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「キミの心を見せてあげるよ」
レツの姿は見えないけれど、広い奥殿の中に静かに、けれど鮮明にレツの声が響き渡る。
まるで泉に零れ落ちる水が波紋を広げていくように、レツの声がすーっと広がって心の中に入り込む。
上手くご神託を伝えられたっていう興奮が、レツの声で急速に小さく萎んでいく。
触ると熱いくらいだった紅潮した頬の温度も、あっという間に引いていく。
キミの心を見せてあげるよって、一体どういう意味なの?
全神経が研ぎ澄まされて、レツへと紡がれていく。
「レツ」
見えないレツの姿を探して、首を振り周りを見渡しながら奥殿の奥へ向かって歩いていくけれど、レツの姿はどこにも見えない。
バタン。
背後で扉の閉まる音がして振り返る。
そこにレツがいるのかと思って振り返ったのに、レツの姿は無い。
きっといつものように、その力で、見えない手で扉を閉めたんだろう。
そう思い、溜息を一つついてから奥殿の奥へと目を移す。
天窓から降り注ぐ淡い光の中、ここにいるはずの無い人がいる。
どうして。
なんでここにいるの?
その姿を見たら、言葉を失ってしまった。
にっこりといつものように余裕の笑みを浮かべて、青い石の光る右腕を差し伸べて。
こんなところにいるはずがないのに。
心臓が早鐘のように高鳴り、耳にうるさいくらいの音を立てる。
伸ばされた右腕で手招きしているのが見える。
その声は聞こえないけれど、口が私の名前を呼んで動く。
この神殿の誰も、私の名前を呼ばないのに。
まして、村で呼ばれていたときのように呼ぶのはあなただけ。
その人の名を呼ぼうとするけれど、パクパクと口が動くだけで言葉にならない。
喉が焼けるように熱くなり、その熱が喉から胸へ、そして全身へと広がっていく。
その人の名前を口にしたら、私の中の何かが崩壊する。
諦めよう、もう忘れようと思っていた想いで、胸の中がいっぱいになる。
ここは奥殿の中なのよね。
私、水竜の神殿にいるのよね。
なのにどうして、何でこんなことが。
巫女意外は入れない場所なのに、どうしてあなたがここにいるの。
祭宮カイ・ウィズラール。
手招きをやめ、ふっと意地の悪い笑みを浮かべ、一歩一歩こちらへ近付いてくる。
瞬きする事も出来ない。
その姿から目が離せない。
確かに、さっき会ったのと同じウィズその人だわ。
こんな事ってあるの?
どうしてこんな風にここにいるの?
奥殿は私以外は誰も入れない。それ以前に神殿の中に外部の人間が入ることは許されていないのに。
何であなたがここにいるの。
声に出せないまま、何度も何度も問いかける。
その間にどんどんウィズは近付いてくる。
諦めなきゃいけないって、わかっているのに。
ウィズは私のことなんて見ていないってわかったのに。
たった一人、神官長様だけを想っているのに。
もう期待したらダメなんだって、身をもってわかったばっかりなのに。
それなのに、こんな風に出会ってしまったら、心のタガが外れて気持ちが抑えられなくなる。
伸ばされた手を取りたい。
いっそこの気持ちを打ち明けてしまいたい。
どうしようもなく恋焦がれる熱情の渦に、飲み込まれていってしまいそう。
こんな風に強く人を好きだなんて思ったことは無い。
ウィズに会っている時だって、意識する事なんて無いのに。
体中から好きっていう気持ちが溢れ出して止まらなくなる。
少しずつ近付いてくる姿から、片時も目を逸らす事が出来ない。
一歩、また一歩と近付いてきて、手を伸ばせば届くところで立ち止まる。
何もいわず見つめられるだけで、私も何も言えずにじっとその瞳を見据える。
とびっきりの王族で、私とは生まれも育ちも何もかも違う人。
彼のどこに惹かれるのか。
どうして彼がいいのか。
決して実らない恋だと知っているのに、私はきっと何度出会ってもこの人に恋をするんだろう。
王族としての威厳に満ちた態度にも、全くその出自を感じさせない態度の時にも。
二つに分かれてしまった石が、もう一度一つになりたいと願っているかのように、惹かれる気持ちはきっとこの先も変わらないんだろう。
あの日、村で出会ってしまったから。
あの時、誰よりも頼りにしてしまったから。
もうあの瞬間を無かった事には出来ないから。
成長して戻って来いといったその言葉を拠り所に、今まで巫女として頑張ってきたのだから。
この人がいなかったから、私は巫女になっていなかったのだから。
あなたこそ、今の私を作り出した人。
「サーシャ。そんなに祭宮がいいの?」
ウィズの口から漏れた声はレツの声。
その声には、ありとあらゆる感情が混じりあっているようで、何一つ感情が無いみたいに聞こえた。
レツの声に心臓がドキンと大きく跳ね、全身に震えが走る。
「これはキミの心が見せる幻。一番キミの好きな人の姿が見えるだろう」
そういうとウィズが大きく手を広げる。
絶句して、レツなんだかウィズなんだかわからない、目の前にいる人を見返す。
姿はウィズ。けれどもその声はレツ。
「こんな風に祭宮にされたいの?」
ウィズなのにレツの声と表情で、イタズラを企んでいる時のように笑う。
その笑みに、ぞくっと背筋が寒くなる。
ウィズの腕がすっと体に回されて、ぐっと抱きしめられる。
それがひどく現実感が無くて、背中に回された腕が冷たくて、ますます体の震えが酷くなる。
「怖がんないでよ。別に、何もしないよ」
クスクスっとレツが笑う。
これはレツなんだと、レツが何らかの力を使って起こした幻なんだと、そのレツの笑い声ではっきりと認識した。
レツ。
抱きしめられたままで動く事すら出来ないでいると、耳元でレツが囁く。
「ごめんね、サーシャ。キミの大好きなヤツじゃなくって」
楽しそうに告げる言葉に悪寒が走る。
心の中で警報が大きな音を立てて鳴り出す。
何でだか、わからない。
でもこのままじゃいけない。
心の多くのどこか、本能に近い場所がダメだダメだと叫んでいる。
それなのに、金縛りにあったかのように体はぴくりとも動かない。
何かが狂う。
このままじゃ何かが壊れてしまう。
「もっと甘い夢が見たかったかなー。あはははははっ」
面白いわけではないのに笑っているのだと、その笑い声から伝わってくる。
「何で王族なんだ。いつもあいつらはボクの大切なものを奪い取る」
呟く声からは、明らかに憤りが伝わってくる。
「あんなヤツを見ないでよ。ボクを見てよ」
「レツ」
ぐっと、体に回された腕に力が篭められる。
痛い。
痛くて体を捩ろうとしても、レツの力が強くて動く事が出来ない。
「こうすればキミに触れられるのに。ホントのボクはサーシャに触れることすら出来ない。今こうやって触れている感じがあるのに。なのに、ボクはキミの頬に触れることすら出来ないんだ」
さらに強い力で抱きしめられたかと想うと、すっと力が抜け、目の前にはレツが座り込んでいる。
しゃがんでその手に触れようと手を伸ばしても、手の影を素通りするだけで冷たい床の感触が手のひらに広がっていく。
レツの腕と私の腕が、一つに溶けあうように重なっている。
触れたくて触れられない。
顔を上げようともせず、レツがポツリと呟く。
「ボクだけを見てよ」
ばっと、レツが勢いよく顔を上げる。
「ここにいる間だけでいいから、ボクだけを好きになって! サーシャを選んだのはボクだよ。祭宮なんかじゃない、ボクが選んだんだ!」
「……私、レツのこと好きだよ」
「知ってるさ! 弟みたいに、小さい子を想うみたいに好きなんだろっ。そんな好きは欲しくない。そうじゃない。祭宮みたいにボクのことを好きになってよ!」
レツの瞳が光を弾く水面のように輝いている。
水面からは水が今にも溢れ出しそう。
「ボクだってサーシャにあんな風に想われたいよ。愛なんていらない。狂ってしまうほどの恋をボクにちょうだい!」
「……レツ」
何もいえなかった。
レツが言うとおり、一人っ子の私に出来た初めての弟のような気持ちで、レツに接していたから。
「ボクを見てくれないなら、サーシャなんてもういらない!」
レツの絶叫が奥殿に響き、反響する。
深い泉の色の瞳からは、こんこんと涙が湧き出してくる。
その涙の一滴が、重ねた手のひらに零れ落ちてくる。
触れることが出来ない涙の落ちた場所が、ほんのりと暖かいような気がする。
その暖かさが、レツの心そのもののような気がして哀しくなる。
溢れる涙をそのままにして、子供みたいに泣きじゃくる。
その姿を可愛いと思うし、守ってあげなきゃって思う。
それと同時に、この小さい「モノ」にいらないと言われた事がとても不安になって、どうしようもない気持ちでいっぱいになる。
レツに二度と会えなくなることが、何故かものすごく怖くてしょうがない。
どうか、そばにいさせて。
いらないなんて言わないで。
「私、祭宮のことはもういいんだ」
レツの顔から目を逸らし、出来る限りあっけらかんと装う。
絶対にレツから離れたくない。
レツともう離せなくなるのも嫌。
それに、もう忘れるって自分で決めたんだもの。
「嘘だ」
真っ赤な鼻をすすりながら、レツが抗議する。
「本当だよ。だって祭宮は私以外の人を想っているもの。それに身分だって違いすぎる。こんな恋は不毛でしょ?」
「……祭宮が、なんだって?」
レツの問いかけには答えない。
ウィズが想うあの人のことをレツにいう気は無かったし、その人のことを口に出すのすら嫌だったから。
「だからってわけじゃないけれど、ちゃんとレツのこと見るよ」
「ふーん」
不満げに含みのある顔で、レツが何かを考えるような仕草をする。
「もう弟みたいに思ったりしない。ちゃんとレツのことを一人の人としてみるよ。って、レツは人じゃないか」
クスクスっとレツが笑う。
「約束する?」
「うん。約束する。その印にこれをあげる」
首に手を回し、細い鎖でつないであった青い石を取り、レツの前に置く。
レツは不満そうな顔で石を一瞥する。
「こんなのいらない。呪いがかかる」
「呪いなんてないよ」
「じゃあ怨念」
「え?」
きっと何も言わなくても、この石の由来をレツは知っているんだろう。だから余計に苦虫をつぶしたような顔をするんだ。
「とにかくいらない。サーシャがいらないなら、泉にでも捨てとけば」
まるで興味なしといった顔で立ち上がり、鎖を持ち上げて私の目の前に石をぶら下げる。
レツは本当にイヤイヤ、まるで汚いものを触るかのように指先でつまんで、石を見ないように顔を逸らす。
鎖を受け取り、とりあえずそれと服の袂にしまう。
何も言わずに立ってどこかを見ているレツの横顔を見上げると、やはりその姿は少年のようにしか見えない。
レツときちんと向き合う事が、とてもとても難しい事のように思えてくる。
姿かたちで恋をするっていう訳じゃないけれど、でも目から入ってくる情報が恋愛対象外だと、ありありと伝えている。
そのうち、何とかなるかな。
目に見えることがこんなにも厄介だなんて。
いっそ姿が見えなければいいのかな。
ううん、でもそれはそれで寂しいし。
本質、と以前レツが言っていた。
私が見ている姿は、水竜の本質だって。
ということは、その姿は当面変わらないって事よね。
全部ひっくるめてレツってことなんだから、姿がどうだとかって言っているうちは、まだまだってことね。
溜息をついて顔を上げると、レツがにっこりと笑う。
その笑みにつられて、レツに笑い返す。
それだけで、レツが嬉しそうに頬を緩める。
そんなちょっとの事が、くすぐったいような甘ったるいような、心が満たされていくような感じがした。
「ねえ、レツ。ここでずっと二人でいられたら、幸せになれるのかな」
「何でそんな風に思うの」
「何となく」
上手く理由は言葉に出来ないけれど、レツといる時、すごく穏やかな気持ちになれる。
それは初めて出会った時から変わらない。
だから、ずーっとずっと誰にも邪魔されずに一緒にいられたら、きっととっても満たされた気持ちになれる。
奥殿で二人っきり。
何もしなくてもいい。
ただ陽だまりの中で二人でいられればそれでいい。
それに今は誰にも会いたくない。
前殿に戻ってシレルの顔を見たら、全部また思い出す。
醜い私の心の中。
どうしようもない行き場のない気持ち。
そういうものを今は何も見たくない。ここにいれば、そんな汚いものと離れていられる。
「さあね。幸せになれるかどうかはしらないけれど、サーシャのしたいようにすればいいよ。……今は、ね」
変わらない笑みを浮かべたままレツが告げる。
けれど、その瞳は遥か遠くを見ているようにも見えた。