15話1節(下)
道中、ハニィハニィとやかましく鳴く司にしっちゃかめっちゃかされながら、どうにか鍛練場までやって来たアトリ。たった一分足らずの距離を移動しただけだというのに、散々振り回されてもうぐったりだ。
これだからクレイジーサイコピエロは嫌なのだ――規律正しく平穏な生活を送っていたいアトリにとって、このとんでもなく反社会的なロクデナシは相性最悪の天敵である。アウトロー気取りの夷月や、放蕩を通り越して淫蕩な雪人など足元にも及ばない。これこそが嵐のような狂気の権化、秩序の敵対者、アトリの憎むべき悪性そのものという気すらしてくる。
(むしろ、これくらいじゃないと魔物の世界で百九十年も生きていられないのかもしれないけれど……)
それでも私はこの男が苦手だし、好きになることもないだろう――そんな思いを嘆息とともに朝のひんやりした空気に吐き出し溶かして、アトリは鍛練場の面々へと眼を向ける。彼女を早朝からこんな所に呼びつけた張本人は、だだっ広い異空間の真ん中で朔と熾烈な打ち合いを繰り広げていた。……普段、朔をどこか危険人物のように恐れている節のあるこの男だが、鍛練や仕事の相手としては信頼を置いているらしい。
「あっ……や、やっと来たか! 随分と遅いじゃないか。どこで道草食ってたんだ? あんまり姿が見えないから来ないとおも……ンンッ、待ちくたびれたぞ」
鍛練場に顔を出したアトリを見つけた翼はさっさと打ち合いを中断し、参観日の子供のような喜色をめいっぱいににじませ近寄ってきたが……途中で素面に返ったのか、咳払いののち、いつもの嫌みったらしさすら感じる高慢さを前面に押し出して取り繕う。
これまで散々に寂しがり甘えん坊のマザコン属性を開陳してきておいて、時折こうして思い出したように高慢な王子様ぶりをアピールする。その情緒不安定ぶり……もとい面倒くさい拗らせぶりに「こいつ大丈夫か」という気がしないでもないが、それを指摘するのも今更である。自分から言うことなど何もないと、アトリはしょっぱい顔のまま口を引き結んだ。
その沈黙を受容あるいは包容と受け取ったのか。翼はどこか甘えたような眼差しを向けて、ゆっくりと歩を進めてくる。――こういう時の翼というのは、だいたいろくでもない報せを持っているものだ。アトリは死んだ目になりそうになるのを抑えながら、努めて冷静に話を切り出す。女も度胸だ。いつまでも尻込みしている訳にはいかない。
「……おはようございます、翼さん。こんな早くからいったいどうしたんですか」
「ふふん、聞いて驚くなよ? あの忌々しい呪炎への対抗術式がやっと完成して、黒騎士すべてに情報共有されたんだ。これで年長組なぞ居なくとも、誰でもあれに対処することができる……ようやく、俺たちの真の力を見せつけてやる時が来たという訳だ」
「はあ」
自信満々に吐き出される噛ませ犬めいた台詞にアトリの脳内は「真の力とは……」という疑問に占拠されそうだが、今はそれを問うべき時ではない。
「ま、そういう訳で今日は俺たちがお前の護衛だ。もし奴らが性懲りもせずノコノコやって来たら、その時は完膚なきまでに叩きのめしてやる――あんな風にな」
見てみろ、と翼の黒い長手袋に覆われた手が指し示す先には半透明の結界の囲いがある。その中では、秀と夷月が過去に襲撃してきた敵――確かあれは鎧の鬼女と弓の鬼女だったか――を模した仮想敵と交戦していた。相手は二人とも呪いの炎を宿した宝珠を装備しており、その厄介きわまる能力と併せて怒濤の攻めを繰り出してくるが……秀が地面に魔法陣を焼き付け、何かを詠唱すれば呪いの炎はふっと掻き消える。その隙を暴風のような冷気をまとった夷月が突貫し、雨あられと射かけられる矢を巻き込みながら弓の鬼女をなぎ倒していった。
「ハッハァ! 脆い、脆いなァ、おい!」
一撃で心臓部を砕かれた弓の鬼女が消滅し、夷月は僅かに残った塵を踏みにじりながら哄笑する。そこを鎧の鬼女が背後から急襲し斬りかかるも、その刃が振り下ろされるよりも早く秀の剣が鬼女の心臓を貫き、その全身を猛火で焼き尽くしてしまった。――黒騎士の誰かが経験したことは、情報共有により群体全体へフィードバックされる。かつて祐が鎧の鬼女の絶対防御を破壊した経験は既に全体へ反映され、今度は誰でも鎧の鬼女を殺害せしめられるようになったのだろう。
「あの厄介な炎さえなければ勝てていた」……ここ数日、幾度となく聞いた負け惜しみは本当のことであったらしい。事実、二人はいま強敵を忠実に模したであろう仮想敵を難なく屠ってしまった。
「ふふん……どうだ? あれが俺たちの真の力だ。これで今度こそお前の花婿にふさわしい活躍ぶりを見せてやる。それに、いずれは郁以上の存在であると証明してやることだって……」
そう反攻に息巻く翼は、静かな執念を燃やして拳をにぎる。エリート意識という名の自惚れは相変わらずで、彼は自分こそがリーダーに相応しいと信じ、郁に対抗心を燃やし続けているのだ。――「負けず嫌いが高じて、適材適所という言葉を知らないんですよ」というのは祐の見解だったか。何にせよ、アトリからすれば、自分に危害を加えるものでないなら気にすることではないのだが。
とりあえず眠気と一緒にあくびを噛み殺しながらハンカチを取り出し、翼の額やこめかみに滲む汗をぬぐってやる。そうして無言のねぎらいを受けた翼は嬉しそうに表情を緩め、すり寄るようにアトリより一回り大きい体を近づけてきた。……こんなに好戦的なエリート意識の塊でいて、根はやはり寂しがり屋の甘えん坊なのだから、人間も魔物も中身は分からないものである。
◇◇◇◇
しばらくすると、結界や仮想敵の後始末を終えた秀や夷月もこちらへやってきた。今になってアトリの存在に気づいたらしい夷月は小さく鼻を鳴らし、相変わらずのチンピラムーブで絡んでこようとするが……飼い慣らされたポメラニアン、もとい翼がぎゃんぎゃんと噛みついて邪魔をする。自分以外が花嫁を困らせるのを好まないという実に小暴君的な理由から、いつも彼はこんな感じなのである。
「まったく……くだらん小競り合いを。何十年経っても落ち着きのない奴らだな、救いようがない」
竜がグルグル唸るような、ドスの効いた低い声で酷薄にそう言い放つのは秀だ。彼はぎゃんぎゃんとやり合う片割れらを冷ややかに眺めつつ、アトリの方へと近づいてきた。かっちりと着込まれた軍服から覗く首筋や手首から分かる、ベルニーニの彫刻のように活力と逞しさに溢れた肉体には、呪いの火傷の痛々しい痕跡はひとつもなさそうである。とうとう完全な状態で戦線復帰という訳だ。
「……お前が朝からこんな所に来るとはな。翼の奴にでも呼び出されたか」
「え、ええ。まあ、そんなところです」
こちらを見下ろす冷たく精悍で貴公子然とした顔立ちや不機嫌そうな深緑色の瞳を前にすると、つい先日のやり取りが思い出されて、アトリはうっと胸が詰まってしまう。今は関係のないことだし、そもそも秀の不機嫌そうな顔や目付きというのはあれで素面なのだから何も気にしなくていいのだが……あまりにも大きな価値観の相違は、ただ会話することのハードルすらも上げてしまうようだ。――元々、衝突を嫌って曖昧な物言いをするアトリと、遠回しな表現を嫌って歯に衣着せぬ物言いをする秀とでは性格が正反対すぎて合わないのかもしれない。
「そんなに縮こまるな。別に取って食いやしない」
「ひゃっ」
戸惑いを見透かすように眼を細めた秀はアトリの頭をそっと撫でてくる。彼にとって、アトリは守るべき弱い者。恐れられて避けられるのはあまり望ましいことではないのだろう。
「……訓練の様子は見ていたか。俺はもう二度とあのような醜態はさらさない。奴らは、俺がこの手で一人残らず焼き尽くしてやる」
秀は炎のように苛烈な性格の持ち主である。鎧の鬼女に戦力としてしばらく使い物にならないほどの痛手を負わされ、矜持や自尊心を大きく傷つけられた彼は、今までずっと静かに怒りと復讐心を燃やし報復の時を待ち焦がれていた。こうして反撃の機を得た今、大人しく引っ込んでいる理由などひとつもないのだろう。
……そうして逆襲に燃える秀をシニカルに鼻で笑う男がひとり。
「ハッ……随分と威勢がいいじゃねえか。まあ、せいぜいまた火だるまにされねえよう気を付けるんだな」
やっとこさ翼をあしらい、本来の標的であるアトリへ絡みにきた夷月だ。自己主張の強すぎる奴にとって、獲物を取られているのは面白くない状況なのだろう。持ち前のデリカシーのなさを十全に発揮しながら、ニヒルな笑いを浮かべて秀に挑発をぶちかましている。
「……ちっ、けだものが」
「ああ? 俺がけだものならテメエはなんだ? トカゲか、デコハゲか? どっちにしても傑作だなァ、おい」
「なっ……! 誰がハゲだ! 貴様ァ、言ってはならん事を……!」
火澄秀という男はオールバックという髪型をそれなりに気に入っているし、竜の魔物であることに誇りを持っている。そして挑発を真に受ける堅物でもある。こんな風に貶されて黙っていられるはずもない。元々、夷月とは水と油のごとく相容れぬ関係なこともあり、彼は先ほど片割れの小競り合いをくだらないと一蹴したことも忘れて頭に血をのぼらせてしまう――戦闘時とは違い、お互いなけなしの分別を働かせることもないので歯止めはかからない――。
「貴様、どうやら命が惜しくないようだな……!」
「なんだ、やんのかよ。良いぜ。その癇に障る澄ましヅラごとぶった斬ってやるよ」
「ちょっと、や、やめてください……! こんなとこで喧嘩なんて……」
売り言葉に買い言葉で衝突寸前の二人を見ていられなくなったアトリは懸命に制止しようとするが……それを背後から伸びてきた腕が邪魔する。司だ。他の黒騎士との力関係もあってか今まではお行儀よく沈黙を保っていたようだが、それもそろそろ限界らしい。退屈を持て余したイカれピエロは、「そろそろ俺ちゃんのことも構ってくれていいんじゃなーい?」とくすんだ紫色のワイシャツに包まれた筋肉質な腕をアトリの首へ絡めて、その形のいい鼻筋をこすり付けるようにすり寄ってくる。
「ねえねえハニーィ。あんな脳ミソ筋肉のド短気単細胞ちゃんたちより、俺ちゃんの方が百万倍もお利口でハンサムでしょ? こんな汗臭いとこさっさとオサラバしてさ、俺ちゃんとイイコトしようよ~」
「はあ?」
「何だと?」
脳ミソ筋肉のド短気単細胞がいけなかったのか、司の方がお利口でハンサムというのがいけなかったのか。はたまた汗臭いというのがいけなかったのか……とにかく司の大胆かつ滅茶苦茶なアピールはアトリをうんざりさせるだけでなく、二人の逆鱗にも触れてしまったらしい。彼らは殺気立った獣のようにふざけた闖入者への怒りを露にし、いよいよ場には一触即発のぴりぴりした空気が立ち込めてくる。
「いかれた道化が、舐めたことを言ってくれる……おい、そいつから離れろ。嫌がってるだろうが!」
「あーあー、そんなに熱くなっちゃって~……眉間にシワ寄ってるじゃなァい。俺ちゃんがアイロンしたげようか? んん?」
秀がその厳めしい顔を思いきりしかめて睨み付ければ、司は本当に高温のアイロンを持ち出して彼の方へとじりじり近寄りだす。今度は自分が標的にされた秀は「やめろ寄るな」と心底鬱陶しそうにそれをガードし、膠着した力比べのようにギリギリと組み合うはめになってしまった。
しかし、おかげでアトリは助かった。あんなクレイジーサイコピエロともう一度戯れるなんて絶対にごめんである。秀には悪いが、ここは早いところ退散させてもらおう――そうしてゆっくりと後ずさりした時である。変なところで目ざとい司は逃げるアトリをしっかりと視界に捉えると、熱々のアイロンも組み合っていた秀もよそに放り投げ、「どこいくのハニーィ! 俺ちゃんにも構ってよーぅ!」とずいずい迫ってきた。橙色の頭をぐりぐり押しつけるように抱きついてきて「ナデナデシテー、ナデナデシテー!」とハイテンションにうるさい。さっき散々構ったでしょうがとげっそりするアトリにもお構いなしだ。
「……ったく、相変わらずうるせェくそったれピエロだ。おい、いい加減黙れよ鬱陶しい」
そんな面倒くさそうな声がしたかと思うと、目と鼻の先にまで迫っていたチャラ男の顔が思いきり横にぶれて視界から消える。どうやら今度は夷月が司を蹴り散らかしたらしい。
横腹にクリーンヒットを食らった司は「ブルスコファー」と謎の悲鳴を上げて鍛練場のだだっ広い空間を転がっていったが……こんなことで大人しくなるようなタマではない。すぐに起き上がって「なんだよやる気かーッ!? 俺ちゃんトサカにきたぞーッ!」と夷月に詰め寄りだした。それを当の夷月は「やれるもんならやってみろよ」といつものニヒルな笑みで挑発している。……今度こそ本当に殴り合いか斬り合いになってしまいそうな雰囲気だ。
秀は今にも火を吐きそうな様相で殺気立ち、夷月はすっかり喧嘩モードに入り、司はぷんすことおどけているのか怒っているのか分からないリアクションを見せ――そうしていよいよ事態に収拾がつかなくなりだした頃だった。
今まで沈黙を守っていた朔がゆっくりとその場に歩み出てきた。彼はおもむろに司へアイアンクローを見舞い、殺気立った獣のような秀と夷月にたしなめるような厳しい視線を向ける。とうとう小競り合いを見かねて制止に入ったのだ。
……その姿は郁や識にたしなめられる狂信者のそれとは思えない落ち着きぶりだが、これもまた久世朔という人物の持つひとつの側面である。規律の守護者たらんとするこの男は暴走状態でない限りはこうなのだ。
「……道化などに構うな。ここに我らが集まったのは花嫁の守りをより強固なものにするためだ。私闘に無駄な労力を費やすことは許さない」
その言葉に秀はわかっていると言いたげにそっぽを向き、夷月は面倒くさそうに引き下がるそぶりを見せて大人しくなった。ただ一人、アイアンクローから解放された司だけが胡散臭いものを見るような半目を向けている。
「いてててて……ハァー、いつも自分が世界で一番不幸だって顔してた幸薄メンヘラ野郎が、随分と凛々しい顔して言うじゃない」
「アトリがすべてを変えた。アトリの慈愛が私を絶望の淵から救ったのだ。……この身この心のすべてはアトリのためにある。今の私は何一つ不幸ではない」
幸薄メンヘラ野郎。普通ならば激昂して襲いかかってもおかしくないようなそんな揶揄を、朔はこの上なく凛々しく決然とした顔で受け流してみせる。狂信者はピエロの妄言くらいでは揺るがないという訳だ。……その重い感情のすべてを向けられる側からすればたまったものではないが、クレイジーサイコピエロに絡まれたくない今はこの頼もしい統制者の影に隠れてしまうのが賢明だろう。そうしてアトリはそっと朔の後ろに移動して事のなりゆきを見守る。
「……朝食の時間が迫っている。呪炎無効化式の使用訓練は完了したのだ、もうここに留まる必要はあるまい。――まあ、郁のわざわざ仕置きを受けたいというなら話は別だがな」
懐中時計を取り出した朔はそう言って食堂へ行くことを促し、片割れたちはそれに応えるように一人また一人と鍛練場をあとにする。イカれているのが平常運転の司はともかくとして、秀と夷月が落ち着いた今、小競り合いの火種は消えたに等しい。それになにより、私闘で朝食に遅れたとなればみんな仲良く変態綿毛の蔓の餌食になってしまうのだ。これ以上鍛練場に留まっている理由など、もう誰にもなかった。
アトリもいつの間にか側へ戻ってきた翼に手を引かれて出入口の扉をくぐる。去り際の一瞬なんとなく振り返ってみれば、鍛練場であったはずのそこにはもう何もなく、真っ白い空間が広がるばかりだった。ここはあくまでも戦闘訓練用にあつらえられた亜空間で、黒騎士の必要に応じて形を変えるものなのだ。
(それにしても。こんな朝早くからほぼ戦闘みたいな訓練を……それもわざわざ敵の複製を使ってするなんて……)
翼も朔も、秀も夷月も。理由こそ違えど、とても好戦的な黒騎士で報復にこだわる質だ。こうして厄介な呪炎への対抗策を授かった今、敵を狩りたくて狩りたくてしょうがないのかもしれない。戦いはまた一段と激化することになるだろう。――血なまぐさい予感にふるりと身を震わせたアトリはせめてそれが同居人たちの流血に繋がらないことを祈りつつ、使い終わられた真っ白い空間を後にした。