感性についての雑多な考え
本物の感情とでもいうべきものが随分と少なくなった。
規定され設定された人格像において喜ぶべきであると考えて喜び、怒るべきと考えて怒る。非身体的・低身体的な演出・演技としての感情、義務としての感情だ。
それは幾つかの意味において「正しい」。
感情がコミュニケーションの手段であり、人格がコミュニケーションのために他者に公示されるならば、私は外観を引き受けねばならず、そのことは円滑な意思疎通という目的に適合する。そういう人であると見せたならば、そういう人であるべきである。
義務はある種の自由である。気分の赴くまま行動するならば、心身の相関の故に人は外的環境に従属する「不自由な」つまり自律性の低い存在たらざるを得ない。むしろいかなる状況・気分であるにも関わらず、そのようにあらねばならないと考えるあり方を実現する方が、環境依存的・影響的な「自分」より「本当の自分」である。そのようにあるべきと考える以上、義務としての感情は、むしろ「本物の感情」というべきである。
人間は字義通りヒトとヒトの間で、表現として構成され、表現として存在すると見るべきだ。内部に「本当の自分」が存在し、外側に「偽りの自分」があるとの教説には左袒しない。
肉体や我々が仮定する「精神」は人間という存在の材料や表現媒体、質料ではあるものの人間そのものではない。ヒトという生物は人間そのものではあり得ないと信ずる。でなくては死者や物語上の人物は存在しない事になるが、これは明らかに直感に反する。
文字や肉体、声や映像で構成される人間の背後にはヒトが存在する/存在した、あるいはそのような信念/仮定/反実仮想が存するかもしれないが、その事は人間存在の必要条件ではない。つまり、ヒトは人間存在にとり優越的地位を有するとはいえ、その地位は特権的ではない。私という人間のいかに大部分が特定のヒトという生物的個体以外の要素から規定されているか検討すれば明らかである。
むしろ特権的なのは義務である。ヒトとヒトとの間で提示され、承認され、引き受けられた義務・責務・規約・プロトコルこそが存在の実体であるべきである。義務こそが外的な力に対し存在の同一性を保持する存在としての人間の本質である。
けれども、他方で生理的・肉体的な感覚と情動を伴った感情の豊かな人物、正確にはそのように見える人物を羨ましく思う。
存在とは所詮合理的な観念であり、人間理性が限定的である以上、存在も限定的な情報的質量、広がりに押し込められたものに過ぎない。仮に理論的に正しい事に理論的に価値があったとしても、それは閉じた宇宙に過ぎない。存在はそれ自体としては理性という閉じた、外部に足場を持たないエコシステムである/として存在するが、それならば存在しない事と変わらない。
外部と一切隔絶した閉じた世界は外部に存在すると言えようか。
再帰的、自己言及的、自省的な閉塞した円環は確かに独立した存在を生み出すが、それは正しくはあっても豊かなものではあり得ない。対して不明な背後や前方、奥から与えられる、一方向の矢印としての非自己言及的な感情・意思・衝動は外部に、未知に、他者に足場を有するという意味で実存的であり得る。そして足場が広大なものであり得る限り感性もまた広大であり得る。
感性はその源泉の不明性の故に強固であり得る。
感性のリアリティには何らの根拠もないが、しかし我々は多くの場合、現実を現実であると感じている。このような現実感が認識機構の産物であるにせよ、認識が認識機構を(理性的にではなく)感性的に認識し得ない以上、感性には感性によって認識し得る根拠がそれ以上存しない。
けれども感性は、何かによってもたらされる確かなものと感ぜられ、その点においてかえって根拠のあるコンクリートなものと言える。
他方、理性的存在は義務を履行する意思と努力の点において尊貴であり得るが、それ自体は空虚である。理性は人生の意味を定義し得るが、その人生の意味はともすれば絶対的であるために孤立的であり、何らの根拠も有しない脆弱な存在である。人生の意味が実体的(substantial)であり得るのは、きっと何らかの経験によって与えられた情念にそれが基礎付けられた場合なのだろう。けれども私は未だそういう確たるものを持たない。
論理は非論理的にしか実体的に基礎付けられない。論理的な基礎づけは最も巧妙なものであっても遠大な循環論法でしかあり得ないのだから。数学でさえ、最後には直感に行き着くと聞く。
とすれば、感性の豊かさは存在の実在性を保証する。与えられる感情は、義務としての感情の実在を保証する。
感性の欠缺とは水底に穿たれた錨の切断であり、船は繋がりを失って漂流する。それゆえに、感性の豊かさを羨ましく思う。




