0話:魔物と狩人
それはとある卯月の丑三つ時。街は夜の静寂に抱かれて眠りこけていた。そんな街を見下ろす出外れの高台で、二つの影が物々しい緊張感をもって対峙している。
「……まったく、酷い事をしてくれるね。追い回された上に斬り付けられるような覚えなんて、僕には一切ないのだけれど」
一方は、そう嫌味たっぷりの非難を口にする軍服姿の青年である。彼は、今し方負傷したらしい左腕を庇うように押さえていた。傷口からは血液らしき真っ黒い液体が止めどなく溢れ出ていて、それはだらりと垂れた腕を伝い、石畳にインクをこぼしたかのような斑模様を描いている。青年は薔薇のような美貌の持ち主であったが、それも散々追い回された疲労と焼け付くような痛みとで幾分か色褪せ、うんざりした様子でくすみきっていた。
「覚えがない? 魔物狩人の縄張りで人を拐かそうとしておいて、よくもそんな事が言えたものね」
もう一方は、その言葉を冷たく切り捨てる学生服姿の少女であった。こちらは青年とは対照的に負傷の様子も疲労の色もない。まだ少しあどけなさの残る少女の顔は、氷のような冷徹さと幾ばくかの憎悪に彩られ、さながら処刑人のようであった。少女は黒い血の滴る日本刀を一度払って構え直し、狙い澄ますように青年を睨め付ける。青年はそれに改めて辟易した様子で肩を竦め、嘲笑混じりに口を開いた。
「――人を拐かすだなんてとんでもない。乱暴な決めつけだよ。僕たちはただ、運命の人と出会って結ばれたいと願っているだけの大人しい魔物さ。さっきだって、仲良くなった人間を家までエスコートしていただけで……君に咎められる筋合いなんて無いと思うのだけどね」
「ふん、白々しい……お前達のような異形が、人間と結ばれようなどと考える事自体が問題なのよ。魔物と結ばれた人間は、遅かれ早かれ化け物の仲間入りをする事になるわ。そうなれば人間の世界で真っ当に生きていく事も、ごく当たり前の人間としての一生を送る事も出来なくなる。お前のやろうとしている事は人間を魔物の世界に拐かすのと同じ……そんな事を企てる奴が人間に関わる事など、決して許されない」
「随分と手厳しいね……仕方無いじゃないか、僕ら魔物と人間では寿命が違うんだ。そのままだとすぐ死に別れてしまう。こちら側に引き寄せて、ずっと一緒に居られるようにしたいと思うのは人情だよ。なのに君たち魔物狩人というのは、どうしていつの時代もこうお堅くて煩いんだろうね。本当、君たちの無粋さには毎度毎度うんざりさせられる……人の恋路を邪魔する暇が有るのなら、もっと他の事に労力を使ったらどうなんだい? ――ああ、それとも。こういう事をするしか能が無いのかな、君たちは」
青年の反論に少女は自分とその一族の生業を貶されたと苛立ち、不愉快だと言わんばかりに表情を歪めて唇を噛んだ。
(これは挑発だ。わざわざ乗って敵の時間稼ぎを手伝ってやる事はない)
少女は自らにそう言い聞かせ、喉まで出かかった反駁や込み上げる激情をグッと飲み込む。どんな妄言を吐いたところで、所詮は袋小路へ追い込まれた獣にすぎない。今ここで刀を抜いて躍り掛かれば忽ちのうちに刀の錆だ……そう思い直した少女は、目の前の魔物を早々に狩ってしまうべく、地を蹴り刀を振るった。
しかし、対する青年もただでやられるほど甘くはない。どこからか湧き上がった黒い靄より細身の剣を取り出して応戦し、少女の攻撃を軽妙に捌ききってしまう。元々、右腕だけで得物を振るうスタイルと熟練した剣術の持ち主らしく、その太刀筋には怪我や消耗の影響などほとんど感じられない。
――たかが中級の魔物、それも今まで散々に追い詰めたはずの者にこのような余力が残っている。それは、己の実力へ決して小さくない自負心を抱く少女に更なる苛立ちを覚えさせる。
「雑魚の分際で無駄な抵抗をして……! でも、これならどうかしら!」
少女はそう告げるや否や、剣戟を止めて後方へと飛びすさる。そして密やかに何かを詠唱しながら、左手で素早く印を結ぶのだった。その途端、少女には〝強大な力の渦〟とでも言うべき不可視のものが纏わりだし、一帯の空気は清冽ながらも刺々しいものへと変化してゆく。それに何かを察知した青年は苦虫を噛み潰したような顔をし、咄嗟に後退して少女との距離を更に広げた。その様を見届ける少女の顔には、勝利の確信と、女性特有の陰湿な攻撃性や嗜虐心を含んだ冷ややかな笑みが浮かんでいた。
「破魔鳥招来、紅雀ッ!」
青年が後退したのと時をほぼ同じくして、少女がそう呼び声を上げる。渦巻く力はその声に呼応して炎に変じ、やがて鳥の形を成して、目前の魔物を焼き尽くさんと羽ばたいた。対する青年は左手を横一文字に払い、地面から巨大な黒い茨を生えさせて、瞬時に強固な防壁を形成する。いきなり現れた障害物に、凄まじい勢いで直進していた炎の鳥は回避する事も叶わずそのまま突っ込み、辺りを轟音と火の粉、黒煙で覆い尽くしてしまった。殊に立ち込める煙の量は尋常でなく、肉眼では全く何も見えず、呼吸すら困難なものにした。どうやら青年が生やした茨はただの茨ではないらしい。
「くっ、ごほ、ごほっ……白雀ッ……!」
とっておきの攻撃を即座に防がれるだけでなく、それを利用されて視界を奪われるという致命的なミス。少女は思わず狼狽し血相を変えたが、即座に別な式神を喚び出すことで事態の好転を図った。こういった時の対処法は、骨の髄まで叩き込まれているのである。
そうして即席で喚び出された白い鳥は強風を巻き起こし、黒煙と火の粉を辺りから一掃して姿を消す。晴れた視界には炎の鳥――紅雀も青年も居なかった。残るのはブスブスと燃え残る茨の残骸と、それによってずたずたにされた石畳だけであった。
紅雀は、衝突で形を保てなくなって一旦消えたに過ぎない。しかし、青年の姿が跡形も無く消えてしまっているというのはおかしな事であった。魔物狩人は獲物の生死不明という事態を避けるべく、必ず亡骸が残るよう魔物を討つのである。その為、紅雀の火力も常に加減されている。敵の亡骸が焼き尽くされて残らないという事は、万に一つも有り得ないのだ。青年は、少女が視界を奪われたその隙に乗じてまんまと逃げおおせたに違いなかった。
「あの魔物、一体何処へ……」
敵を取り逃がした少女は悔しげに唇を噛んで周囲を見回すが、やはり何処にもその姿や気配は認められない。また、青年は手傷を負っているはずであるが、血痕も血の臭いも煙と一緒にすっかり消失してしまっていた。かといって空間転移系の術で別地点へ逃げたような痕跡も感じられないから、恐らく自らの気配を隠蔽して自力で逃げ出したのであろう。
「いくら足が速くても、まだそんな遠くへは行っていないはず……四雀!」
少女はそう判断すると、直ちに四匹の鳥の式神を喚び出した。少女の頭上に現れた紅、蒼、黒、白の式神達は、その場を旋回飛行して指示を待つ。
「さっきの魔物を探して」
少女がそう言えば、式神達はすぐさま夜空の四方へ散らばっていく。式神達が無事探索を始めたのを見届けた少女は刀の血を深紅の懐紙で拭き取り、背負った鞘へと納刀する。そして自身もあの魔物を追撃すべく、夜闇に駆け出した。その横顔には、仕留められるはずだった格下の魔物を逃した手抜かりへの焦燥と屈辱感がありありと浮かんでいた。
◇◇◇◇
「……ふう。どうやら行ったみたいだね」
少女が高台から去って随分経ったころ。戦闘のあった場所に程近い雑木林の奥から、青年がふらりとその姿を現した。茨の防壁で紅雀の猛火から逃れた彼は、衝突後に立ち込めた黒煙で相手の視界を奪った隙に、ここへ身を潜めて一切の気配を隠蔽し続けていたのだった。何も認められなければ、あの若い魔物狩人は自分が何処かへ逃走したと思い込んでこの場を離れるだろうと踏んでいたのである。それは最後の魔力を振り絞った、発見されれば今度こそお終いという一か八かの賭けではあったが……完璧な隠伏の甲斐あってか事は目論見通りに転んだようだった。
用心の為、青年は改めて第六感を研ぎ澄まして敵の気配を探る。少女とその使い魔の気配は、もう遥か遠くに行ってしまっていた。多分、時間経過と共に捜索範囲を広げていったせいだろう。
(どれだけ遠くを探そうと無駄なことだ。僕はまだここに居るんだから……それに、一度姿を隠してしまえばそうそう見つかりはしない)
姿を隠し周囲に気配を馴染ませるのは、青年の得意とするところである。一度相手の目から離れてしまえば、再び目視されない限り再発見されない自信がある。元の場所に留まり続けても見つからないこの様子なら、あの少女と使い魔の目を掻い潜っての逃走はそんなに難しい事ではないだろう。加えて、捜索範囲の拡大に伴って捜索網には抜け穴がちらほらと出来ていて、既にこの高台は捜索範囲から外れている。そろそろ脱出を始めるには良い頃合だ。――ぐずぐずしていると、今度は魔物狩人らが捜し直しを始めて高台に戻って来かねない。
どの経路を使い、どう移動するかなどと逃走の算段を組みながら、青年はじくじく痛む左腕に目を遣った。横に深く斬られたものの、筋肉や皮膚はもう大方癒合して出血も止まっている。まだ疼痛は残っているが移動には何ら問題ない。この治癒具合なら、あと数時間程度もすれば完治してしまうだろう。魔物の回復力は人間のそれよりも遙かに強いが、青年はその中でも突出していた。
(しかしまったく、魔物狩人というのは本当に碌でもない事しかしない。あんな小娘が邪魔さえしてこなければ、こんな怪我もせず、新しい住処と花嫁候補も手に入ったかもしれないのに!)
青年は本当に口惜しいといった様子で溜め息を吐く。そもそもの原因は二時間前だ。長い生を共にする花嫁を求め各地を転々とする青年は、新たな住処を探す途上、今日はふらりとこの街に立ち寄っていた。普段人間に擬態して暮らしている青年にとって、便利で治安の良いこの街はなかなか住みやすそうで魅力的であった。おまけに、何の気なしに入ったショットバーでは自分好みの女子大生を見つけられた。
収穫はそれだけでない。都合良く独りきりだったその女子大生に掛けたアプローチが思いの外成功し、帰途に就くところをエスコート出来る程のいい雰囲気になれたのだ。女子大生は青年の紳士的な態度や些細な話も親身に聞いてくれる物腰に惹かれていたようで、もう一押しすればもっと進んだ関係に持っていけるだろうというような塩梅だった。……しかしそれを、あの魔物狩人が見事にぶち壊してしまったのである。
通行人は青年らしか居ない、住宅街の夜道。夜警中にその場を通り掛かった魔物狩人は目敏くも青年が魔物である事を見抜き、何らかの術で青年の擬態を強制的に解いてしまったのだ。その上、「そいつは人間じゃないわ。人間の女を食い物にする化け物よ。一緒に居ては駄目」などと女子大生を脅して逃走させてしまった。
……しかし擬態を解かれたとは言っても、青年は元から人に近い姿で、目に見える変化と言えばスーツ姿が軍服姿に変わった位のものである。女子大生が逃げてしまったのは、抜き身の日本刀を持った少女が物々しい雰囲気と殺気丸出しで突然現れ、訳の分からない事を口走ったのが一番の原因だと、青年はそう思っている――尤も、原因が何であれ、逃げた女はもう戻らないのであるが――。
今となっては負け惜しみにしかならないが、未来の恋人を置いて逃げるような薄情者とは縁が無かったのだと思うしかない。
そんな突然のひどい仕打ちに、青年は久方ぶりの恋路を邪魔されたと腸の煮えくり返る思いをしたが、応戦する気にはとてもなれなかった。中程度の力しか持たない自分では、この魔物狩人とまともに戦って勝てる訳が無い――青年はそんな予感を肌でひしひしと感じ取っていたのである。目当ての人間が去ってしまった今、こういう相手とやり合っても自分が怪我をするばかりで旨味など全くない。故に青年は斬り掛かってくる魔物狩人をやり過ごしながら逃亡を図ったのだが、霊刀と式神の猛攻に姿を隠せる隙などまったくなく……結局、丑三つ時まで命懸けの鬼ごっこを続け、遂にはこの高台にまで追い詰められたのだった。その後の展開は先の通りである。
青年にとってこの晩は全く以て迷惑極まりない災難であったが、これはこの街に限った事でもない。魔物狩人は人間に害を為す魔物を狩る事を使命としており、各地に点在して各々の縄張りを警護している。そんな彼らにとって青年は害獣同然で、れっきとした討伐対象なのである。青年はただ花嫁が長命な自分と添い遂げられるように、ちょっとばかり自分と同じ性質を持たせようとしているだけなのだが、魔物狩人からすればその行為そのものが冒涜的であるらしい。よって魔物狩人が青年の正体を見破れば、花嫁探しの邪魔をし、問答無用で襲い掛かって来るのが常なのである。だからこそ、青年は普段から魔物狩人が居ないと思われる街を活動場所にしているのだが、どうやら今回ははずれ籤を引いてしまったようだった。
「僕達よりも質の悪いものは幾らでも居るだろうにね。まったく……仕事熱心な無能というのも、考えものだ」
自分達は人間にまぎれ、人間社会を住処として生きている。故に、人間に悪さしたり敵対したりするような意思はこれっぽっちも無い。ただ自分達は花嫁が欲しいだけなのだ。その為に相手を自分達の側に引き込んでしまう事になるが、別に取って食う訳ではないし、一生涯大事にするつもりである。
しかし、魔物狩人はそれを知ろうが知るまいが、あのように度々自分達を攻撃して花嫁探しを妨害してくる。自分達以外にも「人間に害を為す魔物」はごまんと存在し、中には人間を傷付け命を奪う者も少なくないというのに。そちらには気付かずこちらを攻撃する事も多いのだ。青年にはそういった現実が度しがたく理不尽な事に思えて、うんざり顔で静かに嘆息を漏らした。
「とにかく、この街から出よう……ここは駄目だ」
隠れていれば見つからないからといって、いつまでも魔物狩人の縄張りに留まっている訳にはいかない。今は一刻も早くこの街から脱出して、安全圏まで逃れる必要がある。そう思い歩き出した途端、青年は突然の眩暈でふらつき、たまらず傍らの樹木へ体を寄り掛からせた。
「これは……少し、消耗し過ぎたようだね……」
この高台に逃れ来るまでの間、青年はただ追い掛け回されただけでなく、苦手とする炎の攻撃を何度か食らってしまった。植物の魔物ゆえに火傷の治りは遅いので、表面が治癒しきった今も、体内には未だ相当なダメージが蓄積されている。それなのに先程の戦闘では無茶をして普段通りの動きをしたので、なけなしの体力はもうすっからかんだ。今の青年には体がまるで鉛のように重く感じられるし、動く度、残る火傷の所為で体中が猛烈にひりつく。
本来ならば速やかに休息を取るべきだが……危険地帯に居る今はそんな事より逃亡が先決。青年は重い体に鞭打って、未だ微睡む街を風のように駆け始める。
(ああ。早く、早く花嫁を見付けさえすれば)
花嫁を得られさえすれば、もうこんな風に、行く先々で魔物狩人に脅かされながら各地を転々とする必要も無くなる。ずっと花嫁の許で幸せに暮らすことだけを考えていられるのだ。その為にも、今は逃げ切る事だけを考えなくてはならない――青年は未だ得られぬ花嫁にそう想いを馳せながら、ひたすら夜闇の中を駆け抜けていった。
2021/5/31:加筆修正を行いました。