1話1節:変態との邂逅
絡み付いた物狂いが笑う 其は祝福か嘲弄か
[1]
四月もまだ上旬の少し肌寒い夜。時刻は午後九時前といったところだろうか。春の月が、不明瞭な真白い光を滔々と地上へ注いでいる。辺りを薄い膜のように覆う夜霧や、何処からか漂ってくる混じりきった花の香の印象も手伝って、その晩は何やら妖しく薄気味悪いものだった。
そんな夜に、人気の無い住宅街の坂道を黒いブレザー姿の少女が学生鞄とコンビニ袋片手に登っている。少女の名は雛形アトリ。この夜海市七区「菫坂」に住む高校生である彼女は、いつものように最寄り駅に程近い喫茶店でのアルバイトを終え、今こうして出来合いの夕食片手に帰宅の途に就いていた。
今日は珍しく最初から最後まで客足が多くて忙しかったものだから、今の彼女はまさに疲労でグッタリといった状態である。ベッドが恋しい、眠りたくてたまらない……脳裏にはそういった塩梅の思いがうずくまっている。そんな彼女が目指す自宅はもう、すぐ目の前であった。
自宅のある小さな通りの家々には珍しく明かりが点いておらず、通り全体を暗闇と小寂しい空気が覆っていた。道端には小ぶりな街灯がぽつりぽつりと点在するが、そんなではどうにも頼りない。ひっそりと静まり返った通りに、アスファルトを叩くローファーの音だけがやけに大きく反響する。
アトリの自宅も例に漏れず真っ暗で静まり返っている。母は去年から離れた地方に赴任しているし、兄弟姉妹は居ないので、唯一の住人であるアトリが帰宅するまでこの家はいつもこうなのだ。一人で過ごすには大き過ぎ、帰ればいつも暗闇にうずくまっているこの家を眺める度、アトリは何となく憂鬱な、退廃的な気分になる。それは自分の物憂い気質だけでなく、この家に纏わる良くない記憶の所為でもあるのだろうと、彼女はそう考えていた。
憂鬱な気分のまま、アトリは小さく軋む門を開けて玄関に向かう。それに反応して、家の外壁に取り付けられたセンサーライトが点灯し庭を照らした。手入れと言えば除草剤だけの、荒涼とした殺風景な庭……この日センサーライトが照らし出したのはそれだけではなくて、アトリは思わずぎょっとした。
「……ひと?」
敷地を隔てる塀と自家の狭苦しい隙間から覗くように、人らしきものが倒れている。俯せで顔は見えないし、腰から下は家の陰に隠れていてよく分からないけれども、上半身がそうとしか言い様の無い形をしていた。精巧なマネキンやダッチワイフという線も否められないが、それはそれで嫌なので、アトリは対象を取りあえず人間と仮定する事にした。
(――でも、何であんな所に人が……)
あそこは訪問者どころか、住人である自分もそんなに立ち入らない場所だ。どうやったらあんな場所で人が倒れるのかと、アトリは理解に苦しんだ。だが、今はそれより倒れているものの安否確認をするのが先決だと、恐る恐るそれに声を掛ける。
「あ……あの、大丈夫ですか……!」
しかし、対象物は返事どころか身動き一つもしない。意識が無いのか、やはり元々虚ろなマネキンなのかとアトリは悩んだが、ここからでは如何せん判別のしようが無かった。
(これ以上近寄りたくないけど……もし人間で、放置して死なれでもしたら面倒だし。見に行くしかないか……)
アトリはそう覚悟を決め、人らしきものの方へしずしずと慎重に近寄る。倒れているのはどうやら若い男のようだった。ふわふわした綿毛のような白髪に黒い制服という、ここらでは見ない変わった身形である。それに香水でも付けているのか、男からは仄かに熱帯の花のような甘い匂いがする。最初、その白髪故にアトリは男を老人と誤認し、「徘徊老人、突然の心臓発作」などと想起される最悪の状況に肝を冷やしたが、男が若い事に気付くと今度は酷い若白髪に僅かな憐憫を覚えた。
見た所、男に怪我は無さそうだが、肌の色はまるで蝋のように真っ白くて血の気が無い。顔立ちは、まるでマネキンのように無機質で気味が悪かった。……嫌々ながらも確認の為に首筋へ手を添えてみると、見た目とは裏腹にその体は温かく、脈動や呼吸もしっかりしているような事が分かる。彼女は男が死んでいない事にひとまず安堵し、ほうと息を漏らした。マネキンのような死体など悪趣味にも程がある。
しかし問題はそれで終わりではない。男はアトリがいくら呼び掛けても、意識を取り戻さず返事をしないのだ。体を軽く揺すっても、叩いてみても駄目である。もしかすると何かの病気なのかも知れない。そうだとしたら一刻も早く救急車を呼ばなくては――無反応に辟易したアトリがそう思案し、鞄から携帯電話を取り出そうとしたまさにその時、事態が少し動いた。
「んぅ……」
「えっ? あ……大丈夫ですか? 聞こえますか?」
男が少し呻いて、もぞもぞと動いたのである。アトリは意識が戻ったのかと思って男へ必死に声を掛け、頬を叩くが、しかし……
「すぅ……すぅ……」
「あれ……」
アトリの呼び掛けも虚しく、男は寝返りを打って寒そうに体を丸め、安らかに寝息らしきものを立て始めた。いい歳こいて、赤ん坊よろしく丸めた親指を口許に持ってきているのが何ともシュールであった。その様子に暫し呆然と脱力していたアトリだが、はたと気を取り戻して男の様子を観察する。
「寝てる……寝てるの?」
どうやら男は本当に眠っているらしかった。アトリは男が重篤な急病などでなさそうな事に胸を撫で下ろしたが、次に胸中へ持ち上がったのは、人の家の敷地に侵入して呑気に眠りこけている、酔っ払いの如く人騒がせな奴に対する呆れと怒りだった。おまけにやや冷静になって見てみれば、奴の装いはコスプレの如き珍妙な軍服である。こんな格好で住宅街を彷徨くとは、この男は不審者かも知れない。不審者らしきものは早急に警察へ身柄を引き渡すべきだろう。
そうと決めてしまえば、後はさっさと通報するだけである。アトリは二度目の正直で鞄を探り、今度こそ携帯電話を取り出した。人前で堂々と電話が出来ないいつもの癖で、眠った不審者を背にしている。
「警察は百十九番……いや違う、百十九番は消防だから……じゃあ救急が百十? だったら警察は何番だっけ……ええと、ええと……」
いざ番号を打とうとしたところで、アトリはテンキー上の指をさまよわせた。日頃馴染みの無いものゆえの記憶のあやふやさと、不測の事態による混乱で、どれが何番だか脳内でこんがらがっていたのである。
「早く思い出さないと……消防が百十九、救急が百十、警察は、警察は……」
こんな事で手間取っている場合でない――そう焦って思い出そうとする程に、アトリの頭の中は真っ白になり、時間だけがいたずらに経過してゆく。静寂に包まれた庭に「警察、警察……」という声だけが吐かれては消えていった。
「――警察は百十番。救急と消防が百十九番だよ」
「そう、そうだ。警察は百十番……!」
混乱を極めたアトリに、ふと、端から眠たげな声がそう告げた。誰だか知らないが、助言とは有り難い――そうだそうだと思い出し、気を持ち直したアトリは改めて携帯に番号を入れようとしたが、そこで肝心の携帯が脇から伸びた手にするりと攫われてゆく。反射的に携帯を追ったアトリが向いた左側方には、さっきまで安眠していた筈の不審者が立っていて、奪った携帯電話を弄んでいた。随分と気障で余裕ぶった優雅な仕草であったが、やっている人間はマネキンのような不気味な男である。全く心安らがない、胸がむかむかするような光景だった。
「すまないね。警察に通報されるのは、少し都合が悪いんだ。番号だけなら教えてあげても構わないんだけど」
不審者はわずかな眠気を残しながらも、朗々とした調子で物騒な事を言ってのける。その声は先程アトリを混乱から救ったものに他ならなかった。アトリは男がやはり不審者であったのだと確信すると共に、通報も満足に出来ぬ自身のお粗末さと、こういった事態を想定しなかった注意不足とを酷く後悔したが、この状況では甲斐無い事だった。
「……ん。そんなに固まって、怯えているのかい? 大丈夫だよ。僕は警察に通報されると都合の悪い身の上だけれど、君の思っているような危険人物じゃない」
無言を脅えと受け取ったらしい。不審者は優しげな声音でそう語りかけ、膝をついてアトリと目線を合わせてきた。不審者の長く豊かな睫毛に縁取られたアメジストの瞳は、ねっとりと絡み付くような眼差しをアトリに向けていた。また、不審者の無機質な白い肌と酷く整った優男風の美貌は、動く事で妙な艶めかしさと若々しさに溢れた様子を見せ、その薄気味悪さの真価を発揮した。さながら人の血を啜って動く生き人形のような、不均衡でグロテスクな様態なのである。そんなものに近寄られて安心出来る訳がなかった。
警察は御免だと言うような奴だし、物凄く生理的に気持ち悪いし、何かされる前に逃げなくては……そう思い至ったアトリは、不審者と眼を合わせたまま、幾つかの逃走経路を思い出して逃走の算段を組む。
――家に逃げ込むのは、鍵を開ける分のタイムロスで捕まってしまうだろうから駄目だ。近所に助けを求めるのも、どこも不在が濃厚な今は良策でない。そうなると、敷地から出て、確実に誰かが居るであろう明かりの点いた通りまで逃げて助けを求めるのが正解だろう。男女差もあるし、果たしてそこまで逃げられるかは危ういが、一か八かで逃走するしかない……
そこまで結論を下した刹那、アトリは邪魔な手荷物を不審者に投げ付けて、一目散に門へと向かった。間抜けな不審者はいきなり鞄とコンビニ袋を投げ付けられて眼を白黒させ、逃げ出す彼女を取り押さえる事はなかった。後は門さえ素早く抜けてしまえば、まず家の敷地から出られる――そんな僅かな安堵と共に、アトリは目前の門の把手に手を伸ばした。
(あともう少し……って、え?)
しゅるり、と急に何かがアトリの足腰へ巻き付いた。その何かを確認する間もなく、アトリは空中に持ち上げられて、ガクンと後ろに向かって引っ張られる。それは眼前の把手が彼女の手からみるみる遠退いてゆく程の凄まじい力だった。そうして瞬く間に元の位置辺りまで戻されると、今度は視界をぐるりと回転させられ、やや乱暴に地面へ尻餅を付かされて解放される。今度はアトリが面食らう番だった。この僅か数秒間に一体何が起こったというのか。取り敢えず、目の前に再び不審者が立っている事から、逃亡が失敗した事だけは確かであるようだが。
「ひどいじゃないか、いきなり物を投げ付けて逃げるだなんて。ふふ……でも無駄だよ。君みたいにか弱い女の子じゃあ、僕の蔓からは逃れられない」
そう言って妖艶に含み笑いをする不審者が誇示した腕には、太めの紐のような、或いは蔓のような緑色のものが螺旋状に巻き付き伸びていた。その先の方は触手のようにうねうねとくねりながら鎌首を擡げている。よく見ると、下ろしているもう一方の腕にも同様の物が巻き付いていた。どうやらあれがアトリに巻き付き、ここまで引き戻した犯人のようだった。
しかし、あんな物はアトリが逃げ出す前には無かったはずである。この短時間にどこから持ち出してきたのかという疑問と触手のような蔓への生理的な嫌悪感で、アトリはこの不審者に薄ら寒い不気味さを覚えた。
「な、何ですか、それ……一体何なんです、あなたは……」
「言っただろう? これは蔓だよ。僕の体の一部さ。そしてこれで分かる通り、僕は人ならざる生き物だ。だから、僕の存在は秘密にしておいて貰わないと困るんだよ」
そう言った不審者の人差し指を悪戯っぽく唇に添える仕草は、厭に優美で艶めかしい。アトリはこの気味悪い不審者が備える気持ち悪い器官と彼の未確認生物申告に眩暈がする思いだったが、耐えて次の疑問を喉から絞り出そうとした。逃走が叶わなかった今は、少しでも敵の目的を探って状況を把握するべきだと理性が命じている。
「その人ならざる生き物が、うちに何の用ですか……ここには、何も有りませんよ」
「嫌だな、僕は物盗りじゃないよ。ここに居たのはちょっとした事故でね……訳を話すと長くなるし、随分冷えてきたから、後は中で話そうじゃないか」
「……何を言ってるんですか」
「こんな時間だ、君だってもう家に入りたいだろう? だいぶ疲れているようだしね……僕だってもうすっかり体が冷えてしまったし、早く中で温かいものでも飲みたいよ」
厭に友好的な様子で厚かましい事を言う不審者にアトリは思わず眉を顰めたが、当の本人は無邪気なもので悪びれた様子も無い。それどころか、傍らに捨て置かれた学生鞄からゴソゴソとキーケースを取り出し、勝手に玄関扉を開けに向かいだしたのだった。まるで此処が自分の家であるかのような、ふてぶてしい振る舞いである。
「あ、ちょっと! 何勝手に人の荷物漁って、家に上がり込もうとしてるんですか……!」
大人しく相手の出方を伺おうと思っていたとはいえ、流石に不審者――それも気持ち悪い触手付きマネキンもどきを家に上げる事など許容出来るはずも無い。アトリは慌てて男に追い縋り、鍵を奪還しようと必死に手を伸ばす。自宅の死守という絶対目標を前に、男の得体の知れなさを恐れている余裕など彼女には無かった。
しかし敵もさるもので、男はその長身で鍵をひょいと掲げてアトリには取れなくしてしまう。それでも跳んで取ろうとする彼女を、男は身長差を武器にまるで子供を相手にするようにあしらった。
「駄目だよ。いつまでも外で騒いでいたら、厄介な連中に見つかってしまう。早く身を隠したいんだ。君だって、こんな時間に家族でもない男と一緒に居る所を誰かに見られたら、色々とまずいんじゃないのかい? ほら君、どうやらお年頃の女の子のようだし……」
「なぜか話がスキャンダラスな方向に変えられてますけど、私からしたら家の庭に身元不明の人間かどうかも疑わしい男性が居るだけですからね。あなたと違って、誰に見られたって恐くないですよ。さあ早く鍵を返してください」
「ねえ君。僕は厄介な連中に追われていて、身を隠さないといけないんだよ? それに、君だって僕がどうしてあんな所で気を失っていたのか、気になるだろう……? 家に匿ってくれさえすれば、幾らでも教えてあげるよ。たっぷりとお礼も添えてね……」
「確かにそれは気になりますけど……だからって、誰かに追われてる怪しい人を家に上げたりする馬鹿は居ません。如何わしいお礼も要りませんから、さっさと鍵を返してください」
「はぁ。さっきから鍵、鍵って……君は僕の身より鍵を優先するのかい?」
「気持ち悪い不審人物より、家の方がずっと大事です。だから、とっとと、鍵を返してくださいってば!」
このやり取りで、アトリは苛立ち混じりに男への評価を変更する必要が有る事を感じた。即ち、「脅威的な不審者」から「脅威的ではあるが、ちょっとバカな不審者」への格下げである。
不審者はどうにかしてこの家へ身を隠したいらしく、話をスキャンダラスな方向へやって揺さぶりを掛けたり、劣情を煽ろうとして色気たっぷりな調子で誘惑してきたりと涙ぐましい努力をしている。だがそれも、実際の状況との微妙なミスマッチで思うような効果を上げていない。そうして焦れてきた不審者は最終的には束縛の強い恋人の如く鍵と自身とを天秤に掛けてきた。
だがしかし、不審者とは縁もゆかりも無く、彼を気持ち悪く思っているアトリにとっては当然ながら自宅の鍵の方が大事である。そこに思案が届かないのか、はたまた自分は誰からも愛されるとでも思っているのか、この回答に不審者は傷付いた顔をした。おまけに「僕は不審人物じゃないよ。ちょっと変わった生き物なだけさ。それに、気持ち悪くなんかないよ」とお粗末な反論を付け加えてくる。
「――僕がこんなに困っているのに、それでも鍵の方が大事だなんて。可愛い顔して意外に冷徹だね、君は……でもね、僕も引き下がる訳にはいかないんだ。悪いけど力ずくでも上がらせて貰うよ!」
「や、やだ! 何を……!」
不毛な問答に飽きたらしい不審者は瞬く間にアトリを蔓で雁字搦めにして吊し上げてしまい、邪魔者が居なくなった所で鍵を開けて家に侵入するという暴挙に出た。そして、吊るしたアトリと共に悠々とした足取りで玄関に入るなり、さっさと鍵を閉めてしまう。
「ふふ。さてと……これで身は隠せた事だし、腰を落ち着けてゆっくりと話をしようじゃないか」
ひとまずの小目標を果たしていかにもご満悦といった様子で、不審者は編み上げの長靴をさっさと脱いで客人用の上等なスリッパへと履き替える。そして、間近なドアに填められた硝子の向こうへリビングキッチンを認めると、迷う事なくそちらへと歩を進めた。その間も宙吊りにされたままのアトリは、せめてもの抵抗としてじたばたと藻掻き、「不審者」「化け物」「妖怪綿毛」などと思い付く限りの罵詈雑言を口にしたが、このどこまでも厚かましい男が動じる事はついに無かった。
2021/5/31:加筆修正を行いました。