見つめているのだ。これなら、凡人の彼女でも分からない方が不自然というものだろう。


 自宅はこのすぐ先だが、この得体の知れない男の前を素通りして行く度胸はアトリにはない。それ以前に接近することすらも恐ろしいのだ。更に言えば、この男も化け物であったらまずいという懸念もある。――回り道して帰るしかない。そう決断したアトリは方向転換とばかりにゆっくりと後ずさる。


「……何処へ行く。貴様の家はこの先だろう」


 知らない男の威圧的な低い声が、知ったような口を利く。何故自分の家を知っているのか。果たしてそれは正解なのか人違いなのか。何もかもが定かでないが……この男が危ない奴なのだけは確かである。とにもかくにも、今は全力で逃げ出さなければならない。


 アトリは男に背を向け、一目散に駆け出した。後ろから男が何か喚いているのが聞こえたが、当然そんなものは無視だ。そうして百メートルばかり走ったところでちらりと背後を伺えば、男はアトリの方へと全力疾走して来ていた。頭部が一切上下にぶれない、素早くカクカクした動きが虫っぽくて気持ち悪い。あれも化け物の一味なのかも知れなかった。


(とはいっても! 相手は男だ。普通に走ってるだけじゃあ追い付かれる……!)


 常識的に考えて、速力も持久力も成人男性程度の体格を持った相手の方が上である。無事逃げおおせる為には、アトリにとって有利な環境を選ぶしかない。つまり、アトリが男より唯一勝る可能性のある〝小回り〟が要求される環境……小道や脇道だ。


 そう判断したアトリの行動は素早かった。繰り返し繰り返し、ランダムに選んだ脇道へ直角を描くような軌道で飛び込み、入り組んだ住宅地を縫うように進む。――幼い頃の探検ごっこで、この周辺の地理はほぼ完璧に頭へ叩き込まれている。袋小路に入るような真似はしない。


 幸いにも男には土地勘が無いらしかった。アトリが脇道を何本も抜けるうち、やがて男の喚き声は聞こえなくなり、振り返れば姿も見えなくなっていた。男を撒いて安堵したアトリは上がった息を整えながら近くの塀に背を凭れさせる。あとは、塀と塀の間の細い裏道を通って自宅のある通りへ出るだけだ。


「はあ、は……それに、しても。いったい何だったの、あのキモいの……」

「キモいとは何だキサマァァ!」


 頭上から降る男の怒声が、油断しきっていたアトリをてっぺんから凍り付かせる。軋むような動きで見上げれば、男は二階建て住宅の上で、上弦の月を背負いこちらを見下ろしていた。恐らくは建物の上を伝って移動することで、複雑な路地に惑わされるのを回避したのだろう――当然のことながら、この短時間であんな所に登り、屋根づたいに人を追跡するなど人間業ではない。やはりあの男は化け物であったのだ――。


 そんなアトリの動揺もお構いなしに、男は躊躇いなく建物の屋根から飛び降り、まるで蜘蛛のように四つん這いになって目の前へ着地した。ゆらりと立ち上がる男の紅榴石(こうりゅうせき)の瞳が、ぎろりとアトリを射竦める。その視線から感じる寒気は紛れもなく先程と同じもの……あの時から既にアトリはつけられていたという訳だ。


 知りたくもなかった事実にすっかり怯えてしまったアトリがふらふらと後ずされば、男は僅かに苛立ったような様子で彼女を塀へと縫い止める。こんな乱暴な真似をされてなおペンダントの守りはまったく働かず、アトリは胡散臭い品を全面的に信用した己の浅はかさを後悔することとなった。


「――何故だ。何故私から逃げる、何故私を怖れる。貴様は雛形アトリで間違いないはずだ。雛形アトリならば、私を恐れる道理など無いはず……」

「な、何故って、そんな……夜道で出会した化け物に自分の家や名前を知られてたり、追いかけ回されたりすれば、誰だって恐がります……!」


 追い詰められたアトリは、苦し紛れに男へペンダントを翳す。ここまで近くに持ってくれば不良品でも動くかも知れないからだ。しかし、アトリとの期待とは裏腹にペンダントはうんともすんとも言わない。ただただ、目の前の不審人物が不愉快そうに顔をしかめるだけである。


「どうして……なんで、この前はちゃんと動いたのに」

「よりによって、この私に護りの符を突き付けるなど……貴様は自分の花婿も分からないのか」

「は、花婿……?」


 男はアトリごと黒い靄に包まれ、形状はやや異なるものの見覚えのある軍服を纏った姿に変わった。その背からは巨大な蜘蛛の脚が二対四本生えて蠢いている。また、詰襟から覗く首筋から頬の中ほどにかけては、蜘蛛脚と同様の(くろがね)に似た外骨格が皮膚を侵蝕していた。この男、本当に虫だったらしい。


「これで愚鈍な貴様にも分かるだろうが、敢えて教えてやる。私は久世(くぜ)(さく)、貴様の花婿となる者だ」

「ええ……何これ、さっきよりキモい……」


 それは、思わず口を突いた感想であった。アトリには蜘蛛などを好く趣味はない。小さい蜘蛛はまだ平気だが、大きな蜘蛛などは気持ち悪くて、見たくも触れたくもない。ゆえに、こんな蜘蛛の親玉はとんでもなく気持ち悪い生物以外の何物でもなかった。


 一方、仮にも花嫁となる人間に一度ならず二度までもキモいと言われた蜘蛛男――もとい久世朔は怒りに肩を震わせる。こめかみには青筋がくっきり浮かび上がっていた。


「キサマァァァッ……! 私が花婿だと分かってなお、そのような物言いを!」


 間近で怒声を浴びせられて思わず肩を竦めるが、アトリだって黙っていない。迫り来る久世が物凄く嫌で、腕をつっかえ棒のようにしてこれ以上の接近を阻み、矢継ぎ早に口を開く。


「だ、だって蜘蛛ですよ? お花人間とか半魚人とかはまだ我慢できるけど、蜘蛛人間とかやだあ!」

「郁や武志は受け入れて、私は受け入れないと言うのか! そのような暴挙は許さんぞ……! 私だけ、私だけ疎み拒絶するなど!」


 逆上して更にうるさくなった久世は、蜘蛛脚でしっかりとアトリの逃げ場をなくす。嬉しくない壁ドンであった。それでも一欠片の理性が働いているのか、何なのか。久世は怒りを鎮めるように一呼吸置いて、アトリの耳元へ唇を寄せた。


「今なら。今ならまだ暴言の数々も許してやる……だから、先程の発言を撤回しろ。そして、大人しく私の花嫁になれ……」


 それは厭に甘く低い、底冷えするような声であった。怒りを無理に抑えているためか、僅かに震えてもいる。微笑みは甚だ禍々しく、奴の意にそぐわぬ返事をすればどんな酷い目に遭わされるかが容易に想像できた。

 ――これは紛れもない脅しだとアトリは怯えたが、花嫁になるのは同じくらい嫌だった。こんなサイコっぽい蜘蛛男と一緒にいて、無事で済むはずがない。かくなる上は、こいつに不意打ちを食らわせて隙を作り、再逃亡するしか道はない。


「さあ、早くしろ。私は郁ほど悠長ではないぞ……」


 相変わらずの怖気を催させる声色でそう囁きながら、久世はじりじりと体を躙り寄らせる。息遣いが聞こえるほどの近距離に、アトリは不快感混じりの気持ち悪さを感じるのを禁じ得なかった。さすが片割れと言うべきか、こういう所は郁とそっくりであった。


(相手は郁さんと同じなんだ。だったら、同じ攻撃が通用してもおかしくないはず……)


 既に敵は射程距離に入っている。攻撃を食らわすなら今しかない。一か八かと、アトリは勢い良く膝を蹴り上げた。しかしその途端、彼女の膝は鉄扉に思い切りぶつけたような痛みに襲われ、視界にちかちかと星が散った。訳の分からない展開で脳髄にも星が舞う。


「あ、あいたぁっ……!」

「何をしているんだ、貴様は……金的程度で私から逃れられると思っていたのか? 浅薄な奴だ。私の体表の殆どは刃も通さぬ外骨格に被われている。ひ弱な女子供の一撃など、決して通りはしない」


 思わず涙目になり、膝を押さえてうずくまるアトリを、蜘蛛男は呆れ果てたような冷たい眼差しで見下ろしていた。人の事を花嫁だ何だと言っておきながら、随分と冷血な奴である。


「……しかし何故だ。何故、そうまでして私を恐れ拒絶する……私は貴様に与えられる情や慈悲は全て掛けた。八つ裂きにしてやりたい程の怒りも抑え、不誠実な貴様に改悛(かいしゅん)の機会を与えもした。出来うる限りの譲歩はしたぞ……なのに何故だ、何が不満なんだ貴様は!」


 呆れていたかと思えば、また怒声を上げる蜘蛛男。情緒不安定の気でもあるのか、やたらめったら感情の変化が忙しい奴である――アトリはそう呆れると共に、この常軌を逸して病的な男があれで冗談抜きに優しくしていたつもりであった事に絶句した。奴の言葉は決して嘘ではないのだろう。恐れられるようなことをしている自覚が全く無いらしく、心底理解しがたいといった様子で眉間にしわを寄せている。


「貴様は私達の花嫁であるはずだ……花婿である私をこうまで拒絶するのは何故だ……やはり、先程共に居た男とでも通じているのか。二度も刻印を受けた身でありながら、貴様も私を裏切るのか……かつての女どもと同じように!」


 そうヒステリックに喚くだけ喚いた久世は、何を思ったのか、アトリからすっと離れて踵を返す。黒い靄と共に現れた大鉈を握り、どこかへ向かおうとしている。その姿はアトリを見限って離れている……ようには見えない。


「ちょ、ちょっと待って。どこへ行くんですかっ」

「……貴様を惑わせているあの男を粛清する。そうすれば、貴様も己の伴侶が誰であるかを正しく認識するだろう」


 あの男とは、もしかしなくても上條のことだ。単なる善良な学友を恋敵と見なすなんて、なんて被害妄想の強い男なのだろう。これではサイコっぽいではない、正真正銘のサイコだ。こんな奴を、大鉈など持った蜘蛛男を行かせたら上條が殺されてしまう――己の身の危険など忘れて、アトリは思わず久世の手を掴んだ。


「待ってください!」

「貴様……そんなにあの男が愛しいのか。私を引き留め、身を呈して庇う程に……!」

「ち、違うんです! そういう訳じゃなくて……!」


 立ち止まった久世のどろどろと殺気立った眼に射竦められ、反射的に口にしてしまった言葉。それに朔は怪訝そうな表情をする。


「違う、とはどういう事だ。ならばどうして貴様は私を拒む」

「そ、それは、その……」


 アトリは久世の詰問にたじろぎ、言葉を詰まらせる。ここで見た目も振る舞いも気持ち悪いからだなどと素直に言えば、まずはアトリがあの大鉈の錆となるに違いない。自分のためにも、上條のためにも、何としても久世が納得して殺害を中止するような申し開きをしなくてはならない。


「その、私、く、蜘蛛が怖くて……」


 ――当然、嘘だ。本当は蜘蛛など気持ち悪いと思いこそすれ、怖いとは思ったことは一度もない。真っ赤な嘘に説得力を付けようと、アトリは涙目になって体を震わせ、弱々しくそう口にした。途端に久世の表情から毒気が抜け、面白いくらいに戸惑い一色になってゆく。意外とちょろい男らしい。この嘘が有効だと思ったアトリは更に続ける。


「私、怖さでパニックになっちゃって……酷いこと言いましたよね。ごめんなさい……あなたが郁さんの仲間なら、そんな怖がる事なんてないのに……」

「……分かれば良い。私も、そうとは知らずに迫って悪かった……人間の女は蜘蛛を恐れるものだという事を忘れていた」


 久世はアトリの申し開きを全面的に信じたらしい。ばつが悪そうにそう言うと、アトリを恐がらせないためか大鉈を霧消させ、蜘蛛脚をめきめきと引っ込ませた。取り敢えず、これで上條がとばっちりを受ける事態は避けられるだろう――アトリは胸中で安堵の息を吐く。


「これで問題無いだろう。それで、私を拒絶した理由はそれだけか? あの男とは本当に何でも無いのか? 奴とは仲睦まじく談笑していたようだが」


 蜘蛛脚と凶器さえ無くなれば、アトリが自分を拒絶する理由などないと思っているのだろう。久世は禍々しい笑みと底冷えする甘い声を取り戻し、まるで人の恋人を気取ったような台詞を吐く。嘆かわしいことに自身の異常性についてはまったくの無自覚であるようだ。


「あの人はただのクラスメイトです……ちょうど帰り道が一緒で、たまたま話が合っただけで」

「……そうか。お前の言い分は信じてやろう。先の愚行は寛恕(かんじょ)してやる。だが、二度は無い。これからは私を拒絶するな。そして、私達以外の男と気安く談笑などするのは止めろ」


 随分高圧的な物言いの、面倒くさい奴である。しかし、ここで奴を無下に扱えば今度こそ流血沙汰だ。危険物は慎重に扱って沈静化させておかなければならない……今のアトリの双肩には自身と上條の命運が掛かっているのだ。


「は、はい……善処します」

「ならばその口で誓約しろ。花嫁として、絶対に私を裏切らぬと、未来永劫私達と共に在ると」

「え、ええと。それはちょっと……」


 このままむざむざ花嫁になるつもりなどないどころか、近い将来に裏切りを働くことを画策しているのである。アトリはそう言い淀んで冷や汗を垂らす。こういう手合いは、簡単な口約束でも破れば後が怖いものだ。永劫の誓約などという、これ以上無い重いものを破った日には血を見るどころでは済まないだろう。即刻ゴー・トゥー・ヘルだ。もう二度とお日さまの光を拝むことはできない。だから、アトリはわなわなと唇を震わすことしか出来なかった。


「私は曖昧な返答を許容しない。その「ちょっと」などという言葉は薄弱の徒や裏切り者が使うものだ。それとも何だ。出来ないと言うのか……? やはり貴様、いずれ私を騙して捨てるつもりで……」


 久世は物凄く重苦しい空気を醸し出し、背中からは再び蜘蛛脚が伸び始めた。大鉈が出るのも時間の問題だろう。


「そ、そういう事じゃなくて! わ、私が印を付けられたのは、ちょっとした事故で……私自身はなりたくてなったんじゃなくて」

「どういう事だ。それは」


 聞いていないぞ、といった様子で久世は蜘蛛脚を引っ込めた。まだ話を聞く余地が有るうちにとアトリは言葉を継ぐ。このちょろい所のある男が少しでも情に流されるよう、眼に涙の膜を作り、憂いたっぷりに。


「郁さんが……郁さんが、無理矢理私に印を付けたんです。出会ってすぐに、運命がどうとか言って……私は嫌がったのに……それに武志くんが乗ったから、印が二つ付いて……私は、花嫁になるなんて、嫌なんです」


 そんなアトリの弱々しい告白に久世は僅かに瞠目して、考え込むような仕草で黙り込む。何となく神経質でクソ真面目な感じの男だ。まともでない経緯に怒るなどして、花嫁の話もご破算にしてくれれば良いのだが。


「……お前の境遇には、同情してやる。だが、お前が私達の花嫁である事実は変わらない。逃がすつもりは無い……郁が宣った通り、これは定めだ。受け入れろ。受け入れて、私と結ばれろ。責任は取ってやる」


 一世一代の決意をしたようなきりりとした顔で、久世朔はアトリの希望を粉々にぶち壊した。確かに久世はクソ真面目でちょろかった。そして、それ故に最悪の方向へと転がった……そんなあんまりな結果に放心するアトリを、久世は気遣わしげな眼差しで見下ろし、頬を撫でる。おめでたいことにすっかり花婿気取りだ。


「そんな顔をするな……私達の花嫁となった事を悔やませなどしない。お前には私が与えられるもの全てを捧げてやる。お前に仇為す者は全て私が誅戮(ちゅうりく)してやる……だからお前も誓約しろ。永劫に私を裏切らぬと、私から離れぬと。そうでなければ、私は不安でどうにかなってしまいそうだ……」


 恋人に囁くような塩梅で、久世は物騒な事を言ってうっとりとした眼差しを向けた。おまけに「答えによってはすぐにお前を殺すからな」と言わんばかりに、首へ冷たい手を張り付けている。アトリは「既にどうにかなってるだろ。もうやだこのキ印」と思ったが、こうも尽く退路を塞がれてはどうにもならなかった。このままでは、自由になるどころか久世に殺されてしまう。口約束だけでもしてやるしかなさそうだった。今から既に憂鬱だが、破談になった時は知らぬ存ぜぬで通すしかない。


「……わ、分かりました。そこまで仰るなら、誓います。私はあなたから離れたり、あなたを裏切ったりしません」

「ああ……そうだ、それで良い……その言葉、努々(ゆめゆめ)忘れるな。誓約を破ったその時は、私がお前を八つ裂きにせねばならないからな……」


 陶然とした不気味な笑みを浮かべて満足そうにすると、久世は壊れ物を扱うような手つきでアトリの左手を取って口付けた。今度は蜘蛛の巣模様が加わってゆく。ああ、今回も失敗だったとアトリは内心で溜め息を吐いた。しかし全ては命あっての物種である。


「お前は私の花嫁だ。私に至誠を尽くし、私だけを想え。他の男に笑む必要は無い……さあ。帰るぞ」


 そう言って久世はアトリを横抱きにし、一飛びに住宅の屋根へと上がる。着地は驚くほど軽やかなもので、人間一人を抱えておきながらタンッという音しか立たなかった。


「わわ……! な、何するんですか!」

「家へ連れ帰るに決まっているだろう。私の足ならば、早急に帰宅する事が出来る」

「いやいやいや、私、自分で帰れますし……地面に下ろしてください」

「許可しない。貴様は不用心に過ぎる。私達以外の男と二人きりで歩き、このような暗晦な路地を一人で通行するなど……これからは私がお前を送迎してやる」


 そんなの御免だという言葉は、久世が恐ろしい勢いで建物を飛び移りだしたことで喉奥に引っ込んだ。体を容赦なく撫でる夜風と浮遊感は、ここで取り落とされれば命は無い事をアトリにまざまと感じさせる。ゆえに、嫌悪すべき狂気の蜘蛛男にひしりとしがみつくのも仕方の無いことであった。



2021/6/3:加筆修正を行いました。

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