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3話3節(下)


 戦いが終わり、ひと悶着の末、アトリが郁に抱擁されて五分は経過しただろうか。いい加減暑苦しくなってきた彼女がもぞもぞすると、郁は苦笑して身を離す。そして、売り場の方を見遣ると何かを確認したかのように頷いた。


「さて。ずっとこうしていたいところだけど……そろそろ、あの魔物の催眠術の効果が切れる頃だ。アトリ、君は友達の側に戻った方がいい。こんな所に居ては、色々と勘繰られてしまうだろうからね」

「郁さんはどうするんですか」

「僕は姿を隠して君を見ているよ。いいかい、アトリ。君は下手なことは喋らず、自分もさっきまで気絶していた振りをするんだ。本当のことを言ったって、どうせ誰も信じやしないし、余計な厄介事に見舞われてしまうだけだからね」


 そう言って、郁はあっさりと大穴の方へと向かってゆく。よく見れば、先程の戦闘のせいで軍服はまたぼろぼろになっていた。――いくら元通りに再生するとはいえ、丈夫な素材で出来ているであろう軍服があんなになるような攻撃を受けるのは、まぎれもなく苦痛であったはずだ。


「あ……あの!」

「ん? どうかしたのかい?」

「ええと、その……た、助けてくれて、ありがとうございました」


 どうにも締まらない、ぎこちない感謝だ。礼を言うくらい素直に出来ることであるはずなのに、郁相手であるとうまくいかない。そんな己の情けなさに、アトリは赤面して視線をさ迷わせた。対する郁も呆気に取られた様子であったが、投げ掛けられた言葉の意味を理解すると笑みを浮かべる。それは、いつもの欲望丸出しの扇情的なものとは違う、花が綻ぶような純粋な笑顔で、どこか誇らしげでもあった。


「……僕は君の花婿なんだ。これ位当たり前のことさ。君が無事で本当に良かったよ。お友達には悪いけど、今日はもう予定を切り上げて帰っておいで。ケーキなら僕が美味しいのを買ってあげるから」


 そう言い残した郁は茨の足場に飛び乗り、それごと大穴へ姿を消してゆく。姿が見えなくなるまでぼうっとそれを眺めていたアトリも、頬に集まる熱から逃げるように売り場の方へ戻っていった。



◇◇◇◇



 ――アトリが売り場に戻ってそう経たないうちに、客たちは次々と目を覚ましていった。彼女らは一変した店の惨状に唖然としたり、事態の把握に努めようとしたり、警察や救急に連絡したりとしっちゃかめっちゃかであった。その間、アトリは郁の言いつけ通り、今さっき目を覚ました振りをして美咲の側に居続けた。


 誰も彼もが眠らされる直前の記憶を失っているのは、アトリにとってはこの上ない幸運であった。何せ、加害者はあの鬼女……ビジュに違いないが、事件の発端は他ならぬ自身なのである。知られれば、それなりにえらい目に遭うのは火を見るより明らかだ。だから、アトリは目を覚ました美咲に何が有ったのかと訊ねられても、「自分にもよく分からない」と素知らぬ振りを貫いた。


 間もなく通報を受けた警察が到着し、アトリたちも事情聴取され、健康被害が無いかと病院を受診させられた。詳しい検査結果はまた後日であるが、今のところ目立った異常は見当たらないので、連絡先を確認されて早々に帰される。

 事件の概要が「知らないうちに店の中の客全員が眠らされ、気が付いた時には店内が滅茶苦茶にされていた。客は皆その間に何が起こったのかまったく知らず、店員は全員行方不明。何故かバックヤードが大きく破壊されている。取りあえず、客には金品の被害も健康被害も無い」と掴み所の無いもので、警察も対応に苦慮しているようであった。――駆け付けた警察の中には、先日アトリの通報を受けて来た警察官の姿も有ったが、どうやら今日はきちんと仕事をしているようであった。


 何だか気味の悪い出来事に、流石の美咲ももう遊ぶ気にはなれなかったようで、ケーキバイキングはまた後日となった。今はとぼとぼと二人一緒に帰路に就いている。


「それにしても何だったのかしらね。私も眠っちゃう前の記憶が全然無いわ。ねえアトリ。あんたは何か覚えてないの?」

「私も、何も覚えてないんだ。気味が悪いよね」

「……ごめんね。あたしがあそこに寄ろうなんて言ったから、結局気分転換にもならなくなってさ」


 肩を落として、申し訳無さそうにする美咲に、アトリは「美咲は悪くないよ。だいたい、あんな事になるなんて誰も予想できないじゃない」と慌ててフォローに入る。実際の騒動の発端は自分なので、胸の中は申し訳無さでいっぱいだ。


「ああ、ほら。ここでお別れだよ。美咲」

「……あんたに何か有ったら心配だから、家まで送る」

「え? いやいや、良いよ。大丈夫だよ。私なら大丈夫。それより美咲、顔色悪いよ? 早く家に帰って休んだ方が良いよ」


 今の自宅には変態が住んでいるのである。いくら命の危機を救ってくれた恩人とはいえ、変態は変態だ。四年来の友人にだけは、絶対に自分と変態に接点が有ることなど知られたくない――美咲には郁の存在を隠しておきたいアトリは、真っ青になりながらも必死に言葉を並べて首を横に振る。しかし、そんな涙ぐましい努力も「アトリの癖にバカ言ってんじゃないの。良いから大人しく送られる!」という一喝で吹き飛ばされてしまう。


 このままでは自分に変態の身内が居ると思われてしまう……アトリがそう涙目になっている所へ、コツコツと一つの靴音が近付いてきた。


「ああ。まだここに居たんだね、アトリ。あんまり遅いから迎えに来たよ」


 白いワイシャツに黒いスラックスという普通の出で立ちだが、それは紛れもなく一番来てはいけない変態綿毛その人に間違いなく。アトリは愕然として膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。どういうつもりだ、姿を隠しているのではなかったのか――今すぐこの場で小一時間そう問い詰めたいところだったが、来てしまったものは仕方ない。今は郁を訝しげに見ている美咲に説明をするのが先であった。


「……誰、知り合い?」

「い、従兄だよ。最近うちに下宿するようになったの……」

「初めまして、こんにちは。アトリの従兄の不二郁です。君は……アトリのお友達かな?」

「はい。姫野美咲っていいます。初めまして、アトリの従兄さん」


 刻印の力は絶大だ。美咲にすら、どう見ても従兄弟には見えないだろう郁とアトリを「そうである」と思い込ませている。取りあえず、これでファーストコンタクトは何事もなく済んだと、アトリは胸を撫で下ろした。美咲には「……聞いてないわよ。そういう事は早く言いなさいよね」と小声で小突かれてしまったが、最悪の事態を思えば、これくらいはまったくの許容範囲内であった。


「まあ、従兄さんが居るなら帰りは大丈夫ね……良いわ。今日はここで別れましょ――でも、何か有ったら連絡すること。いい?」

「うん。美咲も、気を付けて」


 メスゴリラはジャングルへと……ではなく、美咲は自宅のある住宅街へと消えていく。これでひとまずは安心だ。後はゆっくりと体を休めて欲しいものである。


「ふふふ。アトリのお友達には悪いけれど、これで二人でゆっくりと帰る事ができるね」

「……郁さん。隠れてるんじゃなかったんですか」

「困ってるアトリの為に、助け船を出しに来ただけだよ。アトリはあの子に早く休んで欲しかったんだろう? ふふ。アトリってドライな事を言う割に優しいよね」

「べ、別にそんなんじゃないですよ。そんな事より! このまま帰って大丈夫なんですか? さっきの化け物の仲間に家がばれたりしませんか?」

「大丈夫だよ。今までずっと警戒してきたけど、魔物はあれきりみたいだから。それに、家と周りの住宅地には隠蔽結界を構築してあるからね。仮に僕らをつけていたとしても途中で見失うよ」


 随分と用意周到なことである――アトリがそう感心していると、不意に左手を温かいものに包まれた。そして、あっという間に恋人繋ぎされてしまう。離そうと思っても、瞬間接着剤でくっ付けたように離れない。極めつけには「これをさっき戦ったご褒美という事にしておくれよ」ときた。アトリは打算で生きる人間だが、恩知らずではない。それを出されては頷く他無かった。

 そうして、生まれて始めて誰かに手を繋がれ歩く家路は、通い慣れた道であってそうでないように見える妙なものであった。


2021/6/1:加筆修正を行いました。

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