14:道化演じるムジナ(4)
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時刻は午後十時を過ぎようかというところの談話室……もとい自宅のリビングにて。今日も今日とてひどい目に遭ったと、アトリは一人ため息をつく。そして、ちびちびとホットミルクを飲みながら手元の教科書を繰り、シャープペンシルをカリカリとノートへ滑らせた。敵の襲撃が続いていて落ち着かない状況だが、勉強こそは学生の本分であるので疎かにする訳にもいかない。
特に、今は中間試験まであと一週間と少しという時期である。良い成績を保ちたければ、対策は念入りにやっておく必要があった。
そうして紙の捲れる音と黒鉛の削れる音を延々と響かせ十数分。一人きりのリビングルームに密やかながらも確かな重量を持った足音が一人分、タン、タンと近づいてくる。
朔か識あたりが勉強の邪魔をしに来たのかもしれない――そう思ったアトリが顔を上げれば、ドアのそばには意外な姿がひとつ。紅い長髪に精悍な美貌の青年……秀だ。先日、鎧の鬼女との戦いで呪いの火傷を負い、静養を強いられてきた彼だが……この頃は具合もだいぶ回復してきたらしい。家の中に限ってではあるが自由行動を許されており、時折こうしてアトリの前にも姿を現すようになった。
しかし、平素からお堅く、そしてお高く澄ました所のある秀が夜中に女の元を訪れるなど。いったいどうしたのだろうか。なにか火急の用事でもあるのだろうか――怪訝な顔して首をかしげたアトリは、おもむろに口を開く。
「こんばんは、秀さん。こんな時間に珍しいですね。どうかしましたか?」
「……別に、大した用じゃない。霧月の奴から、お前があのイカれたムジナ野郎に目を付けられたと聞いたからな。少し様子を見に来ただけだ」
秀の冷徹に澄ました感じやドスの効いた低く重い声、荒々しく不遜な口振りはおっかないが……どうやら彼はアトリを気遣ってくれているらしい。側の壁へと身を預けて腕組みをし、ため息を一つ吐きながらこちらを見つめてくる。
「あれはお前のようなお人好しの手には余る。真性の狂人だからな。……何かあった時は俺を呼べ、助けてやらないこともない」
「ええと……お気遣い、ありがとうございます……?」
「礼を言われる筋合いはない。お前に掛けられた分の情けを返しているだけだ」
相変わらずつんとした態度の秀は、アトリの困惑まじりの礼をそう制して顔をそらす。――元々、非常にプライドが高く気難しいらしい彼は、静養期間中にアトリの世話を受けたことをとても気にしている。早く借りを返してすっきりしたいのだろう。神経質なアトリもそういう気持ちは分からないでもないので、これ以上ぺこぺこするのは止めて勉強に戻った。
静寂の戻った部屋に、カリカリとペンシルの滑る音だけが響く。用が済んだであろう秀は……立ち去るでもなく難しい顔をしてその場へ留まっていた。その視線は時おりノートや教科書・参考書の方に向き、彼はその度に眉間へ僅かに皺を刻む。
これらが一体どうかしたのだろうか――アトリは内心首を傾げる。まさか勉強のレベルが低いとか、この程度の問題も解けないようでは話にならんとか、そういう小言を言われるのだろうか。相手の意図が見えないだけに、色々といやな方向に考えてしまう。
「あの、まだ何か……?」
「何か、ではないだろう。もう夜も深いというのに、まだそうしているつもりなのか」
「夜も深いっていっても、まだ十時ですよ……それに試験前ですから、きちんと勉強しておかないと。敵の襲撃とかで少し遅れているところもありますし」
「……勤勉なことだな、随分と。花嫁がこんなことをする必要があるのか?」
何を思ったか、つかつかと歩み寄ってきた秀は、呆れたようなしかめ面でふん、と鼻を鳴らした。そして手に取った教科書をぱらぱらと捲るなり、「お前は俺たちの妻となるのだから、学歴や就職よりも花嫁修行を気にかけるべきではないのか」と肩を竦めた。
……何というか、そう、ものすごく旧時代的な価値観である。どうやら、大昔のお堅い貴族か武家っぽい雰囲気は伊達ではないらしい。秀は、今のオジサンどころか、お爺ちゃんですら言わないであろうことを平然と言ってのけてくれる。――もしかすると、今の今まで価値観のアップデートがなされることもなく、化石のようなまま暮らしてきたのかもしれない。黒騎士はとても長命な生き物だ。絶対にあり得ないような話でもない。思っていたものとはだいぶ違うが、これはこれで厄介な相手だ。
アトリはあまりのジェネレーションギャップに内心のけぞりながら、探り探り、慎重に言葉を選ぶ。家族が母一人しかいない彼女にとって、こういう相手との衝突はまったく未知の領域であった。何からどう伝えたらいいものか、判断に困る。
「昔は、そうだったのかもしれません。でも今は、性別に関係なく自立が求められます。――それに、勉強をちゃんとしていい学歴や仕事を得られれば、私みたいなのでも安定して生計を立てられる。お荷物にならずに済む……だからこれは必要なことなんです」
そう、必要なことだ。あの恐ろしい母の軛から逃れるためにも絶対に……最後の言葉は喉の奥に隠して、アトリは言うべきことを言い切った。
日々を虫かマネキンのように生きている、空虚な人間だ。女性の権利がどうとか、そういう意識の高いことまで言うつもりはないが……生存戦略の妨げになるという一点から、秀の言葉はどうしても肯定できない。そこだけはハッキリとさせておかなければならなかった。
――対する秀はそれを否定こそしなかったが、好ましくは思っていないようだ。彼はその精悍でお綺麗な顔を納得いかなさそうに歪めて、緑色の眼を物言いたげに向けてくる。
「……最近の人間の考えはよく理解できんな。古来より、女とは守るべき弱いものだ。それを重荷に思う男など男ではない。花嫁であるお前が俺達の囲いの内にいたとして、それを謗る者などいるものか」
視線を合わせるように膝をつき、身をかがめた秀の眼差しは思ったより柔らかい。困惑と哀れみ、気遣いと庇護欲。そういったものが混ざり合って複雑な色合いを見せている。現代人の価値観は心底理解できないし、それに振り回されているお前がひどく労しい……そんなことを言いたげな眼だ。
しっかり者の女の子にそんなこと言った日には、その場ではっ倒されるぞ――あまりにもずっと深い価値観の溝に、アトリは内心でそうおののく。それこそ昔の貴族のようにハイソで高潔な秀であるが、彼は朔と同じかそれ以上に、オスとメスの区別に厳しい動物的な感覚の持ち主だ。人は見た目によらないのか、そういう人物だからこそこうなのか。実態は知らないが、対話が可能かどうかいよいよ自信がなくなってきた。
◇◇◇◇
あまりの価値観の断絶に、アトリは固まってしまった猫のような真顔で絶句し、妙な反応をされてしまった秀は自尊心を傷つけられたようにぐうと息を呑む。三度静寂に包まれたリビングルームには、気まずい空気が満ち満ちてゆく。
第二の男が現れたのは、そんな時だった。アルカイックスマイルを湛えた能面顔の男……識である。恐るべき観察魔である彼は二人の間に何かあったのだということを即座に察したようだが、気にせずこちらへとやって来る――こういう遠慮のなさは、相棒の変態綿毛こと郁とよく似ていた――。
「ここにいるのは珍しいな、秀。お前もアトリの勉強を見てやりに来たのか?」
「勘違いするな。俺はただ、寝付きが悪いから少し部屋の外に出ただけだ。お前の思うようなことなど何もない」
岩の隙間に入り込む蛸のように、するりするりとアトリの空いた隣へ座った識を、秀はじっとりとした眼で眺めて立ち上がる。今度こそ本当に、もうここに用はないのだろう。彼は「せめて夜更かしは程々にしておくことだ」と言い残してさっさと行ってしまった――価値観の違いに海より深い断絶を感じたのは、彼も同じことであったのかもしれない――。
「ふむ、行ってしまったか……相変わらず、気難しがりだな」
「秀さん、女の私が勉強することがとても嫌みたいですから。あまりここには居たくないんじゃないですかね……」
「俺も一部始終は見ていたが。恐らく、秀はそういうことを考えている訳ではないと思うぞ」
最初から見ていたという事実にドン引きしたアトリの様子にも構わず、識は言葉をつづける。彼曰く、秀はプライドの高い気難し屋であるがゆえ、険のある物腰で振るまいがちだが……好ましく思ったものへの情は深いという。
「お前がこうして寝る間を惜しんで勉強したり、外に出て苦労したりすることに心を痛めているんだ。あいつは俺たちのなかでも特に過保護だからな」
西洋のドラゴンの伝承を知っているだろうか。あれらは宝物に対する執着がことさら強く、それを守るために洞窟へこもり、訪れたものを殺すのだそうだ。あいつにも似たようなところがある。――識はそんな風に片割れの性格を解し、彼の分かりにくい愛着の深さをほのめかす。
自分のような凡庸な人間を、あの厳格で高潔な秀がそこまで気にしているとは思えないが……アトリは識の言葉に首をかしげてペンをくるくる回す。
「ううん……そういうものなんですかね……」
「ああ、そういうものだ。――さて。おしゃべりはこれくらいにしておいてだ。夜は短い。早く勉強を再開するとしよう」
まるで、投げ入れられた小石を静かに飲み込む夜中の水面のように。識はアトリの戸惑いを否定せず、見守るような隠微な微笑みを浮かべて静かに先生役を始めた。一人で十分だと言うも、「俺がお前の勉強内容に興味があるんだ。見れば俺が役に立てることもあるだろう」と帰る気はまったくなさそうだ。
こうなった蛸男の諦めの悪さをアトリはよくよく知っている。彼と出会ってからの一週間と何日かは、その触手のように絡みつく知的好奇心や観察眼、庇護欲にずいぶんと悪戦苦闘させられたものだ。――ここは素直に勉強内容を見せ、教えを受けるのが賢明だろうと、アトリはそっとノートや教科書を彼の方へ寄せた。
「この範囲と内容。ふむ、やはり中間試験に備えているのだな。丁寧によくまとめられている。これなら、そうだな……応用や引っ掛けにそなえて、ここや、ここを重点的にやるといいだろう。試験はもちろんとして、夏の高二模試の助けにもなるはずだ」
そう言って古文や数学の手ほどきをする識の教え方は、非常に要領よく分かりやすい。やはり、黒騎士の参謀や武志の教育係を務めているその頭脳は伊達ではないのだ。
「……さすが、ニセ大学生を装うだけはあったんですね」
「すべてが嘘であったという訳ではないぞ。俺がかつて……そう、二十年ほど前に夜海大学の文学部に居たことは本当だ。他にも何度か、学費を貯めては大学や大学院に通ったことがある」
お前が夜海大に進学すれば後輩となるのは、決して間違いではないぞ。識はアトリが数式を理解して問題を解くのを頬杖ついて眺めつつ、そう要らぬ訂正をした。
「そういえば……識さんは私が勉強することを嫌がりませんね。それどころか、いつもこうして教えようとしてくれますし」
「ああ、あいつと俺では考えがだいぶ違うからな。俺は、閉じ込めておくより側についている方が好きなんだ。――だから、お前はお前のやりたいようにするといい。お前がどこを目指そうと俺は側で見守っているし、必要ならば手を差し伸べ、教え導こう」
それは父性すら感じる、包容力にあふれたエールだが……このストーカー気質のサトリの口から出ると、どこまで行っても手のひらの上だと、そう言われているような恐ろしさがある。彼の優しさというのはいつも、慈愛に満ちているようで、どこか相手の意思を問わない非人道的な空気がついて回っているのだ。これはこれで厄介なのには変わりなく、黒騎士というのはどれも一筋縄でいかないことがよく分かる。
そんなアトリの恐れを知ってか知らずか。識はそのきわめて静穏な灰色の瞳をついと彼女に合わせ、何やら気遣わしげで物言いたげな顔をする。
「しかし、だ。俺にもひとつだけ看過できないことがある」
「看過できないこと……?」
「雛形千鳥。お前の母のことだ。お前も既に知っているだろうが、俺たちはあの会食の様子を見ていた。あの女がお前にどんな仕打ちをしたのかも、仔細余すことなくすべて。――俺は、お前が心身を削ってまであの女に迎合する必要はないと思う。否、その価値すらない……お前の家族や保護者は俺たちだけで十分だ。そうだろう?」
「それは……」
やはり識は、先日の母の行いがよほど頭にきているらしい。紡がれる言葉の端々には義憤とも怨みともつかぬ感情的な響きがあり、いつもの〝理性的・合理的であれ〟と機械のように定義付けられた強固な冷静さは浸食されたようにどこか欠けていた。それだけ、彼はアトリのことを案じているし、愛してもいるのだ。
そんな識の感情は決して受け入れるべきではない。元々一人で生きてきたようなアトリにとって、愛情はやがて死に至る緩慢な毒だ。大切にされればされるほど、その心は軟弱になってゆき、今まで培ってきた精神の硬度は確実に失われてゆく。……それは今も揺るぎない事実であるが、しかし。
人間のふりしかできないグズの出来損ないと、それを運命のヒロインのようにありがたがる勘違い野郎の人間もどき。自分たちは破れ鍋に綴じ蓋だ――そう思えば、彼の怒りもお節介も受け入れるくらいはしてもいいのではという気がしないでもない。彼らこそが本当に、空虚な自分にとっての「半分のオレンジ」であるならば、死に至る毒を呷ることも決して無意味ではないはずだ。……今のアトリの頭の片隅にはそんな世迷い言がぐるぐるしていて、口はいったい何を言うのが正解なのかを決めあぐねていた。
「識さん、私は……」
「――あーっ! こんなところにいた!」
ぐるぐると混乱する思考から確かな意味を持ったものを取り出そうと、アトリが口を開いたまさにその時。やかましいウィスパーボイスが乱暴に横入りしてきて、霞のようにおぼつかない思惟をぐちゃぐちゃに掻き消してしまった。思わずびっくりして振り返れば、今度は入り口にあのクレイジーサイコピエロ……もとい化野司の姿がある。アトリへの狼藉を知った郁により、帰宅してからずっとしばかれていたはずの彼だが、うまく抜け出してきたようだ。
化野は「あぁ~やれやれヒドイ目に遭ったぜ」と軽口を叩きながら、痛め付けられたであろう全身をボキボキと鳴らし、こちらに近づいてくる。戦闘態勢ではないためか、あのピエロメイクか憑き物の印かよく分からないアイメイクは落とされていて、一見すると甘いマスクのイケメンに見えないこともない。また、私服らしきカジュアルなワイシャツ・ウェストコートにタイトなスラックスは鯔背な顔立ちによく似合ったお洒落な形だ。……しかし、それらの調和をまるでハロウィンのような黒・オレンジ・紫の毒々しい色使いが全てぶち壊しにしている。
やはり、服装というのはどこかしら本人の性格が反映されてしまうものらしい――目の前の男のそこはかとなく狂気を感じさせるファッションは、アトリにそんな学びを与えた。
「ちょっとぉ! 本日のMVPの俺ちゃんを置いて二人でヒミツのお勉強とかズルくなーい? 俺ちゃんをあのド変態と二人っきりにしといてコレとかひどくなぁーい? ねえねえ俺ちゃんも混ぜてよハニーィ!」
「誰がハニーですか、誰が。郁さんにしばかれたのは自業自得でしょう。ああ、もう、勉強の邪魔しないで!」
おしくらまんじゅうの要領でぐいぐいと迫ってくる化野を押し退け、アトリはノートと教科書に再び集中するが……あのイカれポンチのピエロ野郎がそんなことで大人しくなるはずもない。
「ハニーィ……そんなつまんないお勉強より、もっとエキサイティングで実用的なこと知りたくない? 例えばぁ、『三分でできる!気に入らないアイツん家の爆破のやり方☆』とか、『初心者でも超簡単♡むかつくクソビッチの料理法!』とか! 俺ちゃん、そういうの超得意だからさぁ。手取り足取り、腰取りレクチャーしたげちゃうよ~」
どうよ、最高にハッピーでクールな提案だろぉ?
――お気軽に隣へ腰を下ろし、馴れ馴れしく肩へ腕を回し、得意気にそう言う反社会的な人格破綻者にアトリは顔をしかめた。人をハニーと呼んでおきながら、殺人犯デビューのレクチャーをして刑務所への片道切符を渡そうとするなど、まったく正気の沙汰ではない。さすがの識も横で困惑している。
こんな奴に構っているのは実に不毛な行為である。まさに文字通り、お話にならない。アトリは肩に乗っかる筋肉質な重い腕を退かし、しっしっと手をパタパタさせて追い払った。
「ああんもうっ。ハニーィ、俺ちゃんのこと、そんなに弄んで楽しい? んん? ――そんなに冷たくされたら、俺ちゃんのハートが大炎上しちゃうじゃないの……この小悪魔ちゃんめっ! うり、うりうりぃ!」
今の塩対応のどこに燃え上がる要素があったのか、常人の神経では分からないが……化野は瞳の奥にどぎついピンクのハートを浮かべ、有頂天なテンションでアトリの頬をつつき回す。どこまでも陽気でどうしようもない狂人だ。
目の前の男の狂態に、アトリは言葉を失って頬をひくつかせるしかない。そうしている間にも、勝手に燃え上がった男のテンションはうなぎ登りを続け、最終的には「俺ちゃんっ、この迸るパトスをガマンできない! さーあ、子猫ちゃーん……今夜は俺ちゃんとめくるめくエロスの世界に旅立とうじゃなーい」などと妄言を吐いてアトリに迫りだした。そして、見かねた識の蛸触手に締め上げられて動きを封じられる。
「ちょっとぉー! なにイイ所で邪魔してくれちゃってんのよ! 俺ちゃんこれからハニーと仲良しニャンニャンすんだから、はなしてよーッ!」
「……黙って様子を見ていれば、まったく。頭がおかしいのは相変わらずなようだな」
何故か妙に甲高い声で内股になって、そう猛抗議する化野。識はそんな意味不明な片割れを嘆かわしげに眺め、静かにため息をついた。
しかし、本当にため息をつきたいのはアトリの方である。そう思っていたなら、どうしてもっと早く助けてくれなかったのか――仲良しニャンニャンされかけていた彼女からすれば、実に解せない話だ。
まあどうせ、いつものように片割れと花嫁が仲良くするのを微笑ましく見守ろうとして、許容範囲ギリギリまでは様子を見ていたのだろう。音無識とはそういう男である。彼の海のように広く深い包容力は、化野のようなイカれ野郎にすら適用されるのだ。
「しかし、おかしなことだ。手筈では、お前はもっと後に来るようになっていただろう。どうして命令を守らなかった」
「えぇー……ムカデちゃんはもうズルしてこっちに来たんだしィ、俺ちゃんだってフライングして良いじゃないのー」
識の指摘に対して、司は年甲斐もなく唇を尖らせてそう言う。ズルしてフライングしたムカデ、とは文通ストーカーのことなのだろうか。そうだとしたら最悪だ、自分は蜘蛛より百足の方がもっと苦手なのだ――生理的な嫌悪感から肌がぞわぞわして痒くなったアトリは、それとなく二の腕に爪を立てた。
「そんなことより、さっさとこのエロ同人みたいな触手どけてくんない? こっからは俺ちゃんとハニーの夜のふれあいワンニャンタイムなの! さーあ、食べちゃうぞーッ! がおー!」
「お前はまだそんなことを……まったく呆れた奴だ。――アトリ、勉強会は中止だ。お前はもう寝に行った方がいい。俺はこいつを郁の所に戻さなければならないが……お前を巻き込まずにいられる自信がないからな」
まるで、質の悪い敵を前にして殿を引き受ける歴戦の戦士のように、識はそう言ってアトリを部屋からそっと逃がした――司は相変わらず何やら妄言を吐いて暴れていたが、いつの間にか増やされた蛸触手でどうにか抑え込まれている――。
確かにあの様子では勉強どころではないし、正直、あのイカれポンチとの戯れでどっと疲れてしまった。ここはもう部屋に戻るのが賢明だ――リビングルームの外、勉強道具一式をかかえてぽつねんと佇むアトリは、嘆息しながら寝床へ向かう。
(秀さんはひどい時代錯誤の過保護みたいだけど……司さんに関しては正しかったな。これからは気を付けないと)
化野司は黒騎士でぶっちぎりトップの危険人物。今日一日でそれをしっかり学習したアトリは、まったく厄介なやつが来たものだと肩を落とした。とりあえず、今晩また襲撃されてはかなわないので、しっかりと部屋の戸締まりをしなければならない。あんなクレイジーサイコピエロと夜のふれあいワンニャンタイムなど、死んでも御免であった。
いつも閲覧ありがとうございます。
今回は割と短めのお話。「試験勉強するアトリと黒騎士のわちゃわちゃ」(秀編・識編・司編)です。
長命の人外ともなると、今のご時世にはまったくそぐわない価値観を持ちつづけている個体とかいそうですよね。それが正しいか間違っているかはともかくとして。秀も識も司も、どこかしらそうなのでしょう。
一方のアトリですが、黒騎士とどう付き合っていくか、一応の答えを出せたのかもしれません。あくまでも、「破れ鍋に綴じ蓋」や「半分のオレンジ」が正解であるならば……の話ですが。
〈余談〉
・「半分のオレンジ」はスペイン語の慣用句からの引用。素敵な慣用句なので、興味があればぜひ調べてみてください。
・英語には、嫉妬心のことを「green-eyed monster」とよぶ表現があるそうで。ところで、秀の瞳は緑色でしたね。
〈追伸その1〉
ただいま、第一回黒騎士人気投票を実施中です。もしよろしければ、お気に入りの黒騎士にペシッと投票してみてください。(目次・本文ページ下部にリンクがあります)
〈追伸その2〉
ブックマーク・評価などしてもらえると、作者が小躍りして喜びます!それではまた、ごきげんよう!