15話2節(下)
「まったく困ったものだねえ、あの子にも」
黒騎士の住み処たる異次元空間に作られた、穏やかな陽光に満たされたサンルーム。そこでイレブンジズのティータイムを過ごす郁はジャムたっぷりのロシアケーキをつまみつつそう嘆息する。
とうとうやってきてしまった司は持ち前のイカれぶりでやりたい放題。既にあれこれとやらかしてくれている。――夜海市の一部をざわつかせた境江山の爆発音騒ぎも、彼が法的に許されない方法で入手したC4で敵拠点を爆破したせいである。証拠隠滅や認識阻害術式など人間対策はそれなりにやっていたようだが、音を隠すのだけ〝うっかり〟忘れたのが仇となったようだ。もっとも、そのうっかりも本当にうっかりか怪しいところだが……
「問題は司だけじゃない。これでも片割れを呼ぶ順番は扱いやすくて安全な方にしてきたつもりだ。ここまで揃ったら、これから来るのはどう動くか分からない扱いの難しい子ばかり。……あの子たちがどう動こうと大勢に影響はないけれど、アトリの心が離れるようなことだけは絶対に阻止しないと」
「はあ。こらまた、えろう大真面目やねえ……郁、ほんまにアトリちゃんに惚れ込んだんやね」
小さなラウンドテーブルの向かいで憂いたっぷりの郁を眺めてそう言うのは、ぽりぽりとロシアケーキをつまむ雪人だ。蛇のように気まぐれで酷薄で油断ならない男……そう花嫁や片割れから恐れられる彼だが、懐刀としては割と忠実である。なんだかんだで郁の悩みはよく聞くし、おいしいおやつさえあればこうしてイレブンジズのティータイムにも付き合ってくれる。周りが思うよりはずっと気のいいやつなのだ。
「アトリこそは僕たちの百六十年の悲願そのものなんだ。逃がすわけにはいかない。そのためにも不安材料はすべてつぶしておかないと……」
「敵だけは多いもんなァ」
「そうなんだよ。こんな大事な時に限ってね……まあ、悪夢の軍勢の虎の子の上級戦闘員も呪いの炎も対策済みではあるし、あの魔物狩人も休戦協定をどうしようと動けないようにはしてある。このひと月以内にすべて終息させられるだろうけど」
憂いたっぷりに頬杖をつき指折り数えて敵の始末の算段をつけていた郁は、視線をついと雪人へ向けた。
「この戦いについて、君はどう思う」
「僕? 僕は、そうやねえ……多少面倒やろうけど潰せる思うよ。いくら周到に本丸を隠しとっても、いくら頭目が個として強力でも、悪夢の軍勢は集団としてはお粗末や。僕らが付け入る隙はなんぼでもある。――敵の拠点の座標は九割掴んだ。戦力も揃った。表側の戦闘も裏側の段取りもほぼばっちり……あちらさんに致命傷与えるんもそう遠くない先の話やろう?」
欲を言うなら本丸までさっさと潜り込んで親玉を殺っておしまいにしたかったけど、敵さんもさすがにそこまでバカやなかったみたいやしなァ――忌々しげにそう締めくくった雪人は肩をすくめ、再びロシアケーキをいくつかつまんでぽりぽりとかじる。
魔物狩人については語るまでもない。先日、識がなにかしたのは知っているし、そうでなくてもあの体たらくならばどうとでもできる。頭数の少ない集結初期ならいざ知らず、今となってはお話にならない相手であった。
「……そうだね。悪夢の軍勢は、退場までもう秒読みだ。でも片付けるべきものは他にもある。アトリを幸せにするには、もっと色々なものをどうにかしないと」
相変わらず物憂げにそう語る男の瞳の底には昏い情念の火が揺らめいている。郁はアトリを心底愛しているがゆえ、彼女を捨て置いた人間の全てを憎んでいるのだ。そしてその感情は先日の雛形千鳥の虐待めいた仕打ちを目にしたことでさらに強まっている。
郁にとってアトリは恋人であり花嫁であり、妹であり娘である。この男ほどアトリにとって最も近しいものに成り代わることに固執しているものはいない。……生みの母親であるという理由だけで彼女を支配し、虐げ、蔑ろにするあの女は到底許しておける存在ではない。あんな人間にアトリとの繋がりを一片たりとも持たせてはおけない。悪夢の軍勢や魔物狩人といった目下の敵を片付けて、早くあれをどうにかしたい。そう思っているのだ。
(おお、こわいこわい。めずらしゅう完全にやる気やね。……まあ、僕らも郁のこと言えた立場やないんやけど)
アトリは、識にとっては導き甲斐のある愛らしい庇護対象。そして雪人にとっては思う存分甘えられる若妻。いずれにしても大切な存在だ。彼女を苦しめる雛形千鳥という存在をどうにかしようと考えているのは自分たちも同じこと。ただ、今はそうするべき時ではないから大人しくしているだけで――。
そこまで思惟を巡らせた雪人は再びロシアケーキをぽりぽりとつまみ、紅茶をひとくち啜り、サンルームのお日さまをたっぷり浴びてくつろいでみせる。〝今は〟なにもしないのであれば、殺意は体力といっしょに大切に温存しておくのが賢明だ。そんな実に蛇めいた切り替えの早さで彼はゆるりゆるりとイレブンジズのティータイムに身を浸すのであった。
◇◇◇◇
廃墟がぽつぽつと点在する山道に、焼き尽くされ、蹂躙し尽くされる魔物どもの悲鳴が響いている。悪夢の軍勢の使い魔たちの拠点を覆い隠し守っていた結界は今や誰一人逃がさぬ檻に改竄され、その内を二人の悪魔が駆け抜けてゆく。アナグマめいたフェイスペイントが不気味なピエロめいた男と、黒い兎の垂れ耳を持った従軍聖職者とも衛生兵ともつかない男……司と祐だ。
散々に拠点を荒らしまわり、目的のもの――コレールの本陣に繋がる手がかり――がないと分かった二人は、最後の仕事として生き残りの掃討に移っているのであった。
「さあさァ! 今日も汚物は消毒しちゃおうねェ!」
アナグマめいたフェイスペイントが不気味なピエロめいた男……もとい司は相変わらずぶっ飛んだ調子で、飄々とおどけながらも狂乱したような猟奇的な言動で敵をタコ殴りにしている。その侮辱とも挑発とも取れそうなセリフの数々に使い魔たちも最初は激昂し次々と襲い掛かっていたが、すべて惨たらしく弑し尽くされてからはほうほうのていで逃げ惑うばかりだ。
……もっとも、そんな司から運良く逃れられたとしても末路はそう変わらない。祐は相方の討ち漏らしを決して見逃さず、容赦なく騎兵鎗で串刺しにしてしまう。彼の通ったあとには風穴のあいた骸が点々と転がり、徐々に砂と化していっていた。
そうして絶え間なく続く悲鳴と奇声と殺戮。それが止んだ頃には立っているものは二人だけ。つまらなさそうに辺りを見回した祐は騎兵鎗を霧消させ、軍服についた埃を叩いて払いながら口を開いた。
「――敵は大方片付きました。もうここにいる理由もないでしょう。次を当たらなくては」
「はぁ~、俺ちゃんたち大忙しねえ……遊ぶ暇もないじゃなぁい」
忙しいのはなにも司たちだけではない。雪人の仕事でかなりの数の敵拠点の座標が判明したので、黒騎士全体が大忙しなのだ。今は外回り当番が毎日のようにあちこちの拠点を潰し回り、敵本陣への手がかりを探し回っている。……それもこれも全ては愛しのアトリと平和に暮らすため。敵の兵隊が全滅するか指揮官のコレールが死亡するかさえすれば、この不毛な戦いも終わるはずと一生懸命だ。
「しっかしアレだ。こんなに押されだしても守りが薄いとか、敵さんがなに考えてんのか俺ちゃんサッパリわからねーわ」
「今まで無力な人間相手に活動していたぶん守勢に慣れていない、といったところでしょうか。このまま大人しく押し潰されてくれればいいのですが……妙なところで情報統制が取れているのが気になりますね」
「ホント、妙なところでガード固いのよねェ……やんなっちゃう! 俺ちゃん、壊すのは得意だけど盗むのはてんで駄目なのに!」
同じ工作要員といえど自分は破壊工作専門、雪人のように諜報まで器用にできやしない……そう言わんばかりに大仰に両手を上げる司を祐は冷ややかな半目で見ている。
「盗みは不得意だなんてよく言いますね。アトリさんの私物はしょっちゅうくすねてるでしょう、あなた。……今朝だって洗濯前のハンカチをポケットにねじ込んでいましたし」
「あららぁ、バレてた?」
「隠す気もないくせに。……あなたが何をしようと構いませんが、あまり気持ち悪いことはしないでください。片割れの僕まで同類と思われたくないので」
「おいおい気持ち悪いって、そんなに悪く言うもんじゃないぜ? これも全部ハニーィの為なんだからな。――お前も知ってんだろ? 俺ちゃんが物から過去を読めること」
司は時属性の魔物。その能力の本質は「停止」だが、おまけ程度に、物に蓄積した時間を読み取り過去を視るなんて芸当もできる。この男は付きまとうようにアトリを見守りながら、更には彼女の身の回りの物――持ち歩いているものから、果ては自宅・自室まで――から蓄積時間を読み取り、彼女の過去を窃視しているのだ。花嫁候補の調査も検査も任されていない身で、完全なる趣味で。
……これが敵拠点の調査に使えたならまだよかったのだが、敵はそういう守りだけは固い。まったく無駄で悪趣味な能力でしかない。
「はあ……バレたら間違いなく嫌われますよ」
「やっだ、ハニーィが俺ちゃんを嫌ったりする訳ないじゃん。あんなお人好しで優しいひとりぼっちちゃんなんだからさぁ。むしろ、俺ちゃんがちゃーんと付いててやらなくっちゃ。ひどい過去ばっか背負って傷ついて可哀想すぎるんだから」
いったい何を覗いたのか祐には知る由もないが、司はアトリにひどく同情的だ。自分たちと同じひとりぼっちと親近感を持ち、こうして「俺がついていてやらなくちゃ」とメサイアコンプレックスを抱きすらしている。距離感が欠如しており、異常に馴れ馴れしいのはいつものことだが……これは少し行き過ぎだ。
(またいつもの悪い癖が出ていますね。しっかり見ておかないと、よくないことになりそうです)
元々、妄想と現実の境目が怪しいのに加えて、悪い意味で世話好きな男だ。執拗な過去窃視のせいで相手に異常に入れ込んでしまったのだろう。この男はそうして何度か花嫁候補を逃してしまっている。
アトリはほぼ自分たちのものも同然なくらい強く結びついているとはいえ、あまり好き勝手させていてはろくなことにならないのは明白。それこそ、最後の方に回されてしまっただろう〝あの人〟が来る前にアトリが逃げてしまいかねない。……そうなれば、荒れる〝あの人〟を宥めるのは自分の仕事だ。うっかりすれば尾の毒針で刺されかねない、あんな面倒くさい仕事はできればしたくない。やはり司の手綱はしっかり握っておくに越したことはない。
うんざりしたように再度嘆息した祐は目の前のいかれた男をじっとりと見つめ、次の目的地に向かうことを促した。「こんな所で遊んでいないで次へ行きますよ。あなたは暇にしておくとろくなことをしない」と。