『美貌のジゴロは、冷徹な妻に買い叩かれない』 ~無能なヒモだと思っていたら、妻に営業の天才だと見抜かれ、気づけば王国一の実業家になっていました~
『美貌のジゴロは、冷徹な妻に買い叩かれない』
~無能なヒモだと思っていたら、妻に営業の天才だと見抜かれ、気づけば王国一の実業家になっていました~
「君の髪は、まるで朝露を吸った亜麻の花のようだね。……ああ、でも今日はお疲れかい? ほんの少し、左の目元に影が落ちている。僕の胸で少し休むといい」
昼下がりの豪奢なサロン。
羽毛を詰めたソファに腰掛け、四十がらみの伯爵夫人の手の甲に恭しく口づけを落とす男がいた。
カイル・フォン・ヴェルナー。
由緒正しき貧乏男爵家の三男坊にして、現在はクランツ男爵家の婿養子。
そして王都の社交界において、知らぬ者のいない当代きっての「美貌のジゴロ」である。
艶やかな金髪に、春の湖面を思わせる青い瞳。すらりと伸びた手足と、貴族らしい優雅な所作。
その指先は、女性の柔肌に触れても決して傷つけぬよう、毎晩欠かさず手入れされている。上着からは白檀と柑橘を調合した香油がほのかに香り、微笑み一つで令嬢から老婦人まで頬を染めさせた。
だが、彼の真の武器は美貌ではなかった。
それは、相手の心を読み取る観察力と、どんな愚痴にも耳を傾ける傾聴力。そして、相手が最も欲している言葉を、最も欲している瞬間に差し出す才能だった。
伯爵夫人が夫の無理解を嘆けば、
「それは君が聡明すぎるからだよ。君の素晴らしさに、彼がまだ追いつけていないだけさ」
と慰める。
富裕な商人の未亡人が孤独を訴えれば、
「僕の前では、強い女傑でいなくていい。君だって、誰かに甘えていいんだ」
と、その手を包み込む。
そして仕上げに、少しばかり恥じ入るように視線を伏せるのだ。
「……いつか僕も、君のような素晴らしい女性にふさわしい男になりたい。自分の力で大きな事業を興して、君を堂々とエスコートできるような男にね。けれど、今の僕には何もない。情けない話だろう?」
この言葉に、貴婦人たちは決まって胸を打たれた。
「まあ、カイル。そんなことで悩む必要はありませんわ。あなたには才能があるもの。夢を叶えるためなら、わたくしが力になりましてよ」
そうして差し出される小切手を、カイルは一度だけ遠慮してみせる。
二度目には受け取る。
三度目には、感極まったように相手の手を握る。
完璧だった。
少なくとも、カイル自身はそう思っていた。
その日も、上着の内ポケットには高額小切手が数枚と、贈り物の宝石付きカフスボタンが収まっていた。
貴婦人を馬車まで見送り、車輪の音が遠ざかったところで、カイルは大きく伸びをした。
「――ふぅ。本日も売上良好、と」
小切手を指先で弾き、口元を吊り上げる。
「女の機嫌を取るだけで金が湧いてくるんだから、真面目に剣を振ったり、泥臭く働いたりする連中の気が知れないね」
鼻歌交じりに屋敷の奥へと足を踏み入れる。
その先で、冷涼な声が彼を迎えた。
「お帰りなさいませ、カイル様。本日の営業活動、ご苦労様でした」
執務机に向かっていたのは、彼の妻であり、クランツ男爵家の現当主でもあるエレノアだった。
飾り気のない濃紺のドレス。きっちりと結い上げた黒髪。琥珀色の瞳は、手元の帳簿に注がれている。
机には分厚い書類の束と算盤。
その姿は貴族の若奥様というより、商会の敏腕支配人といった方がふさわしかった。
カイルが貴婦人たちから金を巻き上げていることを、エレノアは最初から知っている。
そもそも、彼を婿養子として迎え入れたのは彼女自身だった。
「やあ、僕の愛しい奥様。ほら、見てくれ。今日も王都の大口顧客からこれだけ集めてきたよ」
カイルは小切手を机の上へ滑らせた。
「君の実家の借金返済に使ってくれて構わないよ? 僕にできることなんて、この程度だからね」
甘く微笑む。
妻の前でも「不甲斐ない僕を支えてくれる頼もしい女性」という構図を演出するのは、もはや習い性だった。
だが、エレノアは微笑まなかった。
小切手の額面を一瞥すると、算盤を弾き始めた。
「本日の受取総額、金貨八十枚相当。……なるほど」
「なかなかのものだろう?」
「では、原価を差し引きます」
「……げんか?」
カイルは目を瞬かせた。
「貴方が本日着用された特注シルクのシャツの減価償却費。香油の仕入れ値。最高級蜜蝋を使用した手指の手入れ。馬車代。贈答品。さらに、接客に費やした四時間の機会費用」
エレノアの指が算盤の上を滑る。
「これらを総合すると、貴方の収益構造は、あまり健全とは言えません」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。僕は身一つで金を稼いでいるんだぞ? 原価なんてほとんどかかっていないじゃないか」
「いいえ」
エレノアは羽ペンを置いた。
「貴方は、ご自身の若さと外見という、時間とともに価値が減少する資産を切り売りしているのです」
「……は?」
「三年後、五年後、貴方より若く美しい男性が社交界に現れたとき、どうなさるおつもりですか?」
「そ、それは……僕には話術もあるし」
「その話術も、現在はご婦人方の気まぐれな好意に依存しています。安定した契約も、継続的な収益基盤もない。貴方の努力によって生み出された利益の大半は、相手の裁量次第です」
エレノアは淡々と続けた。
「率直に申し上げれば、物乞いの高級版です」
「ひどいな!?」
「事実です」
ぴしゃりと言い切られ、カイルは口を尖らせた。
だが、続く言葉は予想外だった。
「……まったく。これほどの才能をお持ちなのに、なぜご自分をそこまで安売りなさるのですか」
「……才能?」
「ええ」
エレノアは立ち上がり、書類の束を彼の前に置いた。
「相手の視線や呼吸から感情を読み取る観察力。どんな相手にも話をさせる傾聴力。自尊心を傷つけずに懐へ入り込む交渉力。そして、相手に『この人の未来を応援したい』と思わせるプレゼンテーション能力」
彼女は一枚ずつ書類をめくる。
「貴方が今までご婦人方に売っていたのは、癒やしと夢です」
「まあ、そうだね」
「でしたら、もっと大きな夢を売ればよろしい」
「……大きな夢?」
エレノアは、最後の書類を彼に差し出した。
そこには、クランツ領北部の地図が描かれていた。
山間を流れる川。度重なる洪水に苦しむ村々。整備されていない街道。眠ったままの鉱山。
「我が領地の未来です」
カイルは地図を見下ろした。
「……君、まさか」
「本日付で、貴方をクランツ男爵家の筆頭営業部長兼、対外交渉責任者に任命いたします」
「は、はいぃぃっ!?」
「お給金は基本報酬に加え、成果連動型の報奨金を設定します。詳細はこちらに」
「待ってくれ、エレノア! 僕は働きたくないんだ!」
「存じております」
「だったら!」
「ですから、働いた方が得だと理解していただきます」
エレノアは初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「カイル様。貴方はまだ、ご自身がどれほど高価な男なのか、ご存じないのです」
その微笑みを見た瞬間、カイルは悟った。
――この女には、勝てない。
◇◇◇
翌朝。
「起床のお時間です、カイル様」
「……あと五分……」
「午前六時です」
「六時!? まだ夜じゃないか!」
容赦なく開かれたカーテンから、朝日が差し込んだ。
エレノアは寝台の脇に立ち、予定表を読み上げる。
「六時十五分から軽いランニング。七時から朝食。八時から事業計画の勉強。十時から乗馬訓練。午後には初めての商談がございます」
「僕を殺す気かい!?」
「健康管理も営業資産の維持に必要です」
「君は夫を人間だと思っているのかい?」
「極めて収益性の高い人材だと思っております」
「そこは愛する夫と言ってほしかったなぁ!」
しかし、エレノアは取り合わなかった。
朝食から酒と甘い菓子が消え、代わりに青菜と赤身肉、薬草茶が並ぶようになった。
上質な服はそのままだが、華美な装飾は減らされた。
香油も、甘く誘惑的な香りから、清潔感のある落ち着いたものに変わった。
「これまでの貴方は、庇護したくなる美しい愛玩動物でした」
「愛玩動物って言った?」
「これからは、信頼して事業を任せられる若き実業家になっていただきます」
「僕の意見は?」
「議事録には残しておきます」
「採用する気がないね!?」
そんな日々が始まって三日目。
カイルは、王都でも指折りの頑固者として知られる鉄鋼ギルド会頭、グスタフ・ベルガーの屋敷へ連れていかれた。
グスタフは一代で巨大な商会を築いた叩き上げの男で、貴族の権威を何より嫌っていた。
クランツ男爵家が計画する治水事業についても、すでに二度、出資を断っている。
「ふん。小娘と、その後ろにくっついてきたヒモ男か」
応接室に入るなり、グスタフは鼻を鳴らした。
「貴族の道楽に貸す金など、一文もないわ!」
カイルは一瞬、笑顔を引きつらせた。
しかし、次の瞬間には観察を始めていた。
机の上には、乱雑に積まれた書類。
老眼鏡は右側の蔓だけがわずかに曲がっている。
右目の瞬きが多い。
そして壁には、古びた航海図。
ほかの調度品には薄く埃が積もっているのに、その航海図だけは丁寧に磨かれていた。
(……なるほど)
カイルの青い瞳が、静かに細められた。
(この老人、金の話をする前に、聞いてほしい話があるんだな)
「会頭」
カイルは深々と頭を下げた。
「本日は、まずお詫びを申し上げたく参りました」
「……ああん?」
「我々は、貴方という偉大な先達を侮っていました」
グスタフの眉が動いた。
「何だと?」
「その航海図です。北方航路がまだ死の海と呼ばれていた頃、初めて大型貨物船を通した航路図ではありませんか?」
グスタフの表情が変わった。
「……貴様、あの航海を知っているのか?」
「父から聞いたことがございます。王国の物流を命懸けで切り拓いた英雄がいると。まさか、そのご本人にお会いできるとは」
「ふん……昔の話だ」
そう言いながら、グスタフの口元がわずかに緩む。
カイルはそれを見逃さなかった。
「ですが、ずいぶんお疲れのご様子です。右目がお辛いのではありませんか? 大切な書類を夜遅くまで読まれていたのでしょう」
「……む」
「お話は後日にしていただいても構いません。王国の宝ともいうべきお身体に障ってはなりませんから」
「大げさな若造め」
グスタフは鼻を鳴らした。
しかし、声から先ほどの険しさが消えていた。
そこからのカイルは、まさに水を得た魚だった。
昔の苦労話には身を乗り出して耳を傾ける。
後継者への不満には深く頷く。
誰にも理解されない孤独には、言葉少なに寄り添う。
一時間もすると、グスタフはすっかり上機嫌になっていた。
「まったく、最近の若い連中は苦労を知らん! 儂が若い頃などな――」
「ええ。だからこそ、貴方が築かれたものには価値があるのです」
カイルは柔らかく微笑んだ。
「そして僕は、その価値を次の時代へ繋ぎたいと思っています」
彼は治水計画書を開いた。
「北方の川を整備すれば、洪水で失われてきた農地が守られます。街道も安定し、鉱山からの輸送も容易になる。貴方が切り拓いた物流の道を、僕たちの世代でさらに広げたいのです」
グスタフは黙って聞いていた。
そして、カイルが言葉を終えると、ゆっくり腕を組んだ。
「……なるほどな」
カイルは手応えを感じた。
だが。
「で、その計画は何年で投資を回収できる?」
「……え?」
「堤防の建設費は? 維持費は? 洪水が想定以上の規模だった場合の損失は? 鉱山の輸送量が見込みを下回ったらどうする?」
「そ、それは……」
「儂は昔話を聞いてもらうために商売をしているわけではない」
グスタフの目が鋭くなった。
「お前さんが気持ちのいい若造だということはわかった。だがな、金は褒め言葉では増えん」
カイルは言葉を失った。
今までなら、ここで少し困った顔をすればよかった。
相手は勝手に助けてくれた。
しかし、目の前の老人は違う。
どれほど心を開いても、事業の責任まで甘く見てはくれない。
(……そうか)
カイルは初めて、自分の話術だけでは越えられない壁を見た。
そのときだった。
「ごもっともです、会頭」
静かな声が響いた。
エレノアだった。
彼女は鞄から別の書類を取り出し、机の上に広げた。
「こちらが十年間の収支予測です。通常時、資材価格上昇時、輸送需要低迷時の三条件で試算しております」
グスタフの目が細まる。
「ほう」
「初期投資の回収は標準条件で八年。悪条件が重なった場合は十二年を想定しております。ただし、洪水被害の軽減による税収の安定化は、これとは別に算出しております」
エレノアは数字を一つずつ説明した。
カイルには、その半分も理解できなかった。
しかし、グスタフの表情が変わっていくことはわかった。
最初は疑念。
次に興味。
そして、慎重な評価。
「……小娘。なかなか考えておるな」
「ありがとうございます」
「だが、この計画には一つ穴がある」
グスタフは地図の北側を指した。
「ここだ。山間部の橋梁だ。大雨のたびに流される。こいつを解決せん限り、輸送路は安定せんぞ」
エレノアの表情が、わずかに曇った。
「そこは、現在技術的な検討を進めております」
「つまり、まだ解決しておらんのだろう?」
「……はい」
沈黙が落ちた。
カイルは二人の顔を見比べた。
グスタフは不機嫌そうに眉を寄せている。
だが、先ほどとは違う。
視線は地図の一点に留まり、指先は机を小刻みに叩いていた。
(……待てよ)
カイルは思い出した。
グスタフが昔話の中で、何度も口にしていた言葉。
『昔はな、誰もやったことのないことをやるのが商売だった』
『今の若い連中は、失敗を恐れてばかりだ』
『儂の技術を継ぐ者が、どこにもおらん』
カイルは顔を上げた。
「会頭」
「何だ?」
「その橋を、貴方の技術で造れませんか?」
グスタフが目を見開いた。
「……何?」
「貴方は先ほど、若い技術者が育たないと嘆いておられました。でも、彼らに挑戦させる仕事がないのではありませんか?」
カイルは地図に手を置いた。
「この橋を、貴方の商会の若い職人たちに任せていただきたいんです」
「馬鹿を言え。経験の浅い連中に、そんな大仕事を任せられるか」
「もちろん、貴方が監督するんです」
カイルは微笑んだ。
「彼らが失敗しないように、貴方が教える。貴方が築いた技術を、次の世代に残すんです」
グスタフの指が止まった。
「……儂の技術を?」
「ええ」
カイルは、まっすぐに老人を見つめた。
「僕たちが欲しいのは、貴方のお金だけではありません。貴方が一生をかけて積み上げてきた知恵です」
グスタフは黙り込んだ。
長い沈黙だった。
やがて、老人は低く笑い始めた。
「……くく」
その笑いは、次第に大きくなった。
「ガハハハ! なるほど! 儂の金だけでなく、儂自身まで働かせようというのか!」
「はい」
カイルは悪びれずに答えた。
「貴方ほどの方を、ただの出資者として扱うのはもったいないですから」
「言いおるわ!」
グスタフは膝を叩いた。
「いいだろう! その橋、儂の商会が引き受けてやる! 出資も検討しよう。ただし、条件は厳しくするぞ!」
「もちろんです」
今度はエレノアが答えた。
「双方が利益を得られる契約でなければ、長続きいたしませんから」
グスタフは二人を交互に見た。
「……ふん。面白い夫婦だな、お前たちは」
その日、クランツ男爵家は、これまでの交渉では得られなかった大規模な共同事業契約を勝ち取った。
◇◇◇
帰りの馬車の中。
カイルは、しばらく何も言わなかった。
手元には、グスタフの署名が入った契約書がある。
それを見つめる指先が、わずかに震えていた。
「……すごいな」
ぽつりと呟く。
「こんな気持ち、初めてだ」
エレノアは手帳から顔を上げた。
「緊張なさいましたか?」
「それもあるけど……」
カイルは窓の外を見た。
「今まではさ、僕が何か言えば、相手は喜んで金をくれた。それで終わりだったんだ」
「ええ」
「でも、今日は違った」
彼は契約書を見下ろした。
「僕が話して、君が数字を示して、会頭が技術を出してくれた。誰か一人じゃできなかったことが、三人ならできるかもしれない」
エレノアは静かに頷いた。
「それが事業というものです」
「……面白いね」
カイルは笑った。
それは、貴婦人たちの前で見せる甘い微笑みではなかった。
少年のような、無邪気な笑顔だった。
「僕、初めて仕事が面白いと思ったよ」
エレノアの指が、手帳の上で止まった。
「……それは何よりです」
彼女は視線を落とした。
「本日の成果に対し、営業報奨金を支給いたします。契約によって実際に確保された資金に応じ、所定の割合を貴方の個人口座へ――」
「ねえ、エレノア」
「はい?」
「君は、どうして僕を婿に選んだんだい?」
唐突な質問だった。
エレノアは一瞬だけ黙った。
「……家柄と年齢、それから社交界での人脈を総合的に判断した結果です」
「本当に?」
「ええ」
「僕の評判、知っていただろう?」
「当然です」
「だったら、もっとまともな男はいくらでもいたはずだ」
エレノアは窓の外へ目を向けた。
しばらくして、小さく答えた。
「……以前、貴方がある老婦人とお話ししているところを見たことがあります」
「老婦人?」
「ええ。社交界では、誰からも相手にされなくなっていた方です」
カイルは記憶を探った。
「ああ……もしかして、ローデン子爵未亡人?」
「そうです」
「あの方は面白い人だったよ。昔の王都の話をたくさん知っていてね」
「貴方は、二時間も彼女のお話を聞いていました」
「そうだったかな」
「その日は、何も受け取っていなかったでしょう?」
カイルは首を傾げた。
「だって、あの方はお金に困っていたからね」
エレノアは静かに彼を見た。
「……そういうところです」
「え?」
「貴方は確かに、利益のために人の心を動かします。ですが、相手が本当に傷ついているとき、損得を忘れることがある」
カイルは黙った。
「私は、それを知っていました」
エレノアは再び手帳に目を落とした。
「……もっとも、それだけで婿に迎えたわけではありません。貴方の能力には、十分な事業的価値があると判断したのです」
「ふうん」
カイルは笑った。
「じゃあ、僕は君に見初められたわけだ」
「投資対象として、です」
「はいはい」
その日、カイルは初めて、妻の耳がほんの少し赤くなるところを見た。
◇◇◇
それから半年。
クランツ領北部の治水事業は、順調に進んでいた。
もっとも、すべてが順風満帆だったわけではない。
資材の価格が急騰し、工事が一時中断したこともあった。
王都の商人たちが利益配分を巡って対立し、契約が破談寸前になったこともある。
カイルの話術が通じない相手もいた。
ある商会主などは、彼の笑顔を見てこう言い放った。
「その顔で女は騙せても、俺は騙せんぞ」
以前のカイルなら、笑って引き下がっただろう。
しかし、そのときの彼は違った。
「では、数字でお話ししましょう」
そう言って、エレノアから教わった収支計画を広げた。
まだ完璧ではない。
計算を間違えて、妻に訂正されることもあった。
それでも、彼は逃げなかった。
相手が何を恐れているのかを聞き、どんな条件なら納得できるのかを考え、自分の言葉で事業の価値を説明した。
そしてエレノアもまた、変わり始めていた。
以前の彼女は、正しい数字を示せば相手は納得すると考えていた。
だが、カイルと仕事をするうちに、人は数字だけで動くわけではないと知った。
同じ条件でも、伝え方一つで受け取り方が変わる。
正論を突きつけるより、まず相手の不安に耳を傾けた方が、結果的に早く話が進むこともある。
ある夜、執務室で書類を整理していたエレノアが、ふと呟いた。
「……不思議ですね」
「何が?」
「私は、これまで交渉とは条件を擦り合わせる作業だと思っていました」
「違うのかい?」
「それだけではなかったようです」
エレノアは羽ペンを置いた。
「相手が何を大切にしているかを理解すること。それが、これほど重要だとは」
カイルは微笑んだ。
「君だって、ちゃんとわかっているじゃないか」
「……そうでしょうか」
「うん。だって君は、僕が何を欲しがっているか、誰よりも早く気づいたんだから」
エレノアは少し考えた。
「……高額な報酬でしょうか」
「違うよ」
「では、事業上の裁量権?」
「それも違う」
「……何でしょう」
カイルは笑って答えなかった。
まだ、その言葉を口にする勇気がなかったからだ。
◇◇◇
秋の終わり。
カイルとエレノアは、完成した堤防を視察するため、北部の村を訪れた。
その年、王国には例年より激しい雨が降った。
以前なら川が氾濫し、畑も家屋も流されていたはずだった。
だが、新しい堤防は村を守り抜いた。
街道は寸断されず、荷馬車が行き交っている。
村人たちは二人を見つけると、次々に頭を下げた。
「男爵様! 奥様! ありがとうございます!」
「今年は畑が無事だったんです!」
「冬を越すための蓄えが、初めて十分にできました!」
カイルは困惑した。
今まで、彼に礼を言う人間はたくさんいた。
だが、そのほとんどは、彼の甘い言葉に酔った貴婦人たちだった。
目の前の人々は違う。
泥に汚れた手。
日に焼けた顔。
幼い子供を抱く母親。
彼らは、カイルが交わした契約によって守られた暮らしに感謝していた。
一人の少女が、彼の上着を引っ張った。
「ねえ、男爵様」
「何だい、お嬢さん?」
「お父さんがね、今年はおうちが流されなかったから、春になったら学校に行ってもいいって」
少女は、花が咲くように笑った。
「ありがとう!」
小さな手から、野の花を束ねた花束が差し出された。
カイルは、それを受け取った。
「……どういたしまして」
それ以上、言葉が出なかった。
帰りの馬車で、彼はずっと花束を見つめていた。
「エレノア」
「はい」
「僕は、今までずっと、金を稼ぐことが一番賢い生き方だと思っていた」
「ええ」
「でも……今日、あの子に花をもらってさ」
カイルは、少し照れたように笑った。
「金貨百枚より、嬉しかったんだ」
エレノアは黙って聞いていた。
「もちろん、お金は大好きだよ。これからもたくさん稼ぎたい。でも、それだけじゃないんだな」
彼は窓の外に広がる畑を見た。
「僕たちが何かをすることで、誰かの明日が変わるんだね」
エレノアの瞳が、わずかに揺れた。
「……はい」
「君は、ずっとこれを見ていたんだろう?」
「……ええ」
「すごいな、君は」
カイルは心から言った。
「僕は君のことを、ただの冷たい金勘定の鬼だと思っていたよ」
「……失礼な方ですね」
「でも違った」
彼は花束を胸に抱いた。
「君は、数字の向こうにいる人たちの暮らしを見ていたんだ」
エレノアは答えなかった。
ただ、窓の外を見つめていた。
その横顔が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
◇◇◇
それから一年。
王都の社交界から、一人のジゴロが姿を消した。
代わりに名を轟かせたのは、急成長を遂げたクランツ男爵家の若き共同代表、カイル・フォン・クランツだった。
彼の営業手腕は、王都の商人たちの間で伝説となっていた。
頑固な貴族の心を開き、対立する商会を同じ席につかせ、誰もが不可能と考えた契約を成立させる。
その一方で、彼の隣には必ずエレノアがいた。
カイルが人の心を動かし、エレノアが事業を形にする。
エレノアが数字の危険を見抜き、カイルが人間関係の綻びを修復する。
二人の仕事ぶりは、いつしか王都でこう評されるようになった。
「クランツ男爵夫妻を相手にするなら、片方だけを見てはいけない。あの二人は、二人で一つの商会なのだから」
そして、その年の冬。
王都で開かれた大夜会に、カイルとエレノアは揃って出席していた。
かつてカイルに小遣いを与えていた伯爵夫人は、遠くから彼を見つめてため息をついた。
「……あんなに立派な殿方になってしまって。もう、わたくしの小切手など見向きもしてくださらないのね」
隣にいた未亡人が、くすりと笑った。
「でも、素敵ではありませんこと? あの方、以前よりずっと楽しそうですわ」
「……そうですわね」
伯爵夫人も微笑んだ。
「少し寂しいけれど、あの方が本当に幸せなら、それが一番ですわ」
その頃、カイルは夜会の喧騒を抜け、バルコニーで夜風に当たっていた。
手には、シャンパングラスが二つ。
そこへ、エレノアが静かに歩み寄ってきた。
「こちらでしたか、カイル様」
「やあ、僕の愛しい奥様」
「今宵だけで三件の大口契約が成立しました。貴方の営業力は、もはや我が家の最大の資産です」
「相変わらずだね、君は」
カイルは悪戯っぽく笑った。
「夫を褒めるときまで、資産価値の話かい?」
「事実ですから」
「まったく、ひどい妻だ。僕を骨の髄まで働かせるために、あんな甘い餌を撒くなんて」
「私はただ、投資対効果を最大化しただけです」
エレノアは澄ました顔で答えた。
「貴方という原石を、適正な市場価値で運用したに過ぎません」
「本当に、それだけ?」
「……何が仰りたいのですか?」
カイルはグラスを手すりに置いた。
そして、エレノアの手を取った。
かつてのように、金をねだるための媚びた仕草ではない。
堂々と、誇り高く、愛する女性をエスコートするための手だった。
「ねえ、エレノア。僕の今の年収、貴族院の重鎮たちよりも多いんだぜ?」
「存じております。納税記録を管理しているのは私ですから」
「僕が本気を出せば、どんな高価なドレスも、宝石も、城だって君に買ってあげられる」
「……ええ。頼もしい限りです」
「でもね」
カイルは、一歩近づいた。
「僕が一番欲しいものは、まだ手に入っていないんだ」
エレノアは眉を寄せた。
「……何が不足しているのですか? 予算ならいくらでも計上しますが」
カイルは笑った。
「君の心だよ、僕の有能すぎる奥様」
エレノアの瞳が、大きく見開かれた。
「……カイル様?」
「僕はさ、ずっと誰かに養ってもらうことばかり考えていた」
カイルは静かに続けた。
「自分が楽をするために、人の心を動かしていた。誰かの夢を語るふりをして、自分の小遣いを増やしていた」
彼はエレノアの手を包み込んだ。
「でも、君に出会って、初めて知ったんだ。誰かと一緒に夢を叶えることが、こんなに楽しいなんて」
エレノアは何も言わなかった。
「君は、僕の才能を見つけてくれた。僕自身が知らなかった僕の価値を、教えてくれた」
カイルは微笑んだ。
「だから今度は、僕が君に教えたい」
「……何を、ですか?」
「君は、誰かの役に立つためだけに生きなくてもいいんだよ」
エレノアの呼吸が止まった。
「領地のため、家のため、借金を返すため。君はずっと、自分の幸せを後回しにしてきただろう?」
「それは……当主として、当然の責務です」
「うん。君は立派な当主だ」
カイルは頷いた。
「でも、僕は君に、ただのエレノアとして幸せになってほしいんだ」
彼は、そっと彼女の手の甲に口づけた。
「僕と一緒に」
エレノアの頬が、みるみる赤く染まった。
「……貴方は、本当に……」
「狡い男?」
「……ええ」
彼女は小さく息を吐いた。
「そんな言葉を、どこで覚えていらしたのですか?」
「君に教わったんだよ」
「私が?」
「そうさ。君は、僕がどんな男になれるかを信じてくれた。だから僕も、君がどれほど愛される価値のある女性か、信じている」
エレノアは唇を噛んだ。
カイルは続けた。
「男爵家の借金は完済した。事業も軌道に乗った。僕たちはもう、ただの利害関係で結ばれた夫婦じゃない」
そして、彼は少しだけ緊張した顔になった。
「……そろそろ、ビジネスパートナーとしての契約を終わりにして、本当の夫婦として、もう一度やり直してくれないかい?」
エレノアは答えなかった。
その沈黙に、カイルの胸がざわついた。
今まで、どんな女性を相手にしても、こんな気持ちになったことはなかった。
相手が何を考えているのか、わからない。
何を言えば喜ぶのか、わからない。
どんな言葉を選べば、望む答えが返ってくるのか。
何もわからなかった。
それでも、逃げたくなかった。
「……エレノア」
カイルは、彼女の手を握り直した。
「僕は君を愛している」
その言葉には、計算も、演技もなかった。
「君と一緒に、もっとたくさんのものを見たい。まだ知らない街も、まだ会ったことのない人たちも、まだ叶えていない夢も」
彼は笑った。
「僕たちなら、きっと面白い人生にできると思うんだ」
エレノアの瞳から、一粒の涙がこぼれた。
カイルは驚いた。
「えっ、ちょ、ちょっと待って。僕、何かまずいことを言った?」
「……いいえ」
エレノアは首を振った。
「ただ……」
彼女は、震える声で続けた。
「私は、ずっと……誰かに必要とされることばかり考えていました」
「うん」
「家を守らなければならない。領民を養わなければならない。失敗してはならない。そう思って、必死に働いてきました」
「うん」
「だから……誰かが、私自身を幸せにしたいと言ってくださるなんて……」
言葉が途切れた。
カイルは、そっと彼女を抱き寄せた。
「だったら、これからは慣れてもらわないとね」
「……え?」
「僕はしつこい男だからさ。毎日、君を幸せにしようとするよ」
エレノアは、彼の胸に顔を埋めた。
「……非効率です」
「そうかな?」
「ええ。毎日そのようなことをなさる必要はありません」
「でも、僕がそうしたいんだ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、エレノアが小さく笑った。
「……でしたら、仕方ありませんね」
彼女は顔を上げた。
琥珀色の瞳が、涙に濡れて輝いていた。
「その提案、お受けいたします」
カイルは息を呑んだ。
「……本当に?」
「ええ」
エレノアは微笑んだ。
今度こそ、計算も、損得もない、心からの笑顔だった。
「ただし、一つ条件がございます」
「何だい?」
「これからも、私と一緒に働いてくださること」
カイルは目を瞬かせた。
そして、声を上げて笑った。
「もちろん!」
彼はエレノアを抱きしめた。
「君となら、どこまでも働いてみせるよ!」
夜空には、無数の星が瞬いていた。
王都の灯りが、遠くまで広がっている。
その向こうには、まだ二人が知らない世界があった。
まだ出会っていない人々がいた。
まだ叶えていない夢があった。
カイルはエレノアの手を取り、もう一度、恭しく口づけた。
「……ねえ、エレノア」
「はい?」
「これは僕の人生で、最初で最後の、全身全霊のプレゼンテーションだったんだ」
エレノアは、くすりと笑った。
「……そうですか」
「どうだった?」
彼女は少し考えるふりをした。
そして、彼の胸にそっと手を置いた。
「――満額回答です、カイル様」
その夜、王国一の人たらしは、生まれて初めて、誰かの心を手に入れたことよりも、自分の心を受け取ってもらえたことを喜んだ。
そして、王国一の合理主義者は、生まれて初めて、損得では測れない幸福を知った。
二人の契約書には、もはや金額も、期限も、成果目標も必要なかった。
ただ一つ。
これから先も、共に歩んでいくこと。
それだけで、十分だった。
――了。
◇◇◇
ざまぁもいいけど、その人と共に成長しあえたらもっと素敵だと思いませんか?
誰かを打ち負かして終わる物語より、二人の世界が一緒に広がっていく結末のほうが、ずっと豊かで素敵ですよね。




