十.五話目 2
暫く、彼女の発した言葉の意味が分からず、俺は呆然と佇んでいた。
だが、耳から伝わったその言葉が頭の中へたっぷりと満遍なく染み入った瞬間、その言葉の意味をようやく理解することができた。
「お母さん……?」
そう彼女は言った。
確かに言われてみればすっきりと整った顔立ちやら、手入れの行き渡ったセミロングの黒髪等、うっすらと倉葉の面影が垣間見える。が、この覇気と例えても差し支えないであろうこの圧倒的な存在感。娘である倉葉の温和で人畜無害な雰囲気とは明らかにかけ離れ過ぎている。親子だというのにこの二人の間には、何らかにおいて天と地ほどの差があるように感じられた。
「……この期に及んで、お母さんだなんてよくも軽々しく言えたものね」
倉葉母が口を開いた。その声音は、母が娘に向けるものとは到底思えない程の冷たい声だった。あろうことか眉と眉の間には、不快感をはっきりと示す縦皺がくっきりと刻み込まれていた。
「もっ、……申し訳ありません……」
倉葉も倉葉で、まるで主君に対して頭を垂れる家臣の様に、娘が母に向ける態度とは思えない程、異様に低い姿勢で謝罪した。
「結構よ。謝るだけなら子供でもできる……。それよりも、私が何故遥々ここまで来たか分かるかしら」
「い、いいえ……分かりません……」
はあ、と倉葉母が大仰な仕草でため息をついた。物分かりの悪い愚かな娘に失望した、とでも言うように。
「あなたの様子を見に来たのよ。最近やたらと帰りが遅いから、何をやっているか気になって、仕事の合間に時間を作って、自分の目で見ることにしたの」
倉葉母は心底軽蔑したかのような表情を浮かべ、高圧的な視線を倉葉に……いや、俺達に向けた。
「来てみればこの様よ。……あなた何をやっていたの?今まで夕飯の時間になるまで男とほっつき歩いていたの?勉強にも碌に手を付けずに?……なんて馬鹿なのかしら。言葉も出ないわ」
倉葉はまるで氷の刃のように冷たく、次々に飛んでくる母の言葉を黙って聞いていたが、やがて耐えられなくなったのか、完全に俯いてしまっていた。彼女が今どのような表情をしているのか、長い髪に隠れてしまっているので全く見えないが、見るに堪えない顔をしているだろうということは想像に難くない。
俺が倉葉に何か言葉を掛けてやるべきか思案していると、不意に倉葉母が俺の方を見た。……いや、目つきのキツさとそれに含まれた明確な敵意を推し測ってみる限り『睨んだ』と形容する方が合っているかもしれない。
「それと貴方。率直に言わせてもらうけれど、もうその子に関わるのはやめてもらえないかしら」
「えっ……ちょっと、それどういう……っ!」
言葉の意味を測り兼ねた俺が食って掛かっても、倉葉母は平然とした表情で淡々と続きを語った。
「どうもこうも、そのままの意味よ。貴方がその子に余計なちょっかいを掛けたせいでこっちは迷惑しているの。貴方が何を頑張ろうと決してその子の為にはならないわ。だからもうその子には関わらないで。……私の言ってること、お分かりかしら」
つまりお前はうちの娘の教育に悪影響を及ぼす恐れがあるから付き合うなと。そう言いたい訳だ。
「って納得できるわけ無いでしょう!倉葉の為にならないってなんであなたがそんな事言えるんですか!?」
生憎だが突然何の前触れも無く現れ、いきなりそんな不条理な事を言われ、はいそうですかとあっさりと引く程、俺は物分かりの良い奴ではない。刺殺されかねない勢いで発せられる眼光に辛うじて正面から耐えながら、俺は抗議の声を上げた。
倉葉母は俺の言葉に眉根を寄せ、微かに舌を打ちつつ冷酷に言い放った。
「分かっていないのね貴方。その子には成功する未来が約束されている子なの。……少々きつい言い方かもしれないけれど、……貴方とは違うの。
……さあ、いつまでもこんな所でぐずぐずしてられないわ。……帰るわよ。乗りなさい」
倉葉母はそこでつかつかと歩み寄り、片手で倉葉の腕を掴みあげた。
「えっ……あ、あの……ま、待ってくださ……」
困惑する倉葉など全く意にも解せず、そのまま半ば引き摺るようにして強引にリムジンの方へ歩いて行くと、扉を開け、リムジンの後部座席に倉葉を放り込んだ。
「さてと、突然ごめんなさいね。できればもうこの子と関わらないでもらえると助かるんだけど……まあそれはそれとして、ではごきげんよう」
倉葉母は俺にそう言い残すと、自らもリムジンの助手席に乗り込むと、そのままあっという間に発車してしまい、やがて十字路の角を曲がっていき、見えなくなってしまった。
「……ふむふむ、いや、なかなか強烈なキャラだったな。あのご婦人」
振り返ると、いつの間にか俺のすぐ背後に勝山が立っていた。……何時からなのかは分からないが、どうやら今までの出来事を見ていたらしい。
「……だよなぁ。俺もまさか倉葉の母親があんな極道の嫁みたいなおっかないお方だとは思わなかった」
「で、どうするのだ日瀬よ。まさかあのご婦人の言われるがまま、という訳でもあるまい」
勝山がニヤリと俺に笑いかける。いつもながらそこはかとない邪悪を感じる悪い顔だ。『計画通り』と書かれたフキダシを堂々と掲げてやりたくなるくらいだ。
「それについては後で考える。……ところで勝山。一つ聞きたいことがあるんだが倉葉の家って、もしかしてすごい金持ちだとか、伝統ある家柄だとか、……なんかそんな感じなのか?」
俺が質問を投げ掛けると、勝山は急に何故か目を甚く丸くし、キョトンとした表情を浮かべた。
「……もしかしなくとも貴様、今まで何も知らなかったのか?」
「ああまあ……それっぽい片鱗は時々見え隠れしていたんだが、倉葉は余り自分の家の事を語りたがらないからな」
「うむ。それについては……少々長い話になるだろう。然るべき場所で話そうではないか」
勝山は腕を組み、大仰な仕草でうんうんと頷きながらそう言った。
次回もいつも通り、大体2週間以内に投稿します。




