3話3節(中)
この話には、負傷、捕食などのグロテスクな描写が含まれます。苦手な方はお戻りください。
地響きを伴い現れた巨大な何かは、バックヤードの天井まで伸びたところで動きを止めた。鬼女はそれに巻き込まれる直前に身をかわしていたが、今は姿が見えない。
「な、に……今度は……」
アトリは呆然として目前の物体を見上げる。それは自然界では有り得ない大きさの茨だった。一本の直径が成人の腕ほどもあり、それが幾本も絡み合い巨大な柱となって天井へ突き刺さっていた。
新手の化け物か――アトリがそう思った矢先、茨の柱に割れ目ができ、ずるりと花のように開いてゆく。……中に何かいるようだ。
「やあ、アトリ。ダーリンが助けに来たよ」
柱が開いて出来た茨のお立ち台に、例の絢爛な軍服姿の郁が立っていた。彼はその気持ち悪い台詞同様に自信満々な様子で、へたり込んでいるアトリを見下ろしている。
「か、郁さん……?」
「そうだよ、僕だよ。郁さんだよ。ふふふ……ペンダントのまじないが君の危機を知らせたものだから、こうして急いで駆け付けたのさ。――それにしても手こずったよ。結界で店の出入り口が全く開かないんだから。お蔭で結界の薄い地下から掘り進んで来なくちゃならなくなった。本来、穴掘りは僕の仕事じゃないんだけどね」
そう言って、郁はよっこらせとお立ち台から降りる。その拍子に傍らの茨が腕を引っかいて、「いたっ」と間抜けな声を漏らした。こんな非常時であっても、どうにも締まらない奴である。
「ここまでよく持ち堪えたね……恐かっただろう? ああ、おでこに傷が出来てるじゃないか……血まで垂れてる。ふふ。まるでアブドーラ・ザ・ブッチャーみたいだけど、そんな君もワイルドで素敵だよ。しかしまったく、許せないね。女の子の、それも人の花嫁の顔に傷を付けるなんて」
「……よりによって流血戦レスラーみたいとか、女の子に言う言葉じゃないですよね。喧嘩売ってるんですか」
アトリに寄り添い膝をついた郁は、懐から取り出した薄紫のレースハンカチで彼女の鼻の頭を拭う。だが、それもこんな状況でブッチャー扱いされた後ではまったくの無意味で、安心感も冷めてしまったアトリは冷徹にハンカチをひったくった。そしてそのまま額の傷へと押し付ける。……額というのは、傷口はそれほど深くなくても派手に出血する場所である。早いところ布で止血しておかなくてはならない。
「アトリ、重箱の隅をつつくのは良くないよ。ここは白馬の王子のように颯爽と現れたダーリンにときめくようなシチュエーションだよ」
「今のでどうやってときめけって言うんですか。黄色い声でキャア、ステキ! とか言えば良いんですか」
「そうだよ、そういうのが欲しいんだよ。よく分かってるじゃないか……もう、アトリは意地悪だね。敢えて僕の嫌いな焦らしプレイをするなんて。そんな悪い子には、罰としてチュ……」
そこで唐突に郁の言葉は終わった。ドスリ、と鈍い音がしたかと思うと、郁の眉間から尖った石が生えたのだ。そのまま、郁はパタリと床に倒れ伏し、頭からじんわりと黒い水溜まりを広げた。奴の血の色は赤ですらなかったのである。
「ふん。余裕ぶっておきながら、呆気ない。戦場でのろける奴など、所詮はこの程度のものか」
遠くに立つ鬼女が、唾棄するような調子でそう呟く。どうやら、郁は彼女の放った結晶の礫で射殺されてしまったらしい。敵の言う通りで格好付かないが、派手に登場してあれだけの口を叩いておいて随分と呆気ない最期である。
私を助けに来たんじゃないのか、こいつは――あまりの展開に、アトリはそう反芻しながら倒れた郁を呆然と見ているだけしか出来なかった。憎らしい真っ白い綿毛が、可哀想に今では白黒まだらの綿毛になってしまっている。
「さあ、観念おし。もうお前を助けに来る馬鹿は居ないんだ」
鬼女は郁を踏みつけてアトリに近付く。迫り来る敵を見上げたアトリは、今度こそ終わりかと諦念混じりの絶望を噛み締めた。しかし、鬼女がアトリに手を伸ばそうとした刹那、うねる茨の柱が凄まじい威力で彼女をはね飛ばす。ずた袋のように空中へ放られた鬼女はバックヤードの段ボールを次々と薙ぎ倒し、店舗部分に繋がる通路の方へズシャッと落下していった。
それと同時に、眼下の屍がびくりと跳ねた。腕をじたばたと動かしながら蔓を蠢かせて、後頭部の傷口から礫を摘まみ出し捨てる。傷口の辺りからは、黒い蚯蚓のようなものが三本くらい生えて、びちびちとうねったかと思えば、するりと頭部に収まっていった。続いて屍は床に手をつき、ぐっと体を起こして血塗れの顔面を露にする。眉間の傷口にはやはり黒い蚯蚓状の物体が生えていたが、すぐに周囲と同化して傷を塞いだ。
――そうして、再生を果たした屍は虚ろな眼にアトリを認めて妖しい光を取り戻し、同時に黒い血に塗れた顔で微笑みを浮かべる。
「やあ、アトリ。すまないね。頭をやられて少し気を遣ってしまったよ」
「ひいっ……!」
喋り出した屍と吐き気のするようなショッキングな様態に、軽い恐慌状態となったアトリは反射的に綿毛頭を傍らのモップで打ち据える。屍は「ぶ」と無様な声を出して再び床に顔を突っ伏した。すぐ正気に戻り、しまったと後悔したが、もう遅い。アトリは力の入らない腰で逃げるように後ずさり、壁に背中を押し付けて縮こまった。……今更であるが、本当に一体何なのだ、この生き物は。
「いたた……ひどいじゃないか。いきなり殴るなんて。ここは、復活したダーリンに感激して情熱的にキスするとこだろう?」
垂れ流した血液が黒い霧として一気に気化してゆくなか、郁は再び起き上がって首を傾げた。そして、アトリへじりじりと近寄る。今度は血が綺麗に取れているのが救いであった。しかしまあ、こんな時でも白馬の王子気取りで居続けられるあたり、本当におめでたい奴である。
「き、傷口から気持ち悪いもの出して、黒い液体塗れの顔で笑われたら、誰でも殴りたくなります……! アタマ可笑しいんじゃないですか……」
「ああ、アトリ。君、僕が復活したのが嬉しいから、そうやってキツい言葉で照れ隠ししてるんだね。こんな時でも軸のぶれない君が、僕は好きだよ……おっと」
後ろから飛んできた礫を、今度は蔓で絡め取って捨ててしまう。郁は不愉快さを隠そうともせず、殺気立った様子で敵の方へと振り向いた。
「同じ手は二度も通用しないよ。まったく、無粋な子だね。何度も僕とアトリの間に割って入るだなんて。――君のような奴の事は昔からこう言うんだよ。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえ……ってね」
「減らず口を……! 私は、小汚ない人間モドキも、所構わずのろけるカップルも大嫌いなんだよ!」
「おやおや、独り者の僻みという訳かい。惨めで醜いね。君みたいなのが僕とアトリの新婚生活に水を差したかと思うと、不愉快だよ。とても」
苛立った様子で鬼女は体中に結晶の棘を生やす。郁もそれに応戦するように立ち上がって細剣を抜き、両腕の蔓を持ち上げた。両者とも完全なる戦闘態勢である。
「か、郁さん」
「どうしたんだい、アトリ」
「戦って大丈夫なんですか……あの人、無茶苦茶やる気ですよ。今度は蜂の巣にされるかも……」
「心配してくれるのかい? ふふふ、大丈夫だよ。僕は魔物の中でもタフな方なんだ。頭を撃たれたり、蜂の巣にされたりしたくらいじゃ死なないよ。どうだい? 人間の男より逞しくて、頼りになるだろう? ……惚れ直しても良いんだよ?」
恐らくそれは安心しろというアピールなのだろうが、アトリには「撃たれても死なないばかりか、気持ち悪い黒い蚯蚓触手で傷を塞いで復活する奴なんて、お花人間どころかゾンビじゃないか」という感想しかもたらさなかった。だが、今はこいつだけが頼みの綱なのである。どうにかしてあの魔物を追い払ってくれれば良いのだけれどという祈りを込め、アトリは郁を見送った。
愛する人に見送られた郁は、決闘に臨む剣士のように堂々たる所作で敵の方に歩み出る。「勝利を花嫁に」そう言って細剣を胸に当て、次に唇に当てるその所作はまるで中世の騎士のようだ。対する魔物は郁が一歩近寄るごとに眉を顰め、耐えきれない不快感を抑えているようだった。
「ふん、気障な真似を……お前があのペンダントの術者かい。まったく、随分と薄気味悪い波動を撒き散らしてくれる……!」
「君とそのお仲間も大概じゃないか。気配も消さず、台所を這いずるゴキブリみたいにごそごそ、ごそごそと……色々迷惑しているんだよ、こっちも」
「私の縄張りに侵入し狩りの邪魔をするだけでなく、人間モドキの分際で我らを虫けら扱いか! 身の程知らずめ……そこの連れ共々、我らに歯向かった事を後悔させてやろうッ!」
鬼女が郁に躍り掛かり、戦いの火蓋が切って落とされた。剣と錐状の腕、茨と鋭利な礫での激しい攻撃の応酬が続く。郁は飛んでくる礫を殆ど弾き落としていたが、それでも幾つかは体に刺さってしまう。手で抜いているような暇も無いので、蔓で抜き捨てる。傷口は僅かに血を噴いたが、すぐに抉れた肉から蚯蚓状の器官がみちみちと盛り上がって癒合して、元通りになった。
この程度の攻撃で死ぬような事はないが、負傷時の痛みはしっかり感じるので不快である。また、アトリが後ろにいるのだから、敵を瞬時に葬り去るような格好良いところを見せたい。そして早く家に帰って愛のメッセージ付きオムライスを食べさせたい――そんな思考で、郁は早急に戦いを終わらせるべく絶え間ない猛攻を仕掛け続ける。けれども、鬼女の身体もまた、何度傷付けてもたちどころに再生してしまう。一度は頭を落としたが、すぐに新しい頭が生えてきて意味がなかった。
(まともに攻撃してもすぐ回復してしまうか……さて、どうしたものかな)
攻略の糸口を探す郁は執拗に、そして間断無く敵を攻め立てる。どちらもすぐに再生してしまう身体持ちとあっては、普通に戦っていてはいつまで経っても決着が付かない。何でも良いから、弱体化もしくは撃破のための糸口を得なければ、夕食が遅れてしまう。
(まずはあの赤い石を砕くとしようか。再生の度にチカチカされては目に悪い)
鬼女の胸部中央を陣取る赤い石は、身体が再生する度にチカチカと輝いている。再生能力を司っているのか、魔力の発生を司っているのか、それとも何のことはないただの飾りなのか……正体は不明であったが、郁はまず胸部の石を破壊する事にした。
まずは敵の動きを止めて死角に入るべく、不意討ちのように薔薇の花弁を舞い散らして目眩ましをし、茨の攻撃で陽動する。視界を奪われたところで胸部を狙われる事は予期していたのだろう。鬼女は茨の攻撃を凌ぎきった。しかし、郁を捉え続ける事は失念していたらしい。花弁が地に落ちてやっと、郁が目前から消えているのに気付いて、それでなくても青い顔面を更に青くした。
その頃にはとうに死神が鬼女の心臓を掴んでいた。背後に回り込んでいた郁が間髪入れず一気に踏み込み、背に突き刺された細剣が赤い石を貫き砕く。鬼女は断末魔じみた悲鳴を上げて倒れ伏した。赤い石は、再生器官でも魔力発生器官でもなく、心臓部だったのである。
「ん……? まさかあれが心臓だったのかい。随分と分かりやすい弱点だ。僕はてっきり再生器官かと思っていたのだけれど」
ここまで致命的な弱点だとは夢にも思わなかった郁は、そう言って肩を竦める。そして、取り急ぎ虫の息の鬼女に歩み寄り、髪を鷲掴みにして顔を上げさせた。
「……あまり時間が無さそうだから手短に聞こう。君は一体何者なんだい。何の目的でアトリを襲った」
「ぐっ、ふ……本当ならば、お前に教える事など、何一つ無いが……まあ良いだろう……私は、宝石の使い魔・ビジュ。悪夢の魔神の尖兵……お前の女を襲ったのは、奴が私の仕事を邪魔したからさ……ああ、お前達のせいで全て滅茶苦茶だ……折角、愚かな人間どもから、より多くの精気を奪い取る機を得たというのに……」
「言い掛かりだね。君が僕の花嫁に手を出すから、僕らの新婚生活に水を差すからいけないんだよ。そうでなければ、君らが何をしようがどうでも良かったんだから」
「そんな理由で、私を撃ち破ったというのか……大義も知らぬ、忌々しい人間モドキめ……覚えておけ。私の他にも使い魔は大勢居る……我々の、大いなる使命を阻んだ、報いからは、逃れ、られんぞ……」
最後の最後にまるで呪詛のような言葉を絞り出した鬼女――ビジュは、遂に力尽きて絶命した。しかしながら、当の郁はそれに動じるでもなく、「それはまあ、厄介だね。警告どうもありがとう。そして御愁傷様」と淡々とした様子だ。……きっと、齢百六十ともなれば、このような場面には慣れっこなのだろう。
何はともあれ、敵は撃退された――そう理解したアトリは安堵し、へなへなと脱力する。一方の郁は珍しくアトリを余所にして、おもむろにしゃがむなり敵の骸をまさぐり始めた。何をするのだろうとアトリがいぶかしんだ刹那、郁は敵の骸へ手を突っ込み、一つの淡く光る小さな球体を取り出す。それを奪われた魔物の体は力を完全に失って、瞬く間に朽ちて砂となってしまった。
「ああ、やっぱり有った。これだよ、これ」
「な、なななにしてんですか、郁さん……」
「何って、戦利品を回収しているのだけれど。……これはね、霊源って云うんだ。異形の者にのみ存在する、霊的エネルギーを生み出す器官だよ」
爽やかな笑みでそう説明した郁は、まるで取れたての果物を食べるように血にまみれた結晶体を口に運ぼうとする。アトリが堪らず待ったを掛ければ、きょとんとした顔をした。多分、この猟奇的な綿毛にとっては普通の行動なのだろう。
「ちょ、ちょっと待った。何をしようとしやがってるんですか」
「何って、捕食だよ。僕らはこれを食べることで、溜め込まれた魔力を取り込んで強くなれるんだ。捕食は大事なことだよ? 僕らみたいに、魔物狩人に負けるような中級の魔物には特にね」
品の良さげな顔をしておいて、やる事は相変わらず悍ましい。否、予想以上に悍ましかった。相手は人間の価値観など通じない、冒涜的なピンク色の宇宙から来たであろう生物だ。アトリも大概の事では動じなくなっていた。しかし、これは無い。流石にこれだけは無しだ。
「やだやだやだ、それって、共食いじゃないですか!」
「共食いだなんて、そんな恐ろしい事じゃないよ。僕とこれは同種じゃない。そして、僕らにとって他の魔物はどれも捕食対象でしかない。これは、人間が鶏や豚や牛を食べるのと同じ事なんだよ。大体これ、食感も味も金平糖みたいなものだよ?」
郁はそこまで説明すると、ひょいと摘まみ上げた霊源を舌で受けて咀嚼する。ポリポリというあまりにも場違いな音に、アトリは奴が捕食をしたのだという実感を持ち、吐き気を覚えて目を背けた。一方、そうしてごくりと霊源を飲み込んだ郁はほう、と一息吐く。
「んん……まずまずの味だね。小物らしい小ささだし、魔力の量も少ない……まあ、それでも少しは足しになったよ。ごちそうさま」
砂の山に向けてそう評価しつつ、郁は豊満な唇を舌なめずりし、手指に付着した赤い体液を露骨に悩ましげな仕草で舐め取る。その一連の悍ましく異常な行為には何の躊躇いも無く、淫蕩で享楽的な色さえ浮かんでいた。郁は明らかにこの食事を愉しんでいたのである。そんな郁の残忍さ、捕食者としての顔を恐れたアトリは化け物の本性見たりと、彼から後ずさる。
「僕が怖いかい? 大丈夫だよ。僕がこんなことをするのは敵にだけだ。大事な大事な花嫁である君に、危害なんて加えないよ」
立ち上がった郁は、甘い言葉を発しながらアトリの方へと歩み寄る。しかしながら、そんなものでアトリの郁の捕食行動への嫌悪感や恐怖感が消える訳もなく、彼女は郁から逃げるように後ずさってしまう。
それを見かねた郁はアトリを優しく抱きしめると、甘い芳香で彼女の神経を沈静化させつつ、「大丈夫だよ……僕は君の花婿。君を守るものだ。恐い事なんて、何も無いよ……」と繰り返し言い聞かせる。催眠に掛けるような調子の言葉に恐慌状態から覚めるアトリだが、同時に背中をさすっていた手がいつの間にかいやらしく尻を撫で回しているのに気付いて、弾かれたように体を離した。
「ど、どさくさに紛れて何してるんですか、この変態、痴漢、下手物喰い!」
アトリは羞恥心から思わず思い付く限りの文句を並べ立てるが、そんなものは子猫が爪を立てたくらいにも値しないのだろう。郁の生白い顔に浮かぶのはにやつきだけだ。
「やれやれ、随分な嫌われようだね。まあでも、僕が変態だろうと下手物喰いだろうと、君は僕から離れられないと思うよ」
「……それはどういう事ですか」
「君の魔力は、魔物にとっては非常に魅力的だ。量も質も申し分ない……今朝言っただろう? この街には良からぬ事をしようとしている魔物がたくさん居るって。どうもこの魔物の狙いは人間の精気だったようだ。現にここの売り物には、持ち主となった人間の精気を奪って術者に流すまじないが掛けられている。もっとも、今は術者が死亡して効力を失っているけどね」
郁は、破れた段ボール箱から散乱する在庫に目を遣ってそう言った。アトリには目で見ても分からないが、魔物には分かるのだろう。さっきの鬼女もペンダントのまじないを判別していたのだから。
「でももう、その魔物は死んでいます。それに精気と魔力は別物でしょう」
「さっきの魔物の言葉からすると、大勢の仲間がいるようだよ? それと、精気も魔力も彼らにとっては利用可能なエネルギーだ。むしろ、ただの人間の精気より、上質で潤沢な魔力の方が価値は遙かに高い。それも君くらいのものとなると、喉から手が出る程に魅力的さ……ここらへん一帯に多くの魔物が隠れ潜む状況で、僕の守りを失えば。遠からず君は、為す術も無く彼らの餌食にされてしまうだろうね。何せ、君は魔力が豊富なだけのか弱い女の子だからね」
「そんな……」
餌食にされるという言葉で、アトリは先程郁が敵の魔力を得る為に霊源を喰らったことを思いだす。あんな風に自分も捕食されたのでは堪ったものでなかった。
無力なアトリは、降って湧いた災難に呆然としてうなだれる。そんな馬鹿な話があるかと否定するべきか、そんな不条理な話があるかと慄くべきかといった状態だった。常識的には信じがたい話であるが、確かに先の魔物はアトリの魔力がどうとか、仲間はたくさん居るとかいうような事を言っていた。郁の言を全肯定するのは稚拙だが、否定するには材料が余りにも足りない。
「もちろん、僕はアトリを見捨てるような真似はしないよ。君は僕のこの身に代えても守ってあげる」
郁は、付け入るような優しい調子と演技過剰な口振りでそう囁いた。キザったらしく顎を掬い、頬を撫でる事も忘れない。おまけに、ゆるく蔓を絡み付けてくる。アトリは反射的にそれを振りほどき掛けたが、途中で思い止まった。
アトリには魔物と戦う術も、魔物から逃げる術も無い。さっきの鬼女のような脅威から身を守る為には、郁の力に頼る他はないのだ。無論、この悍ましい変態と一緒に居るのは嫌であるが、死んでしまっては元も子もない。他に策の無い今は、彼を受け入れて利用するべきであると、アトリの理性はそう告げている。
――そうして、アトリは郁を渋々受け入れた。アトリが拒絶をやめたらしい事に、郁は「そう……良い子だね」と満足そうな様子を見せて彼女を抱き締める。擽ったいのは、ふわふわの綿毛が時折首筋を掠めているせいに違いなかった。
アブドーラ・ザ・ブッチャーを知らないよい子はGoogle先生に聞いてみよう。
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2021/6/1:加筆修正を行いました。