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春夜夢語  作者: 白藤宵霞
序章 陰月が誘ふ夢
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※この作品は、旧合同サイト「花信風」で連載していた『春夜夢語』の改訂版です。

 その大后(おおきさき)息長帯日売命おきながたらしひめのみこと当時(そのとき)帰神(かむがかり)したまひき。

 かれ、天皇(すめらみこと)筑紫の訶志比宮(かしひのみや)(いま)して、熊曾国(くまそのくに)を撃たむとしたまひし時、天皇御琴(みこと)()かして、建内宿禰(たけしうちのすくね)大臣(おほおみ)沙庭に居て、神の(みこと)を請ひき……(『古事記』仲哀天皇 )



『この天下(あめのした)は、そなたごときが治める国ではない』


 自身の小さな唇から溢れる言葉に、若い乙女は戸惑う。

(これは、あたくしの言葉ではないわ)

 霞がかったような意識の中で、彼女はゆるゆると(かぶり)を振った。

 こんな高圧的な言葉を、自分が夫に言うはずなどなかった。常に伴侶となる男に寄り添い、陰から支えよと、そう教わって来た。輿入れして以来、夫を貶めるような言葉も、傷つけるような言葉も、一度として発したことなどない。彼女は従順に、生きてきた。

(それなら、この言葉は一体……)

「今、何と……」

 その言葉に、男が苦々しさを噛み締めながら尋ねる。

 女の意識を宿したまま、唇が動いた。

『……聞こえなかったのか? この天下は、そなたごときが治める国ではない』

 再び、部屋に響いた声の端には、隠しきれない神々しさが滲み出ていた。

 当初、戸惑いを隠せなかった彼女だが、やがてそれが八百万の神の意志であることを理解した。それは、直感にも似た思いではあったけれど、揺るぎない確信が胸を満たした。

(あたくしは、神降ろしに成功したのだわ!)

 不確かな意識が、拓ける。

 おぼろげだった瞳は急速に光を取り戻し、まろやかな頬に朱が差した。

(これで、この戦にも勝てる。あたくしは、妻として、大王(おおきみ)のお役に立てるのだわ――!!)

 込み上げる喜びに、思わず夫を振り仰ぎ……けれども少女のような華やかな笑みは、次の瞬間、絶望へと落とされる。

 帯中日子命たらしなかつひこのみこと――後に、仲哀(ちゅうあい)天皇と称される男の瞳に、乙女は声にならない悲鳴を上げた。

 そこにあるのは、狂気に満ちた殺意。

 琴を一心に愛し、臣下たちの目を恐れていた臆病な男は、最愛の女の口から出た託宣に逆上していた。

 その心の拠り所とも言うべき琴の弦は切れ、死体のように部屋の隅に転がっている。


――弱さは時として、人を鬼へと変える。


息長帯比売(おきながたらしひめ)、そなた、よくも……っ!!」

「あぁ……っ」

 細く白い首を締め上げる手は、決して容赦を知らない。

 今にも骨が砕け、器官が潰れてしまいそうな夫の腕の力に、息長帯比売は恐怖を貼りつかせたまま、もがいた。視界がぼやけ、意識が遠くなる。

「や……お、き……みぃ……っ」

 息が苦しい。呼吸が出来ない。

 口の端からは飲み切れない唾液が零れ、溢れ出るそれに器官は咽び、しかし締め上げる男の手が楽になることを許しはしない。終いには床に押し倒され、胸を圧迫する重圧に、息長帯比売は短い痙攣を引き起こした。

 懸命に抉じ開けた彼女の双眸に映るのは、恐ろしい形相をした夫の紅い瞳だけ。

(いや、いやだっ、殺されるっ!!)

「……ゃ、やめてぇっ!!」

 最後の力を振り絞り、彼女はがむしゃらに手足を振り回した。

 思わぬ抵抗に、男の手が僅かに離れる。その隙を見て、息長帯比売は這う這うの体で戸口へと逃げる。しかし、未だ恐怖に震える四肢は、すぐに引き戻された。

「ひぅ」

「許さぬ、許さぬぞ、息長帯比売……っ!」

 再び、彼女の喉へと手が伸ばされる。心の中で、息長帯比売は叫んだ。

(助けてっ、助けて、神よ――っ!!)

 その瞬間、首筋へと触れた男の手がぴくりと震えた。

 狂気に満ちた瞳の色が、恐怖へと差し替わる。


『――そなたは黄泉の国へと一道(ひとみち)へ向かえ』


 乙女の叫びに応えるかのように、その口から託宣が重たく響いた。



 嵐が過ぎ去ったような激しい物音と悲鳴に、建内宿禰(たけのうちのすくね)は礼儀も忘れ、慌てふためきながら垂絹に隔たれた奥部屋へと足を踏み入れる。

「大王っ、大王さま――っ」

 目前に広がるのは、不自然な闇と静寂。

 灯りの掻き消えた名残香が、彼の鼻先を掠める。開け放たれた格子からは、月の僅かな光さえもなく、潮騒が響くこともなかった。まるで、森羅万象が何かに怯え、息を押し殺してしまったかのように。

(これは、おかしい……)

 闇に慣れてきた瞳は、そこでやっと、人の影を認識する。

 部屋の中央に横たわるその姿は、彼が長年仕えてきた主君のものだった。

「大王、大王!?」

 急ぎ、別の部屋から灯りを携えて戻ってきた彼は、ぴくりともしない男へその輝きを翳した。

「……ま、まさか……そんな……」

 最悪の事態が脳裏を過ぎる。彼は消えた灯台へと火を移した。

 ゆらゆらと妖しく揺れる炎が照らす腕の中、大王の息は既になかった。

 その顔は青ざめ、瞳は驚きのまま、そこで時を止めていた。


――もしや、暗殺か。


 だが、強く押さえられた胸元にも、白い純白の衣にも、一滴たりとも紅い色彩は見られなかった。

(おかしい……)

 父・日本武尊(やまとたけるのみこと)と比べれば、身体の弱い方ではある。

 だが、この道中で病の兆しが一切なかったことは、大臣の位を賜る宿禰も確認済みだ。

 外部からの傷を受けない限り、こんなにも急に身罷るはずがなかった。

「何故、何故、大王は……」

 混乱に周囲を彷徨う瞳は、だが、そこで新たな人影を見つけた。

「っ、皇后さま……!」

 彼女の名を叫ぶと、蹲ったその肩がぴくりと反応を示す。

 その無事に一先ず、安堵の息を吐いた彼だったが、目に映る光景はあまりにも悲惨だった。

 灯台の光を受けて艶めく豊かな黒髪は乱れて床を彷徨い、白い単の胸元からは透き通るような肌が露わとなっている。

「ぁ……ゃ、……」

「皇后さま、この、状況は一体、何が……――」

 しかし、宿禰の言葉を遮るように、彼女が顔を上げた。

 その表情は、事切れた大王と同じように、恐怖に青ざめていた。小さな淡紅が、ぱくぱくと音にならない悲鳴を懸命に伝える。濡れた眼差しは、助けを求めるように揺れ惑っていた。

「す、すくね、どの……っ」

「皇后さ、ま……」

 宙を彷徨う右手に、彼が身を乗り出した。そのとき。

「ぅ……」

 后の四肢が激しく痙攣する。瞳は焦点を失い、獣の呻き声に似た、意味を成さない不快音が耳を劈く。あまりの光景に、宿禰は言葉すら忘れた。女の口から、畏怖の声が放たれる。

「い、いやっ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ、もう、許してぇ!!」

「こ、皇后さ――」

「いやだ、だれか、い……嫌あああああぁ――っ!!!」

 髪を掴み、大きく頭を振るその唇から、一際、鋭い悲鳴が上がった。


――と。


 不意に、全ての音が静寂に沈む。

 振り乱した女の髪がくたりと床に落ち、後を追うようにその身体が崩れ落ちる。細い肩が、何かを堪えるように小刻みに揺れていた。

 皇后さま――。

 そう、声をかけようと、伸ばされた宿禰の手は、がばりと顔を上げた彼女の行動に引き止められる。

「ひっ……!」

 代わりに、男の口から情けない悲鳴が漏れた。

 そんな彼を嘲笑うように、目の前の女は――にたり、と笑った。

『愚かなり、愚かなり』

『この国は、この皇后の腹の御子が治めるべき』

『そこの愚かな男には、治めることなど出来ぬ』

 しゃがれた、老人のような三つの声が年若い后の朱唇から漏れた。

 宿禰を射ぬく瞳は空虚で、紅を引いた口の端が浮かべる笑みは禍々しく、けれど、ぞっとするほど美しい表情であった。それは、まるで、神の言葉を告げる巫女のような――。


 そして、大臣は気づかなかった。

 大王の額に、くっきりと紅い三日月が刻まれていることに……。



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