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噎せ返るような潮の匂いが、眼下に迫る。
身体を叩きつける衝撃に備え、大鷦鷯はきつく目を閉じた。瞼の裏に、遠い記憶が泡のように浮かんでは消えていく。
その中で、一際懐かしい声が彼の意識に触れた。それは、死の間際まで少年の身を案じた、誰よりも強く優しい――。
「――ちょっと待ったあああぁっ!!!」
「ぐぇっ」
だが、けたたましい女の声と共に、首根っこを掴まれた大鷦鷯の意識はそのまま現実へと引き戻された。ついでに、海へ投げ出されるはずだった身体も逆戻りする。
少年の口から、蛙が潰れたような無様な苦悶が漏れた。予期していた事態とは違った理由で、彼は激しく咳き込んだ。
「っ、い、いきなり何をす――っ!?」
自分が死を選ぼうとしていたことすら忘れ、彼は沸き上がる怒りのまま、その原因となった人物を勢いよく振り仰ぎ……そして、言葉を失った。少年の上に、ふふん、と女の笑みが落とされる。
「あら、やだー。あたしがあまりにも美しいからって、見惚れてるのぉ?」
頬に手を添え、わざとらしく身を捩る女は、だが確かに美しかった。
やや高めの身長を彩るのは、宮廷の后妃たちが好んで着そうな華やかな装束。唇はふっくらと艶めいて、頭部で複雑に結い上げた大陸風の髪は黒々と美しい。額には赤い花弁のような紋様が施され、天女の羽衣のように軽い領巾がふわふわと風になびいていた。胸元の赤い瑪瑙の首飾りが、存在を示すように煌めいた。
「そなた、人間か……?」
だが、何よりも大鷦鷯を驚かせたのは、その瞳だった。
彼女の双眸は、桜花によく似た薄紅色をしていた。
「人間じゃないわ。正しくは、人間と神の合の子――つまり、半神よ?」
「はん、しん……?」
口の中で、何かを確かめるようにその聞きなれない言の葉を転がす。
(だが、何処かで聞いたことがある。あれは、確か海を越えた国の……――)
しかし、彼が答えに触れるよりも早く、彼女の手が伸ばされる。
「それにしても、あなた、その若さで随分と難儀なものを抱えてるわねぇ」
その、世間話でもするような軽い口調が、大鷦鷯の反応を鈍らせた。
目前に迫った白く細い指先は、何の迷いも持たず、彼の額の戒めを解く。歪な紅い傷跡が、彼女の薄紅へと晒された。
少年の顔から、す――っと血の気が失せた。
「っ、返せ!!」
声を荒げ、大鷦鷯は彼女の手から、ひったくるように鉢巻を奪い返す。
その掌は自らの肌を傷つけんばかりに強く握りしめられていた。まるで、溺れかけた人間が、頼りない流木にしがみつくような必死さで。
――あなたを蝕む呪いは、あまりにも強すぎるから。あたくしが、目隠しをして差しあげましょう。
幼い頃、人の闇が見えすぎて泣いてばかりいた大鷦鷯に、亡き祖母は、まじないを施した。
大鷦鷯にとって、それはなくてはならない「御守り」だった。
「そんなに睨まなくたって、良いじゃない。減るものでもないし……あ、この場合は減った方が良いのかしら」
「何を訳の分からぬことを……」
「だって、それ呪いでしょう? 気配の感じからして、海神――それも三柱分の強いものね」
鉢巻きを少年に返しながら、半神の女神はあっさりと言い当てる。
その回答に、大鷦鷯は彼女を睨んでいた眼差しを大きく見開いた。
「そなた、何故、それを……」
だが、大鷦鷯が口を開いた矢先、陸地の方が俄かに騒がしくなった。
「大鷦鷯さま……っ、大鷦鷯皇子さまぁ――!!」
はっと、少年が視線を戻すと、主の帰りが遅いことを心配したのだろう、待たせていた従者が大慌てで駆け寄ってくる。その姿に、彼は慌てて手元に戻った布で、額の傷を隠した。
「っ! そなたも、早く身を隠――」
だが、気づけば、あの女神の姿は霧のように消えていた。ただ、微かな名残香が鼻先を掠める。
(……一体、何者だったのだろう)
薄紅の双眸を持った、気の強い半神の女神。
そして、胸をちらりと掠める郷愁のような――概視感。しかし、彼が何かを掴みかけるよりも早く、耳を劈く悲鳴が鳴り響いた。青ざめた顔の男は、少年の姿を認めると年甲斐もなく全身を安堵で震わせた。
「皇子さま、ああ、ご無事でっ!!」
「……騒ぐな。ただ、海風に当たっていただけだ」
その声に、少年――大鷦鷯皇子は、面倒そうに溜め息をついた。
◇
その少年の名は、大鷦鷯と言った。
品田和気命――後の応神天皇の、御子である。母は皇后・中日売。同腹の姉弟に荒田皇女と根鳥皇子がいると、後世の書には伝えられる。
「大鷦鷯さま」
「おかえりなさいませ、大鷦鷯皇子さま」
屋敷へと戻った彼を出迎え、大勢の侍女たちが叩頭する。伏せる前のその眼差しには、大鷦鷯個人への親しさよりも、彼の「皇子」という立場への畏敬の念が浮かんでいた。
「あぁ……」
彼女たちの前を、彼は努めて冷静な顔で通り過ぎた。その声は、ひどく冷たい響きを持っていた。
唇を噛み締め、形振り構わず自らに与えられた部屋へと逃げ込んでしまいたい。そんな衝動を堪え、彼女たちの<声>が漏れ聞こえぬように神経を張り詰めさせる。
自室に戻った頃には、それだけですっかり疲れてしまった。
(わたしは……)
侍女を下がらせ、少年はぐったりと寝台に倒れ込む。解れた黒髪が、彼の面差しに僅かに隠す。
「わたしは、いつまで……――」
――いつまで、こうして生きていかねばならないのだろう。
言霊として落ちそうになった弱音を、ぐっと堪える。こういうとき、普段は煩わしいと思える顔馴染みの従者の憎まれ口さえ、ひどく懐かしく感じた。けれど。
(止めよう。深く、考えるのは……侘しく、なるだけだ)
頬に触れる敷布のひんやりとした温度が心地好く、大鷦鷯は思考を止めて瞳を閉じた。
今はただ、何もかも忘れて、眠ってしまいたかった。
◇
日が沈み、辺りを闇が包む頃。
午睡から目覚めた大鷦鷯は、屋敷の大広間に腰を下ろしていた。その目の前には、山海の幸をふんだんに使った、豪勢な膳が並べられている。たが、給仕を行うはずの侍女の姿はない。代わりに、さも当たり前のように彼の前に居座る影があった。
咀嚼していた赤米を飲み込むと、大鷦鷯は胡乱げに彼女を見つめた。
「……何故、そなたがここにいる」
「さぁ、何故でしょう?」
大鷦鷯のお膳から拝借した里芋を剥きながら、昼間の女神は上機嫌に鼻歌を吹かす。それとは対称的に、彼の眉間には皺が寄った。
その様子に、そんなに力んでると消えなくなるわよー、と呑気な声が投げかけられる。
「誤魔化さず、説明してくれ」
「説明? ……あぁ、そういえば自己紹介がまだだったわね。あたしの名前は、赤玉媛。さっきも言った通り、太陽神と人間の間に生まれた半神で、訳あって難波に腰を下ろしているわ」
「……品陀和気命の第四皇子、大鷦鷯だ。難波には、親類の伝手で来ている」
そういうことじゃない、と思いつつも、大鷦鷯は律儀に彼女に答えた。
全てを見透かしたように薄紅の瞳が細められるけれど、それには言及せず、彼女は空いた左手で少年を指差した。
「ところで」
口いっぱいの芋を飲み込み、彼女は口を開く。
「その呪いは、一体、どう言った経緯で被る羽目になったのかしら。教えて、もらえる?」
ほんのりと色づいた指先は、少年の額へと――正確には、祖母が施したまじないの下に隠された呪印を示していた。
彼女に「誤魔化すな」と言った手前、彼はしばらくの沈黙の後、その重たい口を開いた。
「新羅討伐の際、祖父は住吉の神々に神託を請うた。けれど、彼はその神託が偽りであると一蹴し、従わなかった。……それに激怒した神々は、祖父を祟り殺したのだ」
はらり、とか細い音を立てて、布が解かれる。彼女の眼差しに促され、大鷦鷯はその忌々しい傷を薄紅の前に晒した。柔らかな肌には、まるで凶暴な獣の爪痕のような呪印がくっきりと浮かんでいた。
「だが、その呪いはあまりにも強く……孫のわたしにまで、この印が現れた」
当時、祖母の腹にいた父は、彼らから次の王となる神託を受けていたため、その影響を受けなかった。しかし、神々の呪いは完全に断たれた訳ではなく、数十年の時を経て、大鷦鷯の身に宿った。忌まわしい力と、短命の宿命と共に。
「まぁ、神の祟りは驚きの粘着力を誇るものねぇ。……あ、これも食べて良い?」
「……あぁ」
芋に飽きたのか、今度は魚の塩焼きを指で突きながら赤玉媛はのんびり答える。
溜め息混じりに頷くと、彼女は嬉しそうに頭から齧じりついた。何となく鵜を思い出す。
「大体の事情は、分かっただろう? 用がないなら、早く自分の居場所に帰ってくれ……そこの、蒸し鮑も食べて良いから……」
「あたし、引き籠もってるのって性格的に合わないのよねぇ。たまには、羽を伸ばしたいじゃない」
大鷦鷯の苦言には取り合わず、それでもちゃっかりと鮑は腹に収めつつ、女神はのんびりと声を上げた。少年の眉間の皺が、また一本、増える。
「それと、わたしに付きまとうこととは、全く関係ないだろう」
「あるわよぉー! 古来より、乙女は刺激的な展開を求めるものなの。こんな海辺の地で、都の皇子さまと出逢えるなんて、それだけで壮大な物語が始まる予感がするでしょう!?」
「残念ながら、わたしは、しな――痛っ!!」
真面目な顔でそう答えると、すかさず彼女の指が額を弾いた。
その思わぬ威力に、大鷦鷯は呻く。額の傷が、別の意味で疼いて痛い。
「……グダグダうるさいわね。恨むなら、あたしの縄張りで自害なんて計画した、過去の自分を恨むのね」
「っ!」
反論出来ない少年に、薄紅の女神は、ざまぁみろと言わんばかりに鼻を鳴らした。
腕を組み、踏ん反り返って見せるその仕種は、苛立つほど様になっていた。まず年季の桁が違う。
「まぁ、まだまだ時間はたっぷりとあることだし? これからお互いのことをよぉく知りながら、ゆっくりと仲を深めていきましょうね、大鷦鷯皇子さま」
「……丁重に、お断りする」
花さえ恥じらうような笑みを浮かべ、赤玉媛が手を差し伸べる。しかし、男なら誰もが応えてしまいそうなそれを大鷦鷯は一蹴した。
大きな舌打ちと共に、一匹だけ残った魚を略奪された。
◇
月は傾き、静かな潮騒が大鷦鷯を撫でる。
まるで暗い淵を覗くような闇に沈んだ海原は、けれど哀しげな気配を抱きながらも、何処か優しい。心地好い音は、この地に存在する全ての生命に囁きかけるように、子守唄を奏でた。
明かりの消えた部屋で、大鷦鷯は閉じていた瞳を開いた。少年の傍らでは、赤玉媛が半ば彼の褥を奪う形で寝入っている。試しに額を突いてみたが、起きる気配はなかった。それを確認すると、大鷦鷯は深い群青を寝間着の上から羽織り、そっと腰を上げた。
「……このまま、都になど戻るものか」
昼間は、思わぬ横槍に叶わなかったものの、大鷦鷯は諦めてなどいなかった。そのために、長い付き合いの従者を、別件で自分の傍から離れさせもしたのだ。彼はとにかく勘が良い上に、昔から何だかんだで世話焼きだった。きっと、大鷦鷯の望みを知れば、どんな手を使ってでも止めるだろう。だから。
全て、全て整えて来た。この呪いを、終わらせるために。
「――全てから、解き放たれるために」
危うい希求を口の端に浮かべ、大鷦鷯は衣を翻す。
夜陰に紛れるように、彼は月明かりだけを頼りに再び、海を目指した。