4話4節
・注意:この話にはきつめのお下品描写が含まれます。苦手な方はお戻りください。
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新たな花婿気取りを連れ、アトリは死地から自宅へと帰還する。それを待ち構えていたのは、裸エプロンの変態綿毛であった。一応、ビキニパンツだけは穿いているようなので厳密には裸エプロンではないが、歩く猥褻物には変わりない。そんな姿でデレデレとし、新妻の如く出迎えてくる郁にアトリは凍えるような冷たい眼を向けたが、この悪質極まる多剤耐性菌が怯む訳もない。怯むどころか、目元を桃色に染めて堪らなそうに身をくねらせた。
「そんな目で見ないでくれないかい……ぞくぞくしてしまうよ」
「あなたは本当に最低ですね。くねくねしないで下さい、気持ち悪いです」
「ああ、アトリ……! 今日の照れ隠しも冷たく冴え渡っているね! ……っと。武志、君もいたのかい。ようこそ、僕とアトリの愛の巣へ」
「郁……お前、見ないうちに気持ち悪さが増したな」
武志の存在にやっと気付いた郁は、それまで浮かべていた恍惚を引っ込ませる。酷い対応の落差であるが、だからといって武志にまでいやらしくでれでれする郁など、想像するだけで悍ましいものがある。
対する武志はといえば、片割れの醜態に呆然としているようだった。あの無神経きわまりない野獣を沈黙で包むとは、本当に恐るべき変態綿毛である。
「ふふふ……武志。気持ち悪さが増したんじゃないよ、僕はアトリとの愛の力でパワーアップしたんだよ」
「いやいや。お前、何かすごい嫌われてないか? アトリがすごい顔してるぞ」
「違うよ。アトリは少し照れ屋さんなだけなんだ。ツンデレなんだ。だから、恥ずかしいとこんな風に冷たくなっちゃうんだよ」
そう言って、見苦しい裸エプロン姿で得意気にする郁に、武志は解せないといった感じで首を傾げる。そうだ、その意気だ。そのまま、さっきの戦闘のように綿毛の寝言をバッサリ斬るんだ――アトリはそう祈りながら両者の様子を見守る。しばしの思案の後、武志がおもむろに口を開く。
「そっか、アトリは照れ屋なのか。だから俺にも素っ気ないのか!」
「ああもう! 違いますよ! どうしてそういう結論になるんです!」
しかし、そんなアトリの必死の反論は届かず、綿毛と野獣は、「……ほらね、照れてるだろう?」「ああ、本当だ。照れてる!」などと言いながら生暖かい視線を向けるだけであった。
徒労感に襲われるなか、アトリが最後の楽園である自室に戻ろうとすれば、お決まりのように綿毛が腕を掴む。奴こそは、粘着力の変わらないただ一人の変態であるのだ。
「まあ、そんな事はともかくだよ……アトリに見てほしいものがあるんだ」
「……はあ」
「新婚ほやほやの僕たちのための部屋を用意したんだ。武志、君もおいでよ」
「ん、部屋か? いいぞ!」
変態綿毛プロデュースの新婚ルームなど、嫌な予感しかしない。おまけに変態綿毛と野獣付きだ。どう転んでも、事故しか起こらないだろう――そのように危険を予知したアトリは、適当に理由をつけて今度こそ自室へ避難しようとしたが、そうは問屋が卸さない。郁は武志と共にアトリを拘束して、件の処刑部屋……ではなく新婚ルームへとずるずると引きずるように連行する。もしこの場に第三者が居たならば、捕獲されたグレイ型宇宙人とアトリをダブらせた事だろう。
そんな奇妙な一行の行先は物置の前であった。
「……ここは物置です。郁さん、あなたは随分と狭苦しくみすぼらしい部屋を用意されたようですね」
「違うよ、行き先は物置じゃない。この扉は僕の部屋へ繋げてあるんだ」
訳の分からない台詞と共に、郁が物置の扉を開く。――物置の扉の先には長い廊下が広がっていて、一から十六までの番号が振られた黒い扉が廊下の左右へ配置されていた。物置はたった一メートルとちょっと四方しかなく、その先は洗面所と風呂場の筈であるが、この廊下の幅は二メートル程度、奥行きに至っては洗面所も風呂場もぶち抜いて隣の家にめり込んでいるであろう長さだ。物理法則を無視した間取りにアトリは呆然とする。
「元の物置はこの扉だよ。開いてごらん」
郁が指した先――廊下の一番手前には木目の扉があって、開いてみれば、そこには本来の物置であるスペースが存在していた。
「どういう事なんですか、これは……」
「ここは物置の扉に接続された、僕たち専用の領域だよ。あの黒い扉の部屋もそうさ。次元の狭間にあるから、扉さえあればどことでも繋げるんだ。建物の間取りに関係なくね」
「……魔物って、本当に何でもありですね」
「ふふ。羨ましがらなくていい。いずれ君もそうなるんだからね……さてと、折角だからもっと説明してあげようかな」
嬉しくない予告を残し、郁はこの不思議空間についての説明を続ける。
十六の扉はそれぞれ番号に対応する片割れの部屋に繋がっており、郁は一番、武志は十四番であるという。この扉は、部屋の主が来て「接続作業」を行わなければ開いても壁しかない。雛形家にやって来たばかりの武志は、自室を使用可能にするべく、十四番の扉に手を翳して眼を閉じ、何やらぶつぶつ言い始めた。それに呼応するように、扉には光の文字――冒涜的な異界の文字が浮かんでは沈む。郁曰く、あれが接続作業であるとのことだった。
「……ここが僕の部屋だよ。ここを特別仕様にしたんだ。さあ、開けてみてよ」
一番扉の前にて、まるでとっておきのプレゼントのように郁はアトリへそう促した。相変わらず裸エプロンでいる変態の部屋である。どうせ碌でもない惨状が待っているに違いないが、逃亡不能な今は開けるしかなかった。恐る恐るドアノブを捻って扉を押す。その先に待っていたのは、毒々しい紫色の灯りと豪奢かつ悪趣味な調度品に彩られた、ベルベットのベッドルームであった。そここそは真の伏魔殿であり、変態綿毛の脳内を如実に再現した有害な空間であった。明らかに未成年の目に触れてはいけない物が、そこかしこに備え付けられている。――そんな大人の遊園地も真っ青なおピンク部屋にアトリは戦慄し、そっと扉を閉じた。
「アトリ。遠慮せずに入ってもいいんだよ。ここは君と僕の愛を育む場所なのだからね……まあ、君が部屋に入ったら、今度は僕が君の秘密の花園に、ぐふぉぁっ……!」
「ああ。本当に、本当にあなたは碌な事を考えませんね……何度、私にこの台詞を言わせれば気が済むんです」
振り向きざまに金的をかまし、いつもより強く悶絶する変態に凍て付く眼差しを残して、アトリは忌まわしき不浄の領域を後にした。今度からあそこに連れ込まれないよう注意しなければいけない。あそこに入ったら最後、女性として、否人間として大事なものをごっそりと失ってしまうに違いないからだ。
◇◇◇◇
――そうして日付が変わった夜中である。花嫁を迎える事の叶わなかった部屋で、一人の花婿が枕を濡らしていた。不二郁である。流石に、もう裸エプロンではいない。今はキザったらしい趣味を伺わせるフリルシャツに黒のノータックパンツ姿だ。
「ああ、アトリ……ひどいよ。ひどすぎる。いつもより軽装な僕に、躊躇いなく金的を叩き込むなんて……アトリ、この股間の痛みは僕の心の痛みだよ!」
「あれはお前が全面的に悪いと思うぞ。明日、アトリが口利いてくれるといいな!」
そんな変態綿毛の嘆きを、野獣が容赦なく断罪する。野獣は、無情なる弱肉強食の世界に生きる者である。敗者に対する情けは一欠片もなく、嘆きに沈む片割れを放置して、備え付けの成人向け雑誌を悠々と読み耽っていた。まさにケダモノであった。
「だいたい、俺を呼んだのはそういう用事じゃないだろう」
「はあ。そうだね……股間の、胸の痛みは消えないけれど、そろそろ始めようか。それで、敵はどうだったのかな」
憂いたっぷりに起き上がった郁は、武志にそう問うた。何という切り替えの早さか、甘ったるい恋愛惚けの雰囲気は影を潜めて、冷徹な指揮官の顔に変わっている。そんな彼の変化に、武志も自然と背筋が伸びる。
「帰り道に一匹会った。俺たちのこと、マークして探してるみたいだぞ」
「そうか……始まったようだね。期待した通りだ」
至極満足そうに笑みを深める郁に、武志は怪訝そうな顔をする。戦いは好きだが、花嫁が危険な目に遭うのは嫌だと感じる彼には、理解しづらい挙動であった。
「郁はアトリのことが嫌いなのか? どうしてアトリが襲われたのに喜ぶ」
「嫌いな訳ないじゃないか。僕はアトリの事を全身全霊を込めて愛しているよ……ただね、アトリの方はそうじゃない」
「どういうことだ、それ」
「アトリは僕らの存在を受け入れきれていない。このままだと、機会さえあれば、僕らの手を離れていってしまうだろう。彼女は普通の人間であることに執着しているから……でも、僕らがいないと危険な状況なら話は別だ。アトリは敵が恐いから僕らを拒めない。身を守るために、形振り構わず僕らを頼るしかないんだ。――だから、敵が必要なんだよ。僕らがアトリと強い絆を結ぶためには、それが一番いい方法なんだ」
穏当に済ませるつもりは毛頭無いということを、酷薄な微笑みが雄弁に語っていた。アトリに囁いた、守るという言葉も、幸せにするという言葉も決して嘘ではない。ただ、その過程で取る手法が少し過激なだけ――郁は、正しい意味での確信犯であった。
「アトリを守って活躍すれば、彼女も僕らのことを頼れる男として見てくれる。そして、自然と好きになってくれるはずだ」
守れば頼られる。やがて好かれる……それは武志にも覚えが有った。会ってからずっとよそよそしかったアトリは、戦いの後、少しだけ優しくなった。郁の言う通りなら、戦い続ければアトリはもっと優しくしてくれるようになるだろう。今日のことだけでも嬉しかったのだから、きっと、それはもっと嬉しいことだ――あまりにも素直な……単純なまでに素直すぎる武志の頭は自然とそんな結論を導き出す。
「そういう訳だから、しばらくは彼らを利用させて貰おう。せめて全員が揃うまではね」
「ああ、分かった。そうしよう。アトリが離れるのは、嫌だもんな」
得心のいった武志が郁に首肯する。郁はそれに花の綻ぶような笑みを見せた。これで、悍ましく残酷な郁の企みは、新たな歯車を得てより一層加速する事だろう。そしていつかは、芽生えたアトリの希望も、日々募るコレールの焦燥も巻き込み砕いてゆくことだろう。
2021/6/2:加筆修正を行いました。




