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春夜夢語  作者: 白藤宵霞
第壱章 難波の港
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 ここに天皇、大山守命(おほやまもりのみこと)大雀命(おほさざきのみこと)に問ひて詔りたまはく、「汝等は、()の子と(おと)の子と(いづ)れか()しき」とのりたまひき。ここに大山守命、「兄の子ぞ愛しき」と(まを)したまひき。次に大雀命は…… (『古事記』応神天皇 )



 深い闇の中、女は耳を塞ぎ、踞っていた。

 世界の全てを拒むように、その双眸は固く閉じられている。長い睫は鎖となり、開眼を許しはしない。

 それでも、細い指の間を縫って、無責任な願いが彼女の鼓膜を叩いた。


――難波(なにわ)御座(おわ)します、阿加流比売(あかるひめ)さま。

――どうか恵みの雨を。空腹を満たす実りを。

――どうか、わたしたち倭国の民に平安を……っ!!


 ある者は痩せ衰えた子を抱え、ある者は人の田畑から盗んだ作物を捧げ。

 骨ばかりの四肢に、破れた貫頭衣をまとい、貧しさを訴えるような不出来な穀物を奉り、彼らは一心に祈るのだ。

 涙を交え、ときには怒りを滲ませるその姿を、女は何よりも厭った。

(こんなの、何も変わらないじゃない。あの頃から、全然……)

 彼の手を払い、遠く海を越えて父の国へとやって来たのは、ひとえに「自由」になりたかったからだ。

 籠の中で堕落を貪り、美しく着飾っただけの、無力な鳥のような一生なんて、真っ平だった。それなのに。


「うるさい、うるさい、うるさあああぁいっ!!」


 込み上げる苛立ちのまま、女は叫ぶ。

 ぜぃ、はぁ、と肩を激しく上下させる彼女に、だが、それまでの祈りとは全く異なる穏やかな「声」が語りかけた。

『その願い、あたくしが叶えましょう』

「……あなた、誰?」

 不信感を隠すことなく、女は尋ねた。

 明らさまな棘を含んだ物言いにも構わず、姿の見えない声の主は、凪いだ海のように穏やかに答える。

『あたくしは、あなたと遠い(えにし)を結ぶ者』

 そう言われても、女にはその宛が思い浮かばなかった。

 彼女が生まれたのは、海の向こうの国だった。確かにあちらでは「夫」と呼ばれる配偶者はいたものの、彼とは血脈を残さぬまま、離別した。

 しかし、女は不思議とその声に懐かしさを覚えていた。

「あなたが、あたしの願いを叶えるっていうの?」

 そっと、耳を閉ざしていた掌を下ろす。

 百数年振りに、彼女は人間の声に自ら意識を傾けた。女の問いかけに、もちろん、見返りは頂きますわ――と、悪戯を思いついた少女のように、声はそう前置きをする。

『けれど、もしも、あなたがあたくしの願いを聞いて下さるのなら……あたくしが、あなたに自由を与えましょう』

 願い、というよりも、契約に近いその響きが、彼女の冷めきった胸を魅惑的に揺さぶった。

「――いいわ。交渉成立よ」

 その言葉に、声の主は喜び、声帯を震わせた。

 何度か涙を拭う衣擦れの音が響いたあと、神に捧げる祝詞を読み上げるが如く、凛とした約定が紡がれる。

『――あなたの名は、赤玉媛。その名の下に、自由となりて……どうか、あたくしの願いを叶えて』

 その瞬間、「阿加流比売」の神名に縛られていた身が、理より解き放たれた。

 そして、切実で、優しい願いが彼女へと託される。


「……任せてよ。首根っこを掴んででも、こちらに引き留めてあげるわ」


 にたりと笑ったその眼差しは、美しい薄紅色をしていた。



 朝日を反射させて、海が宝玉のように輝く。

 群青の空と、その色を写し取った透き通る水の色。美しい風景だと本気で思った。

「穢れのない、清らかな景色だ……」

 太古の昔から存在しながら、決して穢れることを知らないそれは、いつの日も美しく清らかだ。

 船着き場に腰掛け、ぱしゃぱしゃと浸した足で海面を蹴りながら大鷦鷯(おおさざき)は溜息を吐いた。

 年の頃は、数えの十七。俯いた横顔を、良く手入れされた黒髪が覆い隠す。

 時折、吹きつける風が角髪(みずら)を結った彼の頭を優しく撫でる。その感触は、幼い頃に失った面影を思い起こさせた。

(……人の心とは、大違いだ)

 生まれ出でたときは真っ新な魂も、時を経れば邪心に侵され、醜く穢れていく。

 特に、彼が生まれ育った都などは、その中枢とも言えた。

 繰り返される反乱、後宮に侍る后妃たち嫉妬心、数多の豪族たちが抱えた暗い思惑。そして、王位を巡る個人を越えた争い。ここ数年は落ち着きを見せる情勢も、細い糸のように頼りなかった。

 少年が、遙々、馬を走らせ難波の地へとやって来たのもそれに由来した。


 あれは、数日前に遡る。

 父・品陀和気(ほむだわけ)には、大勢の妃と御子がいた。その数は妃十人に対し、子は二十六人。そのほとんどが大鷦鷯にとって異母兄弟に当たる。

 その日、父はふたりの御子を呼び寄せた。

 大鷦鷯と、その兄・大山守(おおやまもり)。――彼らは七つも年の離れた異母兄弟だった。

「久しいな、ふたりとも。顔を良く見たい、もっと近くに参れ」

 父の言葉に従い、ふたりは玉座へと足を進めた。

 許された場所まで辿り着くと、どちらともなく、流れるような動作で礼を取る。その姿に、父が破顔した。

「さて、大山守と大鷦鷯よ。突然だが、お前たちは年上の子と年下の子と、どちらが可愛いと思うか。――どうだ、大山守」

「はっ」

 まず始めに意見を求められたのは、異母兄の方だった。

「わたしは、年上の子の方が可愛いと思います。どの御子にも親として愛情はあるでしょうが、その中でも、特に初めての子の誕生は、何物にも代えがたい喜びだったでしょう」

 兄の答えに、大鷦鷯は素直に心の中で感嘆の声を上げた。よく、この短い間に考えられるものである。

 確かに、父の長子である兄の誕生はそれは華々しいものだったと母が言っていた。そうして生まれた御子ならば、より可愛く思うに違いない。

「……うむ。では、大鷦鷯。そなたは、どう思う」

 次いで向けられた父の眼差しに、大鷦鷯の意識は現実へと引き戻される。

 兄よりも早く、というわけにはいかないが、それでも懸命に頭を働かせ、答えを弾き出そうとする。

(兄上の仰るように、やはり最初の御子への想いは特別だろう。けれど、それなら次に生まれた御子は? あるいは生まれて間もない嬰児への愛情は? それは、長子へ向けるものよりも劣るのだろうか……)

 父と兄が見守る中、大鷦鷯は考える。

 まさに、そのときだった。


――菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を。


 思考の狭間に、ズルリと入り込んだ自分以外の声に、大鷦鷯ははっと肩を強張らせた。

 反射的に、答えを待つ父の顔を、真っ直ぐと見返してしまう。

「さて。どうだろう、大鷦鷯」

「……お、畏れながら。わたしは、兄上とは違う考えです」

 大鷦鷯の返事に、父が僅かな期待に目を見開くのが分かった。ごくり、と緊張に喉が鳴る。

 何度か唾を飲み込んだ後、彼は慎重に口を開いた。

「確かに、年上の子……特に、初めての御子のご生誕への想いは、わたしなどには計り知れません」

 そうだろう、と兄が頷く。

「けれど」

 それを横目に見ながら、大鷦鷯は一度、大きく息を吐き、そして揺るぎない声で明瞭と告げた。

「年上の子は既に成人し、二親は我が子を一人前と認め、その背を誇らしげに見送ることが出来るでしょう。しかし、年下の子は未だ多くの書を読み、筆を持って字を習い、善悪を判断する力をつけるときです。二親が最善を尽くし、正しき道へ導いてやらねばなりません……それゆえに、年下の子の方が、より愛しく思われるのではないでしょうか」

 彼の回答に、深い沈黙が部屋を満たす。

 父が、口を開いた。

「……大鷦鷯よ、そなたの言う通りだ」

 息を弾ませ、興奮気味に大鷦鷯の答えに賛美を送った父は、次の瞬間、さっと表情を引き締めた。

「ふたりに勅命を下す。大山守は山海に関することを取り締まり、大鷦鷯は政の実際を報告せよ。そして、もうひとりの御子――菟道稚郎子には、わたしの位を継がせる……良いな?」

「御意」

 ふたりの御子は、静かに頭を垂れる。

 だが、大鷦鷯の伏せた顔には密かに苦渋が浮かんでいた。冷や汗が背中を流れていく。


――大鷦鷯め、余計なことを。


 空気に触れない言の葉が、大鷦鷯の心の臓を掠める。

 しかし、父も、そして傍に控える衛士たちも、それに気づくことはない。だが、少年は確信した。


 これは、兄の声だ。兄の、心の声だ。


 大鷦鷯だけが、彼の心に巣食うその黒い感情を捉えた。

 そのまま、父と兄が和やかな会話を交わす間も、指先の震えは止まらなかった。

「――大鷦鷯」

 部屋を後にすると、真っ先に大山守に引き止められた。

「大山守兄上……」

 その声は真っ直ぐで、そして口の端を染める色は何処までも穏やかだった。本心を、これっぽっちも悟らせない完璧な仮面。

「畏れ多くも、身に余る大役を賜った。父上の期待に添えるよう、互いに励もう」

「は、はい。……わたしも精進します、……兄上」

 友好的な笑みを浮かべる兄に対し、大鷦鷯は声が上擦らないようにするのに必死だった。

 その様子を、大役への緊張と受け取ったのか、大山守は小さな微笑と共に彼の肩を叩くと、何事もなかったように控えていた従者の元へと踵を返した。

(兄上は、後継の座が欲しかったのだ……)

 だが、父はその座を大鷦鷯たちの異母弟――菟道稚郎子にと、望んだ。

 そして、大鷦鷯は父の本音を汲み取り、彼が望む答えを仕立て上げた。

「ぅ……っ」

 今になって、恐怖がせり上がり、激しい吐き気が少年の身体を襲う。

 と同時に、その存在を主張するように、額に巻いた布地の下で傷跡が疼いた。

 額にくっきりと刻まれた、夜空に輝く三日月を思わせるその傷を、巫覡(ふげき)の才を持った祖母は<月の呪印>と呼んだ。かつて、神託に逆らった祖父を呪い殺した、神々の爪痕であると。

 それ故か、その傷と共に、彼にはこの世に生まれ出でたときから不思議な力が備わっていた。

 月は<夜>に通じ、夜は<(いん)>に属する。

 陰の気に触れるたびに呪印は疼き、そして少年の鼓膜に聞こえないはずの<声>を伝えた。――大鷦鷯は、人の心の<闇>を聴くことが出来た。



 血の繋がった親兄弟でさえ……いや、むしろ血脈の繋がりがあるからこそ、そこに横たわる闇は深い。どれだけ晴れやかな笑みを浮かべてはいても、その心には暗い思惑が蛇のように絡み合っているのだ。

 それに、嫌気が差した。

 だから、父に(いとま)をもらい遠い親類のいる難波へとやって来た。

 少しの間でもいいから、都から離れたかった。何もかも、捨て去ってしまいたかった。

「この呪いから、逃れたい……」

 水面に浸した素足を、くるりと回す。

 生じた波紋は水鏡を狂わし、そこに映り込んだ少年の面差しを歪めた。

 水は、清めの力を持つという。

 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)(はらえ)によって黄泉の穢れを落とし、大祓の穢れは水の性を持つ女神たちによって地下世界へと流された。

 それならば、この手を離し、わだつみの国へと飛び込めば、この呪われた身体さえも浄化されるのだろうか。

(あんな場所に、あれほど凝り固まった闇の中に、わたしは戻りたくはない……もう、耐えられない)

 いつか、人々の怨嗟の声がこの身を蝕み、生命を腐敗させていくのなら。

 まだ、この身が抗い切れている間に、手遅れになってしまう前に。……自ら、生命を絶とう。


「――そして、わたしは自由の身となれるのだ」


 希望に酷似した言葉を呟いて、大鷦鷯はぎゅっと拳を握った。

 そして、彼は躊躇うことなく、その身を海面へと投げ出した。



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