15話2節(上)
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夜海市山中にひっそりと打ち捨てられた、とある廃ホテル。その建物があるはずの場所には底の見えない焼け焦げた大穴がぽっかりと口を開いている。奥の真っ暗闇では未だなにかが燃えているらしく、いくつもの小さな火影がちろちろと揺れていた。
(まるで地獄の門のようだな……まったく悪趣味な……)
御剣家の棟梁……御剣政影はその惨状と焦げ臭さに顔をしかめ、いつ崩落するとも知れない大穴の縁からそっと離れた。彼は舞が黒騎士と敵対して以来、その紛争の飛び火が一族へ及ばぬよう夜海に式神を放つなどして事態を密かに監視している。この破壊の跡もそうして発見したものだ。
――これほど大規模な破壊活動でありながら住民にも警察・消防にもまったく認知されていない、緻密かつ完璧な隠蔽術。間違いなく人界慣れした魔物の仕業。恐らくは黒騎士の手によるものだろう。奴らは明らかにその数を増やしつつある。このような被害規模であちこちの悪夢の軍勢が減っているのは、そういうことだ。
黒騎士の集結は紛れもない凶兆である。あれが集まる時というのは大抵、何かを滅ぼす時だ。……魔物同士で事が済めばいいが。最悪の事態を想定して戦力を集めておかねばならないかもしれない。
「ッ……! 誰だ!」
護衛として随行していた息子・政親の殺気立った声とともに、何者かが藪のなかから姿を現す。極力抑え込まれていてもなお身の毛のよだつその薄気味悪い気配にうんざりしながら振り返れば、そこには文学青年のような静謐さを漂わす長身の男が佇んでいた。
「――やはり来たか。あなた方ならばこれに気づくと思っていた」
魔眼の収まる吸盤をびっしりまとった蛸足を背からのたくらせる黒軍服姿の男。間違いない。これが音無識と名乗る黒騎士……百眼の悪魔だ。こちらへ一定の敬意を見せる彼の魔物に敵対の意思はないようだが、相手は曲がりなりにも一族の神童と謳われた舞を児戯のように弄んだ怪物である。自然と体は身構えてしまう。――そんな政影らに音無識は肩をすくめながら口を開いた。
「あなた方と戦うつもりはない。今日の俺は盟主の名代として話をしに来ただけだ」
「話、だと?」
「ああ。他の連中はともかく……あなた方ならば話が通じそうだ。――我々は人間との敵対を望まない。危害を加えられない限りはなにもしない。あなた方も、あの〝雛形〟の関わる規格外には触れたくないだろう。そこでだ……」
風にさざめく葉擦れの音に紛れて二人分の密やかな声が何事かを囁き交わし、やがて消えてゆく。それこそは今後の御剣家と黒騎士の運命を左右しかねない密約であるのだが、当事者の古狸たちは顔色ひとつ変えることもなく淡々と言葉を交わすのみ。彼らにとってこのようなやり取りは日常茶飯事であり、これ自体が腹の探り合いでもあるのだ。顔色の変化、否、それにも満たない僅かな感情のゆらぎひとつが弱味に繋がることを古狸たちはよく知っていた。
あなたが話の通じる人でよかった。それでは後日、改めて正式な契約を――
密約がとりまとまったことで音無識は幽霊のようにふっと姿を消した。この世のものとは思えぬ薄気味悪い気配の残滓が線香の煙のようにくゆって辺りへ溶けてゆく。……気配を辿って奴らの本拠地を掴むことは不可能だろう。そばに控えた政親はそれにもどかしげな呻吟を漏らしている。
「良かったのですか? 奴ら相手にあのような取引など」
「……いずれはそうしなければならなかったことだ。問題はない。それに奴らが契約に従い悪夢の軍勢や雛形の忌み子を片付けてくれるならば、我々にとっては都合がいい」
「厄介者の片付けは厄介者に、ということですか……なるほど」
黒騎士も悪夢の軍勢も雛形の忌み子も、本来御剣家にとってはどうでもいい存在だ。そこに当主の手勢である穏健派の貴重な戦力を割きたくはない。こちらはこちらで、来るべき時に備えなければならない大切な時期なのだ。――停滞と衰退を続けていた魔物狩人社会は今、世代交代をともなう変革期を迎えつつある。旧世代と新世代が衝突するのも時間の問題だ。
地獄の大穴に背を向け歩きだした政影は大きく息をつく。緊張の糸をひとつひとつほどくようにゆっくりと。
実際に相対してわかったが、あれはこちら側が把握しているよりもずっと多くのものを喰らい滅ぼしてきたのだろう。精巧に人間モドキへ擬態していて分かりにくいが、一族で最も霊力探知に優れた政影にはわかる。あれから仄かに漏れ出る圧はそこらの魔物なぞ比にならない恐ろしく悍ましいものだった。……かつて、あの悪名名高き極東不死教団を七夜で壊滅に追いやり、帝国の超常存在部隊もその力を狂的に欲したという破滅の権化。その話もあながち嘘ではないのだろう。
今回ばかりはあの目障りな悪夢の軍勢の存在に感謝すべきかもしれない。もしもあれが悪夢の軍勢との争いにかかりきりでなかったなら、あれは自分たち一族にその力のすべてを向けてきたに違いないのだから。
◇◇◇◇
休日前のどこか浮き足立った空気に包まれた金曜日の朝の街をゆく学生服姿の少女。その周囲を固めるようにして、強面の美男子たちが連れだって歩いている。……見ようによっては〝その筋の人たち〟を思わせる異様な光景は、悲しいかな、アトリにとってはすっかり日常の一部だ。
遊園地の弓鬼女しかり、下校中の鋸鬼女しかり、一番弱いアトリを狙っての襲撃はもはや珍しいものではない。そしてそれは何度も何度も返り討ちに遭って余裕がなくなってきたせいか、昼夜問わなくなってきている。いつしか毎日の登下校は非常にスリリングなものと化し、黒騎士に守られての登校が普通になってしまった。
普通の人間、普通の生活という型にはまっていたいアトリにとって、まるでマフィアの要人みたく警護される今の状況は喜ばしいものではないが……生き延びるため黒騎士の手を取ったのは自分で、魔物に狙われるような体質を持って生まれたのも自分である。すべては自分が悪い。そう胸中で嘆息して、あぶくのように浮き出た憂いを忘れるように掻き消す。
――戦いは日々激しくなるばかりだが黒騎士の反攻は順調であるという。今はそれを信じて、足手まといにならぬよう大人しく彼らの庇護下にいるのが賢明だ。
(戦いが終わっても、このままずっと黒騎士の花嫁として生きることになるのかなあ……郁さんたちはそれが目的でこんなに戦ってる訳だし……)
まともな人間として育たなかったアトリにとって、誰かを生涯の伴侶としてこれからの時間をずっと共に過ごすなど苦い悪夢のようだが……黒騎士はまさにそれを望んでいる。苦労して外敵を追い払った彼らはきっとアトリを逃がしはしないだろう。
自分と彼らが互いの欠落を埋めるもの……半分のオレンジであるなら、それでもいいのだろうが。アトリはそこにいまいち確証を持てないままでいた。
「おいおい、どうしたんだ? 朝からずいぶんと冴えない顔じゃないか」
そうずけずけと指摘しながら無遠慮に覗きこんでくるのは翼だ。彼はその青玉の瞳を心配そうに揺らめかせながら眉間にしわを作っていた。……自分を王子様と勘違いしているような高慢きわまりない物腰や迷惑怪獣のごとしわがままぶりに隠れがちだが、月代翼という男は黒騎士の中ではかなり良心的な人物である。どこかの腹黒兎のように人の傷をつついたり抉ったりして遊ばないし、腹黒蛇のように弱みにつけこんで欲を満たすこともしない。声をかけてきたのは純粋に心配してのことだろう。
「なにをそんなに思い悩んでるんだ。戦況は俺たちが優勢、ついでに今日は誰もが浮かれる花金だというのに!」
憂鬱なアトリとは正反対に翼はすこぶる上機嫌である。ようやく本格的に武威を示す機会が巡ってきたとあってやる気に満ち満ちているし、週末ということにかこつけてデートだなんだと称して人を連れ回す気でもいるのだ。恋も仕事もがっつり精力的に取り組もうだなんてまったく元気なものだ――目の前の男の放つキラキラした空気に耐えられず、アトリはほんの少し、数センチだけ彼から距離を取る。しかし、翼はすかさずそれを埋めてずいっと鼻先まで近づいてきた。
「花嫁花婿の関係に隠し事はなしだろう? ほら、話してみろ」
「……べつに大したことじゃないです。ただちょっと、先行きについて考えていただけで」
「先行き? ふん……そんなもの心配しなくていいことの最たるものじゃないか。この戦いはこちらの戦力が揃い、呪炎対抗術式が完成した時点で勝ったも同然。これからは俺たちが奴らを攻め立て、追いつめ、滅ぼす番だ。ああ、学校生活のことが心配だったとしても同じだぞ? お前がどんな成績でどんな進路を歩もうと、最後は俺たちの花嫁に永久就職するのは変わらない。お前の将来は俺たちがいる限り一生安泰だ。――なあ、秀。お前もそう思うだろう?」
いきなり話を振られた秀は神経質そうな顔を迷惑そうにしかめるが、翼の言葉を否定したりはしない。彼は冷徹に澄ました表情で、語るまでもない厳然たる事実を噛み砕くわずらわしさを見せながら静かに口を開く。
「……そんな当然のこと、語るまでもない。アトリ、お前が先行きを気にする必要など欠片もない。お前の存在もその生涯も、既に俺たち黒騎士が貰い受けたものだ。お前はただ俺たちの花嫁として役割をまっとうしていればそれでいい。――もっとも。そんなに戦いの行方や身の安全が気になるなら、敵や不埒な輩のいる外になど出ず、家で花嫁修行をしていれば良いと思うがな」
ぐっさりと釘を刺すような口ぶりには不本意さがありありとにじむ。火澄秀という男はおそろしく前時代的な考えの持ち主だ。外で働くのは男の役割、女は家中に大人しく囲われ内助の功を果たせばいい……今もそう思っているのだろう。やれ学校だアルバイトだと、自分の花嫁であるアトリが外に出ることはあまり面白くないに違いなかった。
……そもそもアトリがいちばん案じているのは、黒騎士と戦いのあとも一緒にいるか否かなのだが、それは口にしない方がよさそうだ。
「――はあ。前にも言ったじゃないですか、もうとっくにそういう時代じゃないって……秀さんたちには悪いですけど、私は最終学歴が中卒なんて嫌ですよ。これから先どんな人生になるにしても、ちゃんとした学歴を持ってないとご飯を食べて生きていけないんですから……」
とりあえずハッキリさせておくべきことはハッキリさせておこうとアトリがそう言えば、秀は顔をしかめて嘆息する。夷月がその様子を見て「ハッ、ふられてんじゃねえか」と鼻で嗤って挑発するからまた喧嘩になりそうになったが……それをまた朔が止めに入り、二人は仲良く揃ってアイアンクローを食らうことになった。これももう〝 いつものこと〟だ。
とりあえず、学校に行かなければ。遅刻は内申に響く――痛みに悶絶しながらぎゃあぎゃあと小競り合いする男たちをしり目に、アトリは金曜日の朝の街を先々と進んでいく。まったく可愛げのないことだが、彼女のなかの優先事項はいつだって型通りにあることなのだ。たとえその片足がずっぷりと魔道にはまり込んでしまっていたとしても。