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天皇、日向国の諸県君の女、名は髪長比売その顔容麗美しと聞こしめして、使ひたまはむとして喚上げたまひし時、その太子大雀命、その嬢子の難波津に泊てしを見て、その姿容の端正しきに感でて……(『古事記』応神天皇 )
◇
頼りない光を零し、月は天空に煌めく。
気配を殺し、屋敷の外へと飛び出せば、ぬるい闇が大鷦鷯の頬を嬲った。
篝火はなく、屋敷を守る兵士の姿も見当たらない。少年を咎めるものも、誰ひとりいない。月だけが、彼の行動をじっと見ていた。
(そこで、見ていれば良い。神託を鼻で笑い、死んだ王の……その末裔の、ちっぽけな結末を)
角髪を結った髪を解き、ひとつに結んで背に流す。
屋敷から海辺までは少し距離があったが、幸いというべきか皮肉というべきか、月の呪印の影響により、大鷦鷯は人よりも夜目が利いた。今度こそ、彼を邪魔するものは何もない。
(……行こう)
遠くから響く潮騒を頼りに、彼は終焉へと続く道へ一歩を踏み出す。全ての解放を待ちわびて、背中の尻尾が軽やかに躍った。
夜の静寂に響く波の音は、身体に心地よく染み渡る。鼻先をアクの強い潮風が撫で、大鷦鷯に海が近いことを伝えた。
早く、早く。死への渇望が少年の足取りを早める。やがて、その爪先が柔らかな砂を踏んだ。
ずぶ濡れるのも構わず走り出す。月影の下の深淵が、ゆらゆら揺れて大鷦鷯を手招く。
(今度こそ、わたしは……)
穢れのない、海底へ。呪いからの解放を恋いて。
甘い波の音に誘われるまま、彼は身を投げるべく、瞳を閉じた――。
――ポロ……ン。
そのとき、囁くような楽の音が、大鷦鷯の足を引き止めた。
(琴……?)
その音に、何故だか強く心が惹かれた。それは、深い悲しみと、諦観を孕んでいた。
(わたしと、同じだ……)
辛い、苦しい、逃げてしまいたい。……けれど、逃げられない。
顔も知らない誰かの叫びが、耳朶に突き刺さる。胸を打つ哀しみとは別に、微かな喜びが胸を震わせる。その感情の名は、共感、だった。
昏い海面に向けていた眼差しを、ゆっくりと上げる。それと共に、ひとつの願望が首をもたげた。
――知りたい。
その想いは、死への憧憬をも凌駕した。泥水を打ち破り、凛然と立ち上がる蓮花のように、花開く。
(……行ってみよう)
大鷦鷯は、踵を返した。いつにもない大胆な足取りで、彼はその屋敷へと向かった。
死ぬのはそれからでも遅くないと、鳴り響く潮騒に言い訳をして。
◇
音の出所は、海辺を望む一軒の小さな屋敷だった。その造りは彼の滞在する屋敷とよく似ていた。だが、急遽、建てられたのか、立派な掘立て柱の建物を取り囲む塀には、僅かな綻びがあった。
微かな罪悪感を抱えつつも、渇望に似た好奇心に抗えず、身体を潜り込ませる。そこは庭へと続いており、丁度、穴を隠すように背の高い薄が風に揺れていた。琴の音は、その向こう側から聞こえた。
(大王の皇子が、やることではないが……)
躊躇いつつ、草の隙間からそっと覗き見る。そして、少年は思わず感嘆の息を吐いた。
(これ、は……)
琴を奏でていたのは、十四、五歳ほどの少女だった。
肌は花橘のように白く、ほっそりとした線を描く四肢は華奢である。髪は艶やかに長く庇の木目を彷徨い、幼さを残した容貌は可憐という表現が相応しい。
(綺麗だ……)
伏せた横顔から、弦を弾く真っ白な指から、目が離せない。
鼓動は早まり、心の臓が鷲掴まれたように痛む。身体は熱を発し、零れる吐息さえ掠れた。
その初めての感覚に戸惑い、大鷦鷯は逃れるように思わず後退る。だが、そのせいで薄が不自然に揺れた。
「 ……誰か、いるの?」
大鷦鷯が身を潜めた草陰に、少女がはっと顔を上げる。正面から見ると、彼女は余計に美しかった。だが、月影に照らされたその頬には、乾ききらない涙の筋が伝っていた。
「っ」
その表情に、胸がチクリと痛む。
大鷦鷯は意を決し、少女を怖がらせないよう、ゆっくりと彼女の前に進み出た。
寂しげな月光を受けて浮かび上がる少年の姿に、彼女は、漆黒の目を見開いたあと……長い袖の下に顔を隠した。しかし、その双眸はしっかりと突然の訪問者の姿を映し出していた。
「……こんばんは。不思議な方を、連れていらっしゃいますのね」
「え?」
彼女の言葉に、大鷦鷯は戸惑う。
その疑問に答えるように、少女は、つ……っと、その白く細い指で指し示した。――大鷦鷯の、背後を。
嫌な予感がして、彼はゆっくりと首を後ろへ回す。
「……」
「……」
そして、木陰に半身を隠した薄紅の女神と、胡乱げな少年の眼差しが交わった。
「わーっ! 言っちゃ駄目よ、お嬢さん! この子、反抗期だからこっそり付けてたのにぃーっ!!」
唇の前に人差し指を添え、しーっ! と合図を送る彼女だが、その声は明瞭に響き渡っている。
ちなみに、大鷦鷯は決して反抗期ではない。
「……付けていたのか、赤玉媛」
最早、怒る気も失せて、大鷦鷯が呆れがちに呟くと、その様子に庇に腰かけていた少女がますます楽しそうに笑う。
「赤玉媛さまと仰いますのね。木之花咲耶姫さまを思い出すような、美しい瞳の色……」
「あらやだー、お嬢さんってば正直者っ!」
彼女の賞賛に、赤玉媛は満面の笑みを浮かべた。
右頬に手を添え、くびれを撓らせ、残った左手でバシバシと大鷦鷯を叩く。たおやかな見た目に反し、鞘で殴られているのではないかと思うほど、痛い。思わず、しかめっ面になる。
「赤玉媛、痛い……」
「あらー、ごめんねー?」
少年の抗議に、やっとその手が離れた。
「女神さまとご一緒ということは、あなたさまは、月の神の御使者でしょうか?」
その間に涙を拭った少女は、不思議そうに尋ねた。
「いいえ。わたしは、歴とした人間ですよ……こちらの赤玉媛は、半神だそうですが」
「まぁ、そうでしたのね。素敵」
幻想的な月夜の影響か、少女はさして疑問にも思わず、綻ぶ口許に袖を寄せて微笑んだ。
そして、その笑みを宿したまま、大鷦鷯へと首を傾げた。
「あの、もし宜しければ、少し話し相手になっては下さいませんか。……どうしても、寝つけなくて」
自身の横を掌で軽く叩いて、名前も知らない可憐な少女が誘った。
年頃の娘が、見知らぬ異性に話役を求めるなど、あまり褒められた話ではないだろう。侍女がいないのなら、尚更だ。
それでも、涙の跡を残した頬が痛々しく……大鷦鷯は、ゆっくりと頷いた。今はただ、その傍にいてあげたいと思った。
「はい。わたしで、宜しければ」
「あ、有難うございます! ……えっ、と?」
首を傾げる彼女に、大鷦鷯は苦笑を零す。
「わたしのことは、どうぞご自由に呼んで下さい」
「……それでは、月下の君と呼ばせて頂きますね」
秘密めいたやり取りに、少女の頬が淡く色づく。
それが、言葉にならないほど美しく……大鷦鷯も、つられるように赤面した。
◇
庇に並んで座り、月明かりと虫の囁きを肴に他愛もない会話を交わす。
兄弟のこと、彼女の遠い故郷のこと、好きな花や季節のこと。拳ひとつ分の距離を置いて、ふたりは怯えながらも心の距離を縮めていく。
赤玉媛は、見上げるような庭木に腰掛け、にやにやとその様子を眺めていた。……大鷦鷯はそれを、全力で思考の外へと追いやることにする。
「月下の君は、どうしてこちらに? 難波に住まう方には見えないのですが……」
「はい。あなたの仰る通り、わたしは都の人間です。……難波へは、休息に来ているのです」
「都、ですか」
大鷦鷯の言葉に、彼女の表情が僅かに曇った。
「あなたは、どうしてこちらに?」
躊躇いながらも、大鷦鷯は少女へと問いかける。
婚姻です、と彼女は笑った。けれど、その表情は少し強張っていた。
「……それで、泣いていたのですか?」
踏み込むべきではないだろうと思いながらも、つい尋ねてしまう。
言葉の代わりに、彼女は苦笑を口の端に浮かべた。それは、大鷦鷯の問いかけへの肯定だった。
「でも、わたくしが義姉と慕った方もいますし。……それほど、不安でもないのですよ」
けれど、少女はすぐに己の言動を否定した。
そして、大鷦鷯を安心させるように、柔らかに笑う。
「遠慮する必要は、ありません」
彼の口から、ふとそんな言葉が零れた。少女が驚いたように彼を見上げる。
一方、無意識に出た己の言葉に大鷦鷯も戸惑った。しかし、それは彼の本心でもあった。
心配いらないと、そう言って無理して笑うことの辛さと空虚さを、大鷦鷯は痛いほど知っていた。彼女にはそんな想いを抱いては欲しくなかった。
「無理をしなくても、良いのです。ここには、あなたを咎めるものは誰もいません」
少女の掌に、そっと自分のそれを重ねる。
指先がびくりと震え、大きな瞳が大鷦鷯を振り仰ぐ。
「月下の君……」
その黒曜は月影に濡れ、年相応の危うさを映し出した。
「――わたくし、怖いのです……」
震える唇が、ぽつりと不安を零す。
「わたくしは、生まれて初めて日向国を出ました。幼い頃は兄と野山を駆け、草笛を吹き、時には頭からずぶ濡れになって川魚を取ったりもしました。いつも泥だらけで、お母さまや侍女たちには、お義姉さまを見倣いなさい、と、いつも怒られていて……」
眼差しが、昔を懐かしむように細められる。けれど、それは、たった一度の瞬きによって覆い隠されてしまう。
「このような田舎者が、都で上手くやっていけるのか……お相手に厭われはしないか。何か粗相をして、父母に迷惑がかからないか。不安で、不安で、仕方ないのです……っ」
その眦から、再び涙が零れる。彼女の吐露した感情が、弦を弾くように大気を震わせた。
「――大丈夫、ですよ」
それは何の根拠もない、いっそ、無責任にさえ聞こえる言葉だった。
「大丈夫です……あなたなら、きっと」
けれど、それが大鷦鷯の願いだった。
この哀しげな音色を奏でる少女が、二度と泣かなくても良いようにと、彼は切に願った。
「……有難うございます、月下の君」
縋るように、少女のもう片方の掌が、大鷦鷯の手に重ねられる。
「その言葉だけで、何だか頑張れそうな気がします」
そう言って、彼女は心からの安堵の笑みを浮かべた。大鷦鷯の頬も自然と緩む。ただ、繋いだ指先だけがひどく熱かった。
そのとき、屋敷から微かな物音が響いた。
「――さま……姫さま、どちらにおられますの?」
次いで、年嵩の女と思われる声が少女を呼ばう。弾かれるように、ふたりの手が離れた。
「っ、沙良。わたくしはここよ。すぐに戻るわ」
少女は慌てて母屋へと返事を返した。
大鷦鷯と赤玉媛は、互いに顔を合わせて頷く。
「そろそろ、退散した方が良さそうね」
「そうだな」
彼女は婚姻を控えた身である。侍女に見咎められる訳にはいかなかった。
「それじゃあ、可愛いお嬢さん。今度こそ良い夢見を~!」
そう言うが早いが、赤玉媛は軽々と塀を飛び越えた。音もなく、その姿は屋敷の向こう側へと消える。大鷦鷯も、追いかけるように抜け道の方へと踵を返した。
「待って」
その背を、少女の密かな声が呼び止めた。
誘われるまま大鷦鷯が振り向けば、真っ直ぐな眼差しがぶつかる。
「わたくしは、髪長媛と呼ばれております。月下の君、もしもご縁がありましたら、またお話を聞かせて下さいね」
「……はい。縁があれば、きっと」
その言葉に、そして彼女の頬を染める笑みに、大鷦鷯は思わず頷いた。
それが、決して叶わぬ願いだと理解しながら……胸に湧き上がる願望に、嘘を吐きたくなかった。
「では……約束、ですよ?」
髪長媛は右手の小指をぴんと伸ばし、空中で指切りをして見せた。大鷦鷯も、彼女に倣うように指を掲げて見せる。
「……はい、約束します」
無邪気に喜ぶ少女に、胸が甘く痛んだ。
◇
ふわり、と緋色の裳が翻る。
両手を広げ、器用に均等を取りながら、赤玉媛は鼻歌混じりに波打ち際を歩く。その背をぼんやりと追いかけながら、大鷦鷯は潮騒と彼女の歌声に耳を傾けていた。
「波音が、綺麗ね」
「……あぁ。何もかも包み込むような、心地好い音だ」
唐突な彼女の言葉に、けれど、大鷦鷯は同意を示した。
その答えに、赤玉媛は満足げに鼻を鳴らした。
「当たり前よ。だって、海は生命が生まれ出でた場所だと言われているから」
「なるほど。それなら、わたしたちにとっては、故郷のようなものか」
そして、慈悲深き母親のようなもの。心が安らぐのも当然だ。
「そうね。……でも、もうひとつの音色が聴こえない?」
ふと立ち止まり、彼女は耳に手を当てる。それに倣い、大鷦鷯もその「もうひとつの音色」に耳を傾けた。
月明かりに照らされ、青白く光る波が砂を攫い、新たな清き砂を運ぶ。それを繰り返し、音を奏でる。寂しげに……。
「哀しい、音色だ」
「でしょう?」
踊るように波へ近寄り、彼女は首で合図を送る。飲んでみろ、と言いたいらしい。
そっと水を掬い、言われた通りに口へと運ぶ。予想に違わず、潮風と同じ味がして、大鷦鷯は小さく顔を顰めた。
「どう?」
「塩辛い」
そうね、と赤玉媛は頷いた。
「だってね、それは素戔嗚尊の涙の味だから。……こんな話、聞いたことはある?」
――天照大御神の弟・素盞嗚尊は、わだつみを統べし神。しかし、彼は黄泉の国にいる母・伊耶那美命を恋しがり、鬚が伸びるまで泣き続けた。
「だから、海の水は涙と同じ味なの。そして、母神を恋しがる哀しみの音色……」
誰かを恋うように、彼女の眼差しが潮騒の向こうへと注がれる。
だが、それは瞬きをする間に、少年の方へと向けられた。
「……ねぇ、大鷦鷯。あなたは、生きたいと思わないの?」
口唇に浮かんだ柔らかな笑みは、けれど偽りを許しはしない。互いの眼差しが月下に交わる。
「……わたしは、生きるのが、怖い」
ぽつり、と大鷦鷯は呟いた。その囁きは波に浚われてしまいそうなほど小さかったが、確かな響きで彼女へと届いた。
それは、少年がずっと吐き出せずにいた本心だった。
「それは、どうして?」
「あんな闇ばかりを見つめていたら、いつか、自分まで同じ色に染まってしまうのではないかと……囚われてしまうのではないかと思うと、怖いのだ」
祖父から受け継がれた呪いにより、大鷦鷯の目には常に人の闇が映った。幼い頃、どれだけ訴えても、周りの大人たちは彼の苦しみを理解してはくれなかった。
祖母だけが、唯一、大鷦鷯の恐怖を理解してくれたが、彼女の目にも大鷦鷯と同じモノは見えていなかった。
「何故、わたしだけに見えるのかと、祖父を恨むこともあった。彼が神託さえ信じていれば、今、わたしがこうして呪いに苦しむこともなかったのに……と」
それが、どれほど不毛なことかも分かっていた。
そうして、自分が背負った理不尽さを呪い続ければ続けるほど、己の中に生まれた「闇」に怯える。その悪循環を知りながら、それでも過去を呪うことを止められなかった。
「それなら、新しい未来を渇望すれば良いじゃない」
俯いてしまった少年の頭に、ぽん、っとあたたかな衝撃が走る。
驚き、反射的に顔を上げれば、あの印象的な薄紅の瞳と目が合った。それは桜を彷彿とさせる、力強い生命力の色――。
「ここで出逢ったのも、何かの縁だわ。生きるのが怖いというのなら、あなたがほんの少しでも『生きてみたい』と思えるときまで、あたしが一緒に考えてあげる」
「……何を、考えるのだ?」
「決まってるわ。呪いを断ち切る方法よ」
「呪いを、断ち切る……?」
それは、大鷦鷯が思ってもみなかった言葉だった。
「そうよ。まぁ、まだ方法は分からないけど……諦めるには、十七年なんて少し早すぎると思わない?」
もう百年以上は生きているであろう半神の女神は、あっさりと言い切った。
「人の力だけでは不可能だったことも、半神のあたしが手を貸したら、案外、上手く行くかもしれないわよ」
だから、試してみる価値はあるでしょう?
その一言が、闇に怯えた少年の目に微かな希望の光を与える。彼女の手が、幼子にするようにくしゃりと頭を撫でた。
大丈夫だと、言うように。
「赤玉、媛……」
それで、呪いから解放されたわけではない。苦しみが、取り払われたわけでもない。それでも、大鷦鷯の中で、堪えていた何かが音を立てて崩れた。
そのぬくもりに甘え、少年は久方ぶりに泣いた。