4話1節:襲来する野獣
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ファンシーショップの鬼女事件から数日が経った。あれからは特に何も変わった事は無く、アトリは郁の庇護のもとで平穏な日々を過ごしている。よもや、あれだけ必死に家から追い出そうとしていた、憎むべき平穏の簒奪者が新たな脅威に対する唯一の盾となろうとは……皮肉なものであった。
事件当夜に危惧された精神面への影響は、杞憂に終わったように思われる。あの怪しげなカモミールティーのせいか、はたまた脳の防衛機制が働いたのか。翌日には、アトリの頭では、事件の記憶はまるで遠い過去のように漠然とした感じでしか認識出来なくなっていた。殺されかけた上に、化け物同士とはいえ目の前で殺し合いが行われたにも関わらず……である。当時はあれだけ強い不安や怯えを感じたというのに、今はもう「危なかった」という薄ぼんやりした感想がやっとだ。――それはどう考えても不自然かつ不健全な事だったが、そうならなければおかしくなっていたであろう事もまた事実で。アトリは、記憶の事は深く追及しない事にした。世の中には、正しくない形で在った方が良いものもあるのだ。
――そのようなことを回顧しながら、アトリはもう日常と同化しつつある綿毛の朝食を口に運んでいた。今日は白ご飯にだし巻き玉子、焼き鮭、味噌汁、そして漬物三品だ。あの西洋かぶれな見た目の男が、意外にも和食のレパートリーも豊富に有しているのだと知ったのは、もう結構前の事になる。
「……おや。また通り魔の被害者が出たようだね。犯人は相変わらず捕まらないままか。まあ、当然だろうけど」
「あ、ああ……そうみたいですね」
テレビの朝のニュースを眺めてそう呟く郁に、アトリはぎこちない返事をして視線をさ迷わせる。身を守るためには頼らざるを得ない状況とはいえ、相手はついこの間まで憎々しく思っていた変態綿毛である。今更どう接して良いのやらと、アトリは弱気になっていた。今まで通りにつんけんしていたら守って貰えないかも知れないし、先日の恩義に背く気がする。しかし、今になって態度を軟化させれば、あからさまに保身の為に媚びているようだし、却って己の身が危ういような気がするのである。
変態の花嫁になって大事なものを色々失うのは嫌であるが、化け物の餌食になるのだって嫌だ――そんな感情の狭間で懊悩を深めるアトリの胸中を知ってか知らずでか、郁は首を傾げて怪訝そうな顔をした。
「アトリったら、最近、随分しおらしいじゃないか。もしかして、この前の僕の勇姿を男と認めてくれたのかい。ふふふ……」
「……相変わらず、おめでたい人ですね」
「アトリが悲観的過ぎるんだよ。あんな生い立ちなら、そうなっても仕方ない事だけれどね……でも、今は僕が居る。君の人生はこれから薔薇色になるんだ。さあ、アトリ! この前の約束通り、僕がこの世の歓びを手取り足取り腰取り教えてあげるよ。だから、これから僕と爽やかな朝のアバンチュールを……」
「どこ触ってるんですかこの変態! というか、朝な夕なアバンチュールって……あなたには節度というものがないんですか!」
食事中だというのにはしたなくも席を立った郁は、アトリを立たせて腰を抱き、おまけにさらりと尻を撫でる。調子づいた変態の突然の狼藉に、アトリは青筋立ててわななき、郁の手をぺしりと叩いて離れた。そして、自分の立場を思い出し、反射的にやってしまったその行動を後悔し狼狽えるが、もう後には引けない。
「痛いなあ、もう。アトリはまだお子様だから知らないだろうけど……アバンチュールは一日に何回しても良いんだよ? 僕なんか、君と会ってからは毎日がアバンチュールだよ」
「う……嘘だ!」
「ふふふ……調子が戻ってきたじゃないか。そうそう。しおらしいのも良いけれど、やっぱりその位でないと張り合いが無くて寂しいよ」
精一杯威嚇しながら睨み上げるアトリに対し、郁はふ……と安心したような微笑みを見せる。敵は色情魔な上にマゾヒスト――薄々気付いていたが、今ここではっきりした悍ましい事実に、アトリは戦慄するしかない。撤退、撤退だと残りの朝食を急いで口に放り込み、鞄を抱えてその場から逃走した。
――そうして、この忌まわしい伏魔殿から脱出しようとしていた時である。ぱたぱたと追い掛けてきた色欲の魔物が、それに待ったを掛けた。彼の白い手には、名状し難い狂逸した形状のペンダントが下げられている。
「僕としたことが、アバンチュールに気を取られて、渡すのを忘れるところだったよ。今度のペンダントは、もっと長く持つまじないを掛けておいたんだ。持って行ってよ」
「ええと……あ、ありがとうございます」
「ふふ……良いんだよ。僕が側に居られない間は、これが頼みの綱だからね」
アトリがペンダントを着け替えると、古い方は郁に引き取られた。曲がりなりにも呪物であるから、然るべき手順を踏んで処分するのだという。こういう時は頼もしい働きであるものだから、変態といえ馬鹿にはできない。
「ああ。そうそう……そろそろ頃合いだろうし、良くない魔物を片付けるにも戦力が必要だからね。僕の片割れたちを呼び寄せておいたよ。外で会う事も有るかもしれないから、その時はよろしく頼むよ」
「は、はあっ……?」
確かに、郁は以前に片割れが十五人居ると言っていた。それらが呼び寄せられるのは時間の問題と覚悟していたから、それはいい。問題は、この唐突なタイミングと、郁が明らかに戦意に満ちている事だ。前者は呼び寄せる事への反対を押し切ってしまう為の作戦だろう。しかし、後者はどういう風の吹き回しなのか。郁は、アトリを守るだけではないのか。
「どうしてそんなに、戦う気満々なんです。専守防衛じゃないんですか」
「〝今は〟専守防衛でいようと思っているよ。戦力が足りないし、敵の規模も分からないからね。――でも、そうでなくなれば話は別だ。やっとアトリが僕を受け入れてくれたのに、邪魔が入り続けるなんて許せない……彼らは根絶やしだよ」
古代ローマの暴君達もかくやという残忍で淫蕩な笑みを浮かべ、藍紫色をぎらつかせる姿は、アトリに呑まれるような錯覚を与えて圧倒する。そうして硬直したアトリに気付いた郁は、いつもの甘ったるい笑みを取り戻して首をかしげた。
「恐いのかい? 大丈夫、僕が君を幸せにしてあげる。君の欲しいものは僕が何だって用意してあげるよ。でもその為には、まず邪魔なものを掃除しないと……ねえ?」
恋人への睦言めいた甘さに、有無を言わさぬ迫力を絡めて、郁はそう囁いた。アトリは皇帝の前の奴隷、そして蛇に睨まれた蛙も同然であった。ただただ、首を縦に振るしかない。郁はそれに満足そうな笑みを浮かべるが、それはまるで大輪の毒花のようであった。
「ふふふ。分かってくれて嬉しいよ。――それはそうと、もういい時間だ。そろそろ出ないと、遅刻してしまうよ?」
「は、はい。そうですね……いってきます」
暴君から解放されたアトリは、心持ちふらふらとした足取りで、今度こそ伏魔殿から脱出する。この前の鬼女など足元にも及ばない、もっと恐ろしいものの片鱗を見た彼女は、麗らかな陽射しの中でぶるりと身震いした。
2021/6/1:加筆修正を行いました。