3話4節
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規制線が張られ封鎖されたファンシーショップは夕方の混乱などすっかり忘れて、今は夜の静寂と闇に沈んでいた。表には警官が二人ほど警備の為に残っているが、それだけである。
人っ子ひとり居ないバックヤードの真っ暗闇が揺らめく。その揺らぎから姿を現したのは、筋骨隆々とした赤い髪の男――悪夢の四闘士が一人、コレールである。彼は夕方の凶報を受け、ビジュを討った者の手掛かりを探しに来たのである。ビジュは戦闘力の低い使い魔であったが、こうして店を構え、呪い付きの商品を安く売りさばくという手法で安定した結果を上げ始めていただけに、殉職は手痛い打撃であった。コレールの出世が目前にちらつき始めた今は、なおさらである。
「まったく、酷い有り様だな」
暗黒の者どもの中でも上位に位置するコレールは、光の無い場所をも見通す眼を持っている。そんな彼の眼前には、砂の山と化したしもべの亡骸と散乱する青紫の花びら、そして床に開けられた謎の大穴があった。
「ビジュよ……一体何が有ったというのだ、これは」
眼前の惨状を嘆くようにそう呟いたコレールは、膝をつき、砂の山に手を乗せる。霊源を失い砂塵に還った亡骸は残留思念もほとんど消えかかっていたが、まだどうにか読み取れる状態にはあるようだった。幽かなそれに意識を集中させれば、曖昧ながらもしもべの記憶した光景が脳裏に浮かんでくる。
――ビジュは、何故か店内で人間モドキの少女を追い掛けていた。結界に守られたそれを何度も攻撃して追い詰める。あと少しで、結界が破れて引きずり出せる……そんな所で、正体不明の魔物が床を突き破って侵入してきたようだった。恐らくビジュを殺ったのはその魔物なのだろうが、その姿は掠れて消えて全く分からない。辛うじて分かるのは、植物系の魔物という事だけである。劣化した残留思念からは、これ以上の記憶を引き出せない。
意識を現実に戻したコレールは、足元の花びらに視線をやる。恐らくこれはビジュを殺した魔物が散らしたであろうものだ。……非常に禍々しい気が漂うそれは、相手が普通の魔物でない事を如実に物語っていた。少なくとも、この地上の何処にもこのように禍々しい魔物は居ない。不幸にもビジュは、幽世の者か外なる世界の者に当たってしまったのだろう。
(それでも、魔物狩人よりは幾分かましか……)
魔物狩人ではない――それだけが不幸中の幸いと言えた。魔物狩人は組織立っている上に、一度敵対すると非常にしつこいので、コレールと言えど出来れば相手にしたくないのである。また、他の四闘士のように魔物狩人との衝突に悩まされ臆病に出ざるを得なくなるなど、彼にはとても耐えられない。
……そんな事を回想しつつ、コレールは今ここに有る痕跡から得られる情報を頭の中でまとめる。
一、邪魔者は、魔物狩人や土着の異形ではない正体不明の第三者。
二、邪魔者はビジュが奪った精気を放置している。狙いは精気の横取りではないのではないか。
三、邪魔者の目的として考えられるのは、あの人間モドキが仲間で、仲間を守ろうとして攻撃したということ。しかし、今はそうと断定できる程の情報が無い。
「敵は何者なのだ……一体ここで何をしようとしていた……」
そう呟いたところで、コレールはバックヤードに近付く者の気配を感じた。人間、それも恐らくは魔物狩人である。縄張りでもない所に魔物狩人が何の用だと訝しむ気持ちはあったが、今はまだ魔物狩人に存在を知られるのは得策ではない……コレールはこれ以上の探索を諦め、唯一の物証である花びらを一握り採取して、再び揺らぐ暗闇に入りその場を去って行った。
◇◇◇◇
コレールが去って少し経過して。今度はセーラー服姿の少女が裏口からバックヤードへそっと滑り込んできた。物騒にも日本刀を携帯している彼女こそは、コレールが接近を察知した魔物狩人――そして、先日郁を仕留め損ねた人物であった。少女は、警察勤めの情報屋から「夕方に夜海七区で起こった事件は、人間のやった事とは思えない状況だ。魔物がらみの事件である可能性が高い」と聞き及んで、隣市からやって来たのである。
少女は現場へ濃厚に漂う妖気に顔をしかめつつ、懐中電灯を用いて魔物の痕跡を調べだす。部屋のあちこちに何かで抉られたり、切られたり、撃ち抜かれたりした跡が残り、置かれていた在庫の山はめちゃくちゃだ。その在庫からは何らかの呪いの気配を感じる。もっとも、施術者が死亡して術式が解けたらしく、あくまでも痕跡しか感じられないが。
「それにしても、ひどい荒れようだわ……ここに人間が居ればひとたまりもなかったでしょうね。犠牲者が出なくて本当に良かった……」
目の前の惨状に思わずそうこぼす少女は、まさか本当はここに人間が居て、それこそが今回の事件の引き金であったとは夢にも思わないだろう。
続いて、少女は床の大穴に懐中電灯の光を投げ掛ける。しかし、底は全く見えなかった。情報屋の話では、この大穴はファンシーショップ裏口の前に開いた大穴と通じているのだという。裏口前は狭く暗いビルの間にある小道とも言えない隙間であり、人が殆ど立ち入らない事もあって、この穴がいつ誰によって開けられたかも判然としない。更には、これだけの大穴が開いたというのに、周辺住民は誰もそれに伴う騒音を聞いた事がないと証言しているらしい。心当たりがあるとすれば、丁度この店の客が気絶していたであろう時間帯に一度だけ起こった、一分にも満たない地響きだけだという。
(大土竜……にしては控え目な穴だわ。騒音の時間も短すぎる。きっとこれは、別の魔物の仕業)
バックヤード中には花びらが散乱し、壁や床のあちこちには結晶の礫が刺さっている。花びらと結晶からはそれぞれ全く別の魔力の波動を感じるので、少なくとも二体の魔物がこの場で戦闘していた事が推測できる。花びらの方は、先日取り逃がした魔物とほぼ同じ波動が感じられた。以前より少し波動の感じが変化しているようだが、紛れもなく同一の魔物だ。
「結晶の方は呪い付きの商品をばらまいていた……花びらの方は、一体何をしていたの? 戦いがあって、結晶の方が死んだみたいだけど、なぜ……?」
魔物同士の戦いなど珍しくもないが、この現場の状況はあまりに不可解すぎる。弱冠十七にして既に歴戦の勇士並みに魔物を退けている少女の経験を以てしても、いっこうに謎の晴れない事件であった。
「……とにかく。花びらの方の死体が無いって事は、あれがこの辺りで人間を狙っているのかも知れない。それでなくても怪しい事件の多すぎる街だわ。この一帯に対する警戒を強めるべきね」
少女はそう結論付けると、スッと踵を返して裏口から出て行く。最早ここには狩るべき魔物がいない。ここは少女の留まるべき場所ではないのだ。
◇◇◇◇
所変わって、ここはアトリの自室である。傍らのランプに照らされたベッドの上で、部屋の主は頭を抱えていた。降って湧いたような災難によって、化け物に命を狙われ、郁に命を握られているような状況になった今、心安んじて眠ることが出来ずにいたのだ。
美咲と別れて帰宅した後、郁は何事もなかったように振る舞い、いつものように主夫の真似事を始めた。朝の宣告通り、気持ち悪いメッセージ付きのオムライスを作ったのである。それは、気遣いからの行動と言うよりは、あの化け物の事件をもう然して何とも思っていないがゆえの行動であるようだった。敵の一部を食べる行動も、その異常な動揺の少なさも、郁の底気味悪い非人間性を浮き彫りにしているようで、アトリは何だか不快な気持ちになった。命を預けて恃みにしなければならない相手だが、この先無事にあんなものと一緒に暮らしていけるのか、大いに不安である。
更に、得体の知れない魔物に襲われ、殺され掛けた事実もアトリに追い討ちを掛けた。郁が一度射殺されていたが、後々から考えれば、あれは自身にも起こり得たかもしれない事だったのだと気付いた時、アトリはそのことに決して小さくはない動揺を覚えた。
――このように、アトリは、時間を置いて冷静になった事でやって来る懊悩に苛まれているのであった。
「眠れないのかい、アトリ。僕が子守唄でも歌ってあげようか」
「か、郁さん……何をしに来たんですか……」
「アフターケアが必要かと思ってね。今日は恐い目に遭わせてしまっただろう?」
郁は、飲み物の入った一人分のカップをベッド脇のチェストに置くと、自身は椅子を持ってきて傍らに座る。
「大丈夫ですよ。べつに、平気です」
「震えた声で言っても説得力がないよ。こういうのは後から影響が出るんだ。というか、もう出てるんじゃないのかい? 駄目だよ、今のうちにちゃんと処置をしておかないと」
「何をする気なんです」
「何もしないよ。ただ、このカモミールティーを飲むだけでいい。精神を落ち着かせるまじないを掛けてある」
また出てきた怪しいものにアトリは顔をしかめたが、郁が引き下がる様子はない。恐らく、飲まないことには出て行かないだろうという感じがありありと見て取れた。
「飲めないなら、僕が口移しで飲ませてあげるけれど」
「……飲みます。今すぐ飲みますってば」
こぼさないように用心しつつカップを引ったくったアトリは、嫌いなものを一気に片付けようとする子供のようにカモミールティーを飲み干した。猫舌のアトリの為だろう。それの温度は程よくぬるく、飲みやすかった。
「これで良いでしょう。さあ、おやすみなさい」
「ああ。いい子だね。おやすみ」
背を向けて布団を被ったアトリだが、郁が部屋から出て行く様子はない。怪しんだアトリが布団から顔を覗かせると、郁はまだ傍らの椅子に座っていて、彼女を見守っているようだった。
「……何してるんですか」
「アトリが寝付くまで側に居てあげるんだよ。あんな事があったんだ。一人で眠るのは恐いだろう?」
「郁さんが側に居る状態で眠る方が怖いんですけどね……色々な意味で。だいたい私、子供じゃないんですよ」
「アトリ……もう忘れたのかい。僕は君のダーリンであると同時に、君の親代わりにもなると誓ったじゃないか。だから、僕が君を子供扱いするのは何もおかしな事じゃないんだよ」
「まだそんなこと言ってるんですか。ふわあ……もう勝手にしてください。でも、変なことしたら、承知しませんからね……」
そう釘を刺し、今度こそ布団をすっぽりと被って背を向けたアトリ。あのカモミールティーを飲んでから、何だかとても眠いのだ。それなのに郁が背中をぽんぽんとあやすように叩いてくるから、余計に瞼が重くなる。絶妙な加減とリズムに段々とうつらうつらして、意識が遠くなる……
そんな塩梅でアトリはあっという間にふにゃふにゃになって、眠りの世界へ旅立って行ったのであった。
◇◇◇◇
そうして無防備な寝顔を見せるアトリを前にほくそ笑むのは郁である。
「ふふ。ふふふ……厄介だけどうまい事になったね」
きっと、敵はあれでお仕舞いにする気などない。これに懲りず新手を送り込んで来ることだろう。郁はしばらく血腥い戦いを続けることになる。そうなれば、アトリは自衛の為にも郁を必要とせざるを得ない。敵が存在する限りずっと、アトリは郁と一緒に居るしかないのだ。
無粋な邪魔者に新婚生活を邪魔されるのは腹立たしいけれど、これを利用してアトリを守り活躍すれば、彼女も自分を頼れる異性として見てくれるようになるだろう――郁はそんな想像をして、生白い顔をうっとりと蕩けさせる。
「これも僕らの愛を深める良いチャンスだ。彼らには悪役としてしっかり働いて貰おうじゃないか……そして、用が済んだら、さっさとこの世から退場させてあげよう。うふふふふ……これからしばらくスリリングな毎日になるよ。楽しみだねえ、アトリ」
恍惚とした様子でアトリに頬擦りし、物騒で気持ち悪い台詞を口にすると、郁は空になったカップを持って部屋から出て行った。不幸にも、夢の世界へ埋没したであろうアトリがそれを知る由はない。ただ、色々な思惑が蠢く夜を安穏と過ごし、朝になれば更なる運命の奔流に投げ込まれてゆくだけである。アトリは、彼女自身が思うよりもずっとずっと無力であった。
2021/6/1:加筆修正を行いました。